シンデレラ、さあ祝杯だ!





※年齢操作あり




 繁華街に漂う酒気の合間を縫ってたどり着いた自宅の郵便受けを覗くと、一枚のポストカードが届いていた。絵の具をそのままべたりと塗りつけたような青い海に青い空。見ているだけでも分かるさらさらと細かな白い砂。その上で踊るように無邪気にはしゃぐひと組の男女。太陽の光を反射した水面のような真っ白なタキシードに、手に取ればほどけてしまいそうなくらいに繊細なレースのドレス。波打ち際からそのまま上がってきたような二人の姿に思わず、ほうっと感嘆の息が漏れた。
 冷蔵庫から缶ビールを持ち出してプシュっと開ける。先ほどまでのビアパーティで飲んでいた生ビールには劣るが、これはこれでうまい。適当にツマミを皿に開けてリビングソファに腰をしずめる。アルコールには強い方だが今日はいつもよりも酔いが早いように思える。二人の教え子の姿を眺めているとこみ上げてくるものがあって目蓋が熱くなる。どおりで、俺も歳をとったわけだ。
 先日、バレー部の合宿に珍しくが顔を出した。毎年行われるこの合宿には何人かの卒業生に手伝いを頼んでいた。ほぼ毎年顔を出す照島に対し、卒業以来顔を出していなかった。予感がした。簡単に予測がついた。彼女は人生の大きな転機を迎えようとしているのだと。
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 は俺が条善寺に異動してきて間もない頃にバレー部のマネージャーを務めていた女生徒だった。聡明でハツラツとした子で、愛らしい瞳から放たれる力強い眼差しが印象的だった。小さな体からは想像もつかないくらい大きな声を張り上げ、自由気ままな照島や母畑を叱り飛ばしていて、俺も部員たちも彼女を頼りにしていた。
 そんなしっかり者のも部活中に不注意でケガをしたことがある。何か悩みがあったのか体調が悪かったのか、今となっては確かめる術もないが、そこらへんに転がっていたボールを踏みつけて足を捻ってしまったのだ。珍しいこともあるもんだなと笑いながら彼女の足首に応急処置を施し、ふと顔を見上げると、彼女の耳がぶわりと真っ赤に染まった。唇を噛み締め、恥ずかしそうに顔を逸らされ、しっかりしてるように見えてもちゃんと女子高生なんだな、と安心したものだ。
 だけど、そのときからだった。は俺の目をまともに見なくなった。何か嫌われるようなことをしたのだろうか。あのとき笑ってしまったのがいけなかったのか。嫁入り前の女の子がおっさんに触れられたのが相当嫌だったのか。胸に手を当て反省はしたものの、過ぎたものはどうしようもなく、二度とないように気をつける他なかった。かと思えば熱っぽい視線を感じるし、「監督、」と呼ばれる声は微かに震えていて、怖がられているのかと思いきや、用があるときには躊躇いがちに腕を引かれるようになった。
 そんな駆け引きをいったいどこで覚えてくるのだろう。女ってものはいつから女の子から女になってしまうのか。大人になったって教師になったって、俺にはその難題を解くことは出来ないでいる。
  ただ、の抱いている気持ちに察しがついていたとしても俺は曲がりなりにも教師だ。他の生徒と平等に接するように意識的に心がけ、その想いには気づかないふりをした。
 それから迎えたと照島たちの最後の夏。合宿における限られた自由時間の合間に、風のよく通るベンチでと栗林のまとめたスコアを眺めていたときのこと。の遠慮がちな「監督、」という声がした。
 見れば木の陰からひょっこりと顔だけ出した彼女がいた。一緒に遊びたいのに仲間に入れない小さな子どもみたいで思わず頬が緩む。だめだ、ここで笑ってしまえば、また避けられてしまうかも。そう思っても、普段とのギャップに笑みが零れてしまう。「どうした?」と声をかければ「一枚スコアが抜けていて」と。お礼を言って受け取り、彼女がその場を離れるのを待っていたけれど、どうしてか彼女は何も言わず、ただただ俺の顔を見つめるばかり。どうしたものかと悩んだ挙句、横に座るように促し、二人でスコアを覗きこんであれこれ分析することにした。思えば、これがいけなかった。彼女の胸に芽吹く、ちいさな花はここで摘み取ってしまわなければならなかったのだ。
 夢中になっていたからか近づく真っ黒な雨雲には気がつかず、陽の光が遮られて初めて俺たち二人は空を見上げた。肌を撫で上げる風はひんやりとしている。まずいと思ったときはすでに遅く、大きな雨粒が俺たちを追い立てるようにばらばらばらと頭上の葉を揺らした。
  羽織っていた薄手のパーカーを傘がわりに二人の頭を覆い、大慌てで建物の屋根の下に滑り込んだ。否が応でも濡れた肌が密着して、冷えた体に互いの体温が心地よくなじむ。きっと、そのときの雰囲気にあてられたのだろう。

