まつげにかかるドロップス

 その日は人肌が恋しくなるくらいに底冷えした、雪の舞う一日だった。

 グレーのロングコートにワインレッドのマフラーを巻いた夏油くんの斜め後ろを滑らないようにゆっくりと歩いてゆく。しんしんと降る雪は柔らくさらさらとしていて、黒いアスファルトがまたたく間に真っ白になってしまった。踏みしめると微かにさくっと軽やかな音がする。
 夏油くんのむき出しの手のひらがわたしの目の前で揺れている。滑りそうになったら掴んでいいからと言ってくれた手は、冷気にさらされてゆびさきが赤くなってしまっている。

「夏油くん、手しまってくれてもいいよ。寒いでしょ」
「こうしてたら君が握ってくれると思ったんだけど、違った?」
「ち、違うから早くしまって!」

 夏油くんの腕を掴んで無理矢理コートのポケットに押し込むと、残念だなとからかうような笑いが上から降ってきた。こういうときわたしの気持ちはバレてしまっているのだと思う。なのにそれを試すような素振りをみせて、わたしの反応を楽しんで、夏油くんは優しいけど意地悪だ。
 そもそもこんな状況になったのは五条くんと硝子がわたし達をけしかけたからであって、あの二人にはすでにこの淡い想いを暴かれているのだろう。だから当の本人にもバレていてもおかしくはない。例え、それを望んでいなくても隠しきれないわたしが悪いのだ。夏油くんの前ではどうしたって気持ちをせき止める術を見失ってしまう。
  今朝、目覚めると外はうっすらと雪化粧をしていた。雪とは無縁の場所で育ったものだから積もっているのが嬉しくて外に飛び出すと、それを見かけた五条くんが「こんな寒いのに馬鹿じゃねえの」と震えながら苦々しい顔をして積もった雪を蹴飛ばした。宙に飛んだ結晶が、雲の切れ間から時折覗く太陽の光を反射してきらきら輝いている。まるで五条くんの瞳みたい。実際にそう言ってやれば「こいつマジで言ってんのか」と五条くんは胸焼けしたみたいに顔をしかめてわたしに背中を向け、そんなわたし達を離れたところから見ていた夏油くんと硝子がくすくすと笑っていた。
 薄く積もった雪をかき集めて小さく固める。向こうの方で他人事のように笑っている二人に近づいていくと、よからぬ気配を察したようで蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく。だけどもう遅い。わたしはこういうときだけ体がよく動くのだ。固めた雪を二人に投げつけると小気味良い音を立てて黒い制服に真っ白な雪の花が咲いた。パラパラと地面に落ちる結晶を見届けた二人はすかさずおんなじように雪を固めてわたしに投げた。わたしも負けじと投げ返して、わたし達の間に立っていた五条くんにも否応なく雪の塊がぶつかる。いつのまにか盛大な雪合戦が繰り広げられていた。
 今はそれで冷えた体を温めようと鍋の材料の買い出しに行く道中だ。ジャンケンも話し合いもなしに一方的に五条くんに「二人で仲良く行ってくれば」と言われても、夏油くんは嫌な顔一つせず「となら大歓迎だよ」と恥ずかしげもなくわたしに手を差し出して。その手を取る勇気はなかったけれど、その手のひらをパチンと弾いて快諾した。
 近くのスーパーに着くと夏油くんは何も言わずともカートを手にしてくれた。その中へ適当に野菜を放りこんでゆく。ちらりと盗み見た夏油くんはゆるりと口元を綻ばせていて、わたしをそっと見守ってくれてるみたいで胸の奥の方がじんわりと熱を持った。

「なんだか新婚さんみたいだね」

 思わず口をついて出た言葉にはっとして、慌てて目を伏せる。思ったことをすぐに口にしてしまうのはわたしの悪い癖だった。夏油くんにも「は考慮が足りなさすぎる」とよく怒られていて、また怒られてしまうなあと恐る恐る視線を持ち上げると予想に反して驚いた顔をしている夏油くんがそこにいた。切れ長な目をまんまると見開いている。

