くちびるで春を結う

 ベランダに吹く風は、ほんの少し春めいてきたものの、まだ冬の勢力が優っている。その寒さを意にも介さず短いスカートを履いた女子高生たち。彼女たちは、校門付近で立ち話をしている男の子の集団に近づきながら、きゃっきゃっと黄色い声をあげている。男の子たちはみんな卒業証書の入った丸筒を持っていた。
 そこへ一人の女の子が覚悟を決めたように走ってゆく。少し距離のあるこのベランダまで男の子の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。冷やかしの声がヒューヒューとかかる。呼ばれた男の子は仲間たちに背中を押され、照れ臭そうに頭をかきながら女の子の目の前に立った。
 そこから先はサイレントムービーを見ているみたいだった。胸元でグッと手を握りしめた女の子が頬を桃色に染めて男の子に一生懸命訴えている。男の子の口元は嬉しさを隠しきれていなくて、たどたどしい手つきでブレザーのボタンを外した。
 そこで交わされた会話が手に取るように分かる。わたしだって本来ならあの場所に立つつもりだった。なのに何が悲しくてここから他人の恋の行方を見守らなくちゃいけないのか。今、思い出しただけでムカムカと腹が立つし、目蓋がじんわり熱くなる。一粒でも零れ落ちてしまったら、きっと、とめどなく溢れてしまうだろう。だから、そうっと唇を噛み締めて、ボタンが男の子の手から女の子の手にポトリと落とされるのを眺めていた。



 一ヶ月前のこと。自由登校になった三年生は、特定の生徒を除いて、学校に来ることがほぼなくなっていた。そんな中、わたしは受験勉強の息抜きに幼馴染である光太郎の様子を見に来ていた。早々に推薦をもらった光太郎は自由登校の間も毎日ずっと体育館でバレーボールに触れていた。羨ましいなと思うけれど妬ましくはない。光太郎が誰よりも努力していることを知っているから。そんな光太郎は見ているだけで不思議とパワーがもらえた。何だかわたしにも色んなことが出来るような気になれたのだ。受験勉強の最中、ちょっとリフレッシュしたいときにぴったりな奴だった。
 だけど体育館へ足を向けていた理由はそれだけじゃない。どちらかといえば、というか本命は、奴にたまに付随して来る男の子、木葉秋紀の方だった。
 一年のとき、わたしと木葉は同じクラスで、そこへ光太郎がよく顔を見せにきていた。光太郎がわたしに教科書を借りているのを見た木葉が「お世話係お疲れさん」と声をかけてくれたのが仲良くなるきっかけだった。それからよく光太郎を挟んで話をするようになった。大体が光太郎に対するツッコミで、たまに光太郎を甘やかしたり、一緒になって「四組の女の子かわいいね」と盛り上がったり。でもその度に胸をちくりと刺すような痛みが襲うものだから、わたしは気づきたくない恋心を自覚するはめになったのだ。成就させようとして、もしうまくいかなかったらどうしよう、と。三人で過ごす居心地のいい空間を壊してしまうことがとても怖かったのだ。
 木葉はかわいい女の子に目がないけれど幸い彼女が出来たことがない。好きな子がいるかと聞けば「何組の誰々ちゃんと何組の誰々ちゃんと」とはぐらかされたものの、三年間特定の女の子とつき合いがなかったのはわたしにとって救いだったしチャンスだった。
 ただ何故かわたしは光太郎のことが好きだと思われているみたいで、誰かの恋の噂が立つ度、心底羨ましそうに「おまえはいいよな、木兎がいるし」とあらぬ疑いをかけられていた。光太郎と幼馴染だということを嫌だと思ったことはない。だけど、こうやって自分の好きな人に誤解されてしまうと、わたしと光太郎の関係を呪いたくなった。
 わたしと木葉は光太郎をきっかけに仲良くなった。光太郎と一緒に過ごしてきた。光太郎ありきの関係だった。でも春が来ればみんなバラバラ。わたしはそろそろ木葉と、光太郎がいなくても会える関係になりたかった。
 足を向けた体育館に木葉はいた。スコアボードの近くでこめかみの汗をぐいっと拭っていて、ひょっこり顔を出したわたしにすぐに気がついた。

