六花を齧る

1.

 耳をつんざくような笛の音で、東京行きの切符が無残にもびりびりと破かれてしまった。あのときからほんのりと色づき始めた木々たちは、今ではすっかりとその衣を脱いで見た目にも寒々と枝を揺らしている。色彩を失って何もかもが灰色の世界に閉じ込められてしまう風景に、これから長い冬が始まると身を縮こませる。そんな、なんとなくさみしい憂鬱な気分を払拭するように駅前は赤、緑、白の装飾が施され、蛍のように光る豆電飾が街を華やかに見せていた。
 首元をあったかそうなファーで覆い、少し巻いた明るめの髪の毛を肩口ではねさせている女の子たち。彼女たちは、ショーウィンドウを覗き込んで小鳥のような可愛らしい声をあげている。スーツの上から上質なコートを着込んだサラリーマンは少し疲れた顔をしてアクセサリーショップを転々としている。きっと恋人へのプレゼントを迷っているのだろう。

「ねえ、、週末合コンあるんだけどどう?」
「行かないよ。彼氏いるし、その日バイトだもん」

 コスメカウンターで今季限定のリップをひいてもらった友人は、ピンク色に艶めく唇を歪ませた。
 クリスマスまでに相手を見つけようと躍起になっているのは何もこの友人だけではない。大学中が、どこどこの女子大と合コンだ、どこどこの企業の人と合コンだ、浮かれた話題で持ちきりだった。

ってさ、バイトバイト言ってるけど本当に彼氏いるの?」
「いるよ」
「じゃあいつ会ってるの?写真見せてって言っても見せてくれないし」
「お互い時間が合うときに会ってるよ」
「えーホントー?」

 長すぎではないのかと思ってしまう程の睫毛をバサバサと上下に揺らした友人はまた別のコスメカウンターへと足を向けていた。今度はシャドウを購入したいらしい。
 時間が合えば会っている。それはそのとおりだ、嘘じゃない。写真を見せないのは、友人たちで集まったときに見た番組でたまたま牛島くんが特集されていて、チームメイトとしてちらりと映った英太のことを皆が皆「イケメンだ」と騒いでいたからだ。彼と付き合っていると言ってしまえば、彼女たちの井戸端会議の格好の餌食にされてしまう。妬まれるのもゴメンだし、詮索されるのもゴメンだ。面倒くさいことに関わりたくはなかった。
 だけど、わたしと英太は、彼があの試合に負けてからは1度も会えていなかった。それはわたしが週末にバイトをつめこんでいるからという理由もあったけれど、わたしは彼を少し避けていた。
 そもそも今年もまた、例年どおり全国へ行くものだと思っていた。彼も今までのように夜遅くまでキツい練習を毎日毎日こなすのだろうと。多少バイトを増やしたところで会う頻度は変わらないだろうと。だからわたしは、東京までの交通費を稼ぐために年末までバイトに明け暮れることを選んだのだ。昨年のようにいかない、今年からはわたしもOBで後援会の費用を出す立場なのだ。でも春高へ出場できないからといって、もう今更シフトの変更はできない。
 ……嘘。本当は、あの時点では、あの笛が鳴り響いた時点では、12月のシフトは確定じゃなかった。
 それでも変更することなくそのままの状態にしておいたのは、高校最後となってしまった試合が終わる瞬間をコートの外で迎えることになった彼にかけるべき言葉が見つからなかったからだ。彼から高校バレーという存在を取り上げてしまった試合終了のホイッスルが憎いとさえ思ったのに、ありきたりな言葉しか浮かんでこないわたしは、彼の彼女で居続けてもいいのだろうか。日に日に不安に押しつぶされそうになっている。
 ダイアモンドダストのように目蓋を煌めかせた友人が満足そうに寄ってくる。街全体がクリスマスを待っている。東京に行くときに着るはずだったコートが、ショーウィンドウで誰かに買ってもらえるのを待っている。空には、地上との境目を曖昧にさせる分厚い雲が広がっていて、今にも雪を降らしそうだった。


2.

