かつかつと小気味の良い音をたてて、チョークと黒板がぶつかり合う。 きっと今、あの黒い一面のフィールドに、白色のアルファベットが羅列されているに 違いない。残念ながら、私は机に突っ伏して、うっすらと目をあけ、机の木目を穴が あくのではないかというくらいに見つめているため、その光景を目に映すことはできない。 はっきり言って、高一の英語の最初の方なんて、授業を聞かなくても余裕なのだ。あと5分。 あと5分の辛抱で、この退屈な授業が楽しい楽しい昼休みに大変身するのだ。私は、 机の上の閉じっぱなしにしていた英語の教科書を片づけて、きれいにアイロンのかけられた 赤のチェックの布で包まれたお弁当を取り出す。今日のメニューは何だろうか。 ハンバーグかな、ミートボールかな。どっちにしても、卵焼きが入っていることは確実だ。 わくわくどきどきしながら教室の時計を見ると、かちりと長針が動いたと同時にチャイムが うるさく響き渡った。今日の授業はこれで終わりね、という先生の透き通るようなソプラノを 合図として教室はざわめきで包まれた。さっきからお腹が鳴ってしょうがない。さてさて、 お茶でも買いに行こうかと席を立つと、瞬時に先生に「さん、ちょっと。」と 手招きされてしまった。私の至福の時を邪魔するなんて!何か悪いことしたっけなあと 頭をフル回転させ考えてはみたものの、思い当たる節はない。この際、居眠り常習犯で あることは無視しておこう。

「せんせー。私、とってもお腹すいてるんですけど。」
「すぐ終わるから我慢して。」

先生は、にこりと唇に弧を描いて微笑んだ。本当にきれいな人だ。女の私から見ても惚れぼれ してしまう。

さん、何か忘れてることない?」
「何でしょう?何か忘れてます?」
「昨日までだった課題出してないの、あなただけよ。思い出した?」
「……あ!」

すっかり忘れてました、と申し訳なさそうに頬のあたりを人差し指でぽりぽりと掻く。 昨日は、えーと、帰って、ごろごろして、ご飯食べて、テレビ見て、ごろごろして、お風呂 入って、寝てた!ああ…私のうっかり者!

「じゃあ、今日の昼休みが終わるまでに先生のところまで提出しに来てね。」
「え!?昼休み終わるまでですか?」
「そうよ。さん、いつも授業中寝てるから余裕でしょ?」

先生は、にこりとかわいい顔しながら鬼のようなことを言う。鬼だ、はっきり言って悪魔だ! 貴重なる昼休みを英語のために台無しにしろというのか。

「…今日の放課後まで……とかいうのは?」
「だーめ!先生、早く帰りたいもの。」

じゃあまたあとでね、と先生は手をひらひらさせながら教室から出て行ってしまった。 ちゃんと残業してくださいよと言った言葉は、誰に受け取られることもなく、教室の喧騒の 中に消えてしまった。

大変なことになってしまった。私は、味わって食べようと思っていたお弁当をかき込んで、 喉に詰まりそうになった鮭ご飯をお茶で無理やり奥に押しやる。いつも一緒に馬鹿やっている 友達は、ご愁傷様と言いながらどこかに遊びに行ってしまった。薄情者め!ただ、 幸いなことに、課題はそんなに難しくないため、意外と早く終わりそうだ。シャーペンを 持った手を休ませることなく動かし続ける。私、は少しでも昼休みが惜しいのです。 昼休み残り15分というところで、課題が完成してほっと一息つく。両手を組んで大きく 背伸びをすると、縮こまっていた関節がパキと鳴って気持ちいい。まだ少しだけ残っていた お茶を一口だけ口に含み、職員室へかけ出す。早くしないと昼休みが終わっちゃう。少し息が 乱れてしまったのを整えながら(本当、体力ないな自分)、半開きのドアから職員室の中を 覗くと、どうやら先客がいるようだ。後ろ姿しか見えないけれど、背がとても高くて、少し ねこっ毛。背中も広くて、男らしい。