「木兎ならもう少ししたら休憩だけど」
「用があるのは木葉になんだけど」

 彼自身、呼び出されるような心当たりが何もなかったのだろう。わたしがそう言ったときの顔といったら、細い目をこれでもかと見開いて「俺、おまえに何かしたっけ」と頭をかきながら後ろをついてきていた。
 シチュエーションとしてはありきたりな体育館裏。陽の当たらないそこは
コートを着ていても寒くて、汗で濡れた薄着の木葉を長く引き止めるのは気がひける。なるべく手短かに済ませようと、暴れる心臓を押さえつけるように胸に手を当て、深く息を吸い込んだ。

「木葉の第二ボタン、欲しいって言ったらどうする?」

 どうせなら思い切って「ちょうだい」って言ってしまえばよかったのに、このときのわたしは弱虫で臆病者だったから試すような言葉しか口にできなかった。
 木葉は腕を組んで鼻で笑った。わたしが冗談で言ったのだと思ったのかもしれない。

「やらねえよ。だって、おまえにあげたら他の可愛い子に欲しいって言われたとき困るだろ」

 耳を疑った。持てるだけの勇気を振り絞って放った言葉だったのに、呆気なく一蹴されてしまったのだ。しかも、わたしにボタンをあげることは何の価値も持たないという意味も込められて。
 胸ポケットを掴む指が微かに震えた。だけど、それは寒さのせいなんかじゃない。目を伏せて瞬きをすれば、世界を見失ってしまったみたいに目の前が真っ暗になった。でも木葉の「寒いからもう戻っていい?」という声に、すぐ現実に引き戻された。
 それから先はよく覚えていない。わたしの手のひらはじんじんと痛んでいたし、木葉の頬には真っ赤な手形が残っていた。
 木葉なんてもう知らない。手の跡のことだって、色んな人に責められてしまえばいい。わたしは、胸に絡まる淡い想いを振りほどくように冷たい風を切って走り去った。体育館の中からはいつもどおりキュッとシューズの擦れる音が響いていて。それがわたしの失恋なんて大したことじゃないと言ってるみたいで何だか悔しくて鼻の奥がツンとした。



 もうこれっきりにしよう。そう思ったのに、今、わたしは木葉を待っている。正確には部活の集まりを終えたかおりと雪絵からの連絡を待っている。
 事情を聞かれたかおりと雪絵には木葉のことを諦めると言った。だけど、猛反対された。ちゃんと好きだって言わないと後悔するって。わたしの手を掴むかおりには鬼気迫るものがあった。いつものんびりと構えている雪絵もこのときだけはきゅっと眉を釣り上げていた。
 本当は、もう、言うつもりなかった。今度はどんな風に傷つけられるんだろう。そう考えると怖かった。後悔してもいい。それだってわたしの青春の一部なんだから。でも、二人の言いぶんを受け入れたのは、わたしにここまで言ってくれた彼女たちの顔を立てたかったからだ。
 桜はまだ咲く気配はない。小さな蕾が芽吹く日を今か今かと待っている。ベランダの手すりに肘を乗せて、それが風に揺すられる様を眺めていると、ポケットに入れていたスマホが震えた。
 かおりからのメッセージには、今からバレー部の部室に来いと書いてある。そこで木葉と二人っきりにしてもらえるらしい。
 今さら面と向かって何て言えばいいのか分からない。だけど、うんと首を縦にふった以上逃げるわけにはいかない。

