お口をリボンで結びましょう

 夢を見た。
 外から帰ってきたばかりの先生が、寒い寒いとこたつで暖をとるわたしの服の裾から氷みたいに冷たい手を差し込んでゆるゆると背骨をなぞり上げてゆく。それから、ひっ、と声にならない叫び声をあげたわたしのお腹に手を回して後ろから引き寄せた先生が、砂糖をまぶしたみたいに甘ったるい声をわたしの耳に注ぎ込むのだ。

「ごめんごめん。の反応がかわいくてつい意地悪しちゃうんだよね。ほら、言うじゃん。好きな子には意地悪しちゃうって」

 やわやわと肉感を楽しむように動く手の甲をつねって抗議のために見上げると、待ってましたとばかりに口づけが降ってくる。わたしの熱で凍てついたくちびるを溶かすみたいな、自分勝手なのにとても優しいキスだった。
 これが夢だと気がついたのは、先生は冗談でもわたしに好きだと言ったことがないからだ。夢の中のわたしはしあわせに満ち満ちているのに、心臓から膿が出るみたいにじわじわとさみしさや虚しさが襲ってきて胸の奥がひりひりする。夢と現実の温度差に引きちぎられるような心地で目が覚めてしまった。
 重たいまぶたを持ち上げれば、カーテンが陽の光を透かしていて、夜の闇はすっかり部屋の隅へ追いやられてしまっている。お腹のあたりが少し重く、さするつもりで手を伸ばせば骨ばった温かいものに触れて瞬時に理解する。あんな夢を見てしまったのは、隣で眠るこの男が原因に違いない。大きな体を窮屈そうに折り曲げてわたしを抱き枕のように抱え込んだ先生は、すうすうと穏やかな寝息を立てている。
  長期任務だといってしばらく東京を離れていた先生と会ったのは一ヶ月近く前のこと。きっと出張帰りにそのまま寄ってくれたのだろう。床にはボストンバッグが無造作に置かれていた。
  ごろりと寝返りを打って先生の顔をまじまじと見る。普段見上げることばかりのその顔を真正面から見るのはなんだか新鮮だった。びっしりと生えそろって扇状に広がる雪の結晶みたいなまつ毛にそうっと人さし指を伸ばしてみる。体温だけでほどけてしまいそうなのに、それは確かな質量を持っている。触れるとわずかにふるりと震えるだけで先生は目を覚まさなかった。
 体を起こしてほんの少しカーテンを開けるともう一枚レースカーテンがあるみたいに世界が朧げで、外はだいぶ冷え込んでいるのだと見てとれた。先生のゆびさきをぎゅっと握り込んでみる。今はすっかり血が通っているのが分かるくらいにあたたかいけれど、この部屋に来たときはとても冷たかったのだろう。だからわたしの背中に手を入れて暖をとってきっとそのまま眠ってしまったのだ。服の裾が乱れてしまっているということはつまりそういうこと。起きているときも寝ているときも関係なく、わたしの反応を嬉々として楽しむそういう男なのだ。
 起こさないようにベッドを出て冷蔵庫に向かう。先生が来るなんて思ってもみなかったから朝食として出せるものがほとんどない。しょうがない。寒くて出かけるのは億劫だけど、パンでも買って来てあげよう。
 適当に準備をして先生の顔をのぞき見たけれど相変わらず規則正しく胸が上下している。ハードな任務だったのだろうか。いつもなら、わたしが先に起きたときはそう時間をあけず起きてくるのに。
  行ってきます。心の中で呟いてからマフラーをぐるぐる巻きにする。そういえば先生が好きそうなパン、新作で出てたな。買って帰ったら喜んでくれるかな。目を細めて笑う先生を想えば寒さなんて物ともしない。わたしはそうっと玄関扉を開けて、冬の朝のきりりと澄んだ空気を思いっきり吸い込んだ。