「ご、ごめん。嫌だよね、こんなこと言われるの」
「いや、嫌とかじゃないんだ。ただ君がそういうことを言葉にすると思わなかったから」

 確かに、今まで態度には出ていても想いの本質に触れた発言をしたことがなかったから驚くのも無理はない。そう思った途端に自分自身の不用意さが恥ずかしくなって、熱が全身を駆け回った。どうしよう、耳まで熱い。

「そんなに真っ赤になるくらいならよく考えて喋ればいいのに」
「分かってる……」

 外気で冷たくなった手のひらで頬を覆って熱くなった顔を冷やしていると、視界の端で夏油くんが笑っている気がした。あなたがそうやって笑うなら思慮の浅い自分も悪くないって馬鹿みたいに思ってしまうから、恋をするのは術師のわたしにとって非効率的なのかもしれない。
 しばらくお互いに顔を見ることもせず言葉少なに店内を歩く。だけど決して居心地が悪いわけではない。それは夏油くんの纏う空気が穏やかだからだ。
 野菜コーナーを通り過ぎてお肉を物色して、買いたいものは大体カゴの中に放り込んだ。ついでに自分の買い物をしてもいいだろうか。様子を窺うように夏油くんの方を振り向けば、片眉を持ち上げた夏油くんに言葉を催促された。

「買いたい物があるんだけど」
「なんだい?」
「牛乳とイチゴジャムなんだけど」

 こんな寒い日にはホットミルクにイチゴジャムを溶かして飲みたくなる。あったまるし糖分も補給できるし、何より味気ない色の世界に生きる術師のわたしにとってイチゴミルクの淡いピンクは心の拠り所になっていた。

「あっためた牛乳にイチゴジャム溶かして飲むの、おいしいよ」

 続きを促すように目配せした夏油くんにそう伝えると、「それならばこっそりこのカゴに入れればいい」と意地悪く目を細めた。夏油くんって優等生だけど優等生じゃない。気の抜ける相手の前では絶妙な加減で力を抜いているように思えて、それがわたしの前でもそうだからついつい嬉しく思ってしまう。

「五条くんと硝子に怒られないかな」
「買い出しに来た者の特権だろ」

 大きく頷くと夏油くんもにこりと笑って歩き出した。夏油くんに付いて乳製品コーナーで牛乳を調達し次の目的地へ。無機質な蛍光灯の光を清らかなピンクに変えるジャムの小瓶を手にすると横から夏油くんの長い腕が伸びてきて、わっと大きな声が出てしまった。夏油くんとわたしのコートの端が擦れあって、想像以上の近さに心臓が暴れ出す。

「これくらいのサイズなら私の部屋にも一つ置いておけるかな」
「えっ! 夏油くんイチゴジャム塗るの意外なんだけど」

 夏油くんが大きな体を丸めて、焼いたトーストに毎朝ざりざりとイチゴジャムを塗っている姿を想像するとなんだか笑える。ふふ、と零れた笑いに夏油くんは「失礼じゃないか」と眉をしかめた。

「悟も使うかもしれないだろ。それに……」
「それに?」
「これが部屋にあるとを部屋に誘う口実にもなるし」
「え!?」

 何か言いたいのに何も言えない。金魚みたいに口をぱくぱくさせていると、夏油くんはついに破顔した。きっとわたしの頬はイチゴジャムに負けないくらい真っ赤に染まっているだろう。固まるわたしの頭をくしゃりと撫ぜた夏油くんは、わたしの手からジャムの小瓶を取って自分が手にしていたものと合わせてカゴの中に放り込んだ。そのときに囁くように言った「君はずっとそのままでいてくれ」という言葉にはどうしてだかさみしさが滲んでいて、わたしの心を揺さぶって仕方なかった。日常会話の延長線と言われればそうも取れるし、ひとり言と言われればそうも取れる。願いや希望が内包されていると言われればそうだったのかもしれない。だけど、そのどれもがしっくりとくるものではなかった。わたしは返事すら出来なかったのだ。
 それでも空気が悪くなることはなかった。何事もなく適当に会話しながら寮に戻り、二人が待っている夏油くんの部屋の扉をゆっくりと開いたその瞬間。ぱしゃりという音と同時にまばゆい閃光がはしった。いきなりのことで目が眩み足元がふらつく。咄嗟に壁に手をついたことで転倒を免れたと思っていたけれど、よくよく見れば夏油くんの大きな手のひらがわたしの肩を支えている。

