青と橙の狭間にて

今まで生きてきた17年間、モテたこともないし、告白したことも、もちろんされたこともない。つまり、彼氏なんてものはできたことがないのだ。
しかし、今、現在進行形でそれが覆ろうとしている。わたしは、誰もいない教室で男の子と二人っきり。しかも、その相手はサッカー部のイケメンエースと名高い男の子だった。
テスト週間に入り迎えた放課後、クラスメイトたちがさっさと教室を出て行く中、わたしも例外ではなかった。が、スクールバッグを肩にかけ自席から離れようとした瞬間に手首を掴まれ、それが叶わなくなる。

、ちょっと待って」

「話したいことがある」と言われて見上げた顔は、いつも軽口を叩き合っている男の子とは別人のように真剣な表情をしていて、空気がピリッとする。わたしは思わず姿勢を正した。
静まり返った教室に、射し込んでくるオレンジがかった光が、わたしたちの影を長く伸ばす。その男の子の唇が「好きだ」という三文字を形作るのを、何だか浮遊している感覚を覚えながら、ただただぼうっと見ていた。どこか他人事のように。

次の日、学校に行ってみれば、瞬く間にその噂は広がっていた。昨日の告白の現場をもしかしたら誰かに見られていたのかもしれない。普段から仲の良かった相手だったから、常日頃からそう思われてた可能性もなきにしもあらず、だけど。

、あいつとつき合ってんの?すっごい噂になってるけど?」

ざわざわと好奇の目で見られながら、やっとこさ自分の教室に着いたものの、ここでも質問攻めである。朝から疲れるな、なんて思いながら男子たちに囲まれているサッカー部のイケメンエース様を見れば、「すまん」と口をパクパク動かし両手を合わせていた。
苦笑を浮かべながら曖昧に頷くと、向こうも苦笑いし、再び男子たちの対応を始めた。

「つき合ってないよ」
「え?じゃあこの噂は何?」
「昨日告白されたから」
「えー!?」

友人が思わず耳を塞いでしまうくらいの大声を出すので、わたしに興味がなさそうな人までもこちらに視線を向ける。眉根を寄せ、しーっと人差し指を立てたわたしに倣って、友人は今度はひそひそと顔を近づけ囁き始めた。

「もしかして振ったの?」
「うん」
「もったいない!」
「だって、他に好きな人いるし」

目の前の友人は、ガタンと大きな音を立てながら後ずさった。いちいちリアクションが大袈裟だ。

「それは初耳だけど……あれだけいい男振るって、あんたの好きな人、どれだけイケメンなの……」

そうだなぁ。確かに、昨日告白してくれた彼は非の打ち所がないくらいいい男で、もちろんモテる。そんな人がまさか自分のことを好きだなんて思ってもみないし、わたしは完っ全にいいお友達として見てた。
比べてわたしの好きな人と言えば、非、非、非である。……少し言い過ぎたかもしれない。ただ、見た目だけはいい。性格に難ありだ。だけど、そういうところがわたしは好きなのだ。そりゃ、腹立つこともある。だけど、小さい頃からずっと一緒に過ごしているから分かる。憎まれ口の中には、心配だったり、不安だったり、優しさが含まれているのだ。口の悪い幼馴染はただ単に素直じゃないだけ。そこが、ほっとけなくてかわいくて愛おしいのだ。
どれだけもったいないと言われても、わたしが好きなのはたった一人だけ。この想いは誰に何を言われようとも揺るがない。

その日は教室から出る度に、こそこそ話のターゲットになっているようだった。ようやく長かった一日を終え、明日になれば噂は少しマシになっているだろうか、と期待しながら賢二郎の教室へ駆けていく。
寮に入っている賢二郎は、テスト週間だけ自宅の方へ戻ってきていた。どうも寮ではうるさいメンバーがいるとかで集中できないらしい。そして、その機会を逃してなるものか、と半ば強引に一緒に帰っていた。
しかし、四組を覗いてみても彼の姿は見つからない。いつもなんだかんだ「遅い」とか文句を言いながらもわたしを待ってくれているのに。その間にも噂の真相を確かめようと四組の女の子たちがそわそわとわたしに近づいてくる。