「だからー、先生、俺、野球ものっすごくがんばってんの!だからさ、今回だけはオマケして!」

先客の男の子は、両手を合わせ、腰を低くして、先生にお願いしている。

「今回だけだからね。次から遅れて提出したら減点よ。」
「さっすが先生!話分かるじゃん!」

んじゃ、失礼しましたとその背の高い男の子が職員室のドアに手をかけ、勢いよく飛び出して きたため、出入り口で突っ立っていた私は避けることができず、思いっきり彼の胸元に顔を ぶつけてしまった。いたい。ひりひりしてきた鼻の頭を擦りながら、謝ろうと思い、視線を 徐々に上にずらしていく。制服のシャツのボタンが2、3個あけられ、少し肌蹴た胸元から 日焼けした健康的な肌がのぞいて何だか色っぽい。ほんのちょっぴりどきどきしながら顔を ゆっくり上げると、その男の子は驚いたように目をまんまるにして、じっと私を見つめた。 とても端正な顔立ちをしているその彼は、いつまでも目を逸らさずに、何か言いたそうに私を 見るものだから、きっと痛かったのだと思い、目を伏せながらごめんなさいと謝ったが、 いや、こっちこそ、と返してくれたにもかかわらず、職員室の出入り口を塞いだまま動いて くれない。不思議に思って上を見上げると、彼は射抜くような鋭い視線で熱っぽく見つめる ものだから、私の心臓がどきりと音をたてて、全身の血管がどくどくと脈打ち始めた。
どうしよう、目が離せない。体が動かない。

「あ、さん、終わったの?」

先生の声で、まるで金縛りから解けたかのようにびくりと反応した私は、はいと返事をして、 背伸びをしながら彼の背中の向こうにいる先生と目を合わせた。

「へえー。お前、っていうの?」
「……はい。」
「ふーん。」

彼は意味深に頷きながら、じゃあな、、と言って職員室から去って行った。私はしばらく その背中を見つめていたが、昼休み残り5分の予鈴が鳴ると思い出したかのように先生の ところまでとんでいき、課題を提出した。先生の手元にあったノートの表には、 『2年B組 榛名元希』と角ばった男の子っぽい字で、主張するかのようにでかでかと書いてあった。


まばたき惜しむ少年


(榛名先輩、……かぁ)
あのときからずっと彼の目が忘れられない。午後からの授業は、全く頭に入ってこず、 先生の言葉は右耳から左耳へ素通りしてしまう始末だ。初めて会った先輩に、どうしてあんなに 熱のこもった視線を向けられなくてはならないのか。ましてや、その視線の先にいる標的が私だ なんて、信じがたい現実だ。次の日から、ついつい榛名先輩を探している自分に気がつき、思わず 苦笑する。私って、こんな簡単に一人の男の子にはまっちゃう女だったっけ。それでも、2年B組の 体育の授業が何曜日の何限目にあるかということまで把握してしまった事実は誤魔化せない。 私、完全に恋の病にかかっちゃってる。それも重症の、だ。この前の席替えで窓際の席を運良く ゲットした自分自身に感謝しつつ、体育で元気に走り回っている榛名先輩を盗み見る。教室から グラウンドの人間の顔を判別できる人なんて私か、もしくは私と同じ病気にかかっちゃってる人 くらいだろう。職員室で会った彼の顔はあんなに真剣で息を飲むほどであったのに、今の彼は 見てる方も笑ってしまうほどの眩いばかりの笑顔だ。あのときとのギャップに驚きつつも、その表情も 心の中にしまい込む。そして、にやけてしまう口元をおさえながら、私はノートの隅に『榛名元希』と 小さく書いては消し、書いては消しを繰り返してしまうのだ。