「よし!」

 大きく伸びをして、軽く頬を叩く。最後の最後くらいちゃんとした姿を見せて、わたしを振ったこと後悔させてやる。それがわたしを傷つけたせめてもの復讐だ。涙でお別れなんて、らしくない。
 力強く床を蹴って部室へ向かうと、花束を抱えた三年生がぞろぞろと外へ出てきていた。その中にかおりと雪絵がいて、わたしに気づくと「こっち」と大きく手招きをした。二人の目蓋が腫れぼったい。かける言葉が見つからなくて近づくのを躊躇っていると、しんみりした空気を切り裂くように光太郎が「あー!」と大きな声を上げた。
 思わず両耳を押さえ、しかめっ面で光太郎を睨みつける。だけど、そんなこと物ともしない。

「ヘイヘーイ! も俺の卒業祝いに来てくれたのか?」
「卒業するのはあんただけじゃないんですけど」

 相変わらずうるさくて馬鹿だ。だけど、その底抜けの明るさがわたしを掬い上げてくれる。光太郎のエネルギーを奪うように背伸びして頬の肉を引き伸ばす。いひゃいいひゃいと涙目になる光太郎の奥に木葉の姿が見えた。
 ばちりと視線がぶつかって、びりりと体に電気がはしる。思わず光太郎から手を離すと、光太郎は頬をさすりながらわたしに道をあけた。

「おまえら、やっとくっつくのかよー! 待ちくたびれたぜ!」
「は?」

 わたしと木葉は光太郎の言葉にぎょっとして間抜けな声を上げた。それに関しては周りも同じだったようで、猿杙くんが光太郎の口を押さえ、小見くんが光太郎の背中を押して「あははは」と乾いた笑い声をあげた。光太郎は不満気にフガフガと何か訴えているけれど強制退場させられてしまった。

「ごゆっくり」

 呆気にとられているわたしの肩をかおりと雪絵がポンと叩く。それから部室に押し込まれパタンと扉が閉められる。
 しんと静まり返った部室で木葉と二人っきり。気まずい空気が流れている。ほんの少し開いた窓から、風に乗って別れを交わす声が聞こえてくる。

「え、っと……」

 わたし達らしくないぴんと張り詰めた空気に我慢ならなくなったわたしは、スカートを握りしめて口を開いた。光太郎の一言がわたしに余計な期待を持たせてしまった。シンプルに「好きだったよ」で済ませようと思っていたのに、木葉の気持ちが聞きたくてたまらなくなる。

「ねえ、さっき光太郎が言ったことってどういう意味?」
「どうもこうも、そういう意味なんじゃねえの」

 じっと木葉を見つめると、木葉は困った風に頭をかいて「あーもうっ」と両目をぎゅっとかたく閉じた。

「木葉、わたしね」
「待て! 俺から言う!」

 かっと目を見開いた木葉が、大きな手のひらをわたしに向けた。その勢いに負けて、紡ごうと思っていた二文字が喉の奥に追いやられてしまった。
 木葉は再び目を閉じた。胸に手をあて何度か深呼吸している。緊張してるのだろうか。相手はいつも馬鹿やってるわたしなのに。一ヶ月前、わたしの勇気を踏みにじったくせに。
 思わずふっと口元が緩んでしまった。その空気に気づいた木葉が怪訝そうに目を開ける。これくらいの仕返し、なんてことないでしょう?

「わたし、木葉のこと」
「わー! 待てって! 俺から言うから」

 慌ててわたしに駆け寄る木葉が必死の形相をしているから、自然と顔がニヤけてしまう。木葉の両手がわたしの両肩に置かれている。そこから伝わる彼の体温がわたしの鼓動を乱して仕方ない。わたしと木葉の体温が一緒になって上昇する。
 何故か息を切らせている彼は顔を伏せてまだ息を整えていた。その様子がおかしくてぐっと唇を噛みしめる。そしたら、やっと覚悟を決めたらしい木葉が顔を上げ、わたしを見た。きりっとした切れ長の目に熱が宿っている。
 こくりと小さく息をのむ。今から言われることがぜんぶ分かる。木葉の薄い唇が、わたしが焦がれてやまなかった二文字を紡ぐためにゆっくりと動き始めた。その瞬間。

