のみこまれたい、夏

彼女と初めて出会ったのは梅雨真っ只中なのに、きれいに澄んだ青空の広がる気持ちのいい日だった。
そんな日だというのに俺は世界史の課題に必要な資料を探しに図書室へと足を運んでいた。提出期限が迫っていたのだ。もっと早くから取りかからなかった数日前の自分を恨むしかない。
扉を開け、独特の紙の匂いを嗅ぎながら資料を探すも、普段全く図書室を利用しない俺は本の探し方が分からなかった。しょうがない。聞くしかない。受付に行けば本を読んでいる一人の女生徒がいて、おそらく図書委員だと思われるその子に聞くことにした。

「すみません」

聞こえなかったのだろうか。全く反応がない。そんなに声が小さかったわけでもないのに。本の世界に入り込んでしまっている。

「す、み、ま、せ、ん」
「はいっ!?」

今度は少し大きめの声ではっきりと話しかけると、彼女は勢いよくばっと顔を上げ、焦りながら返事をした。図書室を利用している生徒がちらほらと俺たちのことを見ているが、俺は悪いことはしてないぞと思う。
慌てふためく彼女はまだあどけない少女のようで、組章の色が一年生であることを主張していた。どおりでまだ初々しいわけだ。

「世界史の資料探してるんだけど、場所教えてくんない?」
「あっ!はい」

とてとてと歩く彼女は可愛らしい。案内されたところに着けば、ぐーんと背伸びをしてぷるぷる震えながら腕をめいいっぱい伸ばしている。俺の方が背が高いんだから、言ってくれれば取るのに。というか、俺が探しにきた資料なのだから場所さえ教えてくれればそれでよかったのに。

「いいよ。あとは自分で見てみるから。ありがとう」
「ごめんなさい。この辺りに何冊かありますので」

申し訳なさそうに謝る彼女にこちらが申し訳ない気持ちになる。受付に戻っていく後ろ姿を視界の端に捉えながら、目的の本をぱらぱらと物色して手に取ると、すぐに彼女の背中を追いかけた。

「これ、借りてく」
「分かりました。貸し出しカード記入するんでちょっと待っててください」

先ほどのおどおどした雰囲気はきれいさっぱりなくなって、代わりに柔らかい雰囲気を纏っている彼女。所作がきれいだと思って手元に視線を落とすと字もきれいだった。

「貸し出し期間は一週間なので、それまでに返却してくださいね」

おまけに笑顔はかわいいときたもんだ。まるで愛嬌がこぼれ落ちたかのよう。

さん?」
「はい」

名札を盗み見て呼んでみれば返事をしてくれたので、合っていたらしい。少しホッとする。

「一週間後にまた居る?」
「あっ、はい。毎週火曜日は当番なので」
「ふーん。じゃあ来週火曜日に返すことにする」
「はい!よろしくお願いします」

ナンパしてるみたいだな、と思ったけど彼女は全く気づいてなくて純粋な目をしている。何となく気になる。何となく構いたくなる。そんな淡い気持ちを抱いた昼下がりだった。

それから毎週毎週何かと用事をつけては火曜日に図書室へ訪れ、さんにちょっかいをかけていた。その成果もあって、少しずつさんも気を許してくれているのが分かり内心ガッツポーズをする。

「川西さんって話しやすいですね。先輩じゃないみたいです」

そう言って図書室でこっそり息を潜めて笑う彼女はかわいいけど大人びていた。少女が女性に少しだけ近づいたような、そんな魅惑的な笑顔を向けられてみろ。独り占めしたくなるのが男ってもんだ。

「いつも読んでるその本って面白いの?」
「はい!川西さんも読んでみますか?」

読書する習慣なんてないし、そんな暇があるなら寝たい。だけど、彼女を自分のものにするとなれば、それ相応の努力は必要なのかもしれない。

「時間があれば読んでみる」

学校図書かと思えば彼女の私物らしいその本。本の内容よりも、借りるときにわざと触れた彼女の指先が思ったよりも華奢でなめらかで、そっちの方が気になって忘れられない。ページをめくる度にほんのりと彼女の甘い香りが鼻孔をくすぐるからなおさら。
寮の部屋に置いていたその本を見た賢二郎は「お前本なんて読めたのか」と馬鹿にした。ほっとけよ。本くらい読めるさ。不純な動機があればいくらだって。
ゆっくりと育てていた恋心をいつか伝えたいと思っていた。もう少し仲良くなって、連絡先を交換して、祭りとか花火とか誘ったりなんかして。そう思っていたのに、それが叶わないと思い知らされたのは夏休みに入ってすぐのことだった。
午前の練習が一旦終わり昼休憩に入ったとき、体育館の扉からさんが遠慮がちに覗き込んでいた。

「あ、!」

俺よりも先に声をあげたのは後輩の五色で、って誰だと思いながら見ているとさんの方に駆け寄ったので、そこで初めて彼女の名前がだということを認識した。彼女も五色のことを「つとむ」と呼ぶ。
その瞬間に理解した。この二人は特別な関係であるということを。だってさんも五色もそんな顔で笑えるのかと思うような初めて見る笑顔で。お互い想い合っているんだということが滲み出ていて見てられない。

「あっれ~?つとむの彼女?」
「そうです!」

天童さんがトドメを刺す。聞かなくたって見れば分かるだろ。むくむくとイライラした感情が生まれてくる。彼女が誰かに似てると思ったらどことなく五色に似ていたのだ。純粋でまっすぐな瞳で一点の曇りもないまなざし。好きだと思ったはずのそれも、今は胸を締めつけるだけのものに変わる。一緒にいれば雰囲気も似てくるのだろうか。他の先輩たちも二人にわらわらと集まりからかいだしたので、一人になりたくて裏口から出ようとしたのに、澄んだ声に思わず後ろ髪を引かれてしまう。

