ダンスホールに角砂糖ひとつ

 夏の名残をかき消すような、からりとした風がプリーツスカートを揺らす。わたしははためくスカートを押さえつけながら、バスに乗り込むために大きな一歩を踏み出した。
 席順は決まっていない。みんな適当に仲が良い友達と隣り合って座っている。わたしはというと、いつものメンバーとじゃんけんをした結果あふれてしまい、空いている席を探していた。
 通路を歩いていると座席からひょこっと頭が見えている月島を発見した。ちゃっかりと窓際を陣取って、頬杖をついて外を眺めている。肩からヘッドホンをかけていて、移動中は誰とも喋らないつもりなのだろう。くるりと周りを見渡せば、彼といつも一緒にいる山口くんはすでに他のクラスメイトとお喋りを始めていた。ぐっと背伸びして月島の隣を確認すると運良く誰も座っていない。天はわたしに味方している。
 そろそろと月島に近づいて静かに腰かける。座席が軋んでぎしりと音を立てると同時に月島はこちらに顔を向けた。嫌そうでもないが嬉しそうでもない。端的に言えば、無表情である。

「ヤッホー、隣いい?」
「いいけど、静かにしてよね」

 面倒臭そうにため息をついた月島は、また窓の外に向いてしまった。少しくらい話をしてくれるかも、と多少期待したものの、概ね予想通りである。
 全員がバスに乗り込み、担任が注意事項を話し始めると、バスのエンジンがブルンとかかる。担任の話に耳を傾けながら横目でちらりと月島を見ると、既にヘッドホンを耳にかけようとしていた。
 バスの速度が速くなると、それに比例するようにクラスメイトたちのおしゃべりに花が咲いた。だけど、わたしと月島の席だけは沈黙が流れていた。わたしは月島の言いつけを守ってじっと黙っている。
 流れゆく景色をぼんやり眺めていると、隣に座る月島が自然と目に入った。ゆっくりと睫毛をまたたかせ、今にも寝入ってしまいそうだった。
 それにしても月島の隣は心臓に悪い。自ら進んで座ったものの、体の内側がうるさく脈打っていて、体じゅうが火照っている。熱を冷まそうと手のひらですっぽりと頬を覆って目を閉じる。だけど、視覚以外の感覚が研ぎ澄まされてしまって、月島の匂いだとか体温だとか、意識がそちらの方へ向いて落ち着かない。
 月島の息がゆっくりとした深い寝息に変わる。ヘッドホンからほんの少し音が漏れているけれど、何を聞いているか確かめられる大きさではなかった。力の抜けた膝がこつんとわたしの膝にぶつかって、心臓がびくんと跳ね上がる。ちらりと横目で月島を見ると、本当に寝てしまったみたいでわたしに触れてることに気づいていない。
 どきどきしながらわたしも自分の膝で月島の膝を軽く押し返す。先程よりも触れている面積が増えて伝わる体温が増す。
 どうしよう。どきどきどきどき忙しなく動く心臓は、自分のものじゃないみたいだ。
 このままわたしも寝てしまったことにして、月島にもたれかかってしまいたい。
 そんな欲と葛藤していると、バスが緩やかなカーブにさしかかった。遠心力が働いて体が傾きそうになるのをひじ掛けを握りしめて耐えていると、月島の体がずるずるとこちら側に倒れてくる。
 一瞬、月島の体を押し戻すという考えが頭を過ぎったけれど、この状況を利用しないのは勿体ないと思い直す。わたしからすれば願ったり叶ったりの状況だ。このまま自然の摂理に任せてしまっても誰も文句は言うまい。
 欲に負けて何もせず、ただただゆっくりと倒れてくる月島を受け止める。ずしりと腕に月島の体重がのしかかって、こつんと頭と頭がぶつかった。
 わたしから彼の表情は見えないけれど、相変わらず規則正しく胸が上下しているので寝続けているのだと思う。触ってくれとばかりにわたしの手のそばに落ちてきた彼の手のひらをゆびさきでつんと突つく。身じろぎひとつない。ゆびのつけ根の皮をつまむ。呼吸ひとつ乱れない。
 相当疲れているのだろう 。月島がこうやって他人に警戒心を解くのはかなり珍しい。
 だからこそ、魔が差してしまったのだ。
 ひとさし指で月島の手の甲をそうっとなぞる。まずは横に一本線。一旦ゆびを離し、耳を澄ませ、肌の感覚を研ぎ澄ます。月島の様子を窺ってみたけれど、何の変化も見られない。再びひとさし指で、次は縦に線を引く。途中、くるりと円を描いて、完成したのは『す』の文字。
 心臓が暴れている。手に汗が滲んでいる。いつもいつも胸に秘めている想いを一文字だけ吐き出してしまった。たった二角しかないこの文字を形にしただけでこんな風に鼓動が乱れるのに、面と向かって口にしてしまえば一体どうなってしまうんだろう。
 そんな状況にも関わらず、一度飛び出してしまった想いは、とめどなく溢れてしまうらしい。
 月島が起きていないのを確認して、またひとさし指で文字を綴る。今度は恐る恐るじゃない。溢れ出して止まらない想いをひとつも零さないように丁寧に文字を綴る。そうして完成したのは『き』の文字。
 わたしの胸にひっそりと住んでいた想いが月島の手の甲で踊ってるみたい。飛んだり跳ねたり、回ってみたり。それでも月島は眠っている。
 不思議だな。形にすれば少し楽になると思っていたけれど、胸をきゅうきゅうと締めつける想いはちっとも減ってくれないし、むしろ増え続けてすでに容量オーバー気味なのだ。
 もっともっと触れたくなってゆびを絡めたくなる衝動が湧いて出る。でも、何とか抑えて軽く腕を組む。そんなことして気づかれて、気持ち悪がられて嫌われるなんて、想像しただけで泣けてくる。
 バスの時計を見れば、出発してから小一時間ほど経っている。そろそろ目的地に着くだろう。そう思ったところに担任がマイクを持ってその旨を告げ始めた。
 駐車場に入るためにブレーキの回数が多くなると、わたしにかかっていた重みがふっと軽くなった。見上げると、ヘッドホンを外した月島が苦虫を噛み潰したような険しい顔でわたしを見ていたので思わず眉間に力が入る。

