神さまはあなたがいい

  まなうらに差し込む光がいつのまにかたっぷりと量を増していてとても眩しい。タオルケットを頭のてっぺんまで持ち上げてうっすら目を開けると、白いカーテンが陽の光を濾過するように柔らかく透けているのが見えて、また目を細めた。
 無意識に手を伸ばして隣の温度を確かめたけれど、体温はすっかり消えてしまっている。周りを見渡してみてもこの部屋の主の姿はどこにもない。こんなに早く一体どこに行ったんだろう。ベッドの下に転がっている目覚まし時計を手さぐりで拾い上げて見てみれば、時刻はすでに十時を回っていた。どうやら早い、という時間でもないようだ。
 そろそろ起きようかとぐーっと大きく伸びをする。そこへバタンと玄関の扉が閉まる音とただいまの声。足音がペタペタとこちらの方へ近づいてくる。なんにも悪いことはしていないけれど、何故か反射的に寝ているふりをすることに決めて再びゆるくまぶたを閉じた。

ー、起きたか?」

  洸太郎の声が近くで聞こえる。煙草の匂いが強くなって、閉じたまぶたの裏で洸太郎がわたしを覗き込んでいるのが分かる。洸太郎は、わたしの息がまだ深いことを確認するように遠慮がちに胸元に手を添えた。
  少し前のわたしなら心臓のドキドキが隠せなくて起きていることがすぐにバレてしまっていただろう。でも、今ではもうすっかり慣れてしまった。洸太郎はわたしより早く起きるとその度にわたしにこうやって触れる。まるでわたしが生きているのを確認するみたいに。だいじなものの存在を確かめるみたいに。あたたかくて大きな手のひらがわたしの胸元で上下するのを感じると、心地よくって嬉しくなって、わたしも生きているよと応えるように静かに深い息を繰り返した。

「ったく、いつまで寝るんだか」

 呆れたように大きく息を吐いた洸太郎はベッドの縁に手をついてゆっくりと立ち上がった。ぎしりとスプリングのきしむ音と、何かラッピングされたものがかさりと揺れる音。煙草の匂いに混じって蜜のような誘われる甘さが漂っている。洸太郎に似つかわしくない香りにそわそわと落ち着かなくなって、すんすんと鼻を鳴らしながら目を開けた。
 くるりと洸太郎の方へ向きを変えると彼はすでにわたしに背を向けてクローゼットを開けていた。何も身に纏っていない体にタオルケットを巻きつけて、音を立てないようにそうっとフローリングにつま先を落とす。そろそろと彼の背後に忍び寄る間にも、洸太郎は着々と甘い香りのする何かをクローゼットの奥に隠している。
 うんと背伸びをして彼の肩口から覗こうにも何も見えない。屈んで彼の脇から覗こうにも何も見えない。こそこそ隠しているものが何なのか知ることが出来ないまま、クローゼットの扉がそっと閉められてゆく。

「これでよし」
「何が、よし、なの?」
「うおっ!?︎」

  洸太郎の肩が大げさなくらいびくりと跳ね上がって、見てるこっちもびくりと震えた。わたしを起こさないよう気を遣っていたのだろうか。だけど音を立てないように閉められていた扉は、最後の最後にバタンと大きな音を立てて甘い香りを遮断してしまった。

「起きてるならそう言えよ」
「だって、なんかこそこそしてるから気になっちゃって」
「なんでもねえよ。おら、さっさと飯食うぞ」

 がしがしと頭を掻いた洸太郎は、顎先でくいっとキッチンの方を指し示した。起きたばかりで確かに空腹だ。甘い香りに気を取られて気づかなかったけれど、キッチンの方から野菜が溶け込んでいるようなスープの優しい匂いがしている。そのせいで、お腹が食べさせろと言わんばかりに暴れて、大きな音をぐーっと鳴らした。

「腹減ってんじゃねえか。行くぞ」
「うん……」

 洸太郎は両手をポケットに突っ込んで、口の端をにやりと上げた。わたしはお腹をさすりながら洸太郎とクローゼットを交互に見た。この中に洸太郎が隠したいものが入っていることは確実だ。
 足取りの重いわたしに我慢ならなくなったのか、洸太郎はちいさく息を吐いてわたしの手首を軽く引いた。余裕そうな素振りを見せながらも、わたしの興味をどうにかこうにかクローゼットから引き離したいらしい。

「そんなに見たってなんも出てこねえって」
「うん。じゃあ、とりあえず何か着るから先にそっち行っててよ」

 そう言えば、洸太郎はわたしのむき出しの首もとに視線を落とした。そこで初めて、わたしの姿がタオルケットを適当に巻いたままの姿だと認識したみたいで「べつにそのままでもいいんじゃねえの」とわたしの胸のふくらみに大きな手のひらを無遠慮に添えた。