  かちゃり。帰ってきて鍵を差し入れ回してみるとどうしてだか鍵が閉まってしまった。ひやりと冷たいものが背骨に沿って駆け抜ける。
 かけ忘れたかな? 記憶を遡ってみてももう思い出せない。先生にバレたら不用心だって怒られてしまうかも。でも中にいるのは先生だし大丈夫でしょ。
 そう考えると妙な安心感がわたしをくるんで気が大きくなった。特に危機感もなく扉を開け、からだを半分自宅へねじ込んだ。その瞬間。腕を引かれ、何が何だか分からぬうちに背中に鈍い痛みがはしる。

「いたたた……」
、上向いて」
「え、……んんっ!?」

 言葉どおり上を向こうとしたのに、そのわずかな時間も惜しむくらい性急に顎を掴まれ、呼吸を奪われる。まるで海に突き落とされた気分だ。言いかけた言葉が先生の舌先に弄ばれ喉の奥に消えてゆく。今までの空白を埋めるような深い口づけのせいで、思考を放棄せざるを得ない。壁に押さえつけられているのはかろうじて理解は出来ても、どこの壁かは分からなかった。先生はわたしの口内を犯しながら巻いていたマフラーをほどいて床に投げた。それでも息苦しさは変わらない。
 縋りつくように先生の胸元を掴めば、わたしが崩れ落ちないよう足のあいだに膝が割り込んできて逃げる術を奪われる。それと同時に、二人のからだの間にある空気ですら憎らしいとばかりにぎゅうぎゅうに抱きしめるので、胸に抱え込んでいたパンの袋がかさりと音を立てた。それが、わたしの理性を呼び戻した。キスは気持ちいいし、嬉しいし、先生のことも大好きだけど折角買ったパンをつぶしたくはない。
 慌ててドンドンと先生の胸を叩いて抗議すると、くちびるを離した先生は恨めしそうに眉をひそめた。

「……ちょ、ちょっとパンが」
はさ、久しぶりに会った僕とのキスとパン、どっちが大事なわけ?」
「パンです」

 なんなんだろう、面倒くさい彼女みたいなその質問は。即答したわたしにあからさまに面白くないといった顔をした先生は、はぁーっと長ったらしい溜息を吐いて少し寝癖のついた頭をかき回した。

「心配したんだよ。起きたらいないし、鍵かかってないし」
「それは、ごめんなさい」
「なんなの、朝早くから起きて。今日仕事なわけ?」
「休みですけど」
「休みならもっと朝寝坊しようよちゃん」
「休みなので有意義に過ごしたいんです」

 文句垂れる先生を押しのけ、ほどかれたマフラーを拾い、キッチンへ向かう。買ったパンをお皿に並べて、戸棚に仕舞ってあった先生用のマグカップを出す。先生が家に来るようになって勝手に買ったペアのマグカップ。仲良く二つ並んでいるのを初めて見た先生は「もかわいいところあるじゃん」って照れもせず言ってのけて、わたしばっかり照れくさかった。先生に釣り合う女になりたいって思ってるくせにずいぶんと子どもじみたことしてしまったなって、少し後悔もした。
 それが今、久しぶりに並んでいるのを見るとやっぱり買ってよかったなって思う。胸の底がじんわりとあたたかくなって、とろとろとはちみつを落とされたみたいな優しい気持ちになる。
 まだぶつぶつと「こんなにグッドルッキングガイな僕を置き去りにするなんてどうかしてる」と、のたまう先生の喉仏にうんと背伸びして振り向きざまに口づける。本当はうるさい口を塞いでしまいたかったけれど、届かないから妥協策。それでも驚いたのか先生の喉仏はこくりと上下して、それからくつくつとさも愉快そうに笑い出した。

「いやぁ、もやるようになったね」
「心配しましたか?」
「もちろん。だから説教しようと玄関で待ってたんだし。大体僕だからよかったものの、他の人にもああやって待ち伏せされてキスだけじゃ済まないかもしれないんだから戸締りはきちんとすること」

