雪解け水は口うつしで

 西谷くんを待つ教室が桃色に染まってゆく。それを見ると、さみしさと焦り、それから期待がわたしをぐるぐるとがんじがらめにしてしまう。ああ、また過ぎゆく一つの季節がわたし達を大人にしてしまうって。
 冬至を過ぎてから放課後の教室にも西日が差し込む時間が長くなった。西谷くんとおつき合いを始めて早、半年が過ぎようとしている。けれどわたし達はあまり頻繁に二人で過ごすことはない。毎日休みなくバレーに明け暮れている西谷くんと恋人らしい時間を過ごすのは月に一、二回、練習が早く終わるときと部活のない試験期間だけだ。
 今日はそのうちの一日、練習が早く終わる日だ。西谷くんから連絡があるまで、わたしは運良く引き当てた窓際の自分の席でぼうっと外を眺めたり、本を読んだり、編み物をしたり適当に時間を過ごしている。帰り道、西谷くんと何を話そうと考えながら。そうだなあ、なるべく楽しくお互いの日常が分かる話題がいい。
 今日も寒いね。待っている間に雪がやんだよ。今マフラー編んでるから出来たらもらってくれるかな。
 いいや、やっぱりマフラーのことは秘密にしておこう。バレンタインデーにチョコレートと一緒に渡して、あっと驚く顔が見てみたい。未来につづく道をまっすぐ見据えるきらきらとした瞳が色を変え、きゅっと男らしくつり上がった目元がまんまると形を変え、そこへわたしの編んだマフラーが映り込むことを考えると心臓が高鳴って張り裂けそうになる。
 喜んでくれるかな。不安もあるけれど、西谷くんのことだけ考えられる、西谷くんのためだけに存在する、この純度の高いとびきりの時間がわたしは好きだ。
 編みかけのマフラーを机に置いて窓の外を見ると、日が沈むにつれて純白だった光彩が、桃色から次第に橙、赤、紫とゆったりと色を変えている。まるで雪上のワルツだ。ああ、できればこれを一緒に見たかった。でも叶わないからどうにかして伝えたい。そう思って携帯のカメラ機能を起動してレンズを向けてみたけれど、実物には到底及ばず、画面は逆光で黒っぽい影が写るだけだった。
 きらきらと虹色に輝く世界も覗き見れば薄暗い影が存在するということ。これはわたしの恋によく似ている。西谷くんの隣にいるだけで幸せだと思う自分となんにも進展がなくて物足りないと思う自分はいつだって隣り合わせだった。
 わたしと西谷くんがつき合い始めたのは、ちょうど夏休みに入る前日だった。一ヶ月以上会えないことが耐えられないと思ったわたしは一か八か、西谷くんを八月に行われる夏祭りに誘うことにした。部活に向かおうとする西谷くんのエナメルバッグを引っ張って、ぐえってなっているのをごめんねと思いながら教室の隅に連れていき、風でふくらむカーテンの影に潜り込んだ。「夏祭り一緒に行かない?」と言ったときの西谷くんは息の仕方を忘れたみたいにぐっと唇をひき結んで目をまんまると見開いていた。緊張で心臓がばくばくして息が止まりそうなのはわたしの方だっていうのに。二人の間を生ぬるいソーダ水みたいな風が吹き抜けて、首筋の汗をさらう。時間にしてほんの数秒だったはずなのに何十分も待ったような気がした。

って俺のこと好きなの?」

 思いのほかさらりとした質問だったから、わたしも自然と頷いてしまっていた。胸の内でぎりぎりまで大事に育てて、とっておきのシチュエーションで打ち明けようと思っていたのに。西谷くんの熱っぽい瞳にいとも容易く降参してしまったのだ。
 わたしが返事をしたのを見た西谷くんは「俺も好きだ」と言い切った後ボボボと顔を赤くした。男らしいのに可愛いひと。その姿を見てわたしはますます西谷くんのことが好きだなあと思った。
 それから西谷くんとつき合うことになって、嬉しくて幸せでそれだけで充分満たされていた。けれど手に入ってしまえばその先を欲して欲張りになってしまう。そんな自分を知ったのは夏休みが明けてからだった。
 夏休み明けの教室はみんな憂鬱そうで、だけどどこか浮ついている。そこで繰り広げられている会話は、楽しいものもあれば低俗でお節介も甚だしいものもある。もっぱら盛り上がるのはひと夏の経験談。その流れ弾に当たってしまったことで、綺麗な色をした恋心に傷ができ、ゆっくりと膿がたまってゆく。

