この傷も結び目

「わたし、瀬見さんのバレー好きです。」

気休めでもよかった。それが例え嘘だったとしても道標になった。諦めなくてもいいと言われた気がした。ここに居てもいいと言われた気がした。それ程までにあのときの自分は想像以上にショックを受けていた。
GWの合宿が終わり、スターティングメンバーが発表されたとき、監督の口から自分の名前が呼ばれることはなかった。何となく分かってはいた。分かっていたはずだった。自分のあげるトスは悪くない、けれど今のチームにぴたりとはまるプレースタイルはあいつの方だった。何が求められているのかも知っていた。それでも俺は自分のバレーは諦めたくなかった。
どうすれば生き残れるのか。模索して行き着いた先はサーブだった。しばらくの間は全体練習が終わっても、ただがむしゃらにサーブの練習だけをしていた。そのときだけが唯一自分が落ち着ける時間だった。スタメンから外され居残って練習している自分に、今まで苦楽を共にしてきたメンバーは声をかけることもなく、お前はいらないと言われている気さえしていた。今思えばそれは、自分を信頼してくれていたからだということが分かる。しかし、そのときはそんな余裕さえなかったのだ。
嫉妬、羨望、焦燥、様々な感情が蛇のようにとぐろを巻いていて、サーブがうまくいかなければボールの入ったカゴを力一杯に蹴ったこともあった。倒れたカゴからボールが一つ二つと転がり自分から遠ざかっていく。それをぼうっと見つめながらこのままバレーを続けて意味があるのだろうか、と自問自答していた。転がっていくボールをそのまま放っておきたい気持ちが強かったが、現実問題そうはいかないので鉛のように重たい足を動かしてボールを追いかけた。その先に見えたのは自分より一回り小さい靴を履いた女子生徒で、顔を確認せずともマネージャーのだと分かった。間が悪いなと思いつつ汗の流れるうなじをかき、を見つめると真っ直ぐな意志の強い瞳でこちらを見ていた。何かに堪えるように唇を噛み締めながら足元に転がったボールを拾い、それを自分に手渡しながら言った言葉が冒頭のそれだった。

「ボール出しならわたしも付き合えますよね。」

そう言いながら毎日毎日一緒に居残って練習に付き合ってくれた。そんな彼女に恋心を抱いてしまうのは簡単なことだった。そんな俺を人は単純な男だと笑うだろうか。言い訳にはならないが元々構ってやりたくなる女の子だった。しっかりしているがどこか抜けている、頭がいいくせに変な読み間違いをしたり。五色が入部したときしばらく「ごしょく君」と言ってて皆で笑ったこともあった。
毎日そうやって一緒に過ごしているとその気持ちは風船のように膨らんでいった。けれど、それを伝えたいとは思わなかった。情けないところを見られたのだ。だから、最後までやりきってかっこいいところを見せてから、そう思っていた。

インターハイが終わって盆が過ぎた頃、いつものように居残り練習を終え、と一緒に外に出るとアスファルトの色が変わっていてぬるい湿気が立ち込めていた。
夕立か。そんなことを思いながら、べたべたとまとわりつくシャツを皮膚から引き剥がし彼女を見ると、同じように胸元をパタパタとしながらこちらを見上げていた。

「雨が降ったから少し涼しくなりましたかね?」

そんな訳ない。Tシャツの隙間からちらりちらりと覗く彼女の透き通った白い肌が俺の体温を上げているのか熱がこもる一方だったのだから。そして校門前で別れようとしたとき彼女の口からは予想だにしない言葉が飛び出してきた。

「わたし、瀬見さんのこと好きみたいです。」

にっこりと微笑む彼女を唖然と見つめた。どうして今このタイミングで?俺のどこに好きになる要素が?聞きたいことが山ほど浮かんできたが、彼女の背景には、西に傾く太陽が蒸発する水分を反射してキラリと虹を作っていたので、きっと俺も彼女もそんな情景にあてられていたのだろう。見えるはずもない蒸気がまわりの景色を陽炎のように揺らめかせ、この世界は二人だけのものだったのだ。帰ろうと体を反転させた彼女の手を咄嗟に掴んで「俺も」と言うと、彼女は夏の空をきれいに映し出した瞳を揺らした後、はにかむように笑った。

「けど付き合うのは春高が終わってからでもいいか?」

その問いに彼女は「分かってますよ。」と返答し、それでも嬉しそうに「瀬見さんのためなら待てます。」と言ったのでますます気持ちに拍車がかかった。自分勝手だったかもしれない。それでも、バレーに集中したかったし、いいところも見せたかった。それに付き合ってしまえばきっと彼女に夢中になりすぎてしまうような気がした。


