爪先に溜まる君

「痛っ」

飛んできたボールをいつもどおりに弾いたはずだった。いつもと違ったのは少し考え事をしていたということ。特に深刻な悩みではない。明日練習試合なのに雨だったら色々めんどくさいなあ、といった至極どうでもいい悩みである。だけど、部活中はそんな些細な雑念も命取りだ。殺人スパイクがありとあらゆるところから飛んでくるのだから。

「大丈夫か?」
「あ、はい。特になにもなさそうです」

先ほど弾いたボールを打ったのは瀬見さんだった。心配してわたしの手を覗きこんでくれたけれど、わたしなんかのためにこの人の時間を割いてしまうのは申し訳ない。大げさに手をグーパーグーパーして見せれば、瀬見さんは安心したように練習に戻ってくれた。だけど、痛い。人さし指と中指を曲げると第二関節あたりにズキズキと鈍い痛みがはしって思わず顔をしかめる。多分突き指だ。無意識にその指を引っ張りそうになっていて、慌てて手を引っ込めた。突き指をしたときは引っ張って処置してはいけない。まずは固定して冷却する。これはバレー部のマネージャーを始めてから学んだこと。
瀬見さんがわたしから充分離れたことを確認すると、救急箱からテープを取り出した。それからコソコソと体育館の隅に移動して壁と向き合う。これで誰にも見つからないはず。伸ばしたテープを切ろうとハサミを手にしたけれど痛みで力が入らない。自分で処置しようにも利き手を負傷してしまい、ハサミでさえもうまく使えない状態だった。もちろんテープをうまく巻けるはずもない。一度巻いたものをびりびりと剥がすと、わたしの口から漏れ出したのは溜息だった。そうこうしている間に仕事がたまっていくので気持ちばかりが焦り、なおさらうまくいかなくなる。こうなれば、何も処置せずに部活に戻るしかない。肩を落として指を撫でながら振り向けば、眼前に広がるのは部員たちの練習風景ではなく何故か黒い物体で。

「おい」
「ひっ……!」

声の主に心当たりがあって情けない声が口から飛び出た。恐る恐る視線を上にずらしていくと、機嫌悪そうに眉間にしわを寄せ、凍てつくような目でわたしを睨む白布くんが立っていた。
その形相に思わず身をこわばらせる。体がひとまわり小さくなってしまった心地がする。突き指してしまった方の手をぎゅっと握りしめ、テープとハサミを白布くんから隠すように胸に押さえつけた。
一体何の用だろうか。訳もわからず固まって見上げていると、白布くんは監督が座っている方へ顔を向け、「、棚の上に手が届かないみたいなんで手伝ってきます」と適当なことを言ってわたしの二の腕を掴んだ。

「し、白布くん。どしたの……?」
「どうしたもこうしたもおまえ突き指しただろ」

何故それを……? 普段冷たい態度をとるくせに、たまにこうやってわたしのこと見てましたみたいなことを言ってのけるから、心臓の動きが馬鹿みたいに速くなる。
白布くんの言葉を肯定すれば誤魔化そうとしたことを咎められ「もっと早く言え」と怒られるだろうし、否定すれば言葉の端の動揺を目敏く拾われ「嘘つくな」と怒られるだろう。どちらにしても白布くんの機嫌を損なうことが目に見えている。とは言っても、もうすでに不機嫌だから、そんなこと思ったって結局どうしようもないのだけれど。
肯定も否定もせず、ただ黙って白布くんにされるがまま腕を引かれていると、バレー部の部室にたどり着いた。苛立ったように乱暴に扉を開けた白布くんがわたしを放り投げるみたいにしてベンチに座らせたので、体重が一気にお尻にのしかかる。鈍痛がはしったお尻をイタタタタと撫でていると、その間に盛大に溜息を吐き出した白布くんがわたしの目の前に跪いて「貸せ」とテープとハサミをわたしの手から奪い去った。

