めくるめく、春

 季節が巡るのを感じるとき、隣にはいつだって傑がいた。肌を撫ぜる風も、二人を包む香りも、鮮やかな景色も、鼓膜を震わせる低音に混じる虫の声も、二人の舌の上で溶かし合った味も、すべて一緒くたになってわたしという人間を構成している。

「わたしは傑で出来ているのかもしれないね」

 そう言ったときの傑の顔といったら可笑しくて可笑しくて思わず笑ってしまった。きょとんと目を見開いたかと思えばにこりと微笑んで、それから照れたような困り顔をした後に大きな手のひらで自分の瞼を覆ってからこう言ったのだ。

「やめてくれ。欲情する」

 落ち始めた椿の絨毯の上にわたし達は立っている。高専の植木の手入れをしに来ている庭師さんにもらったという剪定バサミを片手に持った、この大きな男の取る行動のちぐはぐさが可笑しくも愛おしい。

「いつまで笑っているつもりだ」
「傑がわたしを黙らせるまでずーっとだよ」
「あ、そう。じゃあ覚悟して待ってなさい」

 くすくすと笑い続けるわたしにムッとしたのか、傑はわたしに背を向けて無言で椿の枝を見繕い始めてしまった。
 こうやって傑の拗ねた背中を眺めるのが好きだ。もちろん優しくて穏やかな傑も好きだけど、広い背中で子どもみたいに不満を伝えようとするのはきっとわたしにだけだから、傑を独り占めしてるみたいで嬉しくなる。
 綺麗だな。どうしてこの人にはこんなに真っ赤な椿が似合うのだろう。人差し指と親指で作った四角いフレームの中に傑と椿の花をおさめていると湧き上がるのはいつだって、傑に恋焦がれた日に抱いた鮮烈な嫉妬と劣情だ。

1.
 わたしが傑に恋をしたのは16歳の冬だった。
 寒い中、外での体術訓練を終えて疲れ果てたわたしと硝子は椿の生垣に沿ってゆっくりと校舎へと歩を進めていた。その前方にはまだ体力が有り余っているのか賑やかな声を上げながら話をしている悟と傑が歩いている。
 悟の声はよく通る。離れていても悟の声のおかげで二人の会話はわたし達にも筒抜けだ。あの技はよかった、あの技は使えない、今回も俺の勝ち、腕落ちたんじゃねえの。訓練の反省をしてると思っていたのに、段々と雲行きが怪しくなってきた。悟を見る傑の目に苛立ちの色が混じって、いつ喧嘩が始まってもおかしくない。悟がああやって煽るのはいつものことなんだから流せばいいと思うのに、傑も案外子どもで堪え性がない。
 逃げる?
 硝子と目配せしたところで悟が「疲れたし甘いもん食いたいな」と言ったのが聞こえて、自然と二人で前方の男たちに視線を戻す。険悪だったように見えたのにあっという間に元どおり。男の子って本当によく分からない。

「じゃあとりあえずこれ、吸っておけばいいんじゃないか」
「あ?」

 立ち止まった傑につられて悟とわたし達も足を止めた。
 その瞬間に吹いた風が赤い椿の絨毯を巻き上げて、真っ黒なわたし達の制服を飾り立ててゆく。冬を纏った風はまだまだ冷たくて頰を刺すけれど、首からそのまんま落ちた椿がすぐそこに春が来ていることを知らせている。
 乱れてしまった髪を撫でつけながら見たのは、さっきの風で落ちてしまった椿を拾い上げ、口にくわえた傑だった。その光景に頭から串刺しにされたみたいに動けなくなる。目の前に星が爆ぜて、息が止まる。わたしはこの男に見惚れている。それを自覚した瞬間、すべてを分かっているみたいに傑がわたしを射抜いて目を細めるから、わたしはまたたく間に恋に落ちてしまったのだ。
 椿って蜜吸えるんだ。小さい頃にツツジで同じように蜜を吸ったことのあるわたしは傑が何をしているのかすぐに理解出来てしまったけれど、蝶よ花よと育てられた悟にはそんな経験はなかったらしい。うげぇといった顔をして傑を見るから、椿を口から離した傑は苦笑して生垣から良さそうな椿を物色して悟に手渡した。

