君に恋してユートピア

塾から帰ってきて玄関の扉を開けると、そこには来客者がいることを知らせるようにきれいに揃えられた女性物の靴が置いてあった。

「ただいまー」
「おかえり」
ちゃん、おかえり!久しぶりね」

リビングを覗き込めば、母親とお茶を飲んでいたのは幼馴染の瀬見英太の母親だった。知らないお客さんであればその部屋に踏み入ることはしないが、小さい頃から知っているのでなんの気兼ねもなく「お久しぶりです」と返事をしながらリビングを通ってキッチンに向かい、冷蔵庫からお茶を取り出す。

「それで、もうっ、英太ったら全然帰ってこなくてね……」

英太はバレーに集中するために寮に入ってしまった。そしたらそこが居心地いいのか、お盆と年末年始しか帰ってこない状況だ。いつでも会える距離に住んでいたのに、急に離れ離れになってしまってわたしもこっそり寂しく思っている。同じ学校に通っていても、話す機会は多くない。でもそれは、わたしの性格も一つの要因になっているかもしれないけど。

「つい最近だって衣替えしたいから服送れって言われてね。箱詰めして送ったのに、お気に入りのTシャツが入ってないって怒りのメールが届いたのよ……」

そんな話を耳にしながらわたしはお茶を注いだグラスに口をつける。英太もそんなこと言うくらいなら実家に顔出して自分で箱詰めすればいいのに。そしたら、わたしだって誰の目も気にせず会いに行けるのに。

「それならが届けてくれるでしょ。ね!久々に英太くんと喋ってきたら?」

え?急にわたしに会話の矛先が向いてビックリする。母親はわたしを振り返ってにこにこと見つめているけど、有無を言わさないような目をしている。久々っていうか、実はこっそり会ってるんだけどな。部活で忙しい英太はわたしのために、ほんの少しだけど時間を作ってくれてる。だって、わたし達つきあってるんだから。
でも、まだお互いの両親には話していない。小さい頃から「あんた達、お互いに結婚するって言ってたのよ」なんて言われ続けてると気恥ずかしくて無理だ。

「そうね。そうしてくれるとおばさんも嬉しいな」

この人たちの顔は何か進展を期待してるような表情をしている。隠し通すなら承諾するを得ないか。小さくこくりと頷くと、二人して大喜びしてハイタッチを交わしている。
出来ればあまり人目がつかないところで渡したい。そんな場所や時間を考えることが面倒だけど、英太と会える口実が出来たのは素直に嬉しい。大体、向こうの時間ができるのを待つパターンが多いのだ。一応母親たちにも感謝しておくことにして、買っておいてたマカロン、わたしのお気に入りだけどお皿に並べてあげようと思う。





受け取ったTシャツは蛍光色で目が痛い黄色に黒い文字が書かれているものだった。一歩間違えれば標識みたいだと思ったが、英太にはこれを難なく着こなせるのかもしれない。憎らしいほどかっこいいから。
シャツを預かっていることを伝えると、時間があるときに取りに行くと返事が返ってきたものの一向に姿を現さない。かと言って、英太のクラスに持っていっても他の人に伝言をことづけるのは難しい。何故なら、わたしは超がつくほど人見知りだからだ。
今のクラスに馴染むのも最初は大変だった。初対面だとどうしても素っ気ない態度をとってしまうのだ。喋りかけてもらってもうまく返すことができないし。でも、一日の三分の一は一緒に過ごしているクラスメイト達なので、段々とわたしの性格も分かってきてくれたらしい。クラスメイトに恵まれて本当に有難い。
しょうがないからバレー部まで持って行こうかな。そっちの方が早そうだし、こういう任務はさっさと終わらせて肩の荷を下ろしたい。ということで、わたしは放課後まで姿を見せなかった英太に心の中で悪態をつきながら体育館に足を向けた。
誰にも絡まれませんように、と願いながら中を覗いてみると誰もいない。あれ?バレー部ってこの体育館じゃなかったかな?疑問に思っていると、ふと足元に影がさしたので勢いよく振り返ると、赤い髪の人とツンツン頭の人と牛島くんがそこに立っていた。バレー部は全国でも有名な牛島くんしか知らなかった。英太に応援に誘われたこともあったけど、賑やかなところもあまり好きじゃないので行ったことがないのだ。

「そんなところで何してるの?」
「え、あの、」

赤い髪の人にずいっと近寄られ反射的に後ろに下がる。ただでさえ初対面の人と話するのは苦手なのに、パーソナルスペースに踏み入れられると言葉が喉の奥に引っ込んでしまう。三人ともわたしの言葉を待っているのか一向にこの場を離れる気配がない。それに背が高いから圧迫感が強くて息苦しいような気がする。

