HAPPY BIRTHDAY!!

 体育館のそばに植えられたチューリップの花にひらひらと蝶がやってきた。ほどよくあたためられたコンクリートに腰を下ろし、その様子をぼうっと眺める。蜜を吸い終わった蝶は隣の花へ移動して、羽を閉じたり開いたりしながらゆっくりと味わっている。
 わたしもお腹すいたなぁ。お弁当箱を膝に乗せてそっと蓋をとる。今は見るだけ。まだ食べない。だって今日は川西くんとお昼を食べる日だから。何が入っているかをひととおり確認すると再び蓋を閉じて、お弁当を脇に置いた。さらにお腹がすいて、ほんの少し後悔。お腹をさすりながら空を見上げると、ぷかぷか浮いている雲が綿菓子に見えてそろそろ空腹が限界に達しそうだ。
  別のクラスになってしまった川西くんとは週に二回、一緒にお昼を食べることにしている。そうしなければ、つき合ってるのに全然話をする機会が訪れなかった。放課後も休日も彼はバレー三昧。ほんの少しさみしいなと思うけれど、時間の取れる日に思う存分甘やかしてくれるので文句はない。だけど、その距離感のせいでいつまでたってもドキドキがおさまらない。つきあい始めてもう半年近く経つというのに彼に対する免疫機能が働かない。学食で一緒に食べるときにテーブルの下でさりげなく足をこつんとあててくるときとか、廊下でのすれ違い様に頭をぽんと撫でてくれるときとか。川西くんと目が合うと、今日は何をされるんだろうという期待にも似た気持ちで心臓がきゅっとなってしまう。
 教室に彼の姿がないことにはまだ全然慣れない。なんの授業してるんだろう。隣の席は誰だろう。寝顔、誰かに見られたりしてるのかな。心配なこともたくさんある。川西くんの魅力はわたしだけが知ってればいい。そう思うけれど、それはそれで勿体ない気がする。矛盾した想いを抱えながら時計を確認すると、昼休みを知らせるチャイムからすでに10分ほど経過していた。
 今日は川西くんの誕生日。もしかすると色々な人からお祝いされているのかもしれない。かくいうわたしも今日はそのつもりで来ている。昨日、家に帰って急いで作ったシフォンケーキ。ありきたりかもしれないけれど、プレゼントとして買ったスポーツタオル。それから、いつもおろしている髪を今日は丁寧に編んできた。だって学園祭の日にお祝いするねって約束したんだもの。少しでも特別感を出したかったのだ。
 だけど、朝に会った川西くんは何も言ってくれなかった。一番におめでとうが言いたくて教室前で待ち伏せていたのに「ありがとう」の一言だけで眉ひとつ動かしてくれなかった。マスクをしていたからか尚更表情が分からなくて不安になった。わたしがしたことは自己満足と言われたらそうなのかもしれない。でも、喜んでくれるだろうと思って期待していた分ショックが大きかった。
 すーすーする首もとを春の柔らかな風が撫でてくすぐったい。うなじにかかる後れ毛を触っていると、影が差した。俯き気味だった顔を上げると、いつのまにか蝶が二匹に増えて、踊るように空に舞っていた。

「ごめん、お待たせ」

 声のした方を向けばたくさんのティッシュを抱えた川西くんが立っている。呆気に取られているわたしを見て少し目を細めると、ずるずると鼻をすすりながらわたしの隣に腰かけた。

「どうしたの、それ」
「廊下歩いてたらもらった」

  どさり、とティッシュを下ろして適当に物色していた川西くんは、その中から花粉ブロックスプレーを見つけて「うおっ」と興奮した声をあげた。

「やばい。これ試したかったやつ。誰がくれたんだろ」

 んーと言いながら首を傾ける川西くんはスプレーの包装を確認している。わたしも一緒になって覗き込んでみたけれど、特に名前らしきものも書かれておらず、二人で顔を見合わせた。

「ま、いいか。素直にもらっとこ」

  こくりと頷くと川西くんはティッシュの山をかき分けて、埋もれていたパンを取り出した。わたしも膝の上にお弁当箱を乗せて蓋を開ける。川西くんがマスクをずらしたら二人そろって手を合わせる。ちらりと川西くんの様子を窺うと彼もわたしの方を見ていたようで、ぱちりと目が合った。こういう瞬間が嬉しい。呼吸を合わせて、いただきます。お箸を用意している間に、川西くんは豪快にがぶりと焼きそばパンにかじりついた。