初めて会った日から2週間か3週間たったくらいのある日の掃除の時間、私はごみ捨て当番 だったので、片手では持てないくらい重くなったごみ箱を抱えて、ごみ捨て場に向かっていると、 榛名先輩の姿が見えて私の心臓がどきりと音をたてた。外掃除の当番なのだろう。けれど、集めた ごみを、先輩の友達と思われる人が軽く投げ、先輩は持っていた箒を野球バットのように振り回し、 ヒットーなどと叫んではしゃぎ、笑い転げている。ずい分やんちゃなところもあるんだなと新たな 一面を発見して嬉しくなり、足取りも軽くなる。そのとき、カンっというかたい金属音がしたかと 思うと、私の肩に鈍い衝撃がはしった。からんからんと私にぶつかって地面に落ちたものが、 榛名先輩が打った空き缶であると私はすぐに理解できた。 (こんな事態もラッキーだと思う私って相当ヤバい!)

「ちょ、榛名、やばいって!」
「謝ってこいよ。」
「わーってるよ!」

たったったっと軽やかな足音が近づき、先輩が、おい、と話しかけると同時に振り返ると、先輩は、 「あ、か。今の、マジでわりぃ!」と言って、一歩下がって慌てながら両手を口元ですり合わせた。 私は、職員室での先生に対する榛名先輩の態度を思い出し、少しにやけてしまった。

「平気ですよ、全然痛くなかったですから!」

肩を擦りながら、当たった方の腕で筋肉ムキムキのポーズをとると先輩はにかっと笑った。

「お詫びにごみ箱持たせろって。」
「いえ、大丈夫です。」
「じゃあ、こうすればいいんじゃね?」

先輩がそう言ったことによって、先輩と私はお互いに四角いごみ箱の対辺を持って、ごみ捨て場に 向かうことになった。けれど、先輩と私の身長差がありすぎて、結局私は下から軽く支えているだけ だから、申し訳ない気分になった。ちらりと先輩を横目で見上げると、髪の毛をひょこひょこさせ、 口元には笑みを浮かべながら歩いている。少年っぽいその笑顔が、私の心をわしづかみにしてしまったので、私は 顔に出たのがバレないよう少しうつむき加減で歩く。あ、もうごみ捨て場に着いちゃう…残念だな。

「なあ、、俺のこと知ってる?」
「知ってますよ、榛名、元希先輩、ですよね?」
「なんだ、知ってたんだ。」
「職員室で提出してたノートの名前、見ましたから。」
「へえ。じゃあ、少しは意識してくれるようになったってことだ。」

私が思わず勢いよく先輩の方を見上げると、榛名先輩はあのときと同じように真剣なまなざしで 見つめてくるものだから、私は反射的にごみ箱から手を離してしまった。それと同時に、たぶん榛名先輩も 一人で支えきれなかったのだろう(私があまりにも急に手を離してしまったから)、ごみ箱が地面に落ちて 中のものがそこらじゅうに散らばってしまった。

「せ、先輩、ごみ……」
「知らねーよ。」
「え!?」

かがんで、ごみを拾おうとした私の右腕を先輩が握って無理矢理立たせた。そして、先輩の目に私自身の 顔が映ったかと思うと、瞬時に唇に熱い感触が伝わった。熱くて、柔らかいそれが先輩の唇だと理解した ときには、すでに腰にも腕がまわされていて、心臓の音は私のものか先輩のものか分からないくらいに 私たち2人の距離は縮まっていた。それから先輩は名残惜しそうに唇を離すと、私の顔を覗き込んだ。

「これで俺のこと、好きになった?」

あたりまえじゃないか!あんな熱っぽい目で見つめておいて、こんな熱いキスをして私の心を乱しておいて、 それでも私の心を射抜くように瞬きを惜しんで見つめるあなたに、

好きです以外の言葉を

返せるはずがない。


「俺は、職員室で会う前からお前のこと好きだったよ。」
「え!?なんでですか?」
「(なんでって、入学式のとき一目ぼれしたんだよ!)…まぁ、その話はまた今度っつーことで。」
「(ずるい!)」