君を齧るためのドレスコード

  外は晴天、燦々と降り注ぐ太陽の光が熱を届ける。手を使って申し訳程度に風を送ってみても、額を滑り落ちる汗は止まる様子はない。
 サイダーが注がれている透明なグラスは汗をかいて、テーブルに水たまりを作っている。しゅわしゅわとゆっくり上がっていく気泡に耳をすませながら、冷たくて美味しかったはずのそれは、きっとただのぬるい砂糖水になっているだろうと残念に思う。
 わたしが持ってきたお土産の水蜜桃は、ふたりで齧ったのに跡はひとつ。そのまま手つかずの状態で、ほんの少し変色しているものの甘い水蜜をじゅわじゅわとしたたらせていた。
 あれはわたし達の成れの果てだ。
 シーツの海に沈み込んだままのわたしを放置してカチカチとゲーム機を触っている孤爪くんを背に、わたしはそんな馬鹿げたことを考えていた。





 わたしと孤爪くんがただのクラスメイトから恋人という関係になったのは昨年の秋だった。少しだけ冬のにおいがする乾燥した風が、スカートを揺らしていたのを覚えている。それを見た孤爪くんが「短くない?」と不貞腐れた顔をしたことがわたしは密やかに嬉しかった。
 クラスメイトだった頃のわたし達は特に仲がよかった訳ではないけれど、目立つのが苦手だと思っていた彼が、放課後になるとやたら目立つクロと呼ばれる先輩に連れられて去っていくものだからわたしの好奇心が妙に掻き立てられた。そう、最初はただの興味本位だったのだ。
 孤爪くんは休み時間になるとよくゲームをしていたし、周りに対して自分から進んで話しかけるタイプでもない。わたしが一方的に話してみたいと思ってもそんな機会が訪れることなく時間だけが過ぎていた。ふたりの距離がぐんと縮まるきっかけになったのは、梅雨の真っ只中、孤爪くんが雨に濡れた髪を鬱陶しそうに一つに束ねた日に行われた席替えだった。わたしは運良く孤爪くんの隣の席を引き当てたのだ。
 どことなくアンニュイな雰囲気でしとしとと降る雨を窓際から眺めている彼は、しょうもないことでうるさく騒ぎ立てる同い年の男の子よりもずっと大人びて見えた。でも孤爪くんにとってみれば、きっとわたしも彼らと同類だったのだろうと思う。
 しつこく話しかけては迷惑そうに視線を逸らされ、「うん」とか「そうだね」とか無難な答えしか返してくれない彼に躍起になってちょっかいをかけた。わざと教科書を忘れてみたり、孤爪くんの足元に消しゴムを落としてみたり。何かと毎日忘れ物をしたり物を落としたりすることが1週間ほど続くとさすがに彼も怪訝そうな顔をしてわたしと目を合わせた。
 やっと、だ。孤爪くんの顔を真正面から見たのはこれが初めてのことだった。

さん、わざとやってる?」

 咎めるような顔つきでわたしに消しゴムを差し出した彼のゆびさきに、ほんの少し自分のものを触れさせた。冷たいとばかり思っていたのに意外とあたたかくて、離すのが惜しくなる温度だった。だけど彼の方から呆気なく離されしまい、ぼうっとその行動を見てるとどうしようもなく困らせたくなったのだ。

「うん。だってわたし、孤爪くんともっと話したくて」

 黒板に向き直ろうとしていた彼がゆっくりこちらに顔を向けて、ふたたびわたしをまっすぐ見た。釣り上がり気味の猫みたいな目をパチクリさせて、わたしが彼の次の言葉を待って視線をそらさずにいるのを認識すると、口元をふっと綻ばせて面白いものでも見つけたように目を細めた。