 部屋に差し込む淡い光が目蓋の裏でちらついて、ぼんやりと目を開けば講義の時間ももう残りわずかとなっていた。どうやら頬杖をついたまま眠っていたらしい。近くに座る友人たちは、綺麗に整えられた爪をさらに念入りに磨いていて、起きぬけの目には優しくない派手な色のネイルカラーを塗っている。鼻につんとくる匂いに周りの人たちも思わず振り向いて顔をしかめていた。他人のふりがしたいなあと彼女たちから視線を外すと、ちょうど見計らったようにこれで今日の講義は終わりだと教授の掠れた声が聞こえてきた。
 狙った獲物は逃しませんと主張するような毒々しい色よりも、冬をそのまま閉じ込めたような少し冷たい淡い色合いの方がわたしの好みに合っていた。今から髪を巻くためにお手洗いに行くらしい彼女たちとはあまり合わないと薄々感じている。服とか考え方とか、他にも色々。根は悪い子たちじゃないと分かっているけれど、ありとあらゆる武装を施して女を全面にアピールするその気迫に息がつまりそうになることが多々あった。一体どうしてわたしは彼女たちに気に入られているのだろう。自分好みに仕立て上げることができる着せ替え人形とでも思われているのかもしれない。
 変わりばえのしない週末を過ごす予定のわたしには彼女たちの武装につきあう理由が見当たらない。そんな無意味な時間を過ごすよりも早く家に帰って温まりたかった。あるはずだったバイトもオーナーさんの体調不良で急遽休みになってしまったし。
 じゃあまた来週。口を開くよりも先に、ついこの間駅前でわたしを振り回した友人がわたしの手を掴んできたので、驚いて動きを止めてしまった。

も行くよ」
「え、ちょっと」

 強引に引っ張られ、慌てて椅子にかけていたコートを引っ掴んでついていくと、すでに他の友人はバッグからヘアアイロン、化粧ポーチ、四次元ポケットのようにありとあらゆる武装品を取り出していた。それらを眺めていると思わず感嘆の声が漏れそうになる。わたしの薄っぺらいバッグとは大違い。
 意味なく彼女たちに付き合わされることになってしまったわたしはトイレの壁に寄りかかって小さくため息を吐いた。荷物、全部持ってこれたかな。バッグの中身、コートのポケットをチェックしているとマフラーがないことに気づいて、一瞬だけ心臓が動きを止めた。でも今日は元々巻いてこなかったのだと思い出してそっと安堵する。家を出たときはぽかぽかとした小春日和だったから持って来なかったのだ。今は、もう、すでに寒くて首まわりがとてもさみしい。こんなとき、ふと、恋しくなって、会いたくなる。自分勝手だなって分かっているのに。
 もうすぐわたしと英太が恋人同士になってから一年を迎える。学年が違うわたしと英太を結びつけたのはお互いが所属していた部活だった。バレー部とチア部。とはいってもお互い親密な関係の部活ではない。試合があれば応援に行く。ただ、それだけ。顔見知り程度のものだった。そんな中、どうしてわたしたちが付き合うことになったのか。それは一年半程前まで遡らなければならない。


3.

 あれは太陽が死んでしまったのではないかと思うくらい曇りや雨の日が続いていた紫陽花の季節。その最中行われたクラスマッチでわたしは足首を捻ってしまった。
 高校三年生。最後の最後でレギュラーに選ばれたというのにわたしだけ別メニューで練習する羽目になり、ツイてないなと思っていた。
 なるべく安静にしなさいと言われていたけれど、いてもたってもいられず、コーチや部員の目を盗みこそこそと体育館の裏で振り付けの確認をしていた。ピンクのコードのイヤホンを耳に突っ込んで、ゆびさきからつま先までひとつひとつ丁寧に確認する。でも右足は思うように動かない。見よう見まねで施したテーピングが緩み始めていることに気づくと同時に一曲が終わる。
 湿気を含んだ重たい空へ、呼吸を整えるために大きく息を吐き出すと、わたしだけしかいないはずの空間にぱちぱちと乾いた音が響き渡った。
 のちに英太に「あのときの、幽霊でも見たかのような顔してたよな」と笑われる程、肩をビクつかせ、息を止めながら恐る恐る振り向いた。
 だって、当たり前じゃないか。誰もいない、通らない場所をわざわざ選んで踊っているのに、まさかバレー部のジャージを羽織った男の子がこんなところにいるはずがないと思うのが普通だ。だってバレー部は、あっちの方の、もっと大きなもう一つの体育館で練習してるのだから。