「先生はわたしのことどう想ってますか」

 今、それを言うのか、と弾かれたように彼女の顔を見れば、陶磁器のようなひやりとした頬とは真反対の、なんでも溶かしてしまいそうな真夏の太陽みたいな眼差しで。
 くらりと目眩み。ごくりと鳴る喉。びっしょりと濡れて張り付いたTシャツ。
 目のやり場に困って一瞬視線を泳がせてしまったけれど、再び彼女を目に映す。微かに揺らいだ彼女の瞳に意を決して、ちいさく息を吸い込んだ。

「大事な生徒の一人だ」
「こうしても、ですか」

 ふいに胸元を掴まれて思わず前かがみになる。そこへ唇の端に柔らかな感触。瞬きを忘れてゆっくりと離れたを見れば、覚悟を決めたように俺を射抜いて。そのくせシャツを掴む手は震えていた。
 怖いだろう。そうだろう。誰だって現状の関係が壊れるかもしれないと思えば立ちすくむ。でもな、俺たちの関係はそうじゃない。そんなことで簡単に壊れる関係じゃない。
 彼女の華奢な手にゆっくりと自分のものを重ね、シャツを掴むかたくなだった指を一本ずつ丁寧にほどいてゆく。彼女はどこか他人事のようにその様子をぼうっと眺めていた。

「そうだ。大事な生徒だ。道を誤りそうになればそれを正す。俺は教師でおまえは生徒だ」

 彼女の瞳にうるうると涙がたまる。聡明なのこと、こんな結果分かっていただろうに。それでも抑えられないのが十代の凶暴な衝動だ。

「すみませんでした。でも忘れないでください。わたしは真剣なんです。何を言われたって想いが変わることはありません」

 溢れそうになる涙を携えてキッと俺を睨みあげた彼女。気丈に振る舞うに敬して、俺は一粒だけ流れた彼女の涙を拭うことを放棄した。
 彼女が駆けて遠ざかったのを確認すると、ふうっと長く息を吐いて壁に背を預けた。降り止まない雨は、木々の緑をぼかしてゆく。暑さを洗い流すような雨音に混じってキュっとシューズと床の擦れる音。今日は客が多い日だなあと目を向ければ、灰色の雲に馴染んだ風景とは真反対の鮮やかな金の髪。眩しくて目を細めてしまいそうなほどの。

「監督、あいつに何か言った?」
「何も言ってないさ」
「……ふーん。、泣いてたよ」

 疑り深い目で見られて思わず苦笑する。高校生ってのは単純明快だ。少し不機嫌そうに突き出た照島の唇がすべてを物語っていた。
 そんなことがあってからも彼女は今までと変わりなかった。決意が揺らいでしまいそうなくらいに熱い眼差しを寄越すくせに、敢えて視線は絡ませない。熱跡を残すように俺の腕に触れるくせに、不安げにまつげを震わせて。心の内にひそむ微かな火種を見透かすような彼女のやり方に、俺は密やかに恐れ慄いた。
 若さとは、ときに向こう見ずで、嫉妬してしまうほどに純粋で、笑ってしまうほどに繊細だ。俺がとうの昔に手放したもの。俺が寄り添っていくと決めたもの。俺は彼女を構成してゆくほんの一部でいいのだと何度も何度も誓いを立てて。
 そうして迎えた卒業式。派手にはしゃぐ部員たちと写真を撮っていると、くいっとスーツの裾を引っ張られた。正直にいうと、ああ来たか、と。顔を見ずとも簡単に予想がついてしまった。

