細胞にひそむ獣たち

 わたしの右斜め前方に歩く男、鎌先靖志。わたし達はつき合っている。そんな二人の間には、わたし達の不器用さを嘲笑うかのように、五月の爽やかな青い風が通り抜けている。
 鎌ちの体温に触れるまで二センチメートル。一円玉一枚分の距離といえばとても短い距離に思えるけれど、今のわたし達には果てしなく遠い。地球と月みたいに引き合っていても近づけない。元々ケンカ友だちだったわたし達はこの距離の縮め方が分からないのだ。
 手をつないだ回数はたったの三回。鎌ちが他の女の子に告白された日、泣きそうになっていたわたしの手を握って「好きだ」と言ってくれたこと。恋人という関係になってから初めて一緒に帰った日、ぼーっと歩いていて自転車にぶつかりそうになったわたしの肩を寄せて「あぶねえだろ」とそのまま手を繋いだこと。バレーばかりの鎌ちにやっとオフが出来て初めてデートした日、ワンピースを着たわたしを見て「かわいい」と顔をそらせ、何故かふくれっ面になって手を取られたこと。目を閉じれば、映写機が回り出したみたいに鮮明によみがえるのに。
 今回、テスト週間の半分を一緒に過ごしている。あるときは図書室で、あるときは教室で。鎌ちの家にも行ったし、今日向かっているのはわたしの家だ。何かあるかもしれない。そんな期待をしてしまうのはおかしいのだろうか。手をつなぐよりも先のこと、してみたいと思うのはおかしいことなのだろうか。だけど期待すればするほど何にもなくて、いつも虚しさがわたしを襲っていた。
 わたしの部屋に入った鎌ちは、居心地が悪いのか、そわそわしながらラグの上に胡座をかいた。わたしはその対面に座り込んで、リュックから教科書やノートを取り出す鎌ちをじーっと見つめる。穴があくほどじーっと見つめる。わたしの視線に気づいた鎌ちは不機嫌そうに眉をひそめ、「何だよ」と唇を尖らせた。

「いや、本当に勉強するんだなって思ってさ」
「当たり前だろ。明日テストなんだから」

 わたしも負けじと唇を尖らせてはみたものの、正論なのでこれ以上は何も言えない。渋々わたしも教科書類を取り出して机の上に並べた。
 正直に言うと、わたしは鎌ちを見くびっていた。いくらテスト前とはいえ、彼女の家で二人っきりになると多少それなりのことがあるものだと思っていたのに、それどころか自分を律して勉強を始めるなんて、こいつには無理だと思っていた。普段勉強なんて全くしないくせに、こういうときだけ真面目で腹が立つ。そういうところも好きだから、なおさら腹が立つ。
 もしくは、何も進展がないのはわたしに色気がないからなのかもしれない。その可能性を考えると少し気分が沈んでしまうので、頭を軽く振って悪い考えを追い払う。だめだだめだ、考えるな。気を紛らわせるために、わたしも鎌ちに倣ってシャーペンを握りしめ、問題文に目を向けた。



 どれくらい時間が経ったのだろう。すっかり集中力が切れてしまった。ため息をついて鎌ちをみれば、あーでもないこーでもないと、頭をがしがし掻きながらノートに顔を近づけて睨めっこしている。あまりにも一生懸命だから悪戯心が湧いてくる。横から邪魔して「何すんだよ」って呆れた風に笑ってほしい。意識をわたしに向けたくて、ゆっくり立ち上がり鎌ちの隣に腰を下ろす。数学にまで嫉妬してしまうなんて、わたし相当鎌ちのこと好きなんだな。そんなことを思いながら、筋肉質な腕に寄りかかった。

「急になんだよ」
「別にぃ」

 びくりと体を揺らした鎌ちが少しだけわたしの方に顔を向けた。でもその表情は分からない。わたしはそのまま頭を鎌ちの肩にあずけて、公式でも覚えようと教科書を開いた。
 鎌ちはわたしの様子を窺って何も言わないことが分かると勉強を再開した。先ほどまでは猫背気味だった背中も今はぴんと伸びている。どうやら多少緊張しているらしい。意識させるという目標は一応達成出来たようだ。
 しばらくぴとりとくっついたままで教科書を眺めていたけれど、段々眠たくなってきた。鎌ちは図体ばかり大きくて子ども体温なんだろう。くっついているとあったかくて気持ちいい。
 ちらりと鎌ちの手元に視線を遣るとワークのページがほんの少し進んでいた。眠気覚ましにちょっとだけ話しかけても怒られはしないだろう。

