十七歳のポートレート

1.

 線香花火という花があることを教えてくれたのは博識な彼だった。どれだけ線香花火に似ているのか見てみたいと話してから、はや、二度目の夏を終えようとしている。
 彼はとても忙しい。朝から晩まで、休日も関係なしにバレー漬けの日々を送っている。言わずもがな、夏休みも。だから。二人で何も夏らしいことが出来ないからとこっそり植えて育てていた。それがついに花開いたのだ。これで少しでも夏の余韻を味わえれば、としおらしく装ってみる。
 まだ全部咲いたとまでは言えないけれど、むしろまばらに咲いていた方が線香花火らしいと今日見せることに決めた。それに今晩、両親は町内会の飲み会で出払っている。
 折角だし、と昨年見せることのなかった浴衣を引っ張り出して自分で着付けていく。くずされることを期待して覚えた着付けなのに全く役に立たなかったのは、ちょうど一年前の夏の終わりのこと。
 わたしはあの夏を、もう一度、やり直したかった。


2.

 わたしと賢二郎は同じ中学の同級生だった。一目惚れに近かったわたしが友人ときゃあきゃあ言ってるのを鬱陶しそうにしていたのに、どうもそれが癖になったらしい。賢二郎から想いを告げられたのは受験勉強に本腰をいれなくちゃならない中学最後の夏休みだった。
 受験生に逢瀬の時間なんてほぼない。ましてや彼の受験校は難関と呼ばれる白鳥沢学園だった。逆にわたしは自分の頭に合った公立の共学校。勉強漬けの彼だったけれど、それでも一緒にいられるだけで嬉しかったので、放課後の図書室ではよく隣に並ばせてもらっていた。
 家はそんなに近いわけじゃないけれど、一緒に勉強した日はいつも送ってくれた。「体力落ちるの嫌だから走って帰りたいし」と言っていたのは照れ隠しもあるのだろう。だって、手と手が触れ合ったとき、綺麗なミルクティー色の髪の毛から可愛らしいピンクの耳たぶがこっそり覗いていたから。
 彼の受験前日に会いたいと言われたときのこと。「お前に会うとお前の馬鹿さ加減に安心する」と意地悪なことを言われたけれど、わたしには分かった。賢二郎は緊張していた。合格しますようにと想いを込めて重ねた唇は微かに震えていた。わたしたちはまだ初々しかった。
 卒業してしまうと今までのようにはいかない。会いたいときに会えなくて、共通の話題も少なくなって。そうやって別々のコミュニティに属することを目の当たりにしてしまうのだ。離れることはとても怖かった。これを機に別れを告げられるのでは、と内心びくびくしていた。けれど、嘘が下手なわたしはその怯えを隠すことは出来ず、賢二郎にはバレバレだった。

って俺がどれだけお前のこと好きか分かってないよな」

 その一言で、わたしの色気も何もないひつじ柄のベッドシーツの上に組み敷かれると、賢二郎は余裕なさげにわたしに触れた。わたしは卒業と同時に処女を捨てた。
 ひとたび肌を重ねてしまえば、新しい遊びを覚えた子どもみたいに何度も何度も同じことを繰り返していく。求め、求められることが気持ちよくって嬉しかった。会う頻度は多くなかったけれど、そのたびに、受け入れることしかできない互いの身体を無我夢中で寄せ合った。普段離れているぶんの隙間がぴったりと満たされる感覚は替えのない代物だと思う。のめり込んではダメだと頭の中で警鐘が鳴っていても、唇が触れ合ってしまえば深海に沈み込むように何も聞こえなくなる。ふたりだけの世界。わたしたちは全身全霊をかけて恋をしていた。


3.