「すみません、つい、見惚れてました」
「あ、いえ……それほどのものでもないですし」

 目を逸らしたくなるほどの爽やかな笑顔が、曇りがちの空に光が射したみたいな気持ちにさせた。
 誰かは知らない。何故ここにいるのか分からない。見惚れてもらえる程の演技が出来たとも思えないけれど、彼はにかりと笑って「そんなことないです」と目元をくしゃりとさせていた。

「でも、右足、どうしたんですか」
「あっ、これは……」

 目ざといな、と思った。でも彼が本当に心配そうな顔で覗き込んでくるので、誤魔化して逃げてしまいたいという気持ちも段々と失せてくる。

「この前のクラスマッチで捻っちゃって」

 どうせ巻き直さなくちゃいけないのだ。ハイソックスをゆびで下ろすと、少し息をのむような音が聞こえた。案の定緩んだテーピングが姿を現わすと、彼はなんだか怒ったような困ったような表情を浮かべてわたしの近くまで寄ってしゃがみ込んだので、また、わたしの息は止まってしまいそうになる。

「ちゃんと巻いとかないと長引きますよ。捻挫って厄介ですから」
「まあ、そうなんだろうけど」
「良かったら、俺、巻き方教えましょうか」

 初対面の男の子にそんなこと……なんて思いはしたけど、彼は至って真剣な目をしていたし、下心なんて何もないまっさらな心を持っているように見えた。

「じゃあお願い」

 ペタリと座り込めばコンクリートの冷たい感触が伝わって少し肌が粟立つ。彼はほっとしたように眉尻を下げて、わたしが適当に巻いていたテーピングをゆっくりと解いていった。

「ここをこうして、ぎゅっと締めれば安定するから……」

 割れ物を扱うように丁寧にわたしの足に触れるゆびさきはとても熱い。触れられたそこからわたしの体温は彼のものと同じ温度になって、輪郭が曖昧になるような感覚でのぼせ上がりそうだった。

「こんなかんじで……って、うわっ!」

 巻き終わった彼がりんごみたいに真っ赤な顔をして後ずさるので、何事かと思い首を傾ける。すると両手で顔を隠しながら消え入りそうな声で「パンツ見えてます……」とぼそぼそ呟いて顔を背けてしまった。
 ウブで誠実。彼の印象だ。こんなとき、年頃の男の子たちなら「ラッキー」なんて言うに違いないのに。

「これ、競技用の見えてもいいやつだから平気だよ」
「それでも、だめです」

 もっと顔を見たい。一向にこちらを向いてくれない彼の顔を網膜に焼きつけたくて立てていた膝を崩せば、やっと視線と視線が交わって、それからぐさりと射抜かれる。頭の芯がおぼつかない中でも心臓がだけがはちきれそうにふくらんで、破裂寸前だった。

「名前、聞いてもいい?」
「瀬見。瀬見英太です」

 もう行きますね、先輩。
 すっかり顔の熱が冷めてしまったらしい彼を見て、つまらないと不満を漏らしたくなった。でも、言った覚えのないわたしの名前を彼が呼んだことで、わたしの破裂寸前だった心臓は甘い香りを放ちながら花を咲かせたのだ。
 英太。口の中で密やかに舌を動かす。甘やかで切ないこの想いが恋だと自覚するのに早々時間はかからなかった。
 それから彼は時々わたしの足の様子を見に来ては、テーピングの巻き方を指導して、また練習へと戻っていく。わたしの方が年上なのに面倒みてもらってるみたいで示しがつかないなあ、と思っていた。
 英太はテーピングを巻くのがとても上手だった。それは部活で何度も巻く機会があったからかもしれない。誰かに巻いてあげることがあったからかもしれない。こんなことしてもらってるのがわたしだけだったらいいのに、なんて思うのは恋する女の子にしてみれば至極当然のこと。
 そして会うたびに彼の指先にも段々とテープの数が増えていき、彼の努力が見てとれた。試合で彼を見たことは、まだ、ない。強豪校でレギュラーを勝ち取ることが容易くないのは、この学校に通っていればきっと誰もが知ってること。
 苦しくていとおしい、だいじにしたいわたしの恋心は、努力している彼の邪魔をしたくない想いといつも隣合わせだった。
 そうしているうちに高校最後の夏がやって来て、あっという間にその波にのまれ、わたしは部活を引退することになってしまった。もう、あの体育館裏で会うことはないのだと途方に暮れながら、校舎中を見渡して、彼の姿を探しては更に落胆する。影さえ見ないのに言葉を交わすなんて夢のまた夢。わたしは彼の連絡先を何ひとつ知らなかったし、この想いを丸めて捨てることはそう簡単に出来なかった。


4.