「おい、お前ら邪魔だ」

その声にはっとする。英太だ。牛島くんの隣からわたしの存在を確認した英太は、少し驚いた表情をしたあと「散れ、散れ」と三人をわたしから遠ざけた。

「えー?何?英太くん知り合い?」
「俺の幼馴染だ」
「英太くん、幼馴染なんていたの!?」

助かった。胸を押さえながら呼吸を整える。幼馴染だと言われればその通りなんだけど、彼女だと言われなかったことに少し胸がちりりとする。

「こいつはな、人見知りなんだ!これ以上は近づくなよ」
「過保護だねぇ〜本当にただの幼馴染?」

うっと言葉に詰まった英太は少し頰が紅潮しているように見える。口元を手で押さえながら、言いにくそうにもごもごと口を動かしている。

「か、彼女だよ」

言い終わったあと真っ赤になった。つられてわたしも全身の血が沸騰したように熱くなる。言っちゃった!何だか嬉し恥ずかしな気分だ。どうやらわたしとつきあってることを知られたくないのではなく、ただ単に恥ずかしかっただけみたいでこっそり胸を撫で下ろす。

「か、彼女!?」
「おまえ、裏切ったなー!」
「ちょ、待て、隼人!落ち着け!」

英太が肩を掴まれガクガクと揺さぶられているのを牛島くんはぼーっと見ている。何だか意外だ。この人、眼光は鋭いけど普段はこんな感じなのか。
……じゃなくて、早くTシャツを渡して早くこの場から立ち去らないと!
クイクイと英太のシャツの裾を摘んで、Tシャツの入った袋を英太に押しつける。

「はい、これ。頼まれてたやつ」
「ああ、サンキュー」

二人っきりならもう少し話せたのにな。残念だ。渡すものも渡したのでバレー部の人たちの合間を縫って体育館を後にしようとしたところに、赤い髪の人が両腕を広げ通せんぼするように立ちはだかる。ちょっと!これがクラスの男子なら難なく押し退けるのに、今はそれがかなわない。

「おい、天童やめろ!」
「俺イイコト思いついちゃったんだ!」

イイコト?悪い予感しかしなくて振り返って英太の顔を見れば、彼も同じことを思っていたらしく眉をひそめている。

「今日ミーティングだけだから、みんなでファミレス行かない?英太くんの彼女さんとも仲良くなりたいし」

無!理!初対面の上、この人数でごはんを食べるとかわたしには到底出来っこない。英太、断って。縋るように見つめたのに何を思ったのか彼は二つ返事で頷いた。

「おう、それならいいぜ」

よくないし!英太は口をへの字に曲げているわたしに近づいて「はその辺のベンチで待っててくれ」とポンと肩を叩いた。

「すぐ終わるからねん!」

天童と呼ばれた人は長い腕を振りながらみんなと一緒に体育館の中に入っていく。英太もその後に続きながら、口パクで「ご、め、ん」と言っている。
わたしは数十分後の自分を想像して頭を抱えながら、ベンチに腰かけた。
何を話せばいいのだろう。いや、それは英太に任せればいいか。いやいや、あまり頼ってばかりだと愛想尽かされるかもしれない。でも、了承したのは英太だし……押し問答を繰り返しながら、軽率に体育館に来てしまった自分自身を呪った。





「ごめん、待たせたな」

着替え終わった英太に声をかけられ、携帯から顔を上げると、彼の後ろに先ほどより人数が増えているバレー部のメンバー達を確認して息を呑んだ。
思わず英太の腕を掴んで耳打ちする。

「ちょっと、どういうこと?」
「わりぃ。でも、は俺に任せとけばいいから」

そう言って自信満々な笑顔を見せられると文句も言えない。英太と一緒にバレー部の集団に近づけば、ぺこりと頭を下げられ「瀬見さんの彼女……」と話しているのが聞こえてくる。そちらを見ればじぃーっと見つめられていたので、ささっと英太の背中に隠れる。