 終わりが来たのは16歳の夏の暮れだった。一緒に行こうと約束した夏祭りに彼は来なかった。正確に言えば約束などしていない。彼は「遠征から帰ってくる日だから行けないかもしれない、だから約束できない」とちゃんと言っていたのに。幼かったわたしは自分のことを好きなら来るはずだと浴衣姿で馬鹿みたいに待っていた。そんなことで彼の愛をはかろうとしていたのだ。
 約束をすっぽかされて激昂したわたしは彼に別れを突きつけた。もういい、賢二郎なんてうんざり。別れる。心にもない言葉を感情のままにぶつけた。わたしは繋ぎ止めて欲しかった。だけど、うんざりしていたのは賢二郎の方だったのだろう。高校生になればもっと恋人らしいことができると思っていた。なのに賢二郎の優先度のトップはいつもバレーだった。部活とわたし、どっちが大事なの、なんて典型的なウザい女だった。深いため息を吐いて分かったと言った賢二郎は、わたしに背を向けて振り返りもせずに去っていった。
 二人とも疲れていたのだと思う。恋をすることに。理想があればあるぶんだけ、それとはかけ離れていく現実に。お互いの理想になれなくて苦しかった。こんなにも好きなのに。
 後悔はした。だけど。だからこそ、なのか、わたしが傷ついたぶん賢二郎のことも傷つけたかった。


4.

 少し季節が進んで真っ赤な絨毯が帰宅路を覆い始めるころ、わたしは同じクラスだった男の子に告白された。特に意識したことはないただの友人だった男の子だったけれど、あてつけのように男女交際を了承した。しばらくして人づてに賢二郎にも彼女ができたと聞いて、わたしの望みは脆くも崩れ去った。奪い去ってくれるかもだなんて、なんて自分勝手で浅はかな女なのだろう。自己嫌悪で鳥肌が立った。
 賢二郎のことを忘れたい。そう思い続けているところに運悪く賢二郎が女の子と街中を歩いているのを見かけてしまった。つい立ち止まると、伏し目がちだった賢二郎が顔を上げる。一瞬だけ目が合った。コンマ1秒あるかないか、たったそれだけでぱちぱちと星がはじけるような目眩がした。
 金縛りにあったみたいに動かない体をどうにかしたくて、一緒に帰っていた恋人の手を取ろうと懸命にもがいた。なんとか掴むことが出来ると、路地裏に逃げ込み身を潜めた。
 そこへ唇に温かな感触が降ってくる。
 なんで。どうして。そんな考えが頭を過ぎったけれど当たり前のことなのだ。だってわたしは目の前のこの人とつき合っている。唇を合わせたまま通りの方へ視線だけを向けると、こちらに気づいた賢二郎が目を大きく見開いていた。絶望した。もう元には戻れないと思った。わたしは賢二郎以外を好きになんてなれないことが今、他の男に唇を重ねられて初めて分かったというのに。
 ぐいと恋人の胸を押し返すと寂しそうな声で「おまえ、俺のこと全然見てなかったもんな」と呟いた。結論から言えばそこでわたしは振られたのだ。
 いつの間にか降ってきた冷たい雨の中、わたしは立ち尽くした。制服が肌に張り付いてもどうでもよかった。涙なんて出ない。自業自得だった。
 風邪をひいてしまうかもしれないなぁなんて頭の片隅にあったものの、このまま熱が上がれば学校に行かなくてすむのにとぼんやり佇んでいると、賢二郎は再び現れた。その手には傘があって、わたしを雨から守っていた。

「どうだった?あいつとのキスは」
「関係ないでしょ」

 再会してすぐの言葉が他人とのキスの感想だなんて甚だかわいそうだ。賢二郎も、もちろん自分自身も。
 これ以上同じ空間にはいられない。彼の声を聞くと自分の内に秘め込んだはずの熱がとろとろと流れ出て、しまいには全身を覆って化け物みたくなってしまう。
 賢二郎の脇をすり抜けるとき、少しでも触れないように気をつけなくては、と細心の注意を払っていたのに、気がつけば、わたしはいとも容易く壁に縫い付けられていた。

「関係ないことあるかよ!見たくもないもの見せられて」

 どんなに苛立った声をあげても、賢二郎の吐く息は白い。純粋で無垢だ。それを見るとわたしはとうの昔に枯れ果てたはずの涙が迫り上げてくるのを感じた。いつ何時も彼は美しかった。

「でも、これでも俺以外好きになれないって分かったよな?」

 賢二郎はわたしのことをよく分かっていた。傘を放り捨てると両手で頬を挟まれる。何度も何度も角度を変えて、貪るように交わした口づけがまたわたしを深みにはまらせた。それは、もう、ずぶずぶと音がするくらいに。

「こうすれば満足だろ」

 頰を撫ぜる手は優しい。それでも与えられるキスは、わたしに取り込まれるはずの酸素ですら憎らしいとばかりに呼吸を奪う。欲していたのはわたしだけじゃなかったのだ。
 初めてのキスから季節はぐるりとまわって丸一周。わたしたちの二度目の始まりはわたし好みのとてもドラマティックなものだった。
 それが16歳の冬のこと。


5.