「蜜が吸えるんだよ。ほら、ここ。口にくわえて吸ってごらん。あ、でも悟はお坊ちゃんだからこんな俗なことしないか」
「はあ? 誰に物言ってんだ。やってやるよ」

 傑もやめておけばいいのに、さっきのお返しとばかりに煽り返すから悟もすぐにムキになる。でも素直だから傑の言ったとおりに椿をくわえて蜜を吸って「お、うまいじゃん」なんて言うから誰も悟を憎めない。

「だろ? なかなか甘いだろう」
「傑、なかなかやるじゃん」

 16歳になった男の子とは思えない二人の無邪気なふるまいが微笑ましくて、眩しくて、羨ましくて、わたしの胸はぎゅうぎゅうと締めつけられた。わたしもあの場所に立ちたい。わたしが男の子だったらあの場所に立てるのだろうか。女であることを後悔したことはないけれど、このときばかりはそう思った。
 生垣を彩る椿の花がもう間もなく全て落ちてしまう頃、わたしは傑と二人で任務をすることになった。低級呪霊を祓うだけの簡単な仕事を終えたわたし達は、あの日みたいに椿の生垣に沿って校舎に向かって歩いていた。
 傑は優しかった。任務に行く前も、任務中も、任務を終えた後も、わたしの歩むスピードに合わせてくれた。今から攻撃するよという目配せも、「怪我はないかい」と低く心地いい声で囁かれたときも、差し出された手のあたたかさも、全部全部わたしの恋心を煽って仕方がなかった。
 どうにかしてこの人を手に入れたい。そう思ったわたしは、傑に恋をした場所で歩みを止めた。傑もほんの少しだけ遅れて立ち止まり、わたしを不思議そうに覗き込んだ。

「わたしも椿の蜜、吸ってみたいんだけど」

 傑の制服の裾をちょんっと引っ張って、あざといかもしれないなと思いながら首を傾げる。細い目を見開いたのちぱちぱちと二回大きく瞬きをした傑は、わたしの精一杯のぶりっ子を馬鹿にすることなく、その挑戦状を受け取るみたいに妖艶に笑った。
 手渡された椿を口にくわえて吸うと、ほのかな甘みが舌先から口内に広がった。甘くて、切なくて、ほんのちょっぴり酸っぱいわたしの恋の味。

「どうだった?」
「うん、甘い。けどちょっと酸っぱい」
「そうだね。そう感じる人もいるだろうね」

 わたしと悟の他に一緒に蜜を吸った人がいるみたいな言い方にわたしは心臓を搔きむしられたような気持ちになった。乱される心拍を悟られたくなくて、胸元をぎゅっと握りしめて俯いていたけれど、「顔を見せてごらん。鼻の頭に花粉がついてるから」と言われてしまえばわたしは抗うことが出来ない。顔を上げて傑を見れば、傑はくちびるで綺麗な弧を描いてみせた。

「そんなに見つめて、どうかした?」

 それはこっちの台詞だ。傑は、わたしの瞳の奥に宿る熱を見透かすように目を細めて、それを優しく引きずり出すみたいな手つきでわたしの鼻の頭の花粉を取り去った。こんなの、ただのクラスメイトに対するやり方じゃない。でもそのずるさも好きだった。

「……キスしたい」
「それは意味があっての発言なのか?」
「意味が必要だって言う男なことに驚いた」
「失礼だな。私だってこう見えてまだ高校生なんだ。期待だってしてしまうよ」
「期待?」

 頰を包む傑の手が優しいのに優しくない。視線をほどきたくても、顔をそらせたくても許してくれない。それにあろうことか傑の親指がわたしのくちびるをふにっと刺激するので、わたしはその先を期待して柔く瞼を下ろしてしまった。
 傑のぬくもりが近づくのが分かって、心臓が早鐘を打つ。だけど、そこから先は何も与えてくれない。

「ほら、早く言ってごらん」

 触れるか触れないか。そんな絶妙な距離を保って傑は言う。分かっているなら聞かないでほしい。だけど、言わないと伝わることもない。わたしはこの人を何が何でも手に入れたいと願っていたから、わたしもこの人の望むままにしてあげたいとも思う。でも本当は、それよりも、言わずにはいられなかったという方が正しいのかもしれない。

「好き……」

 わたしが言い終わるのを待って傑のくちびるが触れた。お互いのくちびるがほんの少し形を変えて、それから口内で椿の蜜の味が濃さを増した。わたしと傑の初めてのキスは椿の蜜の味がした。