「ばーか、ばかばか!」
「わりぃわりぃ、手がすべっちまった。んじゃ、先にパンでも焼いてくるわ」

 添えられた手をぱしりと弾けば、明らかに悪いとは思っていない楽しげな声で洸太郎は笑った。細められた目にいたずら好きの少年のようなあどけなさが滲んでいる。大人のふりした可愛いひと。こんな馬鹿みたいなところも好きだなあと胸がいっぱいになって胸元のタオルケットをきゅっと握りしめると、洸太郎は、早く来いよ、とキッチンに消えていった。それを最後まできっちり確認して、わたしはまたクローゼットに向き直る。
 なんでもないとは言われたけど、開けるなとは言われていない。こくりと唾を飲み込んでクローゼットの取っ手に手をかけ、息をひそめてそろそろと扉を開ける。心臓が忙しなく動いている。洸太郎に限ってやましいことは何もないと思うけれど、こうも隠されると嫌な考えが頭をよぎってしまう。他の女の子からもらったものかもしれないし、他の女の子にあげるものかもしれない。
 キッチンのトースターがチンと音を立てて、香ばしい匂いが漂い始めた。早くしないと洸太郎が呼びに来ちゃう。
 意を決して扉を大きく開く。ぱっと見たかんじはいつものクローゼットと変わりない。けれど、深く息を吸い込めば華やかな香りが鼻腔をくすぐる。その香りの正体を確かめようと一歩踏み出したその瞬間。

「こら! 来ねえと思ったら何してんだ」
「ひゃっ!」

 洗ってすぐなのか、ひんやり冷たい手のひらで首根っこを掴まれて、びくりと肩が跳ね上がる。勝手に見ようとしたから眉を吊り上げて怒っているかもしれない。恐る恐る洸太郎の方に顔を向ければ、何故か照れたように頭を掻いていて、こっそり胸をなでおろした。

「見た?」
「何を?」
「見えなかったのならいい」

 洸太郎はわたしをクローゼットから引っぺがして扉を閉めようとした。だけど、わたしは中が気になって気になって仕方がないのだ。洸太郎の手に自分の手を重ねて、全身を使って抵抗する。

「絶対何かあるでしょ! 見せてよ!」
「見せる見せる! でも今じゃねえんだよ!」
「今! 今見たいの!」

 クローゼットの扉は開いたり閉まったり忙しそうだ。お互い一歩も引かないのでギシギシと迷惑そうに文句を言っているようにも聞こえてくる。
 こうなったら泣き落としだ。扉を開けると見せかけて洸太郎の腕に絡みつく。そしたら、わたしの行動が予想外だったみたいで洸太郎は素っ頓狂な声をあげてバランスを崩し、慌ててわたしを抱きとめた。心なしかいつもより煙草の匂いがきついような気がして、胸の奥がざわざわと落ち着かない。

「あっぶねえな! 急にはやめろ!」
「だってぇ……洸太郎が見せてくれないからぁ……」

 ぐすんぐすんと鼻をすすれば洸太郎は盛大なため息をついた。しめしめと思ったのも束の間。片手で頬を掴まれたせいで唇がひょっとこみたいに突き出てうまく喋れない。

「嘘泣きなのバレてんぞ」
「いひゃいれす、やめてくらひゃい……」

 ドンドンと胸元を叩けば、呆れた風に肩を落とした後、素直にわたしを解放した。あーくそ、と悪態をつきながらクローゼットの扉を閉めた洸太郎はやっぱり中身を見せてくれない。飯が冷めるから、とわたしをここから引き離そうとする。洸太郎が作ってくれたご飯はもちろん食べたい。でも、今日はそれよりも、洸太郎がここまでして隠しているものの正体を突き止めないと気が済まないのだ。
  てこでも動かないわたしを見た洸太郎は、頭をがしがしと掻きながら何回目になるか分からないため息を大きくはあーっと吐きだした。

「ったく、もっと格好つけて渡すつもりだったのに。あとで絶対に文句言うなよ」

 渋々といった様子でわたしに背を向けた洸太郎は、クローゼットを開けて腰を屈めた。なんだかんだいって甘やかすのが上手だから、わたしはついつい我儘になる。だけど、どうしよう。心臓が自分のものじゃないみたいに脈打っている。体を覆うには心もとないタオルケットをぎゅっと握りしめて洸太郎が振り向くのを待っていると、ちらちらと勿体ぶるように視線を寄越してくる。

「なになに? 早くしてよ」
「あー……笑わないって約束してくれるか」

  往生際の悪いやつ。笑うか笑わないかは実際に見てみないと分からないので適当にうんうんと頷くと、やるっきゃねえと呟いた声が微かに鼓膜を揺らした。

「ほら、やるよ。誕生日だろ」
「え」

 気合を入れた洸太郎の手には、オレンジを基調としたダリアの花束が握られている。華やかなのにかわいくて、甘く柔らかな香りを放っている。まるで洸太郎の化身だ。だって、そんなにも目立つ髪色のくせにこんなにも優しい。