「物好きだね」

 高校に入学して今の今まで孤爪くんの笑った顔なんて見たことなかったから思わず「あ」と声が漏れ出した。自分ではひそひそ話の延長線くらいのつもりだったのに、思ったよりも大きな声が出ていたみたいで先生に名指しされてしまった。困らせるつもりが逆に困らされてしまって、してやられた気分になる。仕返しでもしようかと隣を見れば、伏せられた顔に未だ笑顔の名残があったから、何だか胸がいっぱいになって押し黙るしかできなかった。
 そんな孤爪くんがバレー部だと知ったのはそれから間もない頃だった。クロ先輩の応援に行きたいと言った友人についてゆけば、孤爪くんがコート上にいて、わたしは驚いて一瞬だけ息をすることを忘れてしまった。それからはもう孤爪くんしか視界に入らない。試合が始まる前までは「ちゃんと動けるかな」とか「腕折れないかな」とか余計な心配をしていたのに、いざ試合が始まるとそのしなやかな動きが、繊細なゆびさきが、わたしの視線をひとりじめにした。
 あのゆびさきとわたしのゆびさきが触れたのだと思うと、そこが熱を持って全身を駆け巡った。頭の芯がおぼつかなくなってしまう程、普段の孤爪くんとバレーをしているときの孤爪くんのギャップがわたしを惹きつけてやまなかった。
 また、触れたい。触れられたい。そう思ってしまったわたしは孤爪くんの足元に物を落とすことはやめなかった。彼はわたしの消しゴムやシャーペンを拾う度にさらさらとした絹糸のような髪を耳にかけて、大げさにため息をついた。

「話したいなら普通に話しかけてくれたらいいよ」

 めんどくさそうに頬杖をついてこちらを見る孤爪くんの虹彩に口元をひき結んで頬を桃色に染めるわたしが映っている。
 ちがう、ちがうの。もっと触れたいの。
 そんなことは言えない。言える訳がないのだ。わたしと孤爪くんはただのクラスメイト。いくらわたしと視線を合わせるようになったって、ふたりの距離がほんの少し縮んだって、わたしたちはまだ、お互いの熱を確かめてもいい間柄じゃない。
 だけど、わたしはどんどん欲張りになってゆく。
 雨だからという理由で男女合同で体育を行った日のこと。男の子がバスケをやっていたコートの外で三角座りをしておしゃべりに夢中になっていたから、わたしはボールがこちらに飛んできていることに全く気づいていなかった。誰かの「危ない!」という声でそちらを向けば、もうすでに眼前にボールが迫っていて、対処が遅れて目を閉じるしか出来ずにいた。だけど待てども待てども衝撃と痛みが襲ってこず、うっすらと目を開けると腕を少し赤くした孤爪くんが立っていて、怒ったように眉間にしわを寄せわたしを見下ろしていた。

「よそ見しないで、危ないから」

 ごくりと唾を飲み込んで孤爪くんを見つめた。「普通大丈夫かって声かけない?」とプリプリしていた友人もいたけれど、わたしは知っている。これは彼なりの優しさだった。だって、試合に出てもいないのにちょっぴり息を乱して、額に汗が滲んでいる。わたしを庇ってくれたのだと思うと胸がじんわり熱くなって、目尻に熱が集まって水気が増す。
 嬉しい。だけど、悔しい。そんな格好いいところはわたしだけが知っていればいい。皆に知られてしまうとわたしだけの格好いい孤爪くんじゃなくなっちゃう。だってほら、もう周りの女の子が「孤爪くん、なかなかやるね」って騒いでいる。
 わたしは俯いて唇を噛み締めた。か細い声で「ごめんね」と呟いたわたしに孤爪くんは「うん」とだけ返事をして元いた場所へ戻っていった。
 きゅうっと胸が締めつけられて、脈が乱れて。体が熱くて、息苦しくて。早く息つぎをしなくちゃ、と思うわたしは孤爪くんに恋をしていた。
 夏の名残も感じられなくなり衣替えが行われると、放課後は学祭の準備に追われるようになった。せっかくカッターシャツ越しに少しずつ筋肉がついてたくましくなる孤爪くんの姿を見ていたのに、ベストに隠れてしまって残念だと思った。
 席替えをしてから話す機会が減り、わたしは焦っていた。学祭の準備をするときは、さり気なくを装って彼の隣を陣取り、彼が腕まくりすると発展途上の男の子の腕にどきどきと胸を高鳴らせた。
 触れ合わずとも体温を感じられる距離なのに触れることはできなくて、その関係がもどかしかったわたしは賭けにでた。学祭の後夜祭で、花火で賑わう校庭を後に自分の教室に足を向けた。大勢の輪の中に入るのが苦手な彼のことだから静かな教室で過ごしているのでは、という考えがあったからだ。そこに彼がいたら言おう、と覚悟を決めた。
 リノリウムの床と靴底がキュと擦れるたびに心臓が口から飛び出そうになる。震える手で扉を開けると窓際に影が見え、わたしが現れたことに驚いたのかびくりと体を揺らしながらその影はこちらを向いた。

