水槽

 澄んだ青空の広がる五月の空の下、わたしは傑と並んでゆっくり歩いている。こんな日くらい高専の外に出かけたいけれど、昼休憩が終わればまた授業。もったいないなぁ。ちらりと隣の傑を見上げると、わたしの視線に気づいた傑はふっと口元を綻ばせてわたしのゆびさきを握り込んだ。

「君の考えていることが手に取るように分かるよ」
「じゃあ当ててみて」
「このまま出かけたいな、だろ」
「さすがでございます」

 顔を見合わせて声を出して笑い合う。傑が笑うとわたしも嬉しい。どうにかして伝えたくてぎゅうぎゅうとめいいっぱい力を込めて傑の手を握ってみる。

「あんまり強く握ると私も痛いよ」
「嘘ばっかり。全然効いてないじゃん」

 他愛もないやり取りが愛しくて楽しくて、握った手をぶんぶんと大きく振りながら歩いていると「それは少し恥ずかしいかな」と言ってわたしの手を止めようとするので、わたしもそれに逆らってまた笑う。

「夏油くん、その女の子が例のこの子かい?」

 高専内にある中庭では今、芍薬が咲き誇っている。その中でしゃがみ込んで手入れをしていた庭師のおじいちゃんが、曲がった腰をよっこらしょと伸ばして傑に向かって小指を立てた。
 急に現れたおじいちゃんにわたしは驚いてぴたりと足を止めたけれど、傑にとってはいつものことらしい。特に驚いた素振りも見せず、「ええ、そうです」と言って繋いでいた手をほどいておじいちゃんと話し始めてしまった。

「かわいい子じゃないか」
「そうでしょう。私の彼女ですから」

 離れてしまった体温をさみしいなと思いつつ、手持ち無沙汰になったわたしはぺこりとお辞儀だけしてしゃがみ込んだ。わたしの目の前でわたしのことを話すから恥ずかしくなってしまった。芍薬の花にそうっと触れながら二人の会話が終わるのを待っていると、わたしの隣におじいちゃんがしゃがみ込んで、じっと見つめられる。あまりにも見つめられるから、困ってしまって視線をうろうろ彷徨わせているとにこりと微笑まれて、胸の底がじんわりとあたたかくなったような気がした。きっとこの人は、心の隙間に入り込む術に長けているのだろう。慎重な傑と仲がいいことがその証拠だ。

「気に入ったなら切ってあげよう」
「え、でも……」
「あんたなら上手に愛でてくれるじゃろ。花もそう言っとるわい」

 そう言ってあっという間に、ブーケを作ってしまった。手渡されるときに「芍薬は夕方になると花をとじてしまうから驚かんようにな」と添えられ、初めて知った知識を共有したくて傑を見ると何故だか可笑しそうにくつくつと笑われて、少しむっとする。

「何がおかしいの」
「いや、何でも。しいて言えば可愛いなって思っただけだよ」
「ふーん……」

 本当のこととは思えずじとりと傑を睨んだけれど彼はもうだんまりを決め込んでしまったようだ。庭師のおじいちゃんはわたし達をにこにこと見ていて「ばあさんに会いたくなったからさっさと仕事終わらせて帰るわの」とまた芍薬の花畑の中に消えていった。
 芍薬のブーケを抱えて傑の隣に立つと、傑はわたしの歩幅に合わせてゆっくりと歩き始めた。先ほど笑われたときの名残が傑の唇の端に残っていて、肘でちょんちょんと突つけば観念したかのような溜息を吐き出して空を見上げた。

「君と芍薬はよく似ているなと思っただけだよ」
「え! それって、立てば芍薬座れば牡丹的なやつ?」

 まさかの例えに嬉しくなって目を輝かせて傑の腕を掴めば、傑は堪えきれないとばかりに吹き出して声高らかに笑い出してしまった。

「ははっ、まあそれもそうだけど夕方になるととじるってところがさ」
「……どういうこと?」
「だって、君、夕方になると恥じらって足を閉じるだろ。ほら、私の部屋でさ」

 その言葉が全身を駆け巡ってわたしの血液をかき混ぜてゆく。何のことを言っているのかようやく理解したわたしの頰は信じられないくらいに熱を持っている。思いっきり手のひらを傑の背中に打ちつけて「さいっていっ!!︎」と叫んだけれど、こうなった傑はわたしのことを散々いじめ倒すからタチが悪い。

「でも夕方だけじゃなかったね。この前空き教室でしたときは、真っ昼間だったから」

 傑の煽りを無視してずんずんと歩き始めたけれど、彼の長い足ではすぐに追いつかれてしまう。それから、ぐっと頭を抱き寄せられ耳に唇を寄せられ、肌を粟立たせたわたしを傑が見逃すはずなんてない。

「出かけたいって言ってたけどこのまま外がいい? それとも中? 私はどちらでもいいよ。手綱は君の手の内だ」
「……授業は?」
「サボろうか。このまま二人でさ」

 わたしに手綱などあるわけない。人のいい笑顔で人をたぶらかすこの男は、手綱をぶら下げてわたしがかかるのを待っている。簡単に食いついて離さないことを身をもって知っている。ごめんね、わたしは芍薬なんかじゃない。傑に飼われて餌をぶら下げられたいだけの、ただの魚にすぎないのだ。


20200510