「あの……さん。噂って本当なの?」
「違うよ!わたし、他に好きな人いるから。それより、賢二郎どこ行ったか知ってる?」

わたしが食い気味に返事したのと好きな人がいる発言に驚いた女の子は、同時に安心してホッとしているように見えた。君もあのイケメンエース様が好きなのか。

「白布くんなら多分帰ったと思う。HR終わった瞬間に荷物持って出て行ったから」
「ありがとう!」

賢二郎に追いつくか分からないけど、走って学校を出る。でも、体力がないわたしは家まで走り続けることなんて出来ず、すぐに息を上げながら足の速さを緩めていった。
何で先帰るの。そう思ったところで、わたしと賢二郎の関係が幼馴染以外の何物でもないことを自覚しているので、どうすることもできない。もしかして噂のことを気にしてるのかな、なんて淡い期待を抱いたものの賢二郎に限ってありえない。聞いてみたところで「意味が分からない」と一蹴されてしまうのがオチだろう。
道端に転がっている小石を蹴りながら、自宅への道を歩く。わたしの片想いなのだ。ずっとずっと。

『勉強教えてもらいたいから家行ってもいい?』

帰りながらメッセージを送ってみたが、家に着いてトークアプリを開いても既読の表示はない。窓の向こうはすぐ賢二郎の部屋なのに。灯りがついているからそこにいるはずなのに。きっと無視されている。あの賢二郎が気づかないなんてことはない。
門限を守らなくちゃ怒るし、返事をしなくちゃ怒るし。どうでもいい小さなことまで気づく彼のこと。わたしの教科書のしょうもない落書きだって突っ込むことを忘れない幼馴染なのだ。
だけど、今、返事をしないのはどこのどいつなの。怒りたいけど、その矛先をどこに向ければいいのか分からない。
近いようで遠いその距離がもどかしい。賢二郎のことを一番の理解者だと思っているのはわたしだけなのだろうか。時折、賢二郎も同じ気持ちなのかもしれないと思うことがあったのに、とんだ自惚れだったみたいだ。
返事が返ってくるか気になって何度も携帯を見てしまう。どうして無視されているのか理由が知りたいのに、聞く術がない。窓ガラスに石をぶつけてやりたい気分だけど、ガラスが割れてしまえば元も子もない。その日、わたしのテスト勉強はまったく捗らず、シャーペンで書いた賢二郎の悪口がミミズのようにひょろひょろと並んでいた。

次の日になると噂は収束したかのように思えた。自分のクラスでは冷やかされることはなく、むしろエース様が慰められているような光景が目に入り、少し申し訳ない気持ちになる。だけど、本気でぶつかってこられた相手には本気で返さないと相手にだって失礼だ。
わたしはわたしがやるべきことをやるだけ。帰りのHRが終われば、今日こそは逃げられないように一目散に四組へ駆けていく。
クラスが離れれば離れるほど、あの噂はまだまだ新鮮な話題のようで、賢二郎のクラスでもそれは然りだ。ざわめく教室の中に賢二郎の姿を見つけ声をかけようとした瞬間、わたしに気づいた賢二郎は眉間に何本もシワを寄せた。そして席を立ち、わたしがいる扉とは反対の扉から出て行ってしまったので慌てて追いかける。
完全にわたしを振り切る気満々の態度に段々腹が立ってくる。わたしよりも幾分か長い足でスタスタと歩かれると、追いつくために自然に早足になる。わたしが追いかけているのを分かっているのか、(と言っても同じ方向だから仕方ないのだが)賢二郎も早足になり、わたしは徐々に駆け足になる。
段々と息が上がってきた。体力のない自分を恨みたい。体が風を切る度にスカートが足に纏わりつく。パタパタと音を立てるそれが邪魔くさくて少し持ち上げると、走ることから気がそれてしまい足が絡まる。あっ!と思ったときはもう遅くて、スクールバッグの中身がぶちまけられ、膝に鈍い痛みを感じた。
じんわりと浮かび上がる赤色に涙が出そうになる。別に痛くて泣きそうなんじゃない。悔しさと恥ずかしさからなんだから。
散らばってしまった教科書をかき集めていると、見知った靴が視界に入る。伸びてきた手は、小さい頃に比べて随分と成長してしまった男の子らしい手で、顔を見ずともその手の主が分かる。