「あはは、洸太郎そっくりじゃん」
「おまえ、笑うなっつったろ」

 込み上げる嬉しさを伝えようと思ったら笑い声になってしまうのだから仕方がない。拗ねたようにそっぽを向いて唇を尖らせた洸太郎からそうっと花束を受け取る。
 一体どんな顔をして買いに行ったんだろう。緊張のせいでいつもより多く煙草を吸ったのだろうか。だからいつもより煙草の匂いがきつかったのだろうか。らしくないこと頑張っちゃって、だけど結局詰めが甘くて。この、格好つけられない粗暴で優しい男がどうしようもなくいとおしい。

「ありがとう。すごく嬉しいよ」
「ドウイタシマシテ」

 照れくさそうに片言で返事をした洸太郎は、流れる穏やかな空気にむず痒くなったらしく「飯だ飯、さっさと服着ろよ」と逃げるようにキッチンの方へ向かおうとする。

「服、どうせすぐ脱ぐのに?」

 わたしがそう言うと洸太郎は即座に振り向いた。一瞬目を見開いて驚いた表情を見せたものの、すぐに察してふうんと意味深に口の端を持ち上げた。

「そういうことか」

 それから洸太郎は着ていたTシャツを豪快に脱いで放り投げた。自分で蒔いた種だけれど、その迫力に本能的に後ずさる。

「何逃げてんだよ。おまえが言ったんだろ」
「だって、なんか怖い」

 じりじりと距離を詰められ、逃げようにも太ももがトンとベッドの縁に触れる。ここから先は行き止まりだ。部屋着代わりに巻いていたタオルケットは無残にも崩れて背中が露わになっている。

「残念でしたぁ、おら、上がれ」

 追い詰められてタオルケットの端を掴まれてしまうと、かろうじて隠せていた前面もついに晒されてしまった。何も身に纏っていない状態で花束を持つ姿が滑稽で情けない。誕生日にどうしてこんな醜態をさらすことになったのか。考えても考えてもニワトリが先か卵が先か考えるようなもので、答えにたどり着ける気配はない。
 促されてベッドに乗り上げると、がおーっとタオルケットごと洸太郎が覆い被さってきて、思わず叫び声を上げてしまった。金髪がたてがみみたいに逆立って、まるでライオンだ。

「きゃー!」

  タオルケットに遮断された二人だけの世界。とはいってもロマンチックなものは何もない。洸太郎がわたしのわき腹をこちょこちょとくすぐっては、わたしは必死で洸太郎の腕を押しのけて。やめてやめてときゃあきゃあ言っていると突如として耳たぶを食まれて、きゃん、と子犬のような声が漏れ出した。

「な、なにすん、」
「そろそろ黙れよ」

 黙れって、元はと言えば洸太郎がくすぐってきたのが原因なのに。顎を片手で掴まれて強引に洸太郎の方に向けられる。文句を言いたいけれど、それをぜんぶ飲み干すように唇をこじ開けられると、わたしはもう何も言えなくなってしまう。ほしくてたまらないと主張するような熱の宿る瞳の前じゃあ抗えない。ただ、ひたすらに翻弄されるだけなのだ。
 舌先が煙草の苦味でしびれる。なのに、粘膜が触れあうたびに甘さを増す。それが癖になって抜け出せなくて、夢中になって息をするのももったいなくて。
 たったそれだけで、足のあいだはとろりとした熱を持った。夜に満たされたとばかり思っていた欲が、お腹の底できゅんと疼く。洸太郎の手が容赦なくわたしを暴いて本能をむき出しにする。

「やぁっ、」
「へえ」

 外の明るさが透けたタオルケットの中はすっかり湿り気を帯びている。いやらしい水音が反響して、洸太郎が顔を上げわたしを責め立てるようにゆるりと笑った。
 目は口ほどに物を言うという言葉が行為の最中にも当てはまることを教えてくれたのは洸太郎だった。一瞬でも見逃したくないから目を閉じることをやめた。視線だけで真芯が溶かされる快感を知ってしまったから。
 ぬかるみはすぐに洸太郎のかたちを思い出して中に引き込もうとする。早く早くとせかすように眩しい金髪に手を伸ばして抱え込むと洸太郎は悩ましげな息を吐いた。
 何度も揺さぶられて思考がふやけ、きゅっと丸まったつま先が花束にかさりと触れる。その音にたっぷりと水気を含んだまぶたを持ち上げると、潤んだ視界の端でオレンジのダリアがわたし達の動きに合わせて揺れていた。
  なんて耽美で色めいた世界なんだろう。手放したくない。忘れたくない。生まれてきてよかった。出会えてよかった。大好き。ずっとこのまま繋がっていたい。肌がぶつかるたびに感情が溢れ出てとまらない。伝えたくてたまらない。腕を伸ばしてわたしの胸にうずまる愛しい金色にそっと口づける。世界を終わらせないおまじないみたいに、この世界に祝福を込めて。



20190924 / 大好きなフォロワーさんへ。HAPPY BIRTHDAY!!