光の海で泳ぐ魚

『恋に落ちる音を聞いたことがあるか』

そう問わればわたしは迷わずイエスと答えるだろう。
あれはこの高校に入学して三ヶ月目に突入する頃の出来事だった。成績もそこそこ良かったし、そこそこいい大学に行きたいし、という理由で何となく白鳥沢を受験したわたしは、バレー部が全国大会常連ということを全く知らなかった。
どうもインハイ予選の応援は有志が集まって行くらしい。前の席の入学してすぐ出来た友人が「見に行かないなんて勿体ないよ」と言うものだから、渋々了承して見に行った決勝戦。そこで初めて同じクラスの五色くんがバレー部のレギュラーであることを知ったのだ。一年生でその座を勝ち取るなんてすごい。一体どんなプレーをするんだろうとワクワクした。
「牛島さんがすごいんだよ」と言う友人の言葉どおり、その人には目を奪われるものがある。美しいフォームから繰り出される弾丸のようなスパイク。けれどわたしの視線を独り占めしてしまっているのは、その人に比べるとまだ荒々しさの残るスパイクを打つ五色くんだった。
第一セットを奪ったのは五色くんのストレートだった。バレーの用語はあまりよく分からないけど周りの生徒たちが騒いでいたので、五色くんが決めたのは『ストレート』というもので間違いないだろう。それが、針を刺すような鋭さを持ち、空気を切り裂くように相手のコートへ落ちた。そのときの彼の目は、応援席からでも分かるほど真っ黒で吸い込まれそうなのにきらきらと輝いていて、わたしはその瞳に射抜かれ、完全に囚われてしまったのだ。あの音が忘れられない。鋭利な刃物で酸素を切り取られ、息ができないほどの衝動が全身を駆け巡ったあの日のことを。

あれから目で追うようになった五色くんは本当にバレーのことで頭がいっぱいのようだった。
朝は朝練をぎりぎりまでやっているからか予鈴が鳴った後に猛ダッシュで現れ、授業中は机に突っ伏している。居眠りがバレて先生に名指しされ慌てふためいている姿は試合のときとは打って変わってかわいらしくて叱られた子犬みたい。昼休みは年相応の笑顔でクラスメイト達と談笑して、帰りのSHRが終われば一目散に部活に向かう。
帰宅部のわたしは家に帰ってもどうせすることがないので、時々バレー部の練習をこっそりと見に行っていた。部活中の彼は一心にボールを追いかけていて、教室で見る顔とは全然違う。あの試合のときと全く同じ顔というわけではないけど、どの表情もバレーが好きで仕方ないという顔をしていて見てる方も楽しくなってしまうのだ。
ずるいと思う。かっこよくてかわいい男の子なんて。もうすっかりわたしは五色くんの虜だった。



白鳥沢学園では球技大会が夏と秋、年に二回行われる。バレーはもちろんバスケ、テニス、卓球……公平になるように自分の所属する部の競技には出れないことになっている。バレーに出るつもりだったらしい五色くんは分かりやすく落ち込んでいたけど、そんな姿もかわいい。むしろ、あんな大きな体全身を使ってしゅんとしていたんだから、かわいいと思わない方がおかしい。
わたしはあまり球技が得意ではなかったので、どの競技に出場することになっても気が重い。それならば、中学のときから体育の授業でしょっちゅうやっているバレーが一番マシか、ということでバレーに出場することになった。
それでも気分が乗ることはない。自分の失敗で負けたらと思うと憂鬱な気分になっていた。

「五色くん、数学のノート、まだ提出してないよね?」
「えっ?あっ!」

たまたまクラスの提出物を集めて職員室に持っていくことを任命されたわたしは、まだ提出していない五色くんの席を訪れた。実は彼とまともに話すのは数える程度しかない。話すと言ってもいいのか分からない、こういったやり取りくらいなものだった。
他の女の子とは仲よさそうに話したりするのだろうか。そんなことを考えるだけでちくちくとした痛みが心を刺すような気がする。けれど見ている限りではクラスの女の子と特別親しそうに話している様子は見たことなくて少しほっとしていた。

「五色くんはすごいね。一年でレギュラーなんて。」

もっと話してみたいと思った。もっとわたしを彼に印象付けたいと思った。だんだんと勢いを増す心臓の鼓動が聞こえませんようにと願いながら、勇気を絞り出して何とか発した言葉だった。
急に会話を広げられて驚いたのか五色くんは少し目を見開いたあとに、ふふんと誇らしげに笑った。

「そうだろ。俺はエースになって牛島さんを超えるんだ。」
「うん、すごい!羨ましいよ。わたし球技大会でバレー出るんだけど、全然上手くできなくて嫌になっちゃう。」

軽い気持ちで言った言葉だった。けれど五色くんは教室ではあまり見ないような真剣な顔をしていて、思わず体が強張ってしまう。

「俺も最初から上手かったわけじゃないから。」
「そ、そうだよね。ごめんね。」
さん、バレー苦手なのか?」
「……うん。あまり得意ではないかな。」
「じゃあ特訓してやるよ。」

え?今何て?予想だにしていなかった言葉に頭が追いつかない。怒らせてしまったと思ったのに、もしかして恋を発展させるチャンスが訪れている?ぽかんと口を開けたままの間抜け面のわたしの手から、五色くんはノートを奪い取った。