2.
 前々からそうかもしれないなとは思っていたけれど、悟が実はみんなでワイワイと騒ぐのが好きなのだろうと確信を得たのは桜が咲いた頃、花見をしたいと言い出したからだ。寮の悟の部屋からは満開の桜がよく見えるらしい。悟、傑、硝子、わたし。それぞれ好きなお菓子を持ち寄って悟の部屋にお邪魔したとき、開けた窓から春のあたたかで優しい匂いが広がって、悟にこの部屋があてがわれたことを羨ましいと同時にもったいないと思った。
 だって悟は自分から花見をしたいと言い出したくせに、早々にペロリとお菓子を平らげると傑とゲームを始めてしまったのだ。もしかすると花見はみんなで集まりたいがための言い訳だったのかもしれないと、テレビゲームをする悟と傑の背中を見て思う。満開の桜が手の届くところで揺れているというのに、ゲームをしながら唸ったり叫び声をあげてる二人も、それをぼんやり眺めながら茶々を入れる硝子とわたしも、もったいなくて、おかしくて、だけどこんな日常がずっと続いてほしいと願わずにはいられなかった。

「硝子、そろそろ交代してくれないか。少し休憩したい」
「しょうがないな」
「あー傑逃げんなよ」
「わたしじゃ不服か?」
「だって硝子強えんだもん」

 わたしの隣に座っていた硝子がすくっと立って、その場所に傑が腰を下ろした。体は触れ合っていないのにうっすらと体温を感じる絶妙な距離で、傑は片膝を立ててわたしの顔を覗き込んでいる。
目を合わせては駄目だ。どうしてかそんな勘が働いて頑なにテレビから視線をはがさないでいると、わたしのゆびに傑のゆびがちょんっと触れた。
 わたしと傑がつき合っていることはまだ悟と硝子には言えていない。特に秘密にしたい訳ではなかったけれど、ここで変に反応して揶揄われるのも嫌だったので暴れる心臓を宥めながら平静を装う。最初は偶然かなと思った。だけどいつまでたっても触れたゆびは退けてもらえず、わざとやっているのだと確信した。
 わたしが何の抵抗も示さないことを確認した傑は、どちらが先に根を上げるか我慢くらべをするみたいにするするとわたしのゆびを撫でた。そんなことされるともっと触れたくなって、もどかしくて、触れたところから伝わる熱が耳の裏にたまってゆく。それでも必死に堪えていたのに人さし指の輪郭からゆびの間をつうっとなぞられると、たまらずぴくりと腰が浮いてしまう。
 一体何のつもりだろう。目だけで抗議しようと傑を見ると、くつくつと押し殺したように笑っていて体が震えている。

「(す、き、だ、よ)」

 見間違いじゃなければ、くちびるの動きだけで傑はわたしにそう伝えた。愛しそうに目を細められて、ゆびさきを絡めとられる。そこから伝わる傑の体温が、わたしの涙腺を溶かしてしまう。悟と硝子が目の前にいるというのに、密やかに愛のささやきを交わしあって背徳的な気持ちになる。恥ずかしくて、だけど好きだという気持ちが溢れてきて、悲しくもないのに涙が目の表面を覆って、何だか胸がいっぱいになった。

「この後私の部屋に来ないか?」

 内緒話をするように耳にくちびるを寄せられてわたしは頷くことしかできない。こうなることを分かっていて、仕掛けているのだとしたら夏油傑という男は相当女たらしだと思う。だけど、首を縦に振ったのは正真正銘わたし自身だ。わたしもこの先を期待していた。
 先に立ち上がった傑はわたしを引っ張り上げて立たせ、それから繋いだ手を引いてわたしの体を近くに寄せた。

「悟、硝子、私達はこれで失礼するよ」
「はあ!? どういうことだよ?」
「私達つき合っているんだ。これ以上野暮なことは聞かないでくれ」
「はっ? おい!」

 今ここで言うのかと驚愕してしまったけれど、それは悟も同じだ。呆けた顔で慌てていて、六眼でも恋愛沙汰は分からないものなのかとぼんやり思う。硝子は何となく気づいていたようで、いつもの飄々とした顔でひらひらと手を振っていた。
 案内されて入った傑の部屋の窓から見えたのは、春の代名詞である桜を見ることのできる悟の部屋とは違ってどちらかといえば控えめな山手の景色だった。名も知らない花の揺れる素朴な春を感じられる部屋。それがなんだか傑らしくて妙に納得してしまう。