  先生の優しいチョップが脳天を直撃する。誰かになんてゆるすわけがない。わたしが身も心も捧げているのは先生だけなのだ。もしそんな物騒なことがあるとすれば呪力を行使して身を守るに決まってる。先生もきっと分かって言っている。でも心配してもらえるのが嬉しいのに変わりはない。例えそれが教え子だからだとしても。
 はーい、と適当に返事をしながらコーヒーメーカーにマグカップをセットする。ほろ苦く香ばしい香りで部屋中が満たされると先生はわたしを後ろから抱きしめた。とがった顎がわたしの頭に突き刺さって少し痛い。

「せんせー、動きにくいし頭痛いです」
「だって玄関寒かったんだもん」

 アラサーに片足突っ込んでいるとは思えない男の語尾に苦笑しながらカップをダイニングテーブルに移す。先生はわたしが動いている間も体をぴたりとくっつけて、全然離してくれなかった。

「こうしてると僕たち新婚さんみたいだね」

 ぎゅうぎゅうとわたしを抱きしめながら言った先生の思ってもみない言葉にわたしの心が急速に冷えてゆく。一体なんの冗談なんだろう。このひとは、わたしの気持ちを知ってて言うのだからタチがわるい。

「新婚も何もわたし達つきあってないでしょう」
「好きって言わなかったっけ」
「言ってもないし、つきあうという契約はしていません」
「つきあってもない相手とこういうことしちゃうんだ。悪い生徒だね」
「それを言うなら先生だって教え子に手を出すなんて悪い先生ですね」
「はは。まあ元、だけどね」

 どの口が言うのだろう。いつまで経っても先生と生徒という関係は変わりないと呪いをかけたのは他でもない先生なのに。わたしが卒業しても散々適当にあしらってきたくせに。
 胸がきゅうっと悲鳴をあげて痛かった。込み上がってくる水気を押し戻したくてくちびるを噛みしめる。
  虚しくてやるせなくて、それでもどうしようもなく何年も何年もこのひとが好きで。対等でいたいのに対等に扱ってもらえなくて、こんな関係になってもずっとずっと子ども扱いされて。わたしはもうずいぶん前から子どもじゃない。身も心も大人にしたのは他の誰でもない、先生じゃないか。

「泣いた?」
「……泣いてないです」
「泣いてるくせに、強情だね」

 口では何とでも言えても、ふるふると震えるからだは正直だった。くるりと向きを反転させられて先生の硬い胸に額を押さえつけられる。わたしの精いっぱいの強がりを認めてくれるやり方がずるかった。宥めるように大きな手のひらが背中を上下して、みるみるうちに胸の痛みを溶かしてゆく。

、僕たちつき合おっか」

 その言葉にこぼれ落ちそうになっていた涙が引っ込んでしまった。しぱしぱと目を瞬かせてから先生を見上げると、少し困ったふうに眉尻を下げて笑っている。

「ごめんね。僕はもうとっくに好きだって言ってるつもりだったし、つき合ってるつもりだったんだ」
「え、つまりわたしは一人で勝手に勘違いしてたってことですか」
「いやいや勘違いしてたのは僕でしょ」

 ぽかんと開けたままのわたしのくちびるを先生のくちびるが覆う。角度を変えて何度も何度も。時折くちびるの柔さを確かめるみたいに軽く食んで。それから息つぎの合間に好きだって言うから、しあわせが押し寄せてくらくらしてどうにかなってしまいそうだった。夢にまで見た言葉を先生のその口が紡いでいる。

「返事は?」

  状況を理解した体が沸騰したみたいに熱い。首ふり人形のごとくこくこくと頷くことしか出来ないから、先生があははと声高らかに笑いだしてむっとする。このひとには情緒もへったくれもない。好きだから憎めないけれど、それでもやっぱり悔しくなる。