「重そうだから半分持つ。」

半分とか言いながら半分以上持ってくれている彼のせいでわたしの心臓は正常に動いてくれない。「明日の昼休みから始めるぞ」と言う彼の顔はよく見えないけど、少し耳が赤いのは気のせいでしょうか。



翌日の昼休み、ご飯を食べ終えた私たちは開放されている体育館に来ていた。球技大会が近いからか練習しに来ているのは私たちだけではない。二人っきりじゃないことにほっとしたけど、少し残念だった。でもこんな邪な考えしてたら五色くんに怒られちゃう。

「何が出来ないんだよ?」
「何が出来ないのかあまりよく分かんないんだけど……ボールが思ったところに飛んでいかない……かな?」

五色くんはこくりと頷き、「とりあえず返してみて」とわたしの方へボールを投げた。わたしはそれをアンダーハンドでとらえるが、あさっての方へ飛んでいってしまう。

「肘は伸ばす。前傾姿勢になる。腕だけじゃなくて体全体を使ってボールを返して。」

そう言ってわたしのフォームを直しながらアドバイスしてくれる。忘れないようにしなくちゃ、と一生懸命頭にたたき込もうとするけどそれところじゃない。五色くんに触れられたところが沸きあがるように熱くて、その熱が段々と顔に集まってくる。

「う、うん。ありがとう。」

かろうじてお礼を言えば、至近距離で目が合って、わたしにつられたのか五色くんも顔を真っ赤にして距離を取られた。恥ずかしくてわたしも俯いてしまう。集中しなくちゃ。

「とりあえず体に染み込ませるぞ。」
「うん。」

言われたとおりに気をつけてみると少しずつマシになっている気がした。
五色くんはわたしの特訓に毎日つきあってくれた。申し訳ない気持ちと嬉しい気持ちと少しばかりの緊張……でも楽しい。わたしがうまく出来たら満面の笑みで喜んでくれて、惜しかったりすると一緒に悔しがってくれる。腕の内側にアザが出来てしまったときは「え?これって大丈夫なのか?」とすごく狼狽えてて、思わず笑ってしまった。五色くんはこのアザが出来る時期なんて、とうの昔に通り過ぎてしまってすっかり忘れてしまっているのだろうか。毎日、治っているのか確認されてしまった。優しい一面もあるんだな、とますます好きな気持ちは募っていくばかりだ。



迎えた球技大会当日。わたしの出場するチームはなんと準決勝まで勝ち進んでいた。元々運動神経のいいメンバーが多かったのだ。そこにわたしのミスが減って勝てたというところだろう。これも五色くんのおかげだ。憂鬱な気持ちが吹き飛ぶどころか楽しめている。バレーってこんなに楽しい競技だったんだ。
ただ、心配ごとが一つある。自分の正面にきたボールはうまく返せるけど、体の横に飛んできたボールはまだうまく返せないでいた。五色くんは両腕で作った面を意識しろと言っていた。それを頭の中でイメージする。そしてうまく返している自分をイメージする。
そうしていると試合開始の笛が鳴る。ここまで勝ち進めばほぼ互角という感じだった。長くラリーが続いて気を抜いた方がボールを落として点が入り、ということが続く。相手も上手い具合にこちら側がお見合いするようなところを狙ってボールを返してくる。
ああ、嫌だな。わたしが苦手なところに返ってくる。そう思ったとき、周りの応援の声がすっと小さく聞こえたかと思うと、わたしの鼓膜はピンポイントでその人の声を吸い込んでいった。

!いけるぞ!面意識して!」

そこからは全てがスローモーションに見えた。あの日の五色くんがゆっくりとした映像で頭の中に投影される。その動きに自分自身を重ねるように体を 動かしてボールをとらえると、衝撃を吸収したボールは高くきれいにポーンと放物線を描いていく。

(上がった!)

それをクラスメイトがうまくネットの向こうへ返してわたし達のチームに一点が入ると、思わず五色くんを見た。周りの音が戻ってくる。わたし達のクラスの応援は大盛り上がりしていた。
五色くんは驚いたように目をまんまると見開き、両手でガッツポーズをしていた。やっと出来たよ。自分のことのように喜んでくれている彼に胸が熱くなる。
結局、僅差で負けてしまったけど大健闘だったとクラスメイト達に讃えられながら五色くんの元へと急ぐ。

「負けちゃったけど、色々ありがとう。」

流れる汗を拭いながら彼を見上げると、少し照れながら両の手のひらを顔の横でわたしに向けた。それが何を意味するのか、試合後のぼうっとするわたしの頭では理解が出来ず、きょとんとしてしまう。

「なあに?」
「何ってハイタッチだよ!」

「俺の指導もよかったけど、さんもかなり頑張ったもんな。」と歯を出して笑う五色くんはとても眩しい。ずっと見ていたいのに思わず目を細めてしまう。
ねえ、五色くん。もしその笑顔が曇ってしまうことがあったなら、今度はわたしがあなたを笑顔にさせてみせるから。そう出来るように頑張るから。そのときがやって来たら、どうかあなたの眩しい笑顔をわたしだけのものにさせて欲しいの。
バチンとわたしと五色くんの手のひらで生まれたわたしの決意の音は、まばゆく輝く夏の太陽だけが聞いていた。