「悟とずいぶん仲がいいんだな」
「何? 今さらヤキモチ?」
「今さらじゃなくてずっと前から妬いてたさ。と悟、いつも楽しそうにお菓子の交換してるじゃないか」

 大きな体をしているくせに言っていることが可愛くて思わずぎゅうぎゅうと抱きしめた。実は悟とお菓子の趣味がよく似ていて、お花見のときだけじゃなく普段も、新作が出ると交換する仲だった。それを内心こんな風に思っていたなんて初めて聞いたからときめきが全身を支配してしまう。
 ふふ、と笑いながら傑の頭を撫でていると照れ臭くなったのか押しつけるような口づけをされて、そのまま押し倒されベッドに沈み込む。ゆっくりと名残惜しげにくちびるを離した傑はわたしの頬を撫でて「いい?」と聞いた。こくりと頷いたとき、傑はほっとしたような嬉しそうな顔で笑っていたのにやけに煽情的で、わたしの奥に潜む女の部分が目を覚ました気がした。
 誰の侵入も許したことのないそこは、傑のものを受け入れるには狭くてくるしくて、引きちぎられるような痛みを伴っていたけれど、傑が時折優しく囁いてくれるからその痛みも愛しく思えた。優しく、を心がけているくせに余裕のない顔をしているから、そうまでして中に入りたいのかと思うとますます好きが募ってゆく。
 傑からは春を纏ったような優しくて穏やかな甘い香りがした。きっとめいいっぱい春の風を浴びたからだ。傑を抱きしめていると春そのものを抱いているような気持ちになって、わたしはきっとこの先も、春を感じれば傑と初めて肌を重ねた日のことを思い出すのだろう。

3.
 高専生にとって夏休みはあってないようなものだった。年がら年中人手不足の呪術師は学生も関係なく駆り出された。だから少しでも夏らしいことがしたいと思ってオフの日に買い物に出かけ、白い波打ち際みたいなワンピースを買った。着る予定もなかったけれど、いつも黒を身に纏って鬱々としていた気分が少しだけ上がった気がした。
 傑は星漿体の件があってから少し元気がなく、当の本人はそれを悟られたくないようにふるまっていたからあまり詳しく話を聞けていない。傑は強いから割り当てられる任務はわたしのものと違ってとても難易度が高く、オフの日は少しでも休ませてあげたくて外に出かける頻度も減っている。
 その傑のオフの日に、わたしは今まで箪笥の肥やしになっていた白いワンピースを着て、一人でも持てる大きさのよく冷えた小ぶりのスイカを持って傑の寮の部屋の扉をノックした。

「いらっしゃい」
「見てみて! スイカだよ」

 傑にはスイカのことは何一つ知らせていなかったから、少し呆けたような顔をして、それからくすりと柔らかく微笑んだ。でも呆けたのはスイカを持ってきたからということだけじゃなくて、わたし自身にも理由があったらしい。

「スイカもいいけど、の格好が気になってそちらにばかり目がいってしまうな」
「どう? 今日初めて着てみたんだけど」
「かわいいよ。普段黒ばかりだから白って新鮮でいいな。思わず汚したくなるくらい」

 そう言って波打ち際ではしゃぐみたいにスカートの裾をひらひらともてあそぶから、傑のその手に自分の手をそっと重ね制止する。距離を詰めて傑の胸元を掴んでかかとをあげると、傑も少し屈んでちょんっと触れるだけの無邪気なキスが降ってきた。

「それはまたあとで。先にスイカ食べよ」
「あとでならいいってこと?」

 腰を引かれてぐっと密着する。傑とわたしの凹凸がまるであつらえたようにぴったりと合わさって、お腹の底がじんわりと熱を持った。そんなことされるとスイカなんてほったらかしにして性急に事に及びたくなる。だけどわたしは少しでも傑と夏を感じたかった。