「いやぁ、いつも澄まし顔ののその表情見れただけで大満足。ってことで悟って呼んでみなよ。もう『先生』も聞き飽きたし」
「……いやです」

  素直に呼ぶと思ったら大間違いだ。今まで散々振り回されて、挙句笑われて、わたしだって先生を振り回したいと思うのは至極当然のことでしょう。
 先生はいつも従順なわたしが思いどおりにならなかったことに驚いたのか、貼り付けられたような不自然な笑顔でわたしを見下ろした。嘘だろこいつと言わんばかりの表情にわたしは密かにほくそ笑む。

「はあー? じゃあ呼ぶまでキスしてやんないよ」
「別にいいです。でも大丈夫なんですか」
「何が」
「だって先生、わたしとキスしたいでしょ。我慢できますか」

 わたしがたたきつけた挑戦状に、ふーん、あ、そうくるのね、と呟いた先生はいじめっ子みたいな顔をしている。それから好戦的に笑って、前から一緒に見ようと言っていた恋愛映画のディスクを差し出してこう言うのだ。

「じゃあ我慢比べやってみよっか」



 締めたカーテンの隙間から真昼のまばゆい光が漏れ出しているから、電気を消していても部屋の明るさは保たれている。ソファに腰かけて画面を見つめるわたしたちはいつのまにかぴたりと寄り添っていた。
 エンドロールが流れているその余韻の中、先生の長いゆびがわたしの輪郭をなぞっている。ぎゅっと肩を寄せてから耳のかたちをたしかめて、鎖骨をつうっと撫でてゆく。くすぐったくて気持ちよくて肩をすくめて、いやいやとかぶりを振っても先生はくすりと笑うだけでやめてくれない。それどころかゆっくりとわき腹から腰をなぞって下の方に指を這わせてゆくから、声にならない吐息がこぼれ落ちた。先生がそれを見逃してくれるはずもなく、わたしの耳に口を寄せて触れるか触れないかのところで湿っぽい息を吹きかけて容赦なくわたしを焚きつける。
  こんなに濃厚な濡れ場があるなんて知らなかった。こんなの、好きなひとと隣りあわせで見てしまったらあんなふうにしてよって思ってしまうじゃないか。長い間会っていなかったから尚のこと、簡単に火が大きくなる。こうなることを分かって仕向けてくるから嫌になる。
 ゆるゆると太ももをなでる手が時折足のあいだに伸びようとするから腰が浮く。でもそこから先はいきどまりだ。

「ほら、そろそろギブアップした方が身のためじゃない?」
「ん……しません、よ」

 そうは言っても触ってほしくて触ってほしくてたまらないのだ。先生の首に両腕を絡ませて引き寄せる。首すじは飾らないにおいがするから好きだ。肺を先生のにおいで満たすように息を吸ってそれから細く吐く。うなじの髪が揺れて、先生の息がほんのわずかに止まったのを空気の振動で感じ取った。

「せんせ、我慢しなくていいですよ」

 頭を持ち上げて鼻先をぶつけながら言ってやる。わたしだってやるときはやる。いつもいつもされるがままだと面白くないでしょう。現に先生は楽しそうに笑っている。

「それ、ベッドでも同じこと言える?」
「当たり前じゃないですか」
「ほんっと強情だね」

 ぐっと腰を引き寄せられてそのまま抱きかかえられる。うわ、高い。と思う間もなく狭いベッドに二人で沈み込んだ。
 冷たかった布団がまたたく間に二人の温度に変わる。先生の腕の中にぎゅうっと閉じ込められて、両足も先生の足のあいだに挟まれて身動きが取れない。服の裾から先生の手が入ってきて、直に皮膚に触れた。冷たいわけじゃないのに肌が粟立ったのは、先生の体温とわたしの体温が溶け合って同じになったことによる気持ち良さから。わたしを構成する骨や筋肉をひとつずつ確かめるように丁寧になぞる先生のゆびさきをもっともっと感じたくて目を閉じる。五感がひとつ封じ込まれると他の感覚がぐんと研ぎすまされて先生の鼓動がよく聞こえた。
 どんどん服が捲りあがっていくのに肝心なところには触れてくれない。そのもどかしさがお腹の底にたまって、どうしてもそれを逃したいから足をこすり合わせる。そしたら先生の足がわたしの足を割って入ってきて、それすら許されなくなってしまう。本当にいじわるなひと。