「何よ。わたしのこと無視してるんじゃないの?」
「俺のせいでケガしたとか言われたら胸くそ悪いだろ」
「べっつに。わたしが勝手に転んだだけだし」

可愛くない言葉しか出てこないわたしに、賢二郎は隠すこともせず不機嫌そうに舌打ちをする。

「何でそんなに不機嫌なわけ?」
「おまえには関係ない」
「関係大アリですけど?」
「何で?おまえはサッカー部のエース様と仲良くしてればいいだろ」

え?思わず耳を疑ってしまい手が止まる。顔を上げてもただただ不機嫌そうな顔が見えるだけで、その言葉の真意が読み取れない。

「泣くなよ、ガキかよ」
「泣いてないし」
「あっそ」

先ほど滲んできていた水分は、それ以上溢れ出てこないように我慢してたし、賢二郎の言葉で引っ込んでしまっていた。それよりも。賢二郎の盛大な勘違いをわたしは都合よく解釈しようとしていた。一番の理解者だなんて、ちょっとおこがましかったかな。

「ヤキモチ?」
「は?……んなわけねえし」

賢二郎は気づいてないかもしれないけど、彼は図星を突かれたときよく前髪を触るのだ。さらりと揺れた色素の薄い髪の毛が、賢二郎の不機嫌な理由を暴いていく。

「素直になった方がいいんじゃない?」
「意味分かんね……ぅわ」

しゃがみ込む彼に体当たりすれば、不意を突かれた賢二郎は簡単に尻餅をつく。状況をのみ込んだ賢二郎は、こめかみに青筋を浮かべそうな勢いだけど、知らないふりして賢二郎を跨ぐように仁王立ちになる。

「賢二郎はわたしの一番の理解者だって思ってた」
「んなの……俺だって」
「そしたらわたしの気持ち、分かるでしょ」

腰を曲げて胸ぐらを掴み、鼻と鼻が触れ合うほどの距離まで詰める。賢二郎がはっと息を止めるのが分かった。そしてみるみるうちに頰が血色よく色づいていく。

「俺、のこと好きみたいだ」

おまえは、と続けようとするのを唇で塞いで続きを奪う。唇を離すと同時にシャツを掴んでいた手を離せば、呆けている賢二郎に笑いがこみ上げてきた。

「わたしも賢二郎のことが好き!これで分かった?」

こくこくと頷く賢二郎はやっとキスされたことに気づいたみたいで「おまえ、ここ外……」と顔を青くした。赤くなったり青くなったり忙しい奴。
土をはたきながら教科書をスクールバッグに詰め込んで、賢二郎の両手を引く。ゆっくり腰を上げた賢二郎はわたしのことを見下ろしながら、わたしのブラウスに手をかけた。

「ちょ、賢二郎!ここ外だから……」
「馬鹿かよ。見えてんだよ谷間!バカ!」

語彙力を失ってしまった賢二郎が可愛くて口元が緩む。それを隠すように、賢二郎の手によって上まで止められていくボタンに視線を落とす。ほらね、素直じゃないだけ。口が悪くて優しくてかわいいわたしの好きな男の子。
「家に帰ったら覚悟しろよ」なんて頬っぺたを摘まれ家までの道を二人で歩く。どちらともなく繋いだ手が、わたしにじわじわ熱を宿していく。すっかり男の人みたいな手になっちゃって。ずっと幼馴染としての役割を果たしてきたこの手が、今この瞬間から恋人のそれに変わったのが嬉しくてぎゅっと力を込める。
少し振り返ると二人の影も手を繋いで長く長く伸びていた。わたしたちの始まったばかりの青い恋も長く果てしなく続きますように。目の前に広がるオレンジの集合体に向かって、二人で祈るように手のひらを固く結んで、そんな願いを形作った。