「いいよ。あとでね」

 首を傾げてくちびるを突き出すと、かぷりと下唇に噛みつかれて、挑戦的に目を細められる。予感めいたものが背骨を駆け上がって、またたく間に体が熱で浮かされてしまう。
 潤んだ瞳を覗き込まれてしまえば、隠し通すことは出来ない。自分が言い出しっぺのくせに、もう早速我慢できなくなっている。だけど傑はこのもどかしい時間も楽しむ男だから、わたしは自分の言うことに責任を持たなくてはいけなかった。

「本当は今すぐがいいけど、折角だからその姿を楽しまないとね」

 そう言ってスイカを持ち簡易キッチンに向かう傑の背中を追いかけて、二人で手早くスイカを切る。夏の日差しはレースカーテン越しにも眩しくて、真っ赤に熟れたスイカを宝石みたいに輝かせていた。
 二人で並んで座りスイカにかぶりつくと、青くさく瑞々しい甘い香りが部屋中に広がった。心地いい冷たさが体の内側にたまっていた熱を静かに鎮めてゆく。だけど隣でスイカに歯を立てる傑を見ると、わたしのこともあんな風に攻め立てていたなって、これからあんな風にされるのかなって、そう思ってしまって結局熱がぶり返してしまう。

「どうした?」
「あ、いや、なんでも」
「ここ、汚れているよ」

 傑の指差すところをみれば、いつのまにかワンピースの胸元に赤い水玉模様が出来ていた。ああ、やってしまった。今から水で濡らせばまだ間に合うかもしれない。
 そう思って立ちあがろうとしたのに出来なかったのは、傑に手首を掴まれてそのゆびに舌を這わされたからだ。

「ちょっ、なにして……」
「だってここにもついてたから」

 甘い道すじに沿ってぬるりとしたあたたかな感触が与えられ、ぞくぞくと快感が駆けめぐり体の力が抜けてゆく。そのまま傑にゆびを咥えられたまま床に押し倒されて、抗議しようと口を開けば傑のゆびが口内に突っ込まれ涙目になる。

「んぅ……」
「どう? 私のも甘いかい?」

 甘い、甘いよ。甘くて熱い。
 こくこくと頷くことしか出来ないでいるとその姿に満足したのか、傑はにっこりという言葉がぴったりの笑顔でわたしの足あいだに自身の膝を割り込ませた。そのゆびで舌を弄ばれてしまうと抵抗なんてどうでもよくなってしまう。それをきっと傑もよく分かっている。わたし達が持て余している熱はスイカなんかじゃ鎮められない。

「私が先に汚したかったのにな」

 傑はそう言って、着衣のままわたしを抱いた。いつもより少し乱暴で余裕がないように見えた理由が分からなかったけれど、揺さぶられている最中に「君は生きているんだな」と心臓に手を添えられたとき何だかぴんときてしまった。傑にはもしかすると胸元のスイカの染みが血みたいに見えたのかもしれない。そう思うとどうしようもなく慈しみの感情が湧いて出て、ぎゅうぎゅうに傑の体を抱き締めた。

「生きてるよ。だから、もっといっぱいわたしを感じて」

 傑の手を取って自ら胸のふくらみに導けば、傑は一瞬目を見開いてくつくつと喉を鳴らして楽しそうに笑った。

がいてくれてよかった」

 眉尻を下げた傑が、涙の滲むわたしの目元を拭って、それでもわたしの目からはとめどなく涙が溢れてくる。
 傑が泣けないのならわたしが代わりに泣いてあげる。
 傑のこめかみを伝う汗が目尻からこぼれた雫みたい。それがいっそう感傷を引き立たせていて、わたしはきっと夏の鮮やかな色彩の中で初めて見た傑の弱さを忘れることは出来ないのだろう。

4.
 生ぬるい風が肌を撫ぜたとき、ほんの少しかさついていて、気づけばあんなにうるさかった蝉も姿を消していた。刺すような日差しも丸みを帯びたように穏やかになって、何となく秋の気配を感じるようになった。

「ちょいとお嬢さん」

 昼休憩の時間に自販機へ向かっていると背中からあまり聞きなれない年配の方の声がして、振り向けば傑とよく話をしている庭師のおじいちゃんがにこにこと親しみやすい笑顔で立っていた。