「さっさと言っちゃえば楽にしてあげるのに。たった三文字だよ。ほら言ってごらん」
「……や、です」
「あっそ」

 溜まっていく熱が涙に変わる。潤んだ目で見上げて抗議しても先生には通じない。体中が熱くって足のつま先まで血が通っているのが分かる。先生は少し苛ついたのかわたしの背中をなぞっていた手に力を込めた。

「あっ、そこ」
「ココ?」

 肩甲骨をはがすような動きにびりと電流が走り、ぎゅっと目を閉じる。先生はそこを強さを緩めずぐりぐりと刺激した。あまりの気持ちよさにどんどんと力が抜けてゆく。先生の心臓が規則正しくとくとくとわたしの鼓膜を震わせて、それが何だか無性に心地いい。

「んー気持ちいいです……」
「は? もしかして僕のことマッサージ師か何かだと思ってない?」

 先生の手がぴたりと動かなくなる。パズルのピースみたいにくっついていたわたし達の体も離されてしまって遠ざかる体温がさみしいけれど布団の中はあたたかくぽかぽかする。
 連日の忙しさに相当疲れていたらしいわたしの体は早々に意識を手放してしまった。だから先生が「え、寝るの? この状況で?」なんて慌てていたことも、呆れたふうに溜息をついて背中をぽんぽんと叩いてくれていたことも知る術を持ち合わせていなかった。



 突如として目が覚めた。眠りと覚醒のあいだを感じることなく、ぱっちりと。部屋全体が黄色味を帯びているし、隣のぬくもりはもう感じられないくらいに冷めきっている。さっと血の気が引いていく。頭は冴えわたっていて、すぐに状況を理解することができた。
 どうしよう。折角のふたりきりの時間、今度がいつ来るかも分からないのに棒に振ってしまった。
 まだ手も足もあたたかくて体だけ眠りの中にいるみたいで、ふらつきながらリビングへの扉を開ける。キイっと蝶番が音を立てて、開いた隙間からコーヒーの香りがした。心臓がぎゅっとなった。帰ってしまったにちがいない。どうしてかそう確信していたから、いい意味で期待を裏切られてうまく声を出すことができない。先生はソファに寝転がって何かを読んでいる。

「あ、起きた?」
「……はい」

 気配に気づいた先生がむくりと起き上がり、サングラスをはずしてテーブルに置く。掠れた声で返事をすると、ここに座れと自分の隣をポンポン叩かれたのでふらふらとそちらに歩いていく。先生をほうって眠ってしまったことが後ろめたくて、言われたとおり素直に座る。怖いくらいにこにこ笑っていて裏があるんじゃないかと思ったけれど、怒っているわけではないようでこっそり胸をなで下ろした。

「どう? よく眠れた?」
「はい、おかげさまで」
「僕をほっといて寝たんだからそうじゃなきゃ困るけど」
「……すみませんでした」

  笑顔で凄むから迫力がある。けれど、「ほんとにね」とくちびるを尖らせた顔がかわいくて思わず頬が緩んでしまった。
  拗ねている? あの五条悟が? そう思うと愛しくてたまらなかった。もう負けを認めてしまおうか。そう思ったところに先生はテーブルに散らばっていたチラシを一枚手に取った。先生がチラシに興味をもつなんて珍しい。不思議に思いながら覗き込むと、それはわたし達には馴染みのない釣具屋さんのチラシだった。

