そうして淑やかに殺すのだ

なんとなく楽そうだなと立候補した保健委員は予想通り年間を通してこれといった仕事もなく気楽なものだった。ただ、体育祭という行事においては目まぐるしい忙しさで、転けて血が出ただの捻っただの、熱中症のような症状があるから運んでくれだの、降り注ぐ真夏のような日差しの中を駆け回る羽目になってしまった。
保健委員が熱中症だなんて元も子もない。俺は養護教諭の「川西くん休憩してきていいよ」という言葉を聞いてすぐスポーツドリンクを片手にテントの陰に身を潜めた。灼熱地獄のような競技場に一風、爽やかな風が焼けつく肌を冷ますように撫で上げる。トラックでは、赤、橙、黄、緑……一人一色ずつ虹の色を身に纏った生徒たちがバトンを片手にレーンに膝をついていた。
クラス対抗リレーが始まる瞬間だった。パーンと乾いたスターターピストルの音が聞こえると同時に皆、低い姿勢から足を蹴り出して前へ前へと進んでいく。風に乗ってやってきた火薬の匂いがつんと鼻を掠める。肩にかけたタオルでこめかみの汗を拭い、ぼーっと眺めながら一息つく。ラッキーだ。だって今始まったリレーは女子の部だから。いつもは綺麗に髪を梳き、あのメーカーのリップがどうの日焼け止めがどうの身なりを気にしている色気づいた女子高生たち。そんな彼女たちが今は髪を振り乱しながら炎天下の中流れる汗を拭おうともせずに走っているのだ。普段見れない女子たちの一生懸命な姿をゆっくり日陰で眺められるなんてラッキーと言わずに何と言う。
2人目の走者にバトンが渡り始めると忙しなく体育委員が踏切版を片付けて、アンカーを任せられたメンバーがレーンに入る。軽くピョンピョンと跳ねたり、首を回したり、体をならす女子たちが目の前に並んでいる。男女別の体育の授業では拝めない彼女たちの白く透き通るような柔肌が、今、俺の視界でちらちらと揺れている。
そして、ふと男同士の低俗な話を思い出し、好きな子がこの中にいなくてよかったと心底安堵する。だって自分の好きな子が他の男の舐め回すような視線に晒されるなんて堪えられないだろ?まあ好きな子なんて元からいないけれど。だから俺がついつい女子たちを目に入れてしまうのは大目に見てくれたまえ。
自分のクラスが今何位なのかよく分からない。アンカーにバトンが渡る頃にはダンゴ状態だ。ただ、その中で赤を身につけたポニーテールをたおやかになびかせる女子が誰よりも先に地面を大きく蹴り出していた。
3組か。凛とした背中が綺麗で、名前を知らないことが悔やまれる。このまま3組が独走するだろうと目を離した瞬間に観客席から落胆の声があがったり、歓声があがったり、より一層ざわざわと騒がしくなってきた。何事かと顔をあげれば、土に汚れた3組の女子が立ち上がるところだった。
転けたのか?やれやれ。休憩もまともに出来ないな。風の通るこの場所が名残惜しいが、その女子の様子を見に行こうと腰を上げると同時に養護教諭が自分を呼ぶ声が聞こえてきた。

「川西くん、さん見てあげて」
「はーい」

さん、というのか。凛とした彼女の名前。足を引きずりながら何とかゴールテープを切った彼女に近寄れば険しい顔を隠すように俯き、靴紐を整え始めた。あと少しでゴールというところで解けたらしい。3組のチームカラーになっている赤が、しなやかな足に縫いつけてられていく。いつもの靴紐にしとけば解けなかったのかもな、なんて意地悪なことを思ったが、3組の奴らが皆、何かしら赤いものを身につけていたため口を噤む。彼女以外にも何人か赤い靴紐をリボン結びにしている女子がいたのだ。
そうだな、形から”心を一つに”という気持ちも分からなくはない。