「わたし、ですか?」
「そう。あんた、夏油くんの彼女じゃろ」

 わたしとこのおじいちゃんは五月に一度だけ話したことがある。そのとき傑に「私の彼女です」と紹介されてとても照れ臭かったのを今でもよく覚えている。あれっきり話す機会がなかったけれど、顔を覚えていてくれて少し嬉しい。
 おじいちゃんは手にぶら下げていた袋を差し入れだと言ってわたしに押しつけた。何がなんだか分からず困惑していると眉尻を下げたおじいちゃんは視線を遠くに遣った後、わたしの瞳を覗き込むようにして口を開いた。何か大事なことを言おうとするような仕草だったから、わたしは思わずぴんと姿勢を正して耳に神経を集中させた。

「夏油くん、最近元気がなさそうじゃからこれでも供えて一緒に月見でもしなさい。今夜は十五夜じゃ。綺麗なもんを見ると元気が出る。あんたも綺麗じゃし、綺麗なもんを綺麗な人と見りゃあ夏油くんも元気が出るじゃろ」
「え、わたし綺麗ですか」
「年寄りの目から見ても綺麗じゃし、夏油くんも綺麗だって言ってたわい」
「傑も?」
「じいさん、駄目だよ。それはには内緒だから」

 急に傑の声がして心臓が跳ねた。後ろを振り向けば、ポケットに両手を突っ込んだままこちらへ歩いてくる傑がいて、わたしと目が合うとはにかんだように肩をすくめた。

「そんなこと言っとったかの」
「言いましたよ」

 とぼけた振りをするおじいちゃんに傑が苦笑する。それからすっかり二人で話が盛り上がってしまい、手持ち無沙汰になったわたしは自販機へ飲み物を買いに走った。傑の些細な機微を感じ取れるくらいに傑のことを見てくれている人がいるということ。それが嬉しくて、心がぽっとあたたかくなる。
 おじいちゃんにお礼をしようと、自分のもの以外にもう一つお茶を買って二人の元へ向かう。戻った頃にはちょうど別れる寸前だったようで、おじいちゃんにお茶を手渡し、わたし達はその場を後にした。

「この紙袋、何が入ってるんだろう」
「じいさんの奥さんが作った月見団子だって」
「そっか。今日十五夜だもんね」
「ということで私の部屋でお月見でもする?」

 わたしを覗き込んだ傑の目に灯っているのは何も純粋な光だけじゃない。どこか獰猛で凶暴な、食い尽くしてしまいそうな捕食者の目をしている。わたしは部屋でされるだろうことを分かっていて頷いたのだ。
 日が落ちてシャワーを浴び、髪が乾ききるのを待ちきれずに生乾きのまま傑の部屋に向かう。ノックしたドアから現れた傑は「まだ濡れてるじゃないか」と言いながらわたしを部屋の中へ招き入れ、濡れた髪をかき分けてうなじに舌を這わせた。

「んっ」
「ちゃんと乾かさないと風邪をひくよ」
「傑に乾かしてもらおうかと思って」
「それはどう意味だい?」
「言葉のとおりだよ」
「そうか。分かった」

 傑は元々細い目をさらに細めて、赤い舌で自身のくちびるをペロリと舐めて、部屋の電気を消した。
 ドライヤーで乾かすか。それとも二人が生み出す熱で乾かすか。その二択のつもりで言ったところ、傑は後者を選んだらしい。わたしだって望むところだ。
 月明かりの下で見上げた傑は、彼自身が発光しているように見えて神さまみたいだった。見惚れてしまうほどに神聖で、だからこそ遠くに行ってしまったように感じて不安に思う。けれど、ぶつかる肌の熱さが夏油傑という人間がここに存在していることを証明していて、わたしの中が傑で満たされるたび泣きそうなくらい胸が締めつけられた。
 肌を重ねた汗ばむ体を冷やすためか傑は暑いといって窓を開けた。柔らかに吹いた風がカーテンを揺らして夜露の香りと虫の声を運んでくる。

「見てごらん。綺麗だよ」

 もうすっかり西へ傾いているだろうお月様を見るためにシーツを体に巻きつけて傑の隣に立つ。星の光をかき消すほどに眩しい満月は夜空にぽっかりと穴をあけるように浮かんでいて、眺めていると吸い込まれてしまいそうだった。

