スパンコールを縫いつけて

「やべ」
「え?なに?」

チャイムが鳴って教室内に入ってきた先生が教卓に立つと、やっとこさ教材を机の上に出す気になったらしい隣の席の男の子。だけど、探せども探せどもどうにもそれが見つからないようで、机の中に長い腕を突っ込んだまま彼がこちらを見つめている。
口では焦ったような事を言ってるくせに顔を見れば眠たげに目をしぱしぱさせている。全くもって言ってることと顔が噛み合っていない。

「教科書忘れた」
「うん、そっか。残念だったね」

特に見せて欲しいとも言われなかったので、視線を前に戻し日直の「起立」の号令に素直に従い立ち上がると、隣の男の子はいそいそと自分の机をわたしの机にくっつけ始めた。

「ちょ、川西!何!?」
「何って教科書見せて欲しくて」
「言ってからくっつけて!」
「言わなくても分かるっしょ」

俺とお前の仲だろ、なんてどんな仲だ!クラスメイトでケンカ友達。それ以上でもそれ以下でもない。
溜息を吐き出して教科書を真ん中に寄せれば、川西はわたし側の腕で頬杖をつく。いつになっても慣れない。いくらこいつとはいえ、異性がこんな近くにいることが。川西のその行動は体重が若干こちらに寄るせいで腕と腕が触れ合いそうになってしまうのだ。
今までも何回か教科書を忘れたことのある川西とはよくこうやって一つの教科書を二人で覗き込んでいた。だけど、はっきり言って集中できない。わたしだってうら若き乙女だ。うっすらと体温を感じるこの微妙な距離にわずかながらドキドキしてしまう。

「眠い……」
「まぁ、まだあたらないから寝ても大丈夫じゃない?」

ただいま現文の授業中。この先生は音読させるとき日付と出席番号順を絡ませて生徒を当て、そこから順にひと段落ごとに読んでいく。幸い、今日の日付とわたしと川西の出席番号は何の関係もないので、しばらくはゆっくり出来そうだ。

「じゃああてられそうになったら起こして」
「はいはい」

そう言って大きな図体を出来る限り折り畳んで机に突っ伏した川西を横目で見遣る。早速スゥスゥと寝息を立てている。というか、わたしの方に顔を向けて寝るのはやめて欲しい。何だか胸の奥の方がざわざわと騒がしくなってくる。
川西の寝顔をまじまじと見ながら授業を受ける羽目になるなんて、とんだ災難だ。意外ときめ細かい肌してるなとか、髪の毛はふわふわとくせ毛風なのにまつげは直毛なんだとか、つい目がいってしまうのだ。
授業は時折先生の解説を挟んでゆっくり進んでいく。クラスメイトの棒読みの音読に加え、先生の落ち着いた低い声を聞いていると段々とわたしも眠たくなってくる。隣からは安らかな寝息が聞こえてくるし、お昼ご飯を食べた後にこの状況で寝るなと言うのは拷問でしかない。
瞼をくっつけてしまわないように必死に耐えていたけれど、ふわふわと宙に浮いているような感覚に身が包まれ始めた。ま、いいか。わたしたちはしばらくあたらない。今は一番向こうの列があたっている途中だから。とろんと薄れゆく意識に身を任せ、うつらうつらと舟を漕ぐ。ああ、水に浮かんで揺蕩うのって気持ちいい。そんな世界にくぐもったように川西の名前が響いている。

「……にし、…かわにし……寝てるのか。じゃあ次

あれ、おかしいな。川西の順番はまだまだ先だったはずなのに。それに川西の次はわたしじゃない。先生、間違ってますよ、次わたしじゃないです。瞼は閉じたまま脳内で会話する。

、おい、!」

うるさいな。だからわたしの順番じゃないってば。折角人が気持ちよく寝てるのに大きな声で呼ばないで欲しい。現実の世界に引き戻される感覚が不快で「うぅ……」と唸れば、バシンバシンと二回、目の覚めるような軽快な音が聞こえてきた。そのうちの一回はわたしの背中に衝撃が走った音だと理解したのは、振り返ると教科書を丸めた先生が鬼の形相でわたしと川西を見下ろしていたからだ。隣の川西も「いってぇ……」と言いながら体を起こし始めた。

「おまえら、机並べて仲良く寝てるとはいい度胸だな」

教室内からくすくすと笑い声が起きる。隣の川西はぼーっとした顔でわたしを見つめている。まだ状況がよく分かってないようだ。いやいや、わたしもよく分かってない。だってまだ二人ともあたらないだろうと順番を確認して瞼を閉じたはずなのに。二人で呆けながら見つめ合っていると、普段穏やかな先生の声に怒気が含まれていて背筋がピンと伸びた。