だからこそ今目の前の光景を受け入れがたく、眩暈さえ感じてしまうのだ。たまたま外出した日曜日、何となく寄ったスポーツショップ。部活はもう既に引退してしまったが、大学でもバレーを続けるつもりだったので新しいシューズでも見てみようかという軽い気持ちだった。
そこにいたのは、白布とで一つのカゴを共有しながら狭い通路で肩を寄せているので思わず身を隠してしまった。ずっと見てきた二人だから見間違うはずがなかった。ああ、何で隠れてしまったんだろう。やましいことなんて一つもないのだから堂々と「よお、何してんだ。」と声をかければよかったんだ。それなのにこんな尾行するような真似をして。どうしても二人が気になって商品棚の陰からこっそり様子を伺えば、白布が何かを手を取りが意見しているように見えた。それくらいならまだかろうじて我慢できたのだ。部員とマネージャーがスポーツショップで買い物くらいするだろう。備品の買い足しだってある。
何が我慢できなかったって、白布にいたっては普段俺たちには向けないような顔でうっすら笑みを浮かべていたし、にいたってはほんのり頬を赤く染めていたのだ。よりにもよってあいつなのかよ。そんな醜い想いが胸を支配し始め、大事に膨らませていた胸の中の風船は音を立てて破れて溢れ出る何かを堰き止められなくなった。
ズカズカと大きな足音を立てて現れた俺に二人は驚いた顔をしていたが、そんなことはお構いなしにの腕を掴んで白布の隣から引き剥がし、スポーツショップから連れ出した。白布の顔は確認していないが、きっといつもどおりのしかめっ面で静かに怒っているのだろう。今日は寮に帰っても口を聞いてくれないかもしれない。しかし、それは今更仕方ないことだ。
は慌てたように「瀬見さん、聞いてください。」「瀬見さん、痛いです。」と抗議の声をあげていたが、それを聞く気なんてさらさらなかった。そのときの自分の頭の中では、あのむせ返るような夏の日に彼女が放った「待てます。」という一言が延々と響き続けていたのだ。嘘つき。そう言って傷つけたい気持ちをぎりぎりのところで押しとどめ、近くにある公園のベンチに腕を引っ張り強引に座らせた。

「待つって言わなかったか?」

いつもよりも低い声が出て自分でも驚いたが、それは彼女も同じだったようでびくりと肩が震えた。言葉足らずだったかもしれない、とヒヤリとしたが、頭の回転の早い彼女は何のことを言っているのかすぐに理解できたようだった。

「待ってますよ、ずっと。」
「じゃあ、どうして、」
「ただ、備品を買い足しに来ただけです。」
「そうじゃなくて!何であんな照れたような顔すんだよって話!」

ついつい声を荒げてしまい、ハッとした。彼氏でもないやつにこんなふうに責められて、怒るか泣くかされてもおかしくない。そう思いながら彼女を覗き込めば、何故だか頬を染め照れながら俯いてしまった。その姿を見て、最悪のシナリオを思い浮かべていたのだが、彼女の口から飛び出てきたのは自分の名前だったので、呆然とその唇が言葉を紡いでいくのを見つめていた。

「あれは、瀬見さんの話してて。」
「俺の話?」
「白布くんが瀬見さん毎日部活来るけど暇なのかなって言ってたから、スポーツ推薦だから勘鈍らせないようにするためじゃないかって答えてたんです。」

あいつ、やっぱりかわいくねぇ。でもそれじゃあが照れる理由にはならないだろう。なのでもっと詳しく問い詰めようと口を開きかけたが、彼女が話を続けたそうにこちらを一瞬見たのでその口を一旦閉じて待っていると「どうせわたしに会いに来てるんだろってからかうからつい……」と言い、少し赤らんだ頬を両手で包み込んだ。 まあ、あながち間違いではないが。その言葉を聞いた途端に体の力がふにゃふにゃと抜けたので、背もたれにドカリと背中を預けた。

「あいつのこと好きなんじゃねえの?」
「まさか!わたしが好きなのはずっと瀬見さんだけです。」

なんだよ。完全に早とちりじゃないか。かっこいいところ見せたいなんて言いながら、どうして彼女の前に限ってこんな無様な姿ばかり晒してしまうんだ。溜息しか出ない。

「はぁ……俺かっこわりぃ……」

それを聞いたはきょとんとした顔をしたあと、いたずら好きの子供のように笑った。

「それってヤキモチですか?」
「ああ、そうだよ!悪いかよ!」

照れ臭くて半ば吐き捨てるように言ったが、それでも彼女は屈託のない笑顔をこちらに向け「嬉しいです。」と言うものだから赤面するのは避けられなかった。
予定よりも早く春高が終わってしまったなぁ、なんて少ししんみりしながら手を差し出すと彼女もそっとそこに己の手を重ねてくれ、目を細めていた。

「俺も好きだ。遅くなったけど付き合ってくれるか。」
「もちろんです。」

重なっていた手は指が絡まり、体温が溶け合ってお互いの境界線がなくなっていくような気がした。この寒空の下マフラーをつけていないと自分の首に巻かれたマフラーを共有しようと体を寄せると真っ赤になりながら拒否していたが、繋いでいる手を引っ張り無理やり自分の胸の中に収めると大人しくなり、猫のように頬をすり寄せてきてとても可愛かった。ずっと我慢してきたんだからこれくらい許されるだろうと腕をの背中に回し少し力を入れると、彼女の体が強張ったが、それすらも愛らしいと思ってしまう。
しばらく身を寄せ合いながらお互いのぬくもりを堪能していたが段々と冷えてきたので、そろそろ帰るかと腰を上げの手を引いて公園を出ると、荷物を両手に持ち眉間にしわを寄せた白布がちょうど向こうからやってきた。手を離すのに間に合わず、というか離したくなかっただけなのだが、白布は繋がれたままの俺たちの手に視線を落とすと全ての不満を吐き出すような深い溜息をついた。

「機嫌直ったんなら荷物一個持ってもらえますか。おかげさまで重いんですけど。」
「おお……悪い。」

差し出された荷物を受け取って、もう片方の手は相変わらずと体温を分け合っている。3人で帰路を歩いていると、この激動の1年を振り返らずにはいられなかった。は勿論のこと、なんだかんだいって白布にも引き上げてもらったんだよな、なんて。悔しいから本人たちには言ってやらないけど。
しんしんと降り始めた雪はどこまでも白く穢れを知らない。それは、ずっと感じていた負い目だとかわだかまりだとか一緒くたに溶かしてくれているような気がして胸が熱くなったので、誤魔化すようにすべて寒さのせいにして鼻をスンと鳴らした。