「満月の夜に結ばれた男と女は永遠になるって知ってた?」
「ほんと? じゃあわたし達ずっと一緒だね」

 傑に腰に手を回され言われた言葉に嬉しくなって勢いよく見上げる。すると傑は少し驚いたような顔をしてからくつくつと愉快そうに笑い出した。緩む口元を手で隠すような仕草は、わたしをいつもからかうときの癖のようなものだった。
 笑い続ける傑の腰を肘で突いてしかめっ面で抗議すると「ごめんごめん」と言葉だけの謝罪をされてムッとする。

「本当は私が適当に考えただけだし、ちょっとクサいかなって思ったけどそうやって喜んでくれるんなら言ったかいがあったよ」
「なにそれ。でもそんなに笑わなくてもいいじゃん」

 頬を膨らませると眉尻を下げて困った風に笑われた。わたしは傑のこの顔に弱い。いつだってすべて許してしまいたくなるくらいに傑の優しさと愛情がにじみ出ていて、心に渦巻く不安や怒りといった負の感情を溶かしてなくしてしまう。

「でもずっとと同じ景色が見たいと思ってるのは本当のことだから」
「それはわたしもだよ」

 傑の顔がゆっくりと近づいて鼻先をぶつけられる。目をつぶれの合図だ。それでもからかわれた仕返しのつもりで目を閉じなければ、諦めたように乱暴に口づけられて思わず頰が緩んでしまった。
 月の光を吸い込んで輝く夜露を風が飛ばして散ってゆく。満月でかき消された星の光はここにあったのだ。きらきらと煌めいて、世界はこんなにも美しく、守る価値のあるものだと教えてくれているような気がした。
 本当は永遠なんてないってこと、二人とも分かっている。呪術師として命が儚く消えてゆく瞬間を見たことだってある。いつかわたし達の命の灯火もあんな風に消えてしまう日がくるかもしれないことだって分かっている。だけど夢くらい見てもいいでしょう。束の間の永遠は、わたし達二人の存在証明なのだ。


5.
、終わったよ」
「え、ああ、うん」

 傑は伸びた枝の先にはぐれてしまったように咲いていた椿を何本か切って抱えていた。もう落ちる寸前のぐらぐらになった椿の花を大事そうに持つ様がこの男がとても優しいことの証のようだ。
 それから、しゃがみ込んでぼんやりと傑を見上げていたわたしを立たせて、足早に歩き始めた。握り込まれたゆびさきがまたたく間に熱を持って、二人の境目が曖昧になる。きっと、さっき言ったとおり傑はわたしを黙らせるのだ。傑のくちびるで塞がれて息もできないくらいに。

「何か考えてた?」
「うん。わたし達つき合ってもう一年経つんだなって思ってた」
「そうだね。あの頃の私達はあんなにウブだったのにいつのまにこんな風になったんだろうね」

 傑は部屋に入り花器に椿を生けると、わたしとの距離を一歩、二歩とゆっくり確実に詰めてゆく。逃げるつもりは毛頭ない。手の届く距離に傑が来ればわたしは傑の胸元をぎゅっと掴んで顔をあげた。傑の腕が力強くわたしの腰を引き寄せて、反対側の手が後頭部に差し込まれる。ぐっと首をそらされると息をつく間もなく室内が湿っぽい息づかいで満たされてしまった。
 最初から奥底を犯すような口づけだった。何度も何度も角度を変えて深く口づけられるものだから酸素が足りなくなって頭がうまく働かない。足の力も入らなくなって縋りつくように傑の首に腕を回せば、体が軋むくらいに抱きしめられていよいよ呼吸が苦しい。

「…っ…ふ、…す、ぐ……る、」

 息つぎの隙間からやっとのことで彼の名前を呼べば、どちらのものかも分からない唾液を光らせた傑が意地悪く笑って、期待にも似た何かが背骨に沿ってぞくぞくと駆け抜けてゆく。

「黙らせて、って言ったのはの方じゃなかった?」

 こっちは息も絶え絶えだというのに余裕そうに目を細められて腹が立つ。腹が立つけれど、それよりももう、早く傑に散々に啼かせてもらいたかった。

「…わ、たし……黙れる自信、ない……」
「まあ、そうだろうね」

 呼吸を整えている最中だって耳たぶから首すじに沿ってつぅーっとなぞられてしまえば自分のものじゃないみたいなはしたない声が出てしまうのに、これから与えられるだろうもののことを考えるとやっぱり無理な話だ。