 卒業までにやってくる大きなイベントはクリスマスとバレンタイン。バレンタインは受験と重なって何もできないだろうから、わたしはクリスマスを、この淡い恋心を思い出に閉じ込める日に決めたのだ。
 なけなしのお小遣いを握りしめてうんうん唸りながら選び抜いたタータンチェックのマフラーは、すっきりとした顔立ちの彼によく似合うだろうと思った。もし受け取ってもらえなかったらわたしが使えばいい。そうやって、密やかな恋の熱を思い出せばいい。
 カレンダーの25日のところを大きなハート型で縁取ったというのに、その前日に終業式と書かれていてハッとする。急いで二重線で消して24日を囲い直して、ぐちゃぐちゃにしてしまったハートを見つめて幸先悪いなあ、なんて落ち込んで。でも、わたしの高校生活はすでにカウントダウンが始まっていたのだ。

「瀬見くんいますか」

 二年生のフロアに足を踏み入れるのは招かれざる客みたいに居心地が悪い。好奇の目で見られ、こそこそと内緒話が聞こえてくる。
 後輩から聞いた彼の教室を覗き込めば、真ん中の辺りで友人と喋っていた彼が目をまんまると見開いた。

「え、先輩どうしたんですか」

 手の届く距離まで近づいた英太に心が震えた。部活を引退してから会えなかった彼は、夏の間に背も少し伸びて肩まわりもしっかりとしていた。

「耳貸して」

 周りの子たちには聞かれたくなくて彼の腕を引っ張って耳打ちする。わたしは、このとき、少しだけしゃがんだ英太の耳が赤く染まっていたのは効きすぎた暖房のせいだと思っていた。

「今日、部活の前に体育館裏に来てもらってもいい?」

 英太がこくりと頷いて、わたしたちは一先ず別れた。そして今度は体育館裏で再会して、すぐさま買ってきたマフラーを差し出した。もう、勢いに任せなくちゃ何も言葉に出来ないと思ったのだ。

「瀬見くん、これ、クリスマスプレゼントなんだけど!」

 何も言わず呆然と突っ立ったままの英太に焦りが込み上げてきて、冬なのに全身から汗が噴き出すくらい体が熱かった。

「テーピングのこととか、色々お世話になったし……あっ、でも無理に受け取ってもらえなくてもいいっていうか」

 早口に捲し立てているとテープだらけの英太の長い指がそっとプレゼントを受け取ってくれた。それだけで舞い上がってしまったわたしは、大切に紡ごうと思っていた気持ちを矢継ぎ早に口にしようとして、それを英太の人差し指で止められる。

「待ってください、先輩」

 ピンクに色づいた彼の頬が、わたしの期待を高めていく。温かな彼の人差し指がほんのちょっぴりわたしの唇に触れるから息を止めるしかできなくて、とても苦しい。

「俺から言わせてください。俺、ずっと前から先輩のことが好きです。俺とつきあってください」

 こくこくと頷いて返事をすると、彼は真冬の光みたいなまばゆい笑顔で「よかったあ」と安堵の息を漏らしてわたしの手をぎゅっと握った。初めて会ったときのようにふたつの体温がひとつになって、吐く息もわたしたちみたいにひとつになって上っていく。それを夢見心地で見上げていたのは一年前の冬の午後。


5.