「おまえら罰として今日の放課後資料室の掃除な」
「えー?俺部活あるし」
「鷲匠先生には伝えておくから安心しろ」

監督の名前を聞いて川西の表情は変わった。寝起きの三重になった瞼がぱっちりと鋭く開かれ、口からは微かにため息まじりに「まじかよ……」という言葉が漏れ出した。



聞けば今日の授業は変則的に横の列で当てられていたらしい。最初の方はちゃんと起きていたのにどうして気づかなかったのだろう。

、起こしてくれるって言ったのに」
「もー、ごめんって言ったでしょ」

箒を持って項垂れている川西に少しムッとしながら答える。元はと言えばこいつが教科書を忘れたことが事の発端なのだ。そして無防備にわたしに寝顔を晒すのが悪い。だからきっとあてられる法則にも気づかずにつられて寝てしまったんだ。絶対にそう!
早く終わらせるために資料室を半分に区切って二人で分担する。なかなか動かない川西の背中を「鷲匠先生にドヤされるよ」と無理矢理押して川西担当ゾーンに移動させれば、嫌々といった風にゆっくりゴミをかき集め始めた。

どれくらい経っただろうか。わたしの方は掃き掃除も拭き掃除もほぼほぼ終わってしまった。川西の方はというと棚で区切られてしまって見えないけれど、声をかけられないのでまだ終わってないのだろう。

「川西ー!こっち終わったけど、そっちどう?」

返事がない。逃げたなんてことはさすがにない。普段からやる気があるのかないのか分からないような奴だけど、頼まれた仕事をほっぽり出すようないい加減なやつじゃないことは分かっている。

「川西ー?あれ?」

棚の向こうを覗き込んでも箒だけが取り残されて川西の影すら見えない。一体どこへ行ってしまったのだろうか。神隠しにでもあったのだろうかと段々心配になってくる。

「ちょっと!返事してよ……わっ」

開け放たれた窓のせいで白い木綿のカーテンがうねり出す。音もなくそれはふわりと大きく膨らんでわたしをその中へ取り込んでしまった。
遮るもののなくなった日光は眩くて思わず目を細める。白く輝くそこは時空間が歪んでしまったかのように錯覚するほど、ちかちかとまなうらに光が差し込んでいた。

「昔私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣なものだと
けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない」(※)

白い世界で黒いベレー帽と黒い釣鐘マントに身を包んだ川西太一と思われる人物が、そんなことを言いながらゆるりと唇で弧を描く。わたしは思わずタイムスリップでもしてしまったのかと息を呑んだ。
足を動かそうにも動けないし、声を出そうにも声が出ない。普通に聞けばキザなはずのこの言葉が、今はわたしの胸を震わせている。だってこれ、愛の告白みたいだもの。わたしは不本意ながら黒ずくめのこの人に見惚れていることを認めざるを得なかった。そもそもこの人が本当に川西太一なのか疑わしくもあるけれど。

「何、。俺に惚れたって?」
「なっ、そんなわけ、ない!」

かっと全身の血が沸騰するかのように熱くなる。疑い始めたところにこの一言。にやりと不敵に意地悪く笑う顔。見た目は昭和初期の男の人なのに、口を開けばちゃんといつもの川西太一で、ほっと安心すると同時に恥ずかしさと怒りがこみ上げてくる。さっきのわたしの胸の高鳴りを返して欲しい。

「何、その格好、衣装どうしたの?」
「ん?椅子の上に掛けてあったから」

「これ、先生が授業でも見せてたやつだろ」と言う川西の一言で思い出す。そういえば、今ちょうど授業では中原中也の詩を習っていて、彼は当時このような格好をしていたのだと話していた。どうして先生がこんな衣装を持っているのかというと顧問をしている演劇部で使ったとのことだった。
ん?ちょっと待って!おかしくない?
先ほどすらすらと川西が暗唱したフレーズは今日習いたてのはずだし、わたしたちが眠りについているときに通り過ぎてしまったフレーズのはずだ。わたしは友人から借りたノートで知っているけれど、わたしのノートをあてにしている川西が知っているはずがない。

「あ、あんた……もしかして、起きてた?」
「なんのこと?」

身長180を超える男子が首を傾けたってかわいくない。一発胸元を殴ってやろうと拳を振り上げ近づいてもするりと簡単に躱される。
そして、また一風。わたしと彼を遮るように揺らめくカーテンが深呼吸をするように膨らんでいく。そして空気を吐き出してしまったあと、そこには先ほどまでの光景が鮮明な幻であったかのように彼の姿がきれいさっぱりとなくなっていた。
わたしはガラにもなく焦った。急いでカーテンを払いのけ、川西の名前を呼んだ。