「川西くんは相変わらず人気者だね」
「人気者っていうかいじりがいがあると思われてるだけじゃない?」
「違うよ、愛されてるんだよ」

 そうかな、と頬をかいた川西くんは照れくさそうに唇を尖らせた。
 川西くんが男女問わずみんなから好かれていることはわたしも知っている。みんなたまたま持っていたティッシュを川西くんにあげたわけじゃない。今日が川西くんの誕生日だって知ってるから余分に持ってきたのだと思う。もしかすると、いつもは素通りする駅前で配られているティッシュを今日は受け取ったという生徒もいるかもしれない。
 川西くんがこうやってみんなからお祝いされているのを見るのは嬉しい。だけど少し不安にもなる。わたしも花粉症対策グッズを用意した方がよかったのかな、なんて。用意したプレゼント、気に入ってくれなかったらどうしよう、なんて。
 考え込んでしまってほんのちょっぴり俯いていると川西くんに肩を突かれた。顔をあげると、口元を優しく釣り上げた川西くんが焼きそばパンを差し出してくれていた。

「どうしてだか元気がないようなので一口どうぞ」
「え、っと……わたしが食べちゃうと川西くん足りなくなっちゃうんじゃない?」
「でも、それ、俺にくれるんだろ?」

 川西くんが指差した先を辿ると、わたしが昨日一生懸命ラッピングしたシフォンケーキがあった。しまった。本当はサプライズのつもりだったのに。もっと川西くんの目につかないところに隠しておくべきだった。

「うん、まあ……うん」

 歯切れの悪い返事をするわたしに川西くんはぷっと吹き出した。自分の不用意さに恥ずかしくなって、じわじわと顔が熱くなる。赤くなってるだろう頬を手のひらで包み込んで隠そうとしたけれど、川西くんはさらに顔を近づけて焼きそばパンを差し出した。
  食べなくちゃきっとこの攻防戦は終わらない。意を決して口を開け、かぷりとかじりつく。間接キスなんて初めてじゃない。だけど、こうやってまじまじと見つめられるとどうしてもまともに顔が見られない。
 もぐもぐ咀嚼するわたしに満足したのか川西くんは元の位置に戻った。そして他のパンもあっという間に平らげてしまい、まだちまちまお弁当を食べているわたしをじっと観察している。

「あんまり見ないで」
「なんで? 小動物みたいでかわいいのに」

 そりゃあ川西くんに比べたら誰でも小動物みたいになってしまうだろう。気持ちが落ち着かなくて一旦お弁当を横に避けると、彼は不思議そうに首をかしげた。とりあえず渡すものを渡してしまおう。そしたらわたしも彼もちょっとは落ち着くかもしれないし。

「これはケーキ、これはプレゼント、です」

 ひとつひとつ丁寧に川西くんの前に置くと、彼は何故だか姿勢を正して軽く頭を下げた。

「ありがとうございます」
「どうしたの? そんなにかしこまっちゃって」
「いや、だって一年前はこんなふうに祝ってもらえるなんて思ってなかったから嬉しくて」

  顔を上げた川西くんは目元を細めてうなじをかいた。照れたときにする彼の仕草に無意識に唇の端が緩む。そんなかわいい川西くんを、今、わたしだけが独占してる。どうしようもなく嬉しくなって、いつもは恥ずかしくて口に出来ない言葉がぽろりと零れ落ちてしまう。

「好きだなあ」
「え」

  川西くんはぴたりと動きを止めて目を見開いた。慌てて口を押さえたけれど、もう遅い。なんて言った、とじりじり詰め寄る川西くんは意地悪く口角をあげている。

「なんでもない、なんでもない」
「なんでもないことはないだろ。こんなに顔真っ赤にして」

 川西くんは長いゆびさきでわたしの頬にそうっと触れ、大きな手のひらをぴたりと頬にあてがった。春の柔らかさを含ませたような触り方はわざとだと思う。彼はぐっと押しつけるような触れ方よりもこっちの方が、もっと、と思ってしまうことを知っている。
 心臓がうるさい。上昇し続ける体温をコントロール出来ないで潤んだ瞳で見上げると、川西くんはふ、と息を漏らして目を細めた。

っていつまでたっても可愛いな」
「そんなことないと思うけど」
「可愛いよ。あ、これ開けていい?」

 そう言った川西くんはわたしから離れて、プレゼントを指差した。こくりと頷けば、すぐに水色のリボンがほどかれてゆく。期待に満ちた川西くんの横顔を緊張しながら見つめつつ、わたしは先ほどの熱を持て余していた。
 キス、されるかと思ったのに。
 わたしだっていつまでも可愛い女の子じゃない。毎日毎日欲張りなことを考えている。もっともっと触ってほしくて、蜜みたいにとろけそうな甘い言葉を今か今かと待っているのだ。
 包みを開けた川西くんは「おっ!」と嬉しそうな声を上げてわたしを見た。物欲しそうな顔をしていたことがバレないように両手で頬を隠す。これならきっと大丈夫。熱くなった頬を冷やしているだけだと思ってくれるだろうから。