 みんなの戦闘準備が整った頃には、陽の光は弱々しく薄い黄色を帯びていた。首元から入り込む風が冷たくてマフラーを持って来なかったことを後悔する。こんなことならまだ温かいうちに無理にでも帰れば良かったと思う反面、「もイメチェンしてみれば」とまぶたの上にのせられたシャドウがわたしの機嫌を少し上昇させる。ポインセチアに雪が落ちたようなきらめきを放つ深い紅は、尖ったわたしの気持ちを和らげていく。こんな日があったっていいのかもしれない。「似合ってるよ」と華やかに笑った彼女たちは意外にもわたしのことをよく見ていた。

「ねえ、門のところに立ってる男の子見た?」
「見た見たー!」
「かっこよかったねー!」

 今から学内を出るわたしたちとは逆向きに歩を進める女の子たちが後ろを振り返りながら騒いでいる。きっと好みの男性が立っているのだ。女の子がそうやってワントーン高い声を上げるときは、大抵彼女たちのお眼鏡にかなった証拠になる。

「高校生っぽくなかった?」
「そうかもー!上はコート着てるからよく分かんなかったけど、下のあのチェックは制服っぽいよね」

 それを聞いてわたしの左胸がどきりと音を鳴らす。でもこの時期、高校生が大学を見にくるのは別に珍しいことではない。受験に向けて自分の士気を高めたり、とか。きっと色々。

「ねえ、今の聞いた?イケメンがいるって?」
「聞いた聞いたー!早く見に行こー!」

 かっこいいと聞けばすぐ見に行って品評会。点数をつけられる方も気の毒になってくる。進行方向が一緒なため、カツカツとヒールを鳴らす彼女たちのあとをしょうがなくついていく。
 校門前に噂どおりすらりと背の高い影が見え始めると、先行く彼女たちが振り返り、その頰はみるみるうちにかわいらしいピンク色に染まり始めた。
 歩を進めるわたしの心臓は、一歩踏み出すごとにぎゅっぎゅっと縛られる。だってあの制服には見覚えがある。三年間見てきたものなのだ。見間違えるはずがない。色素の薄いその髪も、意志が強くて尚且つ優しい眼差しも、ぜんぶぜんぶ今しがた恋しいと思った人のものだから。

!」
「英太……」

 道ゆく人の中からわたしをすぐさま見つけ出した英太は、真剣な顔から一転、主人を見つけた犬みたいに目元をくしゃりとさせて破顔した。
 頬をピンク色に染めていたはずの友人たちは、艶やかな色をした唇をぽかんと開けたまま、わたしと彼を交互に見る。

「ねえ、。その人誰?」
「彼氏だよ。迎えに来てくれたからわたしここで帰るね!」

 友人の一人が声をあげたとき、わたしはここを抜けるチャンスだと思った。『彼氏』という言葉を聞いた彼女たちは嫉妬と羨望が入り混じったような眼差しをわたしに向けて、顔を歪めた。
 それを見たわたしは自分の気持ちが高揚しているのを感じた。優越感。人のこと言えない。わたしも彼女たちと何ら変わらない。これが女に生まれ落ちるということだ。
 彼女たちが視界から見えなくなった頃には、濃い灰色の雲が澄み渡った冬の夕暮れを覆い始めていた。街灯がほんのりと道を照らしている。

「どうしてここに来たの?」

 白鳥沢学園から遠いわけでもないけど、近いわけでもない。来ても会える保証はない。そんな賭けのような真似をしてまで会いにくる価値がわたしにあるのかも分からない。
 単に疑問に思っただけだ。それなのに、英太を見上げると、彼は少し眉をひそめてわたしを睨みつけた。

「どうしてって……こうでもしないとに会えないだろ?、俺のこと避けてるみたいだし」

 あまりこういうことに鋭くない英太が感づいていたことに驚いた。咎めるようなその視線に追い詰められる心地がしたわたしは思わず自分の爪先を見つめる。

「避けてなんか……」
「嘘だ。どうせ試合に負けた俺に何て声かけたらいいか分からない、とかそういった類だろ」

 どうしてこの人はこんなにもわたしのことを分かっているのだろう。わたしは英太の求めてる言葉が分からずにこうやって悩んでるというのに。

「無言は肯定と受け取るけど?」
「……ごめん」

 そのとおりなのだから謝るしかない。だけどその次の言葉が出てこない。英太がわたしの気持ちを言い当ててくれて嬉しいと感じて自責の念に駆られていた。わたしは英太になんにも与えることができていないくせに。
 唇を噛みしめると頭上から溜息が降ってくる。下を向いたままのわたしの両頬を、英太のあたたかい手のひらがそうっと包み込んだかと思うと無理やり視線を絡ませられる。