「ちょっとここ声に出して読んでみて」
「餌とルアー、どっちがよく釣れる?」

 先生がゆびで指すところを言われたとおりに読み上げる。意図が分からない。

「これがどうかし……んっ!」

  言い終わらないうちに両頬を挟まれて口づけられる。燻っていた火に薪をくべるみたいに先生の舌がわたしのくちびるを割って差し入れられたから背骨からくずれてしまいそうになる。目を閉じる暇もなくて涙目で先生の瞳を覗き込めば、好戦的に目を細められて急に恥ずかしさがこみ上げた。でもそれが確実に火種になる。
  わざと糸を引くようにくちびるを離した先生は勝ち誇ったようにわたしを見下ろした。それにすらぞくぞくするのだからどうしようもない。でも、納得がいかない。

「名前呼ぶまでキスしないって言ったくせに」
「呼んだよ」
「呼んでない」
「ほら、ここよく見てよ」

 乱れた呼吸を整えながら、再びチラシを見る。本当に意味が分からない。どこからどう見ても釣具屋さんのチラシだし、書いてあるのは『えさと……』。

「は? これってありですか?」
「呼ばせたもん勝ちでしょ」

 あまりにもずるく拙いやり方に開いた口が塞がらない。呆然と先生を見上げていると得意げに笑って「えさとるあー、釣れたのは僕でした」だなんてわたしの鼻の頭にキスを落とすから、思わず頰の筋肉が緩んでしまう。
 こんな手段を用いてもわたしとキスがしたかったのか、わたしに名前を呼んでほしかったのか、どちらか分からないけれどこの際どちらでもいい。この人の茶目っ気にあてられて毒気が抜かれてしまう。

「ふふ、……ふふふ」
「何かおかしい?」
「なんでもないでーす」

 先生が生まれたときに最初にもらった贈り物。それを呼ぶことを許してもらえる愛おしさ。だいじにだいじに唇をかたちづくる。それからこぼさないように、ちゃんと届くように丁寧に声帯を震わせて。

「さとる」

 首に腕を絡めてひたいをこつんと合わせる。先生はほんのわずか目を見開いてそれからくしゃりと笑った。気を許した相手にしか見せないような穏やかで優しい笑みだったからようやく対等になれたような気がした。
  こんなに嬉しそうに笑ってくれるなら意地を張らないでもっと早く呼んであげればよかった。

「さとる、好き」

  触れるだけの、じゃれあうような無邪気なキスをする。本当は何度も何度も心の中で唱えた名前。一度口をついてしまうとあふれ出てとまらない。くちびるを離しては名前を呼んで、くちびるを離しては名前を呼んで。
  悟。心の明るさを保つという意味をもつ名前は、今日みたいに気持ちに影がさしたとき引き上げてくれる先生にぴったりだと思った。だいじにだいじに『さとる』と紡ぐ。そしたら先生が下唇に吸いついて挑発するから隠れていたはずのいたずら心がちらりと姿を現した。

「これってわたしの勝ちでいいですよね?」
「はいはい。今回はそれでいいから残り時間有意義に過ごそうか。僕、待ちくたびれたよ」

 ゆっくりと背中からソファに沈み込む。積もった雪に埋もれていくような感覚だ。先生が触れたところから溶けて水っぽくなって、またその上から降り注ぐのが雪の結晶みたいな先生のまつげだからどろどろの体がそのまま保たれる。
 本当は分かってる。こんなことで勝った気になったって、わたしはいつだって先生のゆびさきから垂れた糸で踊らされていること。わたしの意思で出来るのはとびきりかわいく啼くことだけだ。先生の手のひらで踊り狂って、 足をもつれさせて、舌ったらずな声で名前を呼んで、何もかもお望みどおりにしてあげる。だから、先生もとろけるくらいに甘ったるい声でわたしの名前を呼んで。それからふたりのさかい目をなくしてしまおう。



20191207 五条先生 HAPPY BIRTHDAY! 五条生誕祭企画『夜擦』様に提出しました