「わたし、木葉のこと好きだよ」

 いきなりのことに驚いたのだろう。ぴたりと動きを止めた彼の唇は中途半端に開かれて、呆気に取られたように目が見開かれている。
 にっこりという言葉がぴったりの笑みを携えて首をかしげると、木葉は「おまえなぁ」とがっくり項垂れてしまった。

「何で先に言っちゃったわけ」
「だって木葉がもったいぶるから」
「待てって言ったのに」
「待てなかった。早く伝えたくてたまらなくなった」

 そう言うと、木葉は恨めしそうに顔を上げ、唇を尖らせた。いつもつり目気味の目は優しく垂れていて、色素の薄い虹彩に意地悪く笑うわたしが映っている。

「それはずるくないですかぁ」

 拗ねた物言いがかわいくて仕方ない。桃色に染まる耳たぶが愛しくて仕方ない。好きで好きでたまらない木葉の声で、わたしがずっと欲しかった二文字を紡いでほしくて仕方ない。

「木葉はどうなの?」

 両手でくいくいとネクタイを引っ張ると、一瞬顔をそらせた木葉が「言う言う。言うからちょっと待って」とまた深呼吸を始めてしまった。その時間がもどかしい。だけど、その様子を見るのは楽しい。わたしが傷ついた分、もっともっと困ればいい。

「ねえ、寒いよ」
「え、ああ」

 開いた窓の隙間から冷たい風が流れてくる。窓を閉めようとわたしから離れようとした木葉の制服の裾を引いて引き止める。言ってることと行動がちぐはぐだから、木葉は不思議そうに顔を傾けた。

「そうじゃなくて、寒いの」

 素直になんて言ってあげない。これはわたしを傷つけたあんたへの罰なんだから。
 わたしの一番可愛い角度で見上げると木葉はごくりと喉仏を上下させ、「あーくそー」と悔しそうに目を細めた。

「おまえが望んでることと俺がやりたいこと、違ってても文句言うなよ」

 小さく頷くとまたたく間に腕の中に閉じ込められた。ぎゅうぎゅうに抱きしめられた腕の中でごそごそと動き、木葉の首に腕を回すと、背中に回る手にひときわ力が込められる。

「ずっと好きだったよ」
「俺もずっと好きだった」

 待ち焦がれた言葉に目蓋が熱くなる。涙の気配を誤魔化すために木葉の胸にぐりぐりと頭を押しつけると小さい子をあやすようにぽんぽんと背中を叩かれた。

「だったら何で第二ボタンおまえにはあげないなんて言ったの」
「だってあれは、木兎にもらう練習だと思って」

 むっとして顔を上げると木葉は焦ったように腕の力を緩めた。遠ざかる体温にさみしくなって体重をかけてやるとバランスを崩しそうになった木葉がロッカーに背をつけた。

「ねえ寒い」
「はいはい」
「寒いんだけど」
「……文句言うなよ」

 呆れたようにため息をついた木葉は自分の首に巻かれたマフラーをほどいてそうっとわたしの首に引っかけた。
木葉の体温であたためられたマフラーがむき出しだったわたしの素肌を優しく包む。ゆっくりと顔を近づけるわたし達をほどよく隠して。わたしを見つめる木葉が愛しそうに目を細めるものだから、早く触れたくなってめいいっぱいかかとをあげた。
 不器用にしか伝えられないわたし達。だけど今はそれでいい。伝える術は、これから二人で見つけてゆけばいいのだから。
 春がもたらすのは決して別れだけじゃない。わたし達の始まりには、ほんのちょっぴり花の香りが混じっていた。



20190506発行『十二粒のスパンコール(3月 卒業式)』より再録