「じゃあ今日はずっとキスしながらしよっか」

 耳元で囁かれたその言葉にからだの芯がとろりと熱を持つ。わたしの答えを聞くことなく傑は再びわたしの口を塞いだ。それから、ずっと、わたし達のくちびるは合わさったまま離れなかった。そんな風にしたのは初めてだったからわたしは最初から最後までぐずぐずだった。
 繋がっては寝て、繋がっては寝て。次の日がオフの日はそうやって過ごすことも多いから、傑の部屋で朝を迎えるのはもう何度目か分からない。
 カーテンの隙間からは淡いすみれ色の光が漏れ出して、もうすぐ日が昇ることを知らせている。隣で一緒にくっついていたはずの傑はわたしが目を覚ましたのに気づくと「温かいお茶をいれてくるよ」とベッドから出ていってしまった。体温が恋しくてさみしいけれど、わたしは傑が情事後にいれてくれるお茶が好きだ。体を冷やすとよくないから、とわたしを労わる傑の優しさが溶け込んでいるみたいで。部屋の温度だとか、匂いだとか、目に映る景色だとか、そういったものも一緒くたに煮出したみたいで。傑を構成しているものを飲み干しているような気持ちになる。
 傑はわたしにお茶を手渡すと、椿を生けた花器の下に垂れた蜜を人さし指で拭ってぺろりと舐めた。その姿がわたしのものを舐めたときと重なってまた疼いてしまうのだから、底がなくて少し怖い。

「初めてのキスは椿の蜜の味がしたよ」

 誤魔化すために振った話題に、傑は何か企んでいる少年のような顔をした。あまりいい予感がしなくて、近づいてくる傑の肩を押したけれどそんなことで傑が諦めてくれるはずがない。わずかに開いたくちびるの隙間からねじ込まれた舌は椿の蜜の味がした。

「どう? 初心にかえれた?」
「……なんかむかつく」

 苦虫を噛み潰したように顔を歪めると傑は珍しくお腹を抱えて笑いだした。この男は全部分かってやっているのだ。わたしがまた傑を欲しくなっていること、それを誤魔化したこと、今さら初心になんて戻れないこと、わたしがこうやって怒るだろうこと。全部全部分かってわざとやっている。だけど、傑が笑うとわたしも嬉しい。からかわれたこともすぐに許してしまう、傑の前ではちょろい女だ。

「このキスも次の椿が咲くまでおあずけだ」

 傑の口から"次"が出たこと。それがとても嬉しくて何だか泣きそうになってしまった。
 傑はわたしの体がシーツにくるまっているのを確認してカーテンを少しだけ開けた。春の朝は柔らかで穏やかな心地にしてくれる。傑のいれてくれたお茶はまだ湯気が立ち上っていて、その一粒一粒の水滴が朝の淡い色を散乱させている。まるで部屋中にすみれ色のベールを下ろしているみたい。

「また、春がくるね」
「そうだな」

 振り向いた傑がいつになく優しく笑うから胸がじんわりと熱くなって、わたしはこの人のこの笑顔を守るために生きているのだと確信した。抱きしめたくなってシーツをぐるぐる巻きにして傑の隣に立つと「私も入ろうかな」と傑も一緒に入り込んできた。
 シングルサイズのシーツに二人で入るのはとても狭い。だけど、その分くっつけるから気持ちよくて、狭いよってじゃれ合うのが楽しくて、ぎゅうぎゅうになりながら二人で身を寄せ合っていると笑顔が絶えなくて胸がいっぱいになる。

「季節が通り過ぎるとき、いつもがそばにいたから、きっとこれからもそれを感じるたびに触れたくなるんだろうな」
「触れたらいいじゃん。いつだって、こうやって。ずっとそばにいるんだから」

 かかとをめいいっぱい上げて自ら傑にキスをすれば、傑も負けじとキスを落としてくれるから可愛くてかわいくて愛おしい。
 そうだね。いつも二人で季節の移ろいを感じてきた。だからこれから先、任務でそばにいないことがあったとしても、季節を感じれば隣にいる気がして強くなれるし、季節の移ろいを感じるたびにわたしはあなたに抱かれる気さえするのだろう。
眩しくてくらくらする。だって、この世界から四季がなくなるそのときまで、わたし達の春は終わらないのだ。



20200301 企画サイト『クリティの蜜涙』様に提出しました