「川西!どこ行ったの?」

しんという音がしそうなくらいの静寂が資料室内に広がっている。カーテンはゆらゆらと亡霊のように揺らめいていた。
怖くなってきたわたしはわざと大きな音を立ててバタンバタンと大股で歩く。棚の向こうを覗いてみても、反対側に回って同じことをしてみても川西の姿は見つからなかった。

「ねぇ、お願いだから出てきて……」

弱気になってか細い声しか出ない。目頭がじんわりと熱くなり水分を含んだ睫毛が重たく感じる。
呑気に揺れるカーテンを恨めしく思いながら目を凝らせば、その中にぼんやりと浮かび上がる黒い影のようなものが見えたので恐る恐る手を伸ばして中を覗き込む。

「川西、ここ?……きゃー!!」

カーテンの端を摘みながらゆっくりと捲ると、ぬっと現れたのは先ほどの黒ずくめの衣装のまま怪人のマスクをつけた人で。何がなんだか分からないわたしは出せるだけの大声を出してカーテンを力任せに引っ張った。ぶちりと糸が千切れる不穏な音がする。
どん帳幕が下りるようにゆっくりとカーテンがわたしを覆っていく。地面を踏ん張ろうにも垂れ下がる布を踏みつけてしまい上手くいかない。何もかもがスローモーションだった。その中で「おい!」という川西の声だけが本当の時間軸で再生される。ああ、あのマスクも演劇部の物品に違いない。それをつけた川西にまんまとしてやられたわけだ。

「いったぁ……」

お尻が床に叩きつけられじんじんと痛みが走る。だけど不思議と頭には衝撃がなくて閉じていた目を開くと、鼻が触れ合ってしまうほどの距離に川西がいたので思わず息をとめてしまった。

「ごめん、そんなに驚くなんて思わなくて」

ゆっくりと川西の体がわたしから離れていくと同時に、わたしの体も起き上がっていく。そこで初めて彼の大きな手のひらがわたしの後頭部を包み込んでいたことに気づいたのだ。
言いたいことはたくさんある。だけど、わたしの心臓はバクバクと忙しなく動いていて、色々なことが相まって目の縁に温かいものが溜まっていく。瞬きをすれば零れ落ちそうで、それが何だかとても悔しいので、思いっきり目を見開いたまま俯き加減に川西の胸元をドンと殴る。

「ホントいい加減にしてよ……」

自分でもビックリしてしまうくらいか弱い女の子の声だった。それに動揺したのかわたしの頬を両手で挟み込んだ川西が眉尻を下げながら顔を覗き込んできた。

「ごめんって」
「ホントに馬鹿……」
「俺のこと好きになった?」
「は、はぁ!?」

話の展開についていけず顔をあげれば、意外と真剣な眼差しをしていてわたしは再び息をとめることになってしまった。この男はわたしの気持ちを見透かす術をどうやって身につけたのだろう。今日一日翻弄されっぱなしのわたしの気持ちを。

「あー、寝顔かわいかったなぁ」
「え、ちょ、」
「あのさ、実は教科書持ってましたって言えばどうする?」
「え?」

なにそれ。やっぱり起きてたってこと?というか、川西が教科書持ってたらこういうことも起きなかったわけで。わたしもこんなに寿命が縮まる思いをしなかったわけで。全部川西の手の内だったってこと?

「それってどういう……」
「おい、すごい音したけど大丈夫か?」
「……ヤバ」

彼の真意を確かめようと発した言葉は、ガラガラと扉を開ける先生の声に掻き消された。そして、千切れたカーテンを二人して握りしめ座り込んでいる惨状を目の当たりにした先生はワナワナと拳を握って震えている。

「お前ら、それ直してこい!」

資料室の掃除が終わったと思えば家庭科室でミシンを借りることになるなんて思ってもみなかった。「すみません」と謝りながらカーテンを丸めるわたしとは対照的に「はーい」と普段通り気の抜けた返事をしながら立ち上がり資料室を出ようとする川西は未だ中原中也のままだ。

「川西はそれを脱いでから行け!」

その日、部活に向かった川西はこっぴどく鷲匠先生に叱られたと翌日自販機前でたまたま会った白布くんがボヤいていた。
そうでなくちゃ困る。だってそうでしょう?わたしのハートに火をつけた罪は重いんだから。 それに今度はちゃんと自分の言葉で云ってよね。川西太一め、ざまあみろ!

(※)中原中也『憔悴』より抜粋