「立てる?」
「うん。ごめんなさい」

顔を上げたさんは力なく笑った。ハーフパンツから惜しげもなく晒された白い素肌からは今、赤いものがつぅっと垂れ始めていた。その右膝が一番大きな傷のようだが、他にも小さな擦り傷が何ヶ所かに確認できる。とりあえず流水で洗い、小石を取り除いてやった方がいいだろう。

「あの水道のところまでいける?」
「うん、ごめんね」

謝る必要はないんだけど、と思いながら彼女の顔を覗き込めば、痛みを我慢してか悔しさを我慢してかぐっと眉を顰めた後、再びへにゃりと下がり眉で笑顔を作り上げた。
歩けると彼女は言ったもののかなり痛そうに顔を歪めるので思わず手が伸びる。肩を貸してあげたいのはやまやまだが、身長差がありすぎて難しい。その代わり腕一本くらいならなんてことはない。

「腕、掴んでいいよ」
「ありがとう」

擦り傷だらけのさんの手のひらが腕に触れると、そこへ焼けるような熱が宿り違和感を覚えた。その正体がこのときはまだ分からなかったのだ。
水道に着けば、彼女は靴やソックスが濡れないように脱ごうとし始めたので、その怪我だと膝を曲げるのは辛いだろうと手助けしてやる。

「あ、あの……!それはさすがに自分でやるから」

恥ずかしそうに顔を赤らめるさんを冷静に見つめ「でも痛いだろ?」と問えば「……うん」と消え入りそうな声で呟いた。するりと靴下を脱がすと華奢で形のいいつま先が露わになる。その先端までもが艶やかに赤くマニキュアされていて、呆れを通り越しむしろ感動さえ覚えてしまった。

「爪も赤いんだ」

冷たい水を掬い取り、傷口にそっとかけてやるとしみてしまったのか彼女の足がぶるりと震えた。

「おまじない、みたいなものだったの」

今はどんな顔をしているのだろう、と傷口から視線を外し興味本位に彼女の顔を窺ってみれば、血が滲みそうなくらいに唇を噛み締めていて、くりくりと愛らしい双眸は涙で濡れそぼっていた。

「泣いていいよ、俺しかいないし」

今だけは誰も見てないから。俺も含めて。
だって相当悔しいに違いないのだ。自分のせいで一着を逃してしまったのだから。「泣かないよ」と言った彼女は俺の見てる前ではうまいこと笑顔を作り上げたようだった。けれど、俺が再び傷に視線を戻すとパタパタと水道の水ではない温かなものが彼女の膝を濡らしていた。
女子の足に触れるなんてラッキー。数十分前の俺ならそう思っていたかもしれない。だけど今はそんなこと欠片も思う余裕なんてなくて触ることさえ躊躇ってしまう。
一目惚れだったのだ。いじらしくも力強い、涙を堪える彼女は誰よりも綺麗だった。



意識するようになったものの、姿を見かける頻度は少なく、言葉をかわすことは皆無だ。ただ、廊下ですれ違えば、さんは俺に向けて誰にも気づかれないよう密やかに弓なりに目を細めにっこりと微笑んでくれていた。隠しているつもりもないし、大体友達と呼ぶにも曖昧なくらいなのに、何だか秘密の関係みたいで無駄に背徳感を覚える。そして、それがまた妙に男心をくすぐるのだ。
体育祭のときに高い位置で結われていた髪の毛は、肩の辺りでさらさらと揺れている。普段は結んでいないのか。あの首筋の、指を這わせたくなるような滑らかなラインが隠されてしまっているのは残念だけど、結んでいたところで3組の男連中に嫉妬してしまうので俺にとっては都合がいい。
火曜日の二限目終わり。長い一週間のうち、その一瞬だけが確実にさんとすれ違えることに気づいたのは体育祭から早一ヶ月が経とうとしていた頃だった。そろそろこの関係をどうにかしたい。見るだけでは満足できない。笑いかけられるとむしろ欲が湧く。だけど、自らが行動しないと二人の間に急激な変化は訪れない。それが片思いのつらいところだった。
しかし、好機は突然転がり込んできた。昼食を買いに購買に行けば、お目当てのパンを買おうと殺気立っている生徒たちの中で揉みくちゃになっているさんを見つけたのだ。
二人の男子の脇腹辺りで挟み込まれるように、もがきながら手を伸ばしている。その手は目的のパンに届きそうで届かず空を切る。見てるだけでもどかしいし、さんが圧に負けて弾き出され転けやしないか心配だ。そんな感情と一緒になって、密着している男どもに羨望の気持ちが生まれてくる。
俺はそっとさんの側に寄り、さりげなく、あくまでもさりげなくを装って割り込んでいった。そしてさんを押しつぶしている男子たちの間に入って壁になると、押される感覚がなくなったさんは不思議そうに俺を見上げた。