さん?」

 逆光で顔はあまりよく見えなかったけど、声と影だけでも孤爪くんだって分かる。それくらいわたしは彼に夢中だった。

「ここに来れば会えると思って」
「おれに?なんで?」
「わたし、孤爪くんに言いたいことがあるの」

 わたしと孤爪くんの瞳と瞳の間に、緊張の糸がぴんと張りつめていた。孤爪くんに観察されていると思った。彼はすでにわたしの気持ちを知っていたのかもしれない。わたしがやっとの思いで告げた好意に、頬を染めることなく、動揺もせずに静かに頷いた。言葉がないことに不安になって、つき合うことになったのに孤爪くんの近くに寄ることが出来ないでいると、彼は「花火いっしょに見る?」と首を傾げた。わたしが勢いよく顔を上下に振ると、短い眉をハの字に曲げて「こっち」とわたしの手を引いた。
 憧れだった孤爪くんのゆびさきがわたしに触れて、わたしと孤爪くんの瞳にひかりがはしって、眩しくて卒倒しそうになった。
 陽が落ちた後のテラスに招かれて、足のあいだを通り抜けた風に思わず身震いする。そんなわたしの腰回りに視線を落とした孤爪くんが教室内に戻って赤いジャージを取ってきたかと思うと、それをわたしの腰に巻いてくれた。添えられた「短くない?」という言葉にはわたしへの「好き」が含まれているのだと、拗ねたように唇を尖らせた孤爪くんを見て、わたしはそう思った。
 つき合い始めてからも孤爪くんはあまりわたしに対してあからさまに「好き」という感情を表してくれなかった。だからわたしは自分の誕生日に「わたしの好きなところ」をねだった。

「ころころ表情が変わるところ」
「どんな顔見せてくれるんだろって思う」

 どうせ適当にあしらわれるのだと思っていたのに、目も合わさずに最後は小声になりながらも教えてくれた孤爪くんのことをどうしようもなく好きだと思った。
 変化が訪れたのは2年生に進級してゴールデンウィークを過ぎたあたりからだと思う。わたしにだけ向けられていたはずの、孤爪くんのわくわくしたような顔はわたしだけのものじゃなくなった。「ショーヨー」と呼ばれる子の話をするときは、新しく発売されたゲームをするときの顔によく似ていた。正直わたしは面白くないと思った。見たことも会ったこともない男の子を相手にわたしは嫉妬と憧れの感情を抱いて、孤爪くん以外に夢中になれない自分が置いていかれるような気がして無性にさみしかった。
 それから見せかけの姿を纏うようになった。いつしか「好き」を言わなくなって、わがままを飲み込むようになって、ありのままの自分を覆い隠してしまった。本当はきっと気づかれているのだと思う。わたしをじっと見つめる猫のような彼のふたつの双眸は、なにもかもを見透かすように静かだった。はじめからそうだった。孤爪くんはいつもわたしを受け入れてくれていた。