は西谷くんとエッチした?」
「ううん、まだだよ。だってつき合ってまだ一ヶ月ちょっとだし」
「じゃあキスはしたよね」
「……まだだよ」
「えー? 嘘? 夏休みだったんだよ? 普通キスくらいするでしょ」

 普通って何? 自分たちを基準にして話をしないで。わたし達にはわたし達のペースがある。だって夏祭りで西谷くんと手を繋いで歩くだけで恥ずかしくてたまらなくて、でも幸せに満ち満ちていて、精一杯だったのだ。そう思っているのに、一人の女の子の「つき合って大体一ヶ月でキスするよね」の一言に賛同する他の子たちの声が嫌でも耳に入ってきて、あっというまに心臓を蝕んでしまった。
 夏休みが明けて一ヶ月ほどが経つ頃、一緒に帰る道の途中で繋がれていた西谷くんの手のひらにぎゅっと力を込めた。西谷くんは、いつも柔く彼の手を握っているわたしの変化に驚いたのか立ち止まってわたしを覗き込んだ。街灯が途切れて夕闇が立ち込め、一日が終わるという安堵と切なさが身を包むひととき。わたしの心は焦りが支配していた。早くみんなと同じ場所に立ちたくて。西谷くんにもっと触れたくて。

「西谷くん、わたし、キスしたい」

 目をそらすことなく、まっすぐに見つめる。射抜いてやるという強い気持ちで、瞬きすら惜しんで、視線で西谷くんをその場に縫いつける。西谷くんはわたしの視線に真摯に応えた。その虹彩に一番星が映り込んで見えるほど、わたしを真剣に見つめている。西谷くんの喉仏がごくりと上下して、言葉が発される瞬間もわたし達の視線は絡まったまま。

「今、俺の一番はバレーだから出来ない」

 頭に大きな岩を落とされたような衝撃だった。だけど、どこかで納得している自分もいる。その言葉は、西谷くんがバレーにもわたしにもいい加減な気持ちで向き合っているわけではないという証明みたいで胸が熱くなった。わたしは素直に「うん、わかった」と言って再び歩き出す。きゅうっと喉の奥が締めつけられて苦しいのに涙は出なかった。西谷くんがはぐれないようにわたしの手を握り込んでくれたから、暗い道も怖くなかった。それが春高代表校決定戦の一ヶ月前のこと。一回目のチャンスはものにできず呆気なく終わってしまった。
 そのことがあってからわたしは西谷くんにキスをねだることをやめた。西谷くんは意志が強いから春高が終わるまでキスはおあずけだろうという諦めが半分、キスなんてしたことないのに自らねだってしまったという恥じらいが半分。
 それによくよく考えると願掛けで断ち物をやっているようなものなのだ。春高で優勝するまでキスはしない。そうすれば願いは叶う。わたしは自分で勝手に決めて、それを貫くことにした。今思えば少し意地を張っていたところもある。
 春高行きの切符を勝ち取り、迎えた期末試験。二回目のチャンスはこの試験期間に訪れた。
 雪がちらつく帰り道を二人並んでゆっくりと歩いてゆく。手を繋いでいるのに、二人の距離は身につけている手袋の分遠ざかって少しさみしい。だからこそもっと西谷くんを感じたくてくっつきたくなるし、そんなことを考えているとキスだってしたくなる。でも、もうあと少しで春高だ。ここまできたなら最後まで我慢したい。そう強く誓って歩いていると、西谷くんが急にぴたりと立ち止まるから思わず足がもつれてしまう。
 バランスを崩し倒れこみそうになったわたしを西谷くんが抱きとめて。恥ずかしくて心臓がばくばくと自分のものじゃないみたいに脈打っているのに、たくさん着込んでいても体温って伝わるんだなと呑気に思う。頭と心が笑ってしまうくらいにバラバラだ。西谷くんの腕の中は、恥ずかしさだけでは説明できないくらいにとても温かだった。