「あのさ、俺がスタメン外されたとき泣いてたじゃん?不謹慎かもしれないけど、あれ、すごい嬉しかったんだ。俺のこと応援してくれてる人がいるんだって心強かった」

 あのとき、ずっとずっと英太の努力を見守り続けていたのに報われないなんてあんまりだと思ってしまったわたしは何故か涙が止まらなくなってボロボロと頬を濡らした。泣きたいのは英太の方だったに違いない。鬱陶しい女だと思われていたかもしれない。
 過去の不安さえも拭うように優しく言葉を紡いでいく英太は怒っているのに困った顔をしている。わたしの鼓動を乱す力強い眼差しは、わたしが恋をした英太そのものだった。

「だから、つまり、ただ俺の側にいてくれるだけでいいんだ。難しいこと考えなくていい」

 滲んでいく視界の中で、英太も苦しそうに微笑んで、わたしの肩に顔を埋めた。熱い吐息がむき出しの首に直接かかって湿り気を帯びている。

「頼むからなんにも言わずに避けるのはやめてくれ」
「英太、ごめんね……」

 くぐもった英太の声がちょっぴりくすぐったくて身を捩れば、逃がさないとばかりにぎゅっと抱きしめられる。体が軋むほどに。
 その拍子に息が漏れ出して体が萎んだかと思うと、あんなに心に渦巻いていた不安もきれいになくなってしまっていた。きっと吐息に混じって冬の空に溶けてしまったんだろう、と白い息を見つめながらぼんやり思う。

「いいよ。こうやって会えたんだしってあれ?首寒くねえの?」

 首筋に唇を押しつけた英太が驚いたように顔を上げると、なんの防寒も施されていない肌が冷気にさらされて、体全体がぶるりと震え上がる。

「今日お昼急いでたからマフラー忘れたんだけど、あったかかったからついそのまま来ちゃった」

 ちょっぴり舌をのぞかせておどけてみせると、思案顔だった英太がわたしから手を離して自分のスクールバッグをがさごそと漁り始めた。英太のぬくもりが名残惜しくて、ついつい彼のコートの裾を引っ張ってしまう。
「ん?」と首を傾げた英太はそんなわたしには構わずに、きれいにラッピングされた紙包みをわたしに差し出してにこにこと笑っている。

「ちょうどいいや。ちょっと早いけどクリスマスプレゼント」

 びっくりして目をぱちぱちと瞬かせていると、コートを掴んでいた手に直接手渡されてしまう。

「今開けてみて」

 そわそわし始めた英太が段々と可愛く思えてきて顔がほころぶ。かじかむ手を慎重に動かしてラッピングを解いていくと、そこには、今、英太が巻いているマフラーとおんなじものが入っていた。

「これ……」
「去年おそろいがいいなって言ってただろ?」
「……嫌じゃない?」
「嫌じゃないよ。むしろ……」

 一年前に英太のマフラーを買ったとき、この恋がうまくいけばおそろいのマフラーを首に巻いて一緒に街を歩いてみたいと夢を見ていた。そのときはうまくいくとも思ってなかったし、高校生だったわたしのお小遣いでは自分の分を買うことは不可能だった。それに、男の子は彼女とおそろいなんて恥ずかしくてたまらないだろうと思っていたのだ。それなのに。

「俺のもんだって手っ取り早く見せつけれるし」
「ありがとう」

 そんな彼の独占欲がわたしにはちょうどいい。
 英太がマフラーを手にとってわたしの首へと巻きつけていく。きつくないのに風も入ってこない、絶妙な加減で巻いていく。ふんわりと空気を含ませる巻き方が英太らしいと思った。
 ふと鼻先に冷たいものが落ちてきて周りを見れば、しんしんと音もなく雪が降り始めていた。マフラーの形を整えてくれている英太の唇にも六角形の結晶が落ちている。

「ねえ、雪ついて……る」

 言い終わるよりも先に英太の唇がわたしのに触れて、彼の唇についていた結晶はすっかり溶けてしまっていた。

にもついてたよ」

 照れもせずに言う彼にしてやられた気分になる。悔しくなって、彼の指に自分の指を絡ませて恋人つなぎにしてからぎゅっと力いっぱい握りしめる。痛い痛いと言いながら握り返してくれる温もりに、わたしはむせ返りそうな程の幸せを感じていた。