「はいはい、お前らそんなに見るなよ。ビビってんじゃねえか」
「すんませーん」

気のない返事を英太も適当に受け流しながら「ほら、行くぞ」とわたしに手を伸ばす。
手は繋ぎたいけどさすがにこのメンバーの前では無理なので、英太の大きな手のひらをぺちっと軽く叩いて先を行く集団についていく。ちらっと英太を見れば叩かれた手のひらを見つめ、わたしにしか聞こえないように「ちぇっ」と拗ねていた。
ファミレスに着くとレディファーストと言わんばかりに扉を開けられ、望んでもいないのに一番に店内に足を踏み入れることになった。店員さんとも極力話したくないくらいの人見知りなんだってば!このあと絶対「何名様ですか」というお決まりのセリフを言うんだろうけど、あいにくわたしには今ここに何人いるかなんて知りやしないのだ。

「何名様ですか」
「九人です」

ほら来た!と思ったところにすかさずわたしの後ろから英太がフォローする。さすがだ。自信満々に言っていただけある。
席に通される際には、でっかい男が八人密集しているせいで目立ってしょうがなかった。

「何食べる?」
「俺はハヤシライスだ」
「じゃあ俺はハンバーグ!」
「俺も」

ここで次の問題がやってくる。注文である。店員さんが注文を取りにやってくるけど、これだけ大勢いたらわたしには自分の注文を言うべきタイミングが分からない。
と、そこへメニューを見ながら固まっているわたしに英太がこっそり聞いてくれる。

、何にする?」
「え、と……じゃあドリアで」
「オッケー」

いや、本当によく出来た幼馴染兼彼氏だと思う。スムーズにわたしの分も注文してくれたし、みんなとの会話にも適度に混ぜてくれる。このままいけば、何事もなくこの会を終えることができそうだ。
そう思った矢先に、わたしの代わりに英太が答えることのできない質問が飛んできて体がかっちーんと硬直した。

ちゃんは英太くんのどこが好きなの?」

顔をあげれば、みんなの視線がわたしに集まっているかと思いきや食べたり飲んだりしていたので、これなら答えることができるかも……と少し息を吐いた。それにしても男子の食欲ってすごい。

「……優しいし、頼りになるとこ、かな」
「かーっ!うらやましいな!」

隣の英太は頰をかきながら照れた風に「ふーん」と言ってるし、羨む声もちらほら。

「でも、英太くんの私服変でしょ?」

天童くんは思い出し笑いをしているのか、笑いをこらえたような変な顔をしている。

「そうだね。標識みたいなTシャツがお気に入りだって言ってたし」
「おま、それ、言うなよ」

大笑いしているのは天童くんだけじゃなくて他のメンバーも頰が緩んでいる。英太って愛されてるんだなと思ったらわたしも自然に笑うことができたらしい。
牛島くんが「の笑った顔はいいな」と言ったので、かっと顔が熱くなりまたもや英太の陰に隠れることになってしまった。恥ずかしいから英太も「かわいいだろ」なんて言わないで。惚気かよって言葉があがってるじゃないか。

「じゃあ、俺こいつ駅まで送っていくから」

お開きになってみんなが寮に戻る中、わたしと英太はそれとは反対向きに足を進める。伸ばされた手を今度は迷わず掴むと、しなやかで熱い指先がわたしのそれにしっかりと絡まった。

「ねえ、何でご飯行くの断ってくれなかったの?」

唇を尖らせて拗ねたように言えば、英太は困った顔をしてうなじをかいた。

「いや、お前にも俺の世界を知って欲しかった、というか」
「……ふーん」

うん。何となく実家にあまり帰ってこない理由が分かった気がする。少しだけバレー部に嫉妬もするけど、英太が楽しそうに笑うのを見るとしょうがないかという気持ちになるから不思議だ。それに英太の言う彼の世界にちょっぴり入り込めたことが嬉しかった。

「でもまあ、一番はお前を自慢したかったってことだな!」

二人っきりだとあまり照れずにこういうことを言う人なのだ。その言葉はすーっとわたしの心に染み渡って、時にわたしを大胆に変身させる。
わたしのこと、好きでいてくれてありがとう。少しだけ自信がついた。いつも守ってくれてありがとう。少しずつ人見知りも克服していきたいと思ってる。
だけどそれを素直に言葉にできるわたしじゃないから、ありったけの感謝を込めて、英太のネクタイを引っ張って不意打ちで唇を掠め取った。唇を離せば英太は少しだけ驚いた顔をしたけど、それはすぐに不敵な笑みに変わる。

「やったな?」
「んっ」

街頭に照らされたわたしたちはまるでスポットライトを浴びているようで、そこでキスを交わすわたしたちは何てドラマチックなんだろう。
駅前の喧騒はわたしたちには届かない。聞こえてくるのは遠くで電車の車輪が軋む音とわたしたちの心臓の音だけ。