「ごめんね。大丈夫だった?」
「いや、こっちこそ急に立ち止まってごめん」

 腕を突っ張って体を起こし西谷くんの顔を覗き込む。すると、どうしてか不安げに瞳を揺らす西谷くんと目が合って、一瞬息をすることを忘れてしまった。

「キス、してもいいか」

 わたしの知らない西谷くんがここにいる。西谷くんがバレーをしている姿がぐるぐると浮かんだ。決して弱気なところをわたしの前で見せたことはない。その西谷くんが探るようにわたしを見つめている。
 さっき春高が終わるまでしないって決意をしたところだったのに、わたしの望みを叶える言葉に簡単に揺らぎそうになった。かかとを上げて唇を寄せてしまいたい。だけどわたしは。こんな風に迷子の子どもみたいな顔をしている西谷くんを愛しいと思うけれどバレーをしている西谷くんも好きだった。

「心の準備、してなかったから無理だよ……」

 ほんのささいな嘘をついた。どうか優勝出来ますようにと願いを込めて。
 わたしの返答に一瞬面食らった顔をした西谷くんはさみしげに眉尻を下げ、それからすぐにいつもの強気な顔で笑った。

「そっか。ごめん! 俺、前に自分で出来ないって言ったもんな、忘れてくれ!」

 忘れることはできないし、忘れたくはない。西谷くんもわたしとキスがしたかったのだと思うと、ああは言ったけど嬉しくて踊り出してしまいそうだった。
 それから春高で敗退し、一月が終わりを迎える今日まで三度目の正直はやってこなかった。やっぱり二回目のチャンスのとき断らない方が良かったかななんて後悔もした。
 刻一刻と夕闇が深くなり、一日が終わりを迎える。過ぎゆく時間はゆっくり確実にわたし達を大人に近づける。でもわたし達はあれから何も進展がない。どうすればわたし達の関係を大人に近づけることができるのだろう。わたし達はこの関係の進め方が分からないでいる。
 窓の外を眺めていると携帯がちかちか光って一件のメールの受信を知らせた。西谷くんの部活が終わったらしい。着替えたらここへ迎えに来てくれるという。そういう優しいところも好きだから、たまらなく会いたくなって待ちきれなくて、わたしはすぐさま教室を飛び出してしまった。
 校舎外に出ると思ったより静かだ。時折聞こえる運動部のかけ声は少しくぐもっていて積もった雪が吸い込んでしまっているのだろう。バレー部の部室棟の下でかじかむ手を擦り合わせて待っていると、一番最初に日向くんが出てきてすぐにその後を追うように影山くんが出てきた。わーわー言いながら前を見ずこちらに向かってくるから滑らないかなと心配して見ているとやっぱり転んで二人とも雪に埋もれてしまった。

「大丈夫?」
「はっ! ノヤっさんの彼女さん! 大丈夫です!」

 駆け寄って手を差し出したけれど二人はわたしには触れず、シュバッと立ち上がって軽く雪を払った。

「一緒に帰るんすか?」
「うん、本当は教室で待ってろって言われたんだけど待ちきれず来ちゃった」

 わたしのその言葉に何故か二人が赤面してわたしも思わず恥ずかしくなって熱くなった頬を両手で包み込む。照れたように笑う日向くんが「呼びますよ」と言って大きく息を吸った。わたしが勝手に待ってるだけだからいいよ。そう言って止める間もなく日向くんが澄んだ声で西谷くんを呼んだ。

「ノヤっさん! 彼女さん来てます!」
「すぐ行く!」

 ああ……教室で待ってろって言われたのにこんなところでいたら風邪引くだろって怒られてしまいそう。少し不安に思いながら待っていると西谷くんは五秒もしないうちに出てきてくれた。上着の前ボタンも留められていないし、マフラーも首に引っかけたまま。