「ねえ、このあとうち来る?」
「今日バイトねえの?」
「本当はあったんだけど急遽休みになっちゃったの」
「じゃあ行く」
「うん、ゆっくりあったまっていって」

 帰ったらあたたかいスープでも作ってあげよう。英太が帰る頃には、きっと、街全体が白く染め上げられてるだろうから。
 少しずつ白さが濃くなる世界で身を寄せて二人並んで歩いていく。後ろを振り返れば、私たちの足跡が薄っすら並んで、またゆっくりと消えていた。
 大学から歩いて10分ほどのアパートで一人暮らしをしているので、体の芯が冷え切るよりも先に到着する。それと同時に繋がれていた手が自然と離れてしまう。一瞬のことなのにさみしいと思う気持ちが募って急いで鍵を取り出しドアを開けると、どんっと背中に衝撃を感じ、すぐさまかちゃりと鍵のかかる音が聞こえてきた。

「ただいま……んぅっ!?」

 英太の片腕に体の自由を奪われたかと思うと、振り向きざまに顎を掴まれ深く口づけられる。驚いて口が半開きだったために、簡単に彼の舌の侵入を許してしまえば、呼吸さえままならないくらいに口内が荒らされる。今までの空白を埋めるような口づけは、くちゅくちゅと水音を響かせながら段々と熱を帯びたものに変わっていく。ねっとりと絡んでは名残惜しく離れて歯列をなぞられ、酸素を求めて少し口を開けるとまたさらに深く侵される。もうすっかり英太の舌づかいに夢中になって、わたしは必死に彼の腕を掴んでいた。
 そこへ急にお腹周りがひんやりしたかと思うと、英太の手がわたしの背中をじかに撫で始めた。酸欠の脳みそでは一瞬で判断出来なかったけれど、下着がプチンと音を立てて外れたことで、英太がコートごとセーターをたくし上げていることに気がついた。
 部屋の中といっても、まだ、寒い。だってここは玄関だ。冷気に直接触れたわたしの体は鳥肌が立ち震え上がったけれど、すぐにそれが本当に寒かったからなのか分からなくなる。だって、英太の手のひらがわたしのふくらみを持ち上げるようにやわやわと揉みしだいている。

「んんっ」

 声が外に聞こえるかもしれないと合わさった唇をすぐさま離そうとしたけれど、後頭部を掴んだ彼の手がそれを許してくれない。抗う術もなく、くぐもった声が漏れるだけ。
 段々と体温が上がって汗ばみ始めると、英太は銀色の糸を光らせながらゆっくりと唇を離して自分のマフラーを外し、わたしのマフラーも解いて廊下の床に投げ捨てた。ふたつのマフラーが重なり合って、もう、どちらがどちらのものなのか分からない。まるでこれからのわたしたちの行く末を占ってるみたい。

「ま、待って、英太……ここまだ玄関だよ……?」
「待てねえよ。散々焦らされて……待てるわけがない」
「……あっ、」

 靴を脱ぐ暇もない。コートを脱ぐことすら許してくれない。
 体を反転させられて壁に縫いつけられると彼の膝で足の付け根をぐりと刺激される。わたしは彼の成すがまま。わたしも、きっと、それを望んでる。普段優しくわたしを抱く英太にこんな乱暴に余裕なく触れられたら、そんな挑戦的な眼差しで見つめられたら、もう。

「ほら、あっためてくれるんだろ?」

 スープ、何入れよう。冷蔵庫、何があったかな。
 そんなことは後で考えよう。寮の門限までたっぷりと時間はある。
 英太の熱い息が首筋に触れて、冷ややかな玄関の冷気で白く濁り透明に変わる。それから結晶へと変わり、わたしの微熱で溶かされ涙となる。目の縁を流れる雫はあなたの唇で掬い取られ、巡り巡ってあなたに還る。ああ、なんてすてきな循環なんだろう。
 たとえ二人が上げる部屋の温度で氷の花が見えなくなっても、そこにあるのはあなたとわたしの湿っぽい息づかい、ただ、それだけはなんにも変わらない、変わらないのだ。








第二回白鳥沢定例会『クリスマス』をテーマにお話をひとつ。
白布くん×後輩×片想い×プレゼントを交換する→リサコさん(HIT ME!)
川西くん×同級生×両片想い×プレゼントをあげる→いおさん(sui)
瀬見さん×先輩×恋人×プレゼントをもらう→ララ(odette)

Merry Christmas ★