「か、川西くん!?」
「クリームパンだよな?」
「え?う、うん」

さっき掴みそこねていたのがクリームパンだったので、言ってみればどうやら当たりだったらしい。
下がってていいよ、と声をかけるとさんは納得いかない顔をしたものの、軽く手を引けばびくりと震えて大人しく後ろに下がってくれた。ここは俺に任せておけばいい。
俺の名前を知っていてくれたことが嬉しくて顔がニヤけるのを必死に堪えながら、宙を舞っているパンの中に腕を伸ばす。すると、思っていたよりも簡単に手が届いた。バレー以外に背が高いことが役に立つことがくるなんて、親には感謝しかない。
自分の分の焼きそばパンも何とか手に取って、パン屋のおばちゃんに小銭を渡すとさんの元へ駆け寄りクリームパンを差し出す。

「はい」
「ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして」

さんのきちんと整った赤い唇が、やさしい笑いに形づくられていく。すらりと細い女の子らしい指先が俺の手のひらに百円玉を落とすと、微かに触れた彼女の指先から俺の全身に燃えるような熱が駆け巡った。
その熱を逃がさないようにぎゅっと拳を作って、二人でゆっくりと歩き出す。さんは遠慮がちに半歩後ろをてくてくとついてきていた。

「あっ!!やっと見つけた」

階段に差し掛かると、上の階からさんに声がかかる。下の名前はというのか。ひょんな事で知れたさんの名前を舌の上で転がす。、ね。
さんが少し俯きがちだった顔を上げると、上階の女の子がよく通る声を再び廊下に響かせた。

「ごめん、彼氏とお昼食べることになっちゃった」
「え、うそ……」

さんはとても残念そうな顔をしながら、スカートを翻す友人を見つめていた。眉がハの字で可愛らしい。
そして、そんな彼女を盗み見しながら俺は閃いたのだ。この好機、逃してしまっては川西太一の名が廃るだろう。

「よかったら一緒に食べる?」
「えっ!?」

肩をすくめたさんの頰には、ほんのりと紅が差している。この反応はいい意味で捉えてしまってもいいのだろうか。力の入ってしまったらしいさんの手が、パンの袋をガサリと潰した。

「無理にとは言わないけど」
「よろしく……お願いします……」

語尾が消え入りそうだ。依然頰を染め、パンの袋を握りしめたままの彼女に思わず笑みがこぼれる。パンつぶれるよ、と指摘すればさんは慌てて手を緩めた。それを尻目にスマホを取り出し、賢二郎には適当に連絡入れておく。『天は俺に味方している、昼飯は別で』と打ち終わったところで、後から蹴りを入れられるなと思ったが、まあいいだろう。今日の俺なら我慢できる。
階段は上がらず、体育館に向かう途中の石庭へ足を向ける。今の時間、ベンチの辺りは丁度校舎の陰になっていて、日なたに比べると随分と涼しかった。
ベンチに腰かけると0.5人分の距離を空けてさんが後に続いた。
飯に誘ったものの、何を喋ったらいいのだろう。話題を探しながらパンの包装に手をかけたが、ずるりと滑ってなかなか開けられない。今まで気づいていなかったが、手のひらにはじんわりと汗をかいていて緊張してるのだとここで初めて実感した。