「先生、十分後、体育館裏に来てください」

  にこりと可憐な笑みで用件だけ述べた。スカートを翻して去っていく彼女の後ろ姿を困り顔で眺めていると、からからと軽快な声で照島が笑った。

「監督、あいつのこと、ちゃんと振ってやってよ」

  照島はいつになく優しい顔で微笑んでいた。驚くほどに慈愛に満ちた表情で。なんにも心配する必要がないくらいに。

「そしたらそこに付け入るから。いいだろ?」

 いいも何も俺とは教師と生徒以外の何物でもない。傷つけるなよと言えば「監督がそれ言っちゃう?」とまた笑われた。
 約束の時間に約束の場所へ向かえば、はスカートを握りしめて立っていた。ゆっくりと近づいて彼女の目の前に立つ。今にも決闘が始まりそうな緊迫した雰囲気にこくりと唾を飲み込む。こんな気分、何年ぶりだろう。自分もあった青春時代を思い出す。だけど、その比じゃない純度の高さに途端に息苦しくなる。

「先生、わたし、穴原先生のことが好きです」

  背すじを伸ばしたの凛とした眼差しは何よりも胸を熱くさせた。怖いものなんて何もないような曇りない眼差し。本当は怖いくせに強がって。だって、ぎゅうぎゅうに握り込んだスカートと親指がそれを証明しているのだ。なんといじらしいことか。

「ありがとな。でも、にはこれから広い世界が待っている。学校ってのは閉鎖的だ。そんなところで見つけた男よりももっとおまえに相応しい男がいるよ」
「わたしは穴原先生がいいんです。この気持ち、変わるはずがない!」
「変わるんだよ、

 強く訴えるように掴まれた腕をやんわりとほどく。ぽろぽろと流れ落ちる彼女の涙を胸ポケットに忍ばせていたハンカチでそうっと拭う。ぐずぐずと鼻をすするは泣き顔を見られたくないからか俯いてしまった。

「人の気持ちは変わるんだ。良くも悪くも、大人になるってそういうことだ」
「……わたしには分かりません。まだ、子どもだから、」
「分かるときがくるよ」

 そのときに俺の顔をふと思い出してくれたらいい。俺は彼女の長い人生の通過点にすぎないのだ。
 頭をポンと撫でて卒業おめでとうの言葉を贈る。しゃくりあげながら「ありがとうございます」と絞り出したにさよならを告げて、彼女とはそれきりだった。
 卒業以来会っていなかったはあの頃の面影を残したまま大人になっていた。ナチュラルに施された化粧も伸びた髪も、らしいのにじゃない。さみしさに似た感情と成長を嬉しく思う親心のようなものが胸の中で渦を巻いた。けれど、どういう態度を取ればいいか悩むという年齢でもない。当たり障りなく「よろしくな」と言えば、彼女は目元を細めて柔らかい笑みを浮かべた。正直心の奥底でほっとした。流れた月日は確実にを大人にしたのだと。
 午前の練習を終え、次の練習が始まるのは一番暑い時間を避けた昼下がり。それまで自主練をしたり休憩したりOBと交流を深めたり、部員たちは思い思いに過ごしていた。
 俺はその時間、風のとおる木陰のベンチに腰かけてスコア表を眺めるのが恒例となっていた。そこへ人の気配。デジャヴだ。忘れもしない夏が脳内で再生され始める。

「先生、ちょっとだけお話ししませんか」

 スコアから顔を上げるとが立っていた。 木に隠れてじゃない。正々堂々と俺の目の前に立っている。ジャージ姿だというのに女を感じるのは何故だろう。それはなだらかな曲線だけじゃない。髪を耳にかける所作だとか、小首を傾げる仕草だとか、そういった細かなところが、もうすっかり板についていた。