「鎌ちはさ、わたしとつき合って良かったって思ってる?」

 鎌ちのシャーペンを持つ手が停止ボタンを押されたみたいにぴたりと止まった。それを横目で確認して構わず話を続ける。別に責めているわけでもない。からかっているわけでもない。眠気覚ましに話をしようと前々から気になっていたことを聞いたまでだ。内容は至って真面目。だけど、決して思いつめていたわけでもなかったし、追いつめるつもりもなかった。

「手をつなぐことすら出来ないのに、キスとかその先のこととかいつになったら出来るのかなって」

 鎌ちのシャーペンを持つ手にぐっと血管が浮かび上がる。何か思うことがあるのだろうか。反論を待とうと一瞬口を閉じてみたものの喋っていないと寝てしまいそうだ。こみ上げる眠気があくびとなって現れる。大きく口を開け、それでも構わず話を続ける。

「これならつき合う前の方が触れてたなって思っ……」

 その言葉を最後まで続けることは出来なかった。ばっと勢いよくこちらに体を向けた鎌ちのせいで、わたしは彼の肩に乗せていた頭をあげるはめになってしまった。
 文句の一言でも言ってやろうと口を開こうとするも、肩を押されてバランスを崩す。受け身が間に合わなくて背中に鈍い痛みがはしったけれど、ふわふわのラグのおかげで多少は軽減出来たようだ。
 見上げた先に唇を噛み締めて何かに堪える鎌ちがいる。その眉間には深いしわが刻まれていて、苦悩しているのが見て取れた。ゆっくりとぱちり、瞬きを一度だけすれば、あくびのせいで溜まった涙が目尻からこめかみへ流れゆき、髪が濡れる。その跡をゆびさきで丁寧になぞった鎌ちは、恐る恐るといった風に触れるだけのキスをした。少しかさついた唇の感触に驚いて息を止める。キスの仕方なんて知らない。だけど、自然と目を閉じて鎌ちの唇が名残惜しげに離れるのを待っていた。
 わたしの唇から鎌ちの体温が去って目を開けると、鼻先をぶつけられる。じっと鎌ちの瞳を見つめたその中に、一丁前に頬を染めたわたしが映っている。

「おまえには悪いけど、友だちには戻らねえぞ」

 今度は頬を挟まれ、少しだけ突き出た唇に押しつけるようなキスをされる。先ほどよりも長いキスにどう呼吸すればいいのか分からなくて鎌ちの胸元を軽く叩けば、わたしが本当に嫌がってるのだと思ったのか素直に離れていってしまった。残念。もっとしたかったのに。そう思ったわたしはいつのまにか鎌ちの胸元を縋るように握りしめていた。

「触らねえのだって、触ってしまえばもう、タガが外れてしまいそうだからだよ」

 鎌ちは自分のシャツをくしゃくしゃに握りしめているわたしの手を大きな手のひらでそうっと覆って、熱を放つわたしの頬を優しく撫ぜた。
 わたしを思い遣る行動に少し罪悪感が湧く。嫌だったわけじゃない。むしろしたかった。ずっとずっとしたかった。鎌ちとおんなじ気持ちだった。だから、そんな思い詰めるような顔で唇を噛み締めて、申し訳なさそうに「泣くな」なんて言わないで。

「ごめん。わたし、泣いてない」

 言おうか言わまいか。悩んだ末に言ってしまった。鎌ちは、わたしの言葉に一瞬目を見開いて喉仏をこくりと上下させた。
 この顔は多分信じていない。でも証明することが出来なくて、とりあえずへらりとだらしない笑みを浮かべた。

「は? 嘘つくなよ、じゃあこれは」
「あくびしてたところで」

 わたしの目尻の涙の跡をなぞる鎌ちは慌てたように身を起こした。わたしも一緒になって体を起こして、てへ、と舌を出す。鎌ちはすっかり開いた口が塞がらないようで、わたしを間抜け顔で眺めている。