「見せてみろ」

おずおずと突き指した手を差し出せば「どの指かって聞いてんだろ」と地を這うような低い声で怒鳴られ、その剣幕に萎縮してしまう。そんなこと聞かれてないのに、と文句を垂れることも出来ずに素直に突き指した指を指差せば、白布くんは言葉とは裏腹に優しい手つきでわたしの指を撫でた。手入れされた爪先がわたしの指を往復する。まるで宝物に触れるかのようなその仕草に、ダンスパーティーに誘われたお姫様のような気分になった。
白布くんの伏せられた瞳を縁取る色素の薄いまつげと女の子が羨ましがるくらいに綺麗な指先をぼうっと交互に見ながら不思議なものだなと思い返していた。入部当初はこんな風に心配してくれるなんて思いもしなかった。だってわたしと白布くんの出会いは最悪だったのだ。今思い出しても顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。
入学式の日、わたしは心臓が口から飛び出そうなくらいドキドキしていた。クラスメイト達とうまくやっていけるだろうか。授業についていけるだろうか。部活でヘマをしないだろうか。もしかすると恋なんかしちゃったりして、なんて。緊張だけじゃない。これからの高校生活に夢を抱いていた。周りの雰囲気に圧倒されながらも期待に胸を膨らませ、入学式が執り行われる体育館へ足を踏み入れ、自分の出席番号が書かれた椅子へ腰かけた。つもりだった。そう、ここで起こったことは何一つ悪気はない。ただ、わたしは自分で思っている以上にドジで間抜けだったのだ。
座ろうとしたところに、スクールバッグが椅子に引っかかったのでそれを取ろうとした。けれども、中腰のまま力任せに引っ張ったのでわたしの大腿四頭筋(という名称をマネージャーになって初めて知った)が堪えられなかったようでバランスを崩してしまい、ガシャガシャガシャーンと派手な音をたてながらパイプイスごと後ろへ倒れ込んでしまったのだ。
衝撃に備えようと咄嗟に手を伸ばすと体育館の床にしてはやけに柔らかな感触が手のひらに伝わって、閉じてしまっていた目蓋を持ち上げた。するとわたしの手のひらは誰かの太ももの上に乗っていた。謝らなくちゃ。そう思いながら恐る恐る視線を上にずらすと、人一人殺してしまったことがあるのでは、と錯覚しそうなくらいに冷たい目でわたしを見る美少年がいて、先程とおんなじように「おい」と声をかけられた。それから「重いから早くどけ」と二の腕に触れられて、乱暴な言葉とは裏腹にゆっくりと優しく体を起こされた。手を振り払われるとばかり思っていたのに逆に女の子扱いされてしまい、恋愛偏差値の低いわたしが「恋が生まれるのでは?」と少女漫画的思考にとらわれてしまったのは不可抗力だと思う。
つまり、今日あったことはデジャブである。だけど、入学式の日はこれだけでは済まなかった。今思えばここからが白布賢二郎という男の真骨頂だった。

「そんな鈍臭いのによく合格できたな」

大丈夫か、なんて優しい言葉を期待していたわたしもわたしだけれど、自分でも不思議に思っていたことを口にされて何も言えなくなる。
そんなの、自分が一番分かってる。
ぐっと押し黙ってわたしに冷たい目を向ける美少年を泣きそうになりながら見つめていると、止めを刺すかのように「さっさと座れ。邪魔」と言われてしまい、わたしは唇を噛んでパイプイスを元どおりに戻して座るしかなかった。式典の最中も気が気ではなかった。後頭部に刺すような視線を感じては震え上がり、こんな人と一年間同じクラスで過ごすなんて寿命が何年あっても足りないのではないかと考えた程だ。
それなのに入部したバレー部でも一緒になってしまった。お互い顔を見合わせ眉をひそめ、こちらが何とか作り笑いをつくりあげて「これから一緒に頑張ろう」と言おうとしたのに、白布くんは「鈍臭いおまえにマネージャーなんか務まるのか」とまたわたしの心を抉った。
何も言えなかったのが悔しかった。だけど、この人を見返したいと思ったのが
原動力になったのかもしれない。最初はヘマをするわたしを邪険に扱っていた白布くんも、少しずつわたしに出来ることが増えていくと何も言わずにすっと重たい荷物を持ってくれたり、たまに買い出しに付き合ってくれたり、この前なんかアイスまで奢ってくれたのだ。
認められたって思ってもいいのかな。
そんなことをぼんやり考えていたものだからテーピングが巻き終わっていることに全く気づかなかった。ぼーっとしていたわたしの手の甲にパシンと痛みがはしる。

「痛っ」
「ぼーっとしてんなよ。そんなんだから突き指すんだよ」

叩かれた手の甲をさすって腰を上げた白布くんを目で追うと、自分のロッカーの前に立ち、おもむろに扉を開けて何かをガサゴソと探し始めた。その様子を眺めながら「ありがとう」と伝えると、ちらりとわたしを見た白布くんがロッカーの中から取り出したチューブ状の何かをこちらへ投げて寄越した。
それは放物線を描きながらわたしの手の中へストンと落ちる。なんとなくリラックスできるような爽やかな柑橘系の香りがわずかに鼻腔をくすぐる。どこかで嗅いだことある香りだ。不思議に思いながら視線を落とすとハンドクリームが手の中におさまっていた。