「何よ、その顔」
「別に。悪かったなって思ってるだけ」
「悪いと思ってる顔じゃないけど」
「ごめんって」

 月島がこうやって素直に謝罪を口にすることが未だかつてあっただろうか。寄りかかって寝てたことに多少罪悪感を持ってくれているのだろうけど、わたしはその状況を喜んで受け入れていたので謝らないでほしい。

「いいよ。疲れてたんでしょ?」
「まあ」

 まだ眠そうな月島があくびを噛みしめたところでバスが完全に動きを止めた。ああ、着いてしまった。月島の隣で過ごす時間に終了の笛が鳴る。
 ワイワイと騒ぎながらバスから降りるクラスメイトたちの後を何食わぬ顔をしてついてゆく。ちらりと月島を振り向くと、彼も平然とした顔で山口くんと話をしていた。
 ちょっぴり悔しい。わたしと触れていたことに少しくらい動揺してくれていたらわたしだって自信が持てるのに。月島はそんな素振りいつだって見せないから、それが彼らしくて、好きで好きで憎らしい。



 お弁当を食べ終えて自由行動が始まるとそれからは早かった。あっという間に集合時間になってしまい、帰りのバスに乗り込む。
 一緒に座ろうと誘ってくれた友達に訳を話して、一縷の望みに賭けた。案の定月島はまた一人で座っている。

「隣いいですか?」
「別にいいけど、君、友達いないの?」
「いますけど! そういう月島も人のこと言えないんじゃない?」
「僕はわざとだから」

 月島は吸い込んだ空気を思いっきり吐き出した。自分が突っかかってきたくせに、相手にするのが面倒臭いという気持ちがありありと見えて腹が立つ。腹が立つから相手にして欲しくてこっちも意地になる。

「今度は窓際座りたい」
「何言ってんの? 早い者勝ちでしょ」

 小馬鹿にしたように口角を上げる月島にむっとして唇を噛む。どうにかして言い負かせたい。言葉を探しながら月島を見つめ続けていると、にやりと嫌な笑みを浮かべた月島が自分の足の間を指差した。

「じゃあここ座る?」

 ぼっと顔から湯気が出るくらいに真っ赤になる。からかわれているのは分かる。だけど、そこに座ることを想像しては体が火照って体温の調節がきかなくなる。

「……遠慮しときます」

 諦めて通路側に腰を下ろすと、月島は満足気に窓の外に顔を向けた。
 またお互い無言の時間が流れる。行きと同じようにヘッドホンをつけてしまった月島に話しかけることなんて出来ず、せっかくの隣同士なのに全く活かせなくて思わずため息が出る。
 背もたれに体重を預けてぼんやり窓の外を眺める。行きのバスより静かだ。みんなはしゃいで疲れたのだろう。所々から寝息が聞こえ、時々誰かがいびきをかいてはくすくすと押し殺したような笑い声が聞こえる。
 わたしもちょうどお昼に食べたものの消化が始まったようで眠くなる。目蓋が重くて、自分でも船を漕いでいるのが分かる。そしてうつらうつら夢の中にいざなわれてゆく。
 行きのバスだ。月島の手の甲をゆびでなぞっていると頭上から「勝手に触らないでくれる?」と怒気のこもった低い声が降ってくる。わたしは泣きそうになりながら必死に謝っている。
 だけど不思議なことに、「嫌わないで」と縋りながらも、意識の奥深いところで夢なんだろうという自覚があった。遠ざかる月島の背中がぼんやりと輪郭を失って、視界がゆらゆら揺れる。
 体があったかくてぽかぽかする。あんな夢見てたのに、何故か安心するような温度が全身を包んでいる。
 ゆっくり目蓋を持ち上げると頭上からは「起きた?」と言う声が。
 え、ちょっと待って!
 月島の声にカっと覚醒し、自分の頭が月島の肩に乗っていたことに気がつくと、ずささっと音が立つくらい勢いよく距離を取る。