「ちょっと眠くなってきたから真剣な話でもしようかと……そこをあなたがあのそのあれですよ」

 そこから先を言葉にすることは不可能だった。時間が経つにつれ、唇の感触が生々しく思い出されて気恥ずかしさが募る。頬に熱が集まる。体の内側が大きく脈打つ。体温のコントロールが出来ない。これじゃあ鎌ちにからかわれてしまう。恐る恐る様子を窺うと、鎌ちはまだ口をあんぐりと開けている。
 おーい、と目の前で手を振ると、はっと我に返って無言で立ち上がり、部屋の端へ歩いてゆく。一体何をするんだろうと見守っていると、どかりと床にお尻をついて、三角座りで小さく縮こまってしまった。
 少しかわいそうなことをしてしまったかもしれない。もしかして、もしかすると、初めてのキスはもっとロマンチックなものを予定していたのかもしれない。今日みたいなしんみりした雰囲気でするつもりなんて、さらさらなかったのかもしれない。
 紛らわしいことをしてしまったわたしも悪いので、元気づけようとゆっくり近寄る。それから隣に腰を下ろしてぴとりとくっつく。
 広いとは言えない、でも狭くもない部屋の片隅で寄り添う二人の男と女。はたからみればどれだけ滑稽なんだろう。部屋の上から覗いたときの自分たちを想像して少し口元がにやけてしまった。ああ、だめだだめだ。謝ろうと思っていたのについついからかいたくなってしまう。

「ふーん、そっかそっか。君はわたしとキスがしたかったんだ」
「うるせぇ、悪いかよ」

 頭を撫でようと手を伸ばし、短くて硬い髪にそっと触れる。手のひらの皮膚をちくちく刺激してくすぐったい。腕の隙間からこちらを見た鎌ちは、恨めしそうな顔で睨んでいる。にやけた顔は多分隠せていない。どうしよう。図体が大きくて、がさつで、でも実は繊細で、優しいこの男が愛しくていとしくて仕方ない。

「悪くないよ。わたしもずっとしたいと思ってたんだし」

 寄りかかってぎゅうっと抱きしめる。腕が回りきらない。でも何故かそんなところにも胸がときめく。あれだけ縮めることの出来なかった距離がいとも容易くゼロになる。鎌ちが言った意味が分かる。一度触れてしまえば、もっともっと欲しくなって、欲張りになる。

「ねえ、勝負してみない?」
「何をだよ」

 唐突な提案に驚いたのか、鎌ちはしっかりと顔を上げてわたしを見た。にんまりと笑うわたしを怪訝に思ったのか眉間にしわが刻まれてゆく。それでも構わず人差し指を立てて覗き込む。

「テストの合計点数、勝った方が負けた方の言うことをきくこと」

 一瞬面食らったように目を見開いた鎌ちは、好戦的な笑みを浮かべて三角座りをやっと崩して、片足だけ胡座をかいた。いつもの鎌ちに戻ってくれてほっと胸をなで下ろす。

「やってやろうじゃねえの。俺が勝ったらそのよく回る口塞いで、もっとすっげえキスしてやるから」

 そう言って片手でぐっと両頬を挟まれる。望んではいたものの、いざ言葉にして宣言されてしまうとさすがに照れてしまう。ぽっと顔に熱が集まって、頭がうまく働かない。

「あ、そうですか……」

 鎌ちに対抗できるような言葉が思い浮かばず、返答が尻すぼみになる。どこを見ればいいのか分からなくなって視線を泳がしていると、鎌ちは仕返しだとばかりに笑い声をあげた。それから肩に手を回されて痛いくらいにポンポンと叩かれる。

「ちょっと痛いってば」
「俺が勝つようにしっかり勉強教えてくれよ」
「やだよ、わたしだって勝ちたいんだから」

 でもどちらが勝っても結局おんなじだ。わたしが勝ったって鎌ちにお願いするのは触れるだけのキスより先のこと。よこしまな考えのわたし達だけど学生の本分は忘れていない。だって、それでいい点が取れるならなんにも問題でしょう? 部屋の隅から移動してシャーペンを同時に手にしたわたし達。爽やかな五月とは真反対の、不健全なことばかり考えてる。



20190506発行『十二粒のスパンコール(5月 中間考査)』より再録