 下駄を引っかけて外に出れば、黄色い光に赤が混ざって、夕焼けの気配がする。最近は日が落ちるのも早くなった。家路へ急ぐ子供たちが肩から下げている虫カゴの中にも蝉はもういない。夏が、終わる。
 家から少し離れた白鳥沢学園へはバスへ向かう。道行く人やバスの乗客たちは、物珍しげにわたしの格好を上から下まで確認していく。それもそのはず。今日はこの辺りで祭りやイベントは何もない。
 学園前でバスから降りると、空はすでに橙と青が交わって夜のカーテンを下ろし始めたところだった。白鳥沢学園、と堂々と書かれた門の横で静かに待つ。いきなり浴衣姿で現れたわたしに賢二郎はどんな反応を見せるのだろう。驚くだろうか、喜んでくれるだろうか。それとも怒られるのだろうか。ちょっぴり不安だ。
 まもなくしてワイワイと騒がしい声が聞こえてきた。時計を見ると、昨日賢二郎が言っていた部活が終わる時間から10分ほど経った時間を指していた。声がする方を覗き見れば、背の高い壁がこちらに向かって迫ってきている。その壁の少しへこんだ部分を構成する人物が色素の薄い髪を揺らしたので、賢二郎だと判断した。

「けーんーじーろっ!」

 校門の柱から軽快に現れると壁はぴたりと動きを止めた。

「は??は?」
「来ちゃった」

 驚いた賢二郎は語彙力を失ってしまうのが可愛い。ぱちぱちと長い睫毛を震わせて「来ちゃったっておまえ……」と言いながら視線を上下に動かしてわたしの姿を確認する。

「えっ!?もしかして賢二郎の彼女?」
「はぁー!?おまえ、オフの日いないと思ってたら彼女と会ってたのか!?」

 一緒にいたバレー部と思われるメンバー達も興味深げにわたしと賢二郎を交互に見る。その内の一人に逃がさないとばかりに肩を組まれている賢二郎は、質問に肯定も否定もせず、しれっとその腕からすり抜けぺこりとお辞儀をした。

「俺、こいつ送ってくるんでここで失礼します」
「わっ!待って!」

 賢二郎が強引にわたしの腕を掴み大きな歩幅で歩き出したので、前につんのめりそうになる。掴まれた腕が痛い。ほんの少し不機嫌なのかもしれない。「後で話聞かせろよ」という騒がしい声には何の反応も示さなかったくせに「門限までに帰って来なさいね」と母親のような言葉が飛んでくれば、彼は立ち止まり軽く会釈を返した。その間にわたしは歩幅を整える。
 バス停で次のバスの時刻を確認すれば、ちょうど"今"だった。少し遅れているのか、ヘッドライトの灯りはまだ見えない。

「何、その格好」
「えっとね、わたしたち夏らしいこと何も出来てないでしょう?だから気分だけでも夏を味わいたくて」
「ふーん」

 真っ直ぐと前を見つめる賢二郎の表情はあまりよく分からない。浴衣姿、可愛いって思ってくれたかな。口に出さなくていいから、そう思ってくれるだけでわたしは嬉しいのに。

「あとね、賢二郎に見せたいものがあって」
「何?」
「それは着いてからのお楽しみ!」

 満面の笑みで見上げると賢二郎は呆れたように溜息を吐いた。端正な顔立ちのどこかに彼の気持ちが分かるヒントが隠されていないかじーっと見つめる。だけど賢二郎は外で感情を露わにするような男の子じゃない。