「これ、何?」
「見て分かんねえのか」
「分かるけど、そういう意味じゃなくて」
「女なんだからそのガッサガサの手どうにかしろってことだよ」

白布くんはわたしの手を指差しながら面倒臭そうに思いっきり溜息を吐き出した。その言葉にショックを受けつつ自分の手を見ると白布くんの言うとおりガサガサでさらに落ち込んでしまった。この男、やっぱり何かしらわたしの心を抉らないと気が済まないらしい。
手が荒れてしまうのはマネージャーだから仕方ない。水仕事が多いし保湿する暇もない。だけどそんな言い訳がましいこと言えない。気を遣ってる人は気を遣っている。白布くんだって厳しい練習の中でも指先の手入れは怠っていない。わたしよりもきめ細かな滑らかな肌をしているのだ。
肩を落としてうなだれていると呆れたように息を吐き出した白布くんがロッカーの扉を閉めて再びわたしの前に立った。首がもげそうなくらい下げていた頭をやっとこさ持ち上げて彼を見る。特に優しい表情を浮かべているわけでもない。なのに何故かホッとする。白布くんが近づくとマンダリンオレンジの房を口に放り込んだときのような爽やかな香りがほのかに広がった。

「それ、やる」
「え?」
「新しいやつだから気にすんな」

それだけ言うと白布くんはわたしを放ってさっさと部室を出て行ってしまった。それと同時に先ほど感じた香りが遠ざかる。
そこで初めて気がついた。嗅いだことがあるの感じたのは白布くんがこのハンドクリームを使っているからだ。ひょっとすると白布くんもこの香りのリラックス効果にあやかっているのだろうか。キャップを開けてチューブから適量クリームを取る。手のひらに伸ばすと白布くんとおんなじ香りが広がって、なんだか突き指の痛みも忘れてしまいそうになる。しばらくの間、爪先をくんくんと匂って肺いっぱいに香りを満たすと部室を出た。白布くんの隣を歩いているみたい。そんなくすぐったい想いを抱いて、うーんと大きく伸びをした。



ちゃん、賢二郎と同じ匂いがする」
「ひっ!」

部活を終えて片付けているとすれ違い様に天童さんに腕を掴まれ、白布くんとおんなじハンドクリームが塗り広げられた手に鼻を近づけられた。ぎょっとして思わず手を引っ込めると「あはは、ごめーん」と身の潔白を示すように両の手のひらをわたしに向けた。謝ってはいるものの、その笑顔を見れば悪いと思っていないことがよく分かる。パーソナルスペースを保つため少し天童さんから離れると、あろうことか天童さんは白布くんを手招きした。

「賢二郎、おいで」
「何ですか」

どうして呼ばれたのかよく分かっていない白布くんは眉間にしわを寄せ不機嫌極まりない顔でわたしと天童さんを交互に見た。わたしはこれから一体何が起きるのだろうとびくびくしているのに、天童さんはいつもどおり楽しそうに白布くんの肩に手を置いた。白布くんは鬱陶しそうにしながらも相手は先輩だからか何も言わず、じっと次の言葉を待っているようだった。

ちゃんから賢二郎の匂いがするんだけど、何かやらしくない?」

その言葉によって白布くんの眉間のしわがまた増えた。わたしの顔からは血の気が引く。どうしてくれるんだ。このままだとまた白布くんに怒られてしまう。「部員のいるところで塗るな」ときっと怒鳴られてしまう。身を縮こませて二人の様子を窺っていると、白布くんは表情を変えずに自分の肩からそっと天童さんの手を外して細く長い息を吐いた。

「まあそう思うかもしれませんね。だって、それ、わざとですから」
「えっ?」
「えっ?」

呆気に取られて見つめ合ったのはわたしと天童さんだった。固まるわたし達を尻目に白布くんは元いた場所へと戻ってゆく。怒るものだろうと思っていたのにとんでもない爆弾を落とされてしまった。全てが理解出来たであろう天童さんは今までにないくらいににんまりと笑ってわたしの肩にポンと手を置いた。

「厄介な奴に捕まったもんだね」

その言葉で、わたしが考えていたことと天童さんが考えていたことが一緒だと分かり、じわじわと頬に熱が集まる。
体じゅうに広がる熱に身動きが取れないでいると、天童さんは新しいおもちゃを与えられた子どもみたいにスキップしながら片付けに戻ってしまった。
二人ともこんな状態のわたしを放っていかないで! 早くわたしの心に赤ペンで丸をつけてよ! ここまで期待させといて勘違いだったら恥ずかしくて部活に来れなくなってしまうじゃないか!
両手で頬の熱を冷ましながら決意する。そうだ、どちらが先に根を上げて想いを伝えるか我慢比べだ。キッと白布くんを睨みつけると、こちらに気づいた白布くんが意味深に口元を綻ばせた。分かってる。それだけで、心臓が自分のものじゃないみたいに踊りだすのだから、どうせこれは負け戦なのだ。