「ご、ご、ご、ごめん」
「いいよ別に。僕も行きのバスでもたれかかってたし」

 口でそう言っても実は般若のような顔をしてるのではと思い、恐る恐る月島の顔を覗き込むと本当に怒ってないみたいでほっと胸をなで下ろす。

「それよりどんな夢見てたの?」
「え?」
「僕にすごい謝ってたから」

 寝言を聞かれてたことが恥ずかしいのと夢の内容を思い出したことで全身の血が沸騰しそうになる。
 そんなこと言えるわけないじゃないか。だんまりを決め込んで月島から目をそらせ、座席に座り直す。だけど月島はわたしをじっと見据えたまま動かない。

「今なら話聞けるけど」

 言葉の意味が分からず首を傾げながら月島を見ると、不敵に微笑んでいて、胸がざわざわと落ち着かない。

「僕に言わなくちゃいけないことあるでしょ」

 考えたところで何もない。月島の手の甲に文字を綴ったことも、月島への秘めた想いも、口にするつもりなんてさらさらないのだから。

「もたれかかってごめんなさい?」

 首を傾げたまま謝れば「そうじゃなくて」と少し苛立ったように足を組んで少しだけわたしの方に体を向けた。

「ここに何書いた?」

 月島は自分の手の甲を指差しながら視線だけでわたしを射抜いた。全身の血の気が引く。気づかれていた。耳のすぐ近くで心臓が動いてるみたいに、やたら近くでどくどくと音が聞こえる。

「ほら、今なら誰にも気づかれないから」

 通路からちょっと顔を出せば半数以上のクラスメイトがうつらうつらしている。でもだからってこんなところで言えるわけがない。

「なんのこと?」
「とぼけたって無駄」

 だったらどうして気づいたそのときに言ってくれなかったのか。この様子だと、もう、きっと、手の甲に書いた文字のことは気づかれているんだろう。だんまりを決め込んだって、それはつまり、何かしましたと言っていることと同義なのだから。

「今さっさと言ってくれたら僕も君のことどう思ってるか教えてあげるけど」

 その言葉に簡単に心が揺れる。こくりと唾を飲み込んで月島を見ると、意外にも優しく眉を垂らしていた。頬が熱を持つ。両手を太ももの上できゅっと握りしめる。月島が教えてくれるんなら……と意を決して口を開く。唇が震えている。

「……す、き」

 俯き加減で消え入りそうな声で呟く。でもしっかりと聞こえていたようで、よく出来ましたと言わんばかりに前髪をくしゃりと撫でられた。でも恥ずかしくて月島が見れない。一体どんな顔でわたしを見ているんだろう。
 俯いたままでいると、ふぅっと呆れたような小さな溜息が降ってくる。ポケットに手を突っ込んだ月島が可愛い包み紙のキャンディを手のひらに乗せて差し出してきた。

「はい、ご褒美」
「ありがと」

 素直に受け取って口に放り込むと、甘酸っぱいりんご味が広がった。ころころと舌の上で転がして気持ちを落ち着けていると、ふっと月島が笑ったので驚いてそちらを向いた。

「僕の気持ち聞くより飴の方がいいんだ」
「ち、違う違う! 聞きたいよ!」

 慌てて制服の袖を掴んだけれど、月島は意地悪く笑いながら「いいよ、別に。僕は飴に負けたんだし」と窓の方に向こうとする。

「だめだめ! 教えてよ!」

 興奮して声が大きくなってしまった。はっとして口元を押さえると呆れ返った月島が深く息を吐き出して「手だして」と言った。素直に手を差し出すと、そっと彼の手が添えられて、そこから月島の体温が全身を駆け巡る。月島のゆびさきがわたしの手のひらをなぞって、ぶわりと肌が粟立つ。

「ば、か……?」
「これで僕がどう思ってるか分かったでしょ」

 こんなことするもんだから、てっきり同じ気持ちだと思ってた。ショックが大きくて、通路側のひじ掛けにもたれかかり、拗ねたように唇を尖らせる。「どうせわたしは馬鹿ですよ」とたらたら不満をたれていると、あることにふと気がついた。

「もしかして寝たふりしてた?」

 月島を見ると、やっと気づいたのかと言いたげに目を細め肩をすくめた。

「だから馬鹿だって言ってんの」
「馬鹿だって言う方が馬鹿なんです」
「そうかもね。そんな君を好きなんだから僕も相当馬鹿なんだろうね」

 文句を言っていた口が思わず止まり、みるみるうちに体が熱を持つ。開いた口が塞がらない。月島はそんなわたしを見て体を震わせながら窓の方に顔を向けた。
 何も言えない。ひとしきり笑い終えた月島が優しく口角を上げたのが窓に反射して見えてなおさら言葉が出てこない。
 彼にもらったりんご味の飴が口の中で溶けてゆく。輪郭をなくして小さくなって。密やかに手をつないだわたし達みたいに甘酸っぱい香りを放っている。



20190506発行『十二粒のスパンコール(9月 遠足)』より再録