「着いてからって俺が家まで送ること、最初っから分かってたわけ?」
「だって賢二郎、夜道は危ないっていつもいつも送ってくれてたでしょう?」

 思い当たる節があったのか、賢二郎はぐっと唇を噛み締め「手出せ」と乱暴に言葉を吐いて、そっと差し出したわたしの手のひらをひったくるように握りしめた。
 バスの中ではいつも基本的に無言だった。彼は公共の場で話すのは苦手らしい。でもわたしも彼と話していると、すり寄ってくっつきたくなってしまうのでちょうどいい。ここでは、手のひらで互いの体温を溶かし合えば充分だ。
 バスから降りると賢二郎はわたしの歩幅に合わせてゆっくりと歩いた。さっきは、ただ、照れていただけなのだ。こうやって並んで歩くのは一学期の期末試験以来のことだった。あれからもう一ヶ月以上が過ぎている。わたしはよく我慢した方だと思う。二人で他愛もない話を繰り広げることは幸せなことなのだと思えるくらいに。だけどそれは、まやかしにしか過ぎない。

「ただいま」

 玄関扉を開けながら念のために声をかける。返事は返ってこない。どうぞ、と賢二郎に声をかけると少し戸惑いの表情をみせたので珍しいなと思った。

「親、いねぇの?」
「うん、今日は遅くなるんだって」

 賢二郎がなかなか入らないので両手を引っ張って先に下駄を脱ぐ。ぐいぐい引っ張り続けているとしょうがないとばかりに賢二郎はスニーカーを脱いだ。そして、わたしから手を離してごく自然な流れで自分のものと一緒に、わたしの脱ぎ散らかした下駄もすっと揃えてくれる。

「ありがと。お茶と食べ物用意してくるから先に部屋上がってて」

 会うときは決まってわたしの家だった。デートというデートはあまりしたことがない。なので、賢二郎は迷うことなくわたしの部屋へ到達出来る。軽く頷いた賢二郎が階段を昇る音を聞きながら、家を出る前に沸かした麦茶に氷を入れ、採れたてのみずみずしい無花果をお皿に並べた。
 部屋に入ると賢二郎は例の花を置いている窓辺に佇んでいた。まだカーテンの閉まっていないそこは、窓枠が額縁となって、吸い込まれそうなほどの濃紺の背景に赤い火花を散らした線香花火がとてもよく映え、そこに少し疲れたアンニュイな表情を浮かべた賢二郎が立っているので、まるで一枚の絵のようだと思った。
 疲れ顔の気怠げな男の子が妙な色気を醸し出すことを、わたしは今、初めて知り、部屋の入り口に立ち尽くしている。彼は一体何を考えているのだろう。真一文字に結んだ唇は切なさを携えている。
 なんとなくその空間に入ってはいけない気がして後ずさろうとしたところにパキリと氷が鳴る。賢二郎は驚く様子もなく冷静にこちらを振り向いた。

「見せたかったのってこれ?」
「そうそう!」

 今ここに来たんですよ、ということをアピールするために平然を装う。見つめていたことを気取られてはならない。今日はわたしが主導権を握って二人のドラマを生み出したいのだ。
 賢二郎は線香花火の花びらをもてあそぶように指で弾くと、目を細めて意地悪く笑った。

って植物育てられたんだ」
「だって、賢二郎が見てみたいって言ってたから」

 お盆から麦茶の入ったグラスと無花果の乗ったお皿をテーブルの上に並べると、それを合図にしたように彼はカーテンを閉め、二人がけのローソファーに腰掛けた。

「俺が言ってたから頑張ったんだ?おまえってほんと俺のこと好きだよな」

 そう言ってグラスに口をつけた賢二郎の喉仏がこくりと音を立てて上下する。そこに噛みつきたい衝動を抑えながら、わたしは、仕掛けるタイミングは今だと判断した。今度いつ訪れるかわからない絶妙のタイミング。絶対に逃したくはなかった。
 おんなじように賢二郎の隣に座ると、寄りかかるように彼の心臓のあたりに手を添える。上目遣いは忘れない。瞳は充分潤っている。わたしは、賢二郎のことを考えるとき、幸せなのに切なくて、さみしくて、悲しくて、無性に泣きたくなる。