 わたしの言葉を皮切りに始まった行為は、普段の態度からは考えられないくらい甘ったるく、堕落してしまいそうな程に夢中にさせた。からだを桃色に染めて、もつれ合うように肌を合わせて。終われば離ればなれ、好き勝手に時間をつぶす。
 だけどそれはわたしが仕掛けた結果だ。
 わたしが齧ったじゅくじゅくとした水蜜桃を「孤爪くんも食べる?」と挑戦状のように差し出して、噛んだ跡が重なれば「暇だね」と言ってけしかけて。
 わたしが普段彼のファーストネームを呼ばないのだって、ここぞというときに取っておきたかったからだ。わたしをだめにしてしまうような、行為の最中で。とろけそうな心地の中、「研磨」と呼ぶ。
 わたしはいつだって彼に攻略されないために必死だった。本当は、終わったあとは抱きしめて好きだと言って欲しいし、とりとめもない会話をしてふたりで笑いたかった。でもわたしはそれが言えなかった。
 わたしたちの関係は、もう、はじまったときとは違う。純粋だったはずの「好き」は、駆け引きをしないと保てない。
 ほら、あんなに新鮮でみずみずしかったはずの感情が黒く変色して、じわじわと蝕まれて、そこに置かれたままの水蜜桃みたいでしょう?
 でも満たされないからため息が漏れる。そしたら虚しくなって目蓋が熱くなって涙がせり上がってくる。我慢しようとしたら肩が震えて、このままじゃ孤爪くんに気づかれてうんざりされてしまう。そう思うとなおさら止めれなくなって、シーツを頭のてっぺんまで引き上げて全身を覆い隠した。
 孤爪くんがもぞもぞと動く気配がする。泣いているのがばれないように胎児みたいに丸まると、シーツの上から背骨をなぞるように温かな手のひらで撫でられた。涙腺を溶かしてしまうような優しい手つきに、わたしの涙はとどまることなく流れてゆく。

「ねえ、。言いたいことがあるならちゃんと言って」

 孤爪くんの口調は少し怒っているみたいだった。わたしに対して感情を露わにすることがほとんどない彼がこういう態度を取るとき、わたしはちょっぴり嬉しくなってしまう。わたしの行動が彼の感情を揺さぶっているんだって。わたしのことちゃんと好きなんだって。そう、思わせてくれるから。

「なにも、ないよ」

 隠れているから見えないだろうけど、微かに首を横に振る。孤爪くんが息を吐く空気の振動を感じて、呆れられたのだと思いぎゅっとかたく目を閉じれば、そうっとシーツが捲られて直に背中に触れられた。放って置かれるものだと思っていたので驚いて背筋を伸ばすと、孤爪くんは遠慮がちにわたしを抱きしめて、首元に顔を埋めた。

「でも、さいきん変」
「変、かな?」
「うん。、いつも苦しそうに見える」

 心が切り裂かれるような心地がした。たぶん、今、わたし苦しい顔をしている。
 孤爪くんのゆびさきがわたしの頬に触れて涙のあとをなぞってゆく。それから顎を掴まれ、ちょっぴり強引に顔を彼の方に向かされる。いつも優しい孤爪くんの虹彩が、ときたま捕食者みたいに獰猛にひかることがある。わたしはそれがたまらなく好きだった。これから何をされるのだろうという期待が全身を駆け巡って、ぜんぶ委ねてしまいたくなる。

「ごめんね。わたし、欲張りでわがままだ」
「いいよ、別に。おれも似たようなものだし」
「口下手だし、ヤキモチ焼きだし」
ってめんどくさい」

 そう呟いて猫みたいに目を細め、眉間にしわを寄せた孤爪くんは秘密を明かすように舌でわたしの唇をこじ開ける。わたしが身に纏っていた「わたし」を脱ぎ捨てて、ありのままの姿をさらけ出させるような。めんどくさいって冷たい言葉とは裏腹にひどく優しい行為だった。

「今、キスするとこだった?」

 話はまだ宙ぶらりんのままなのに。
 息継ぎの隙間から絞るように掠れた声を出せば孤爪くんは思案するように視線を流したあと、自身の前髪を耳にかけ、ラスボスを倒す前みたいにほんのちょっぴり口角をあげた。

「だってキスしてた方がよっぽどの本音がわかるし」

 そうしてわたしは再び息をするための器官を塞がれて、水面に手を伸ばすみたいに孤爪くんの首に腕を回すはめになる。くしゃくしゃとシーツに皺が刻まれていく音が敏感になった鼓膜を震わせてお腹の底が疼きだした。
 孤爪くんははじめからそうだった。わたしのわがままも、嫉妬も、憧れも。「好き」という感情をぜんぶまるごと受け入れて、静寂で包むようにわたしを見つめていた。
 わたしはずっと孤爪くんの一番でいたい。わたしはずっと飽きられたくない。だから強がって、偽って、「わたし」という服を着る。臆病なわたしが見出した彼との正しい時間だった。
 だってそれは、ただふつうのこと。それなのにこんなにも心が揺さぶられるのはどうしてだろう。その理由を、本当はもう知っている。




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