「うわぁ」
「大丈夫か」

  叫び声をあげたのは光に驚いただけじゃなく、夏油くんとの距離が近すぎたせいだ。彼は前者だと思っているのだろう。わたしを覗き込む瞳は純粋なものだった。もしこれで後者も分かっていたとしたらタチが悪すぎる。
 ばくばくと存在を主張する心臓を丸め込むように自分の胸元をぎゅっと握りしめる。光を発した主を確認しようと部屋の中を見れば、五条くんがインスタントカメラを持っていて納得すると同時に夏油くんのたしなめる声がした。でもわたしは今ラッキーだって思っている。現像した写真欲しいなぁ、なんて呑気なことを考えている。
 夏油くんに小言を言われて拗ねた五条くんはやりかけのテレビゲームに戻ってしまった。硝子は我関せずと雑誌を読んでいて、鍋の準備はどうやらわたし達でやれということらしい。大きくため息をついた夏油くんの隣に立って包丁を握る。今度は、新婚さんみたいだねとは言わなかった。なんだか胸かいっぱいでそれどころじゃなかった。
 たくさん食べてお腹が満たされるとと五条くんと夏油くんは仲良くテレビゲームを始めてしまった。硝子は一服だと言って出て行ってしまったので、わたしは完全に手持ち無沙汰だ。ぼんやり二人を眺めていると画面の動きがぴたりと止まる。どうしたんだろうと不思議に思っていると夏油くんがわたしの方に顔を向け、びくりと肩が跳ね上がる。どうやらコントローラでポーズボタンを押したらしい。

「え、なになに!?」
「適当にマグカップ使っていいよ。あれ、飲むだろ?」

 夏油くんの言ったことはすぐにピンときた。何のことかさっぱり分かっていない五条くんは急にゲームを中断させられたことも相まってか唇を尖らせブーブーと文句垂れている。

「俺は仲間はずれかよ」
「そうさ。私とだけの秘密だよ」

 そんな大層なことじゃないし、悟も飲むかもしれないって言ってたくせに夏油くんはやっぱり意地悪だ。でもほんのひと時でも夏油くんと秘密を共有できるという甘ったるい事実に、ときめきがわたしの体を支配してしまっている。
 レンジであたためた牛乳にイチゴジャムをぽとりとひとさじ。くるくる溶かしてゆけば、白とピンクのタイダイ模様が次第に均一に色づいてゆく。まるでわたしの恋心みたい。かき混ぜれば、いともたやすく彩られてゆく。
 湯気のあがるマグカップを両手で包み込んでベッドのサイドフレームにもたれかかる。あたたかく優しい味にほっとする。そのかたわらで二人は何が楽しいのか大盛り上がりしていた。硝子はまだ戻らない。



 気づけば横になっていた。部屋はすっかり静かだし、体に伝わる感触も床のそれとは全く違う。意識をたぐり寄せながら薄く目を開けるといつのまにか夏油くんのベッドに寝ていて思わず変な声が出そうになった。
 視界に入る光景には誰もいない。耳をすませると食器がカチャリとぶつかる音がしたのでおそらく夏油くんが片付けをしてくれているのだろう。
 手伝わなくちゃ。そう思って体に力を入れようとしたけれど、足音がこちらに近づく気配を察して何故か反射的に寝たふりをすることに決めてしまった。