「好き。大好きだよ。ねえ、ちゅうして」

 しょうがねえなって言いたげな溜息を吐いた賢二郎は、わたしの顔に垂れた髪の毛をそっと耳にかけてくれた。やわやわと耳たぶを触られて思わず目を細めれば、優しいキスが降ってくる。あったかくて気持ちいい。唇の感触を確かめるように食みながら口づける。何度か繰り返しているとゆっくり離れていこうとするので、もっと、と小さく舌を出す。
 こんなんじゃ、足りない。足りるわけがないのだ。もう、ずっと、触れるだけのキスだった。深い口内を荒らすような口づけも、互いの感情をぶつけ合うようなセックスも、よりを戻してからは何もない、ぽっかりと穴の空いた関係だった。抱かれなくても平気なのだと、そう言い聞かせて、わたしは自分の気持ちを誤魔化してきた。
 賢二郎の手が後頭部にまわる。息を奪うようにその手に押さえつけられると、舌が差し込まれ、くちゅくちゅとわざとらしく水音を鳴らすように掻き回される。わたしは浴衣の裾がはだけることをはしたないと思いながらも彼の太ももに足を乗せた。
 ようやく離れた唇の間で銀色の糸が切れるのを見て、やっとこのまま二人で溶けていけると思った。のに。

「何、欲求不満なわけ?」

 賢二郎は冷ややかに笑っている。その目に熱が宿ることなく、わたしの心臓がひゅっと縮こまった。間を空けずに、怒りとも恥ずかしさともとれる熱が全身を駆け巡る。
 ひどい仕打ちだ。受け入れる気がないならその気になんてさせないで。

「ちがう!」

 全身を駆け巡った熱がまぶたに集まり、水分に変わって瞳の表面を覆っていく。ぼやける世界は色を失っているのに、赤いものだけを鮮明に映し出していた。線香花火の赤、裂けた無花果の赤、唇の赤。
 裾を直しながら膝を抱え込み、テーブルの方へ向き直る。
 行為の回数イコール愛だなんて思ってるわけじゃないけれど、それ以外に確かめる術が思いつかない。だったら、わたし、あなたの愛をどうやって知ればいいのだろう。わたしの愛をどうやって伝えればいいのだろう。
 賢二郎は何事もなかったかのようにお皿からひとつ、無花果を手に取った。手入れされた指先が無花果にめり込んでずぶりと半分に割っていく。中はすっかり熟していて果肉は真っ赤に色づいていた。それに口をつける姿はなんとも艶やかで、わたしのお腹の底に熱がじんわりと溜まっていく。だって、わたしのこと、あんなふうに触ってほしいって。わたしのもの、あんなふうに触っていたなって。そう、思うじゃないか。

「泣いてる?」
「泣いてない」
「泣いてるだろ?」
「泣いてない!」

 今にも泣きそうなのは分かってる。涙が零れ落ちることに堪えれていても、震える声は誤魔化せない。
 悔しくなって無花果を掴み取り、わたしも賢二郎に倣って半分に割る。だけど力の加減がうまくいかず、飛び散った果汁が浴衣に水玉をつくり、指の間から手首にかけて赤い筋をつくりながらゆっくりと流れ始めた。
 それを見た賢二郎はまた溜息を吐く。もう、散々だ。溜息による空気の振動だけで、表面張力が負けてぱたぱたと涙が零れていく。

「お前さ、一年前の俺の気持ち考えたことある?」
「え……?」

 あまり二人で話すことのない一年前のこと。いつのまにかタブーになっていたこと。賢二郎から切り出されたことに驚いて顔を上げると、切なさに押しつぶされそうな彼の表情に胸が痛くなった。
 考えたことあるよ。言いたいのにうまく言葉に出来る自信がない。

「今日、俺があの時間、あそこにいなかったらどうしてた?」
「だ、だから……昨日練習何時ごろ終わるか聞いて、」
「そういう問題じゃないって!」
「ごめ……」

 決して怒鳴られたわけではないのに萎縮してしまうのは、わたしはこんなにも感情を殺したくて必死な賢二郎を見たことがなかったからだ。彼の瞳の奥が揺らめいている。

「終わる時間がずれることだってあるだろ?他の道から帰ることだってあるだろ?それで、また、俺が現れなかったら怒って別れるって言うのかよ?」
「そ……んなこと、もう言わない。わたしだって、成長した」