「どうぞ」

  少し腰をずらすと彼女は俺の隣に腰を下ろした。ベンチの微妙な振動が俺の心臓をわずかに震わせる。が、彼女の纏う薄いベールのような柔らかい雰囲気のおかげですぐに落ち着きを取り戻した。

「お元気でしたか」
「おかげさまで元気だよ。の方も元気そうでよかった」
「おかげさまで」

 にっこりと笑った彼女はすっかり大人の女になっていた。ゆるりと弧を描く唇は控えめな色のリップで彩られ、よく似合っていた。くしゃりと細められた目元は、こちらにも笑みを与えてくれる。いつも笑っているから、きっとこんな風に笑えるのだと。そう確信めいたものがあった。

「先生、わたし、いい女になったと思いませんか」
「そうだな。さすが俺の教え子」

  強気な発言に声をあげて笑う。風にまじるの香りは、あの頃とは違う。さわやかな制汗剤の香りじゃない。上品なのにどことなく少女の瑞々しさが残る、淡く甘い果実のような香りがした。

「振ったこと、後悔してますか」

 タブーだと思っていた話題にぴたりと動きが止まる。の顔をまじまじと見ると、俺に想いを告げたときのように真剣な顔をしていた。こくりと唾を飲み込んで、の瞳を覗き込む。力強い眼差しは変わっていない。だけど、少し不安の色が滲んでいる。背中を押してほしいと懇願するみたいに。

「後悔してないよ。だっておまえ、今幸せだからここにいるんだろ」

 彼女の瞳が揺れた。ゆっくりとまつ毛が伏せられる様を眺める。彼女は何か大事なものを思い出すように目を閉じて、それから再び俺を瞳に映した。泣いてるのではと一瞬戸惑ったけれど、その虹彩は曇りなく透きとおっていた。

「わたし、この夏の暮れに照島と結婚するんです」

  吹き抜ける風がさわさわと葉を揺らす。遠くでボールの跳ねる音が聞こえる。部員たちの笑い声が聞こえる。
 俺たちだけの時が止まったみたいに身じろぎ一つ出来なかった。予想していたはずなのに、消化するのに意外と時間がかかってしまった。
  目を閉じてゆっくりと瞬きをする。彼女たちの高校時代が目に浮かんで、それから、消えた。

「そっか、結婚か。よかったじゃないか。照島と、高校生のときからお似合いだなと思ってたよ」

 彼女は切なそうに眉をひそめて唇を噛み締め、それからふっきれたようにからりと笑った。胸がぎゅっと押しつぶされるような感覚。どう足掻いても同じ舞台には上がれない遣る瀬無さ。それに簡単に蓋をできるくらいには歳を重ねたつもりだ。

「先生も早く結婚できるといいですね」
「余計なお世話だよ」

 スコアをぽんと彼女の頭にのせると、えへへと悪戯好きの少女のように舌をのぞかせた。立ち上がってくるりと軽やかに回った彼女の足元には、レースのトレーンのように木漏れ日が散らばっていた。綺麗だった。可憐だった。その姿を今生忘れることはないだろうと思ったくらいに。
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  ソファから腰を上げ、キッチンから上等なビアグラスを持ってくる。アルミ缶からとぷとぷと注ぐと繊細な泡が金色に混じってしゅわしゅわと上がる。あの日、彼女を取り囲んでいた木漏れ日のように美しく輝いている。じーっと眺めていると綺麗に二色に分断されて、段々と高校時代の照島の髪の色みたいに見えてきた。雨の中で見た彼の髪色も、また、美しく鮮やかに輝いていた。ほら、おまえら。やっぱりお似合いじゃないか。ビールに例えるなんて怒られるかもしれないけれど、きっと俺も酔っているのだ。
 結婚おめでとう。はいつまでたっても俺の大事な生徒で、頼りになるマネージャーで、胸の大事なところにすんでいる特別な女の子だよ。泣かせるなよ、照島。泣かせたら今度こそ……なぁんて、散々泣かせた俺が言える立場じゃないけれど。さあ、二人の幸せを願って乾杯とでもいきましょうか。



20190701 / 『アルストロメリアの在処』様へ提出(ワードテーマ 再会×白)