 ほどよく低く心地よい夏油くんの声がわたしの名前を呼ぶ。心臓が甘やかに悲鳴をあげているけれど、わたしは規則正しい寝息を繰り返しながら意識を外へ集中させた。
 わずかに聞こえた衣擦れの音と空気のあたたかさから夏油くんがわたしのそばに腰を下ろしたことが分かった。それから頭頂部からこめかみに沿って夏油くんの大きな手のひらが滑ってゆき、わたしはほんの一瞬呼吸を止めてしまった。
 夏油くんのことだ。もうすでに起きていることはバレているのかもしれない。だけど、咎める声も降ってこない。それどころかひたいにかかる前髪を払ってわたしの顔をまじまじと見ているような視線を感じるから、わたしは暴れる心臓を手懐けるのに必死だった。
 わたしと夏油くんのあいだにある空気が震える。きっと夏油くんが笑ったのだ。いつ目蓋を持ち上げよう。この目で笑った顔を見たいのに。寝たふりを決めたのは自分のくせに、もうすでに後悔し始めていた。
 よし、起きよう。そう決めた瞬間、夏油くんの吐息を間近に感じてやわい感触がくちびるに触れた。それがキスだということに気づくのにそう時間はかからなかった。
 時が止まった気がした。わたしのシナプスは、ただただ、くちびるの感覚だけをわたしの脳に伝えている。
  一瞬のことだったに違いない。だけど、永遠にも感じた。こんな世界があるのか、と思った。
 くちびるを離した夏油くんは何も言わない。わたしも何も出来ない。言葉にしてはいけないと釘を刺されたような気がした。そのままでいてくれ、と切なく笑った夏油くんが鮮やかに蘇っては胸を刺し、もう、どうしようもなかった。今思えば、あの言葉は懇願だったのだ。



 その部屋は主がいなくなってしまったというのに人の気配が感ぜられ、たまらない気持ちになった。五条くんに「傑の部屋の片づけを手伝ってくれ」と言われやって来たここは、まだ手つかずの状態で、今にでもただいまと言って帰ってきそうだというのに。
 気を遣ってなのだろうか部屋にひとりきりにされたわたしは何から手をつけたらいいのか分からず、本棚に手を伸ばす。何やら難しげな本はわたしにはさっぱり分からず、ぱらぱらと数ページめくっただけですぐに本棚に戻してしまった。何冊か同じことを繰り返していると読みかけだったのだろうか、栞のように挟まれたネガを見つけてしまった。ネガをこんな風に扱うなんて何だか意外だ。案外わたしは夏油くんのことを知らなかったのかもしれない。そんなことを思いながら天井の灯りにかざしてみる。
 あのときの写真だった。みんなで鍋を囲ったあの冬の。一枚一枚確認しては、思い出をなぞる。わたしがもらった写真とほぼ一緒だけど、夏油くんの部屋で見るネガはまた違った印象があった。すべて過去になってしまったのだと主張されているみたいで怖くなった。
 だって、わたしの想いはまだ現在進行形で続いている。信じられなくて、信じたくなくてここに立っているのに、否応なく自覚させられてしまう。
 震えるゆびさきでネガをなぞっていると、最後の一枚だけ見せてもらっていないものがあって目を凝らす。そこに写っているものを確認して思わず、あっと息をのんだ。
 先ほどまで適当に確認していた本棚を今度は念入りに調べてゆく。端的に言えば、夏油くんが好んで読んでいた本に、それは挟まっていた。はぁ、と吐いたため息は安堵したためでもあったし、心を落ち着かせるためのものでもあった。
 見つかった写真をテーブルの上に置いて、冷蔵庫を開ける。あの日買ったイチゴジャムの小瓶がまだ開封されずにそのまんま鎮座していて、わたしは急いで自販機へ牛乳を買いに行った。
 マグカップを拝借して牛乳を注ぎ、電子レンジであたためる。真夏だというのにホットミルクだなんて、アンバランスで笑えてしまう。でも、だからこそ意味があるのだ。
 湯気のあがるマグカップにひとさじのイチゴジャム。均一にピンク色にするためにゆっくりと丁寧にかき混ぜる。くるくると描き出されるピンク色の円を乱すようにポタリとひとつ、波紋が立つ。消えたと思ったら、また、ひとつ、また、ひとつ。いつの間にかこぼれ落ちた涙が、溶けきっていないジャムを浮かべ、濃いピンクをむき出しにした。
 これはきっと、わたしと夏油くんの思い出だ。尊くて愛しかった日々を溶かして、飲み干して、わたしの血肉にするためにわたしは泣いている。誰のためでもない。自分自身のために泣いているのだ。
 夏油くんはもうここには帰ってこない。分かっている。こんなことなら、あのときキスなんてしないでほしかった。世界から切り離されてしまったみたいなキス、もう二度と出来っこない。あんなにドラマティックだったのに。
 それでも、夏油くんは優しい。その想いだけは捨てきれない。だって、最後の一枚の写真に写っているわたしは、夏油くんの隣でこんなにも穏やかで幸せそうに安心しきったように眠っている。



20191023