 ついに声を荒げた賢二郎を見て、わたしは初めてこの人の優しい部分と臆病な部分は根っこで繋がっていることに気がついた。
 彼は別れたいなんてこれっぽっちも思ってなかったんだって。わたしのために別れたんだって。
 傷つけたいなんて馬鹿みたいなこと思ってた昔の自分を呪いたい。わたしの一言が鋭いナイフみたいにこの人を抉るなんて、あの頃の自分は想像すらしていなかったのだ。

「へぇ……俺も成長したと思ってた。けど、やっぱりを自分だけのものにしたいって気持ちは消えやしない」
「え?」
「本当は同じ学校受験して欲しかった。浴衣姿だって一番に見たかったし、他の誰かにキスされるなんてもってのほか。どうしていつでも俺の目の届く範囲にいないのかって何回も考えた」

 本音を聞くことは初めてだった。わたしも怖くて聞けなかったし言うこともできなかった。もうずっと二人は一年前の夏からがんじがらめだった。解こうとすればするほどにぐちゃぐちゃだ。
 賢二郎の瞳の虹彩に、やっと獰猛な光がちらついた。ああ、きっとこれからわたしはさっきの無花果みたく指で割られるのだろうと胸が弾んでしまうのだから、わたしという人間はなんて愚かなのだろう。

「人の気も知らないで」
「……あ、」
「もう自分本位には触らないって決めてたけど無理」

 賢二郎が力任せに無花果を持っていた手を掴んだので、指先から果実がこぼれ落ちる。そこから指の間、手の甲、手首、と赤くて甘い道すじをを賢二郎の舌が這っていく。ぬるりとしたあたたかな感触ににぞくぞくとして、わたしの口からあられもない声が漏れ出した。

「や、やだ、やだ」
「嫌じゃないくせに」

 こう言えば、賢二郎に火がつくことも、この後の行為のスパイスになることも、全部賢二郎から学んだこと。
 あの夏の輪郭をなぞるように、賢二郎はわたしの首筋から胸元に唇を寄せて熱い吐息を吹きかけていく。整えていたはずの襟元は、今では無残にはだけ、乱れてしまっている。そこから賢二郎のひんやりとした手が差し込まれ敏感なところを弾かれると、電流がはしったみたいにピリッと背骨がざわめいて、同時にぶわりと全身が粟立った。ちいさく息をのんで、これから与えられるだろうさらなる快感に唇を噛んで堪えしのぐ。だけどすでにわたしの身体は切なさで切り裂かれそうだ。

「なあ、去年もこうやって脱がされること想像してた?」

 有無を言わさないような刺すような視線で見つめられるとこくりと頷くことしかできない。それに、それはまごうことなき事実だった。
 本当のことを言わされて、自分のオンナの部分を受け入れなければならない恥ずかしさから目の縁を涙が流れる。賢二郎はそれを唇で掬うとそのまま下にずらしていき、首筋を噛んだ。
 わたしの身体が痛みでびくりとはねるのを見た彼は、自嘲気味に微笑んでわたしの下唇をぺろりと舐めた。

「優しくなんてできないし、するつもりもないから」

 それでいい。それがいい。
 もっともっと仕掛けてよ。だってわたしたちはそうすることでしか気持ちを伝える術を知らないのだ。凶暴な衝動を飼い慣らすなんて到底できっこない。これまでも今も、そしてこれからも。
 カーテンの向こうは、すっかり夜の帳が下りてたくさんの星が瞬いているだろう。だけど、シーツの海に溺れながら深く沈み込んでいるわたしたちには、もう、何も見えやしない。
 賢二郎がわたしの太ももをいやらしく撫であげ、膝裏に手を差し込んだと思えば、足の付け根の生ぬるい感触に縋るように分け入ってくる。目を閉じたときに激しくはじけ飛ぶ真っ赤な火花が見えて、あのとき見るはずだった花火みたいだなって。
 解かなくていい。ぐちゃぐちゃでいい。もつれ合う二人でいい。
 あの夏からやっと、わたしたちの季節が動き始める。





第一回白鳥沢定例会『晩夏』をテーマにお話をひとつ。
川西くん×朝×先輩×両片想い→いおさん(花冷え)
瀬見さん×昼×後輩×片想い→リサコさん(HIT ME!)
白布くん×夜×同級生×恋人→ララ(odette)