「え、と……気を遣ってくれてありがとう」

彼女も話題に困ったのか、少し考える素振りを見せてから口を開いた。ちらりと横目で見ると、彼女は上手いこと包装を開けれたようだった。何だか悔しい。

「いや……」

下心から誘いました、だなんて言えるわけがない。いい返しが思い浮かばず、素っ気ない返事しか出来ない自分を殴りたい気分だ。恋ってこんなにも自分をコントロール出来ないものだっけ。

「わたしも彼氏欲しいなぁ」

先ほどの光景を思い出しているのか、彼女は少し遠い目をしながらクリームパンにかじりついた。彼女が本当にそう思っているのか分からない。ただの世間話かもしれない。だけど俺にはそれが一筋の光に思えたのだ。そして悪戯心が湧き上がる。

「それならさ、俺の知り合いでさんのこと気になってるやつがいるんだけど」
「え?」
「そいつにさんから電話してやってほしいなと思って」
「う、うん……」

いきなりの事で断れなかったのか、さんは何となく流れに身を任せて頷いたように見えた。彼女にスマホを出すように促せば、パンを頬張りながら慌ててポケットからそれを取り出した。
電話を起動してもらうと、彼女の手からスマホを拝借して俺自身の番号を入力していく。

「はい、こいつに電話してみて。めちゃくちゃ喜ぶから」
「今から?」
「うん、そう」

軽く頷いたさんは困惑しながら指を動かし、スマホを耳に当てた。俺の電話が鳴り始めたら一体どんな表情を見せてくれるのだろう。想像しては緩む口元を、誤魔化すように大きな口を開けて、焼きそばパンを頬張った。
そこへベンチの上に置いていた俺のスマホがヴーヴーと電話の着信を知らせる音を立てたので、彼女は弾かれたように俺の顔を見上げた。

「もしもし?」
「あれ?えっと、」
「川西太一です」
「川西くん!?」

向かい合いながら電話で話してるなんて、ここに誰か通れば怪しまれるに違いない。さんも驚きを隠せないといった風に、目を見開いてキョトンとしている。予想以上にかわいい表情で、俺の心臓の動きも段々と勢いを増していく。

「体育祭のときから気になってました。よかったら、それ、俺の番号だから登録してもらえると嬉しいです」

さんはみるみるうちに顔を赤く染め、ごくりと喉を鳴らした後、片方の手で頰を抑え俺とは反対の方を向いてしまった。

「あの……わたしも実は、体育祭のときから川西くんのこと気になってて、よかったら仲良くしてもらえると嬉しいです……」

尻すぼみに小さくなる声も、電話は一言一句逃さず拾っていく。一瞬何を言われているか分からず、息をすることを忘れてしまった。俺も彼女と同じようになっている自覚がある。先ほどまで涼しいなと思っていたのに、今は扇ぎたくなるくらいに全身が熱かった。

「ホントに?」

顔を見たくてスマホを放り投げ、さんの肩を掴む。少しだけこちらを振り返ったさんの双眸は、恥ずかしさからか潤っていて、それは体育祭のときとは違って加虐心を煽るようなものだったから、思わず唇をぐっと噛み締めた。
こくりと頷いたさんは両手で顔を覆ってしまった。その手を引き剥がして顔を覗き込みたいと思ったけれど、そうしてしまえば色々と堪えられないような気がした。
くそ。やる事なす事ぜんぶ自分に返ってきやがる。翻弄したいのに翻弄されてしまうのだ。
背もたれに体重を預けて空を仰ぎ見ながら瞼を片手で覆う。可愛すぎて死んじゃいそう。知らぬ間に漏れ出した言葉がまた「死なないで、仲良くなれなくなっちゃう」という言葉に変わって自分の心臓を撃ち抜くことになるなんて、誰が想像できようか。