「あ!川西さん、お疲れさまです!」

振り返ると無邪気に笑う彼女。笑顔で応えてやりたい気持ちは山々だが、あまり表情は変えることができない。と言ってもいつも無表情に近いから大差ないと思うけど。「川西と知り合い?」と聞かれているのを耳にしながら片手を上げ体育館を出る。
暑い、夏。全てを溶かすような、夏。焦がれる、夏。蛇口を捻って水をすくい顔に打ちつける。手に入れたかったものは、指の隙間からこぼれ落ちる。簡単に形を変えるこの水のように。溶けろよ、マジで。こんな想い、夏の日差しで燃え尽きてしまえ。ぐっと悲鳴をあげる心臓を握りしめてもこの胸の温度を下げることなんてできやしないのだ。

夏休みに入っても彼女は毎週火曜日に図書室にいることを知っていた。五色の彼女だと知る前に本人から聞いたことだった。夏休みまで学校に来るなんて物好きだなと思ったが、責任感が強いのだろう。それに、今思えば学校に来れば五色に会えるからという理由もあったに違いない。
練習を終えた夕方にちらりと図書室へ足を向けてみる。がらんとした夏休み中の図書室には、もうすでにさんしかいない。クーラーが効きすぎているせいか、薄手のカーディガンが羽織られている。また、集中している。俺が入ってきたことに気づかないくらいに。

「わっ!」
「きゃっ!」

彼女の後ろへ回り込み、どさくさに紛れて背中を軽く押してみる。びくり、と大きく肩を揺らした彼女は、可愛らしい声をあげたあと、少し涙目になりながら俺を見上げた。

「川西さん……なんて事するんですか」
「ん?ちょっとイタズラ心に火がついて」

潤んだ瞳に戸惑い、思わず顔を背ける。自分がこんな顔にしたくせに、これ以上俺をハマらせるなよ、と自分勝手なことを思ってしまう。

「どうしたんですか?」
「いや……また資料借りなくちゃいけないから、さんに探し方教えてもらおうと思って」

咄嗟についた嘘だった。さんに会いにきた、だなんて言ったらきっと困らせてしまうから。「分かりました」と言いながら席を立つ彼女は、頼りにされたことが嬉しくてちょっと誇らしげだ。
窓際に一番近い本棚で彼女のよく通る声を聞きながら適当に本を引き出す。『夏目漱石』と書かれた少し埃っぽい表紙のそれをぱらぱらとめくってみると、文学少年とは程遠い俺には興味深いことがたくさん書かれていた。

「なあ、月が綺麗ですねって愛の言葉だって知ってた?」
「あ、はい!結構有名ですよ」
「ふーん、そうなんだ」

洒落ているようでくさいそのセリフを実際に使う人はいるのだろうか。

「川西さんは、好きな人いますか?」

突然の予期せぬ質問に、らしくなく驚いて、誤魔化すようにパタンと本を閉じる。これは、正直に答えた方がいいのだろうか。さんの様子を見ようと体の向きを変えると、俯きがちにスカートの裾を掴んでいる。

「何かあった?」

明らかにいつもより元気のない彼女の質問には敢えて答えないことにした。

「実は……つとむとケンカして……」

「わたしが悪いんですけど」と遠慮がちに彼女が口を開く。五色でも怒ったりするのか。意外だなと思ったのも一瞬で、あいつも元来は負けず嫌いだ。何か折れることのできないことがあったのかもしれない。
俺ならこんな顔させないのに、なんて野暮なことは思わない。だって、むしろこんな顔をさせることのできるあいつが羨ましいのだから。彼女が恋しくなったり、ヤキモチ焼いたり、ワガママを言いたいのは俺じゃなくてあいつなのだ。だから彼女は、俺の伝えることのできなかったちっぽけな恋心には気づかないで、あんな質問をしたのだろう。

「悪いと思うなら早めに謝った方がいいよ。伝えることができるうちに」

何のアドバイスにもなってないが、俺のようにはならないでという気持ちが入ってしまう。さんはこんな気持ち感じる必要ないから。「そうですよね」という彼女は少しだけすっきりしたようにも見え、ただ聞いて欲しかっただけなのかもしれない。
窓の外を見れば、夕暮れの気配がわずかに感じられるような別の色合いを持った青がいつもの青に混じり始めている。その中にまだ光を含まない白い月がぽかんと浮いていた。

「あー月が綺麗だな」

あんな前振りしておいて実際にこのセリフを言ってるのが自分自身だなんて馬鹿みたいだ。
ぐっと伸びをしながら掠れる声で言った言葉にさんはきょとんとし、一緒に窓の外を眺める。

「ほんとですね!透き通ってて綺麗……それにひんやりしてて、おいしそう!」

彼女の思ってもみない返事に思わず噴き出す。そうだな。夏の空にぴったりだ。暑さを和らげるような冷たい月。でもそんな凍てつくような冷たさで持ってしても、俺の温度を下げることなんてできやしないだろう。伝わらなかったのならそれでいい。俺がただ楽になりたかっただけなのだから。くすくす笑う彼女の隣で、所在無さげに浮いた月はまるで行き場のない俺の恋心のようだと、自分を嘲るようにこっそり笑った。