「ありがと。毎日使うから」
「うん、いっぱい使ってくれたらわたしも嬉しい」

 川西くんは上機嫌に鼻歌を歌いながら、丁寧に包みを戻した。すぐに使うんだったらぐしゃぐしゃのままでもいいのに、と思ったけれど、そういったところに気が回るところも、ささっと戻してしまえる器用さも、大好きだし素直に尊敬する。
 喜んでくれてよかった。ほっと胸をなでおろして再びお弁当に口をつける。その間、川西くんはわたしが作ったシフォンケーキを大事そうに膝に抱え、くるくると角度を変えながら眺めていた。

「ケーキ、食べないの?」
「食べようかと思ったんだけど、やっぱり寮で見せびらかせてからにしようと思って」
「や、やだやだ。大したものじゃないし恥ずかしいよ」
「いやいや、すごくうまそうだし、絶対うまいだろ」

 楽しみだな、とにこりと笑った川西くんにプレッシャーを感じつつ、デザートのりんごを咀嚼する。何度も何度も味見をしたからまずいことはないだろう。だけど、川西くんの口に合うかどうか。うーん、と眉間にしわを寄せ考え込んでいると「一口ちょうだい」と川西くんの顔が近づいて、わたしの噛み跡に重ねるようにりんごを齧り取った。
 川西くんはわたしのことをよく見ている。ほんの些細な変化も見逃さず、どうでもいい悩みを聞いてくれたり、こうやって気を紛らわせてくれたり。いつもいつも絶妙なやり方でわたしを元気づけてくれていた。
 そんな川西くんが、まだわたしの編んだ髪に触れてくれない。それどころかマスクで口元を隠してしまい、そろそろ行こうかという雰囲気を漂わせている。

「ねえ、川西くん」

 お弁当を片づけたわたしは思い切って切り出すことにした。川西くんはわたしの方に顔を向けたけれど、目だけではどんな表情をしているのか分からない。じっとこちらを見つめる瞳に緊張して心臓が暴れ出す。

「あの! わたし、いつもと違うくない?」

 うなじのおくれ毛を触りながら俯く。じわじわと頬に熱が集まる。川西くんはわたしを見つめたまま動かない。なんにも言ってくれない川西くんに返事を促すために上目づかいでちらりと見上げる。すると、ほんの少し目を細めた川西くんは首を傾げて「何が?」と言った。

「何って、今日、髪型変えてきたんだけど」

 本当に気づいてなかったのだろうか。まさか! 川西くんに限ってそんなことない。きっと、わたしに意地悪しようとしているだけなんだ。何故か確信めいたものがあって、ムッとする。川西くんのマスクに手を伸ばして、ずるりと引き下げる。現れたのは、ゆるりと弧を描いた薄い唇。ほら、やっぱり! 唇を尖らせ、キッと睨み上げれば、伸ばした手首を掴まれて、反対側の手で後頭部を覆われる。

「見ーたーなー」
「んっ」

 反撃する間もなく唇に温かな感触。思わず目を閉じて身を固くすると、それをほどくように、何度も何度も啄ばむようなキスをされる。段々と力が抜けて縋るように川西くんのシャツを掴めば、見計らったかのようにキスが止む。
 川西くんの意地悪。涙目で見つめると、こつんとおでこを合わせた川西くんは目尻を垂らしてわたしのうなじをゆびさきでつーっとなぞった。ぶわりと肌が粟立って、シャツを持つ手に力が入る。

「うそうそ。気づかないわけないだろ」

 ゆっくりおでこを離した川西くんは今度はわたしのうなじに口づけた。川西くんの呼吸がわたしのおくれ毛を揺らしてくすぐったい。でも、それよりも。わたしの反応を楽しむように柔く食むからわたしの体が熱を帯びて仕方ない。

「か、川西くん……待って、っ」

 ぴりっとした痛みが走ってぎゅっと目を閉じる。川西くんはその跡を確かめるようにゆびでなぞって、わたしの髪のゴムに人さし指を引っかけた。

「すっごい可愛い。だから、俺以外の奴が見てるって考えるとちょっと妬いちゃうな」

「ほどいていい?」なんて、ほどかなくちゃいけない理由を作ったのは川西くんのくせに。
 ちいさく頷けば、川西くんは静かに笑ってわたしの髪をするりと梳いた。すりすりと首元に顔を埋める川西くんがどうしようもなく愛おしい。背中に腕を回して、仕返しとばかりにぎりぎりとめいいっぱい抱き締めると川西くんは「うえっ」と変な声を出した。
 羽を休めていた蝶がつがいになってくるくる舞っている。二人で笑った声に共鳴したみたいで嬉しくなって、また二人で笑ってしまった。