「教室で待ってろって言ったのに。風邪ひくだろ」
「西谷くんもちゃんと着ないと風邪ひくよ」

 想像どおりの言葉に自然と頬が緩んでしまった。走ってわたしの前に来てくれた西谷くんの上着のボタンをパチンととめて、背伸びをしてマフラーを巻いてあげる。それを見ていた日向くんと影山くんは見てはいけないものを見てしまったという顔をして、頬をゆでダコのように染めて「さようなら!」と去ってしまった。後輩の前でしちゃ駄目だったかな。そろそろと西谷くんを見上げると「何だあいつら」と心底不思議そうに顔を傾けている。

「イチャイチャしてるって思われたかもしれないね」
「イチャ……!?︎」

 西谷くんは自覚がなかったのだろう。照れ隠しをするみたいにわたしの手を取ってずんずんと歩いてゆく。顔を見そびれたけれどマフラーの上にちょこんと見える耳たぶが真っ赤になっていて可愛くて可愛くていとおしい。
 校外に出ると歩みはゆっくりになった。さきほどまで少し先を歩いていた西谷くんはわたしの隣に並んで、わたしの歩幅に合わせて歩いてくれている。
 西谷くんが隣にいる。しかもわたしと手を繋いで。そう思うと幸せだった。幸せだから、あんなに帰り道何を話そうかと考えていたのに全部忘れてしまって言葉少なに歩をすすめる。だけど、やっぱりさみしかった。手を繋ぐだけじゃ満足できない。もっと西谷くんを感じたい。
 あの日みたいにまた言ってみようかな。キスしたいって。タイミングを窺おうとちらりと横顔を盗み見ると、西谷くんは思っていたよりも思いつめた顔をしていた。西谷くんは最近わたしといるときさみしそうに笑うことがある。それはきっとわたしにしか分からない些細な機微。いつもよりも眉尻が下がっているとか、西谷くんの周りの温度がほんの少し低いとか。そういうのを感じるとき、二人で過ごす時間は幸せだけど切なくてさみしい。もしかして西谷くんも同じなのかな。わたしは二人でもっと心の底から笑い合いたいよ。
 そう思うとわたしは繋いでいた西谷くんの手を振り払って駆け出した。振り返るとぽかんと口を開け呆けた西谷くんが立ち尽くしている。道の脇に降り積もった真っ白な雪をぎゅうぎゅうと固めて西谷くんに向かって投げつける。わたしの手のひらにおさまる程度の大きさをした雪玉は放物線を描いて西谷くんの肩にぶつかった。雪玉が弾け、道に降りつもる雪の塊に還る様を最後まで見届けた西谷くんはやっといつものように挑戦的に笑って、嬉々として雪玉を作り始めた。

「やったな」
「きゃー!」

 雪玉を作っては投げ、作っては投げ。いつのまにか繰り広げられた雪合戦に体がぽかぽかしてきた。西谷くんが楽しそうに笑ってる。それだけで満たされたような気がして、ほっと安心して力の抜けた手から雪玉がすっぽ抜けてしまった。あ、まずい。ひょろひょろと飛んでいった雪玉は西谷くんの顔面に命中した。ぱらぱらと散った雪が西谷くんの鼻の頭や頰にのっかっている。

「ご、ごめん。大丈夫?」
「……はっはっはっ」

 駆け寄って、赤くなってしまった鼻先に手を伸ばすと何故か踏ん反り返って笑い出した西谷くん。平気そうだったから肩の力が抜けたけれど、どうして笑っているのか分からなくて顔を傾ける。そうやって気を抜いてしまったのがいけなかった。
 がおーっと猛獣のように覆いかぶさってきた西谷くんに反応できず、そのまま一緒に倒れ込んでしまった。午後に降り積もったばかりの雪がわたしの背中を柔らかく包む。

「もーびっくりしたー!」
「悪い悪い」

 雪合戦をする前とは真反対の二人の穏やかな空気にお互い自然と笑みが零れる。ひとしきり笑い合って訪れた静寂。わたし達はしんしんと降る雪みたいに静かに距離を縮めた。鼻の触れ合う距離で見つめあって、西谷くんの虹彩に微かに頰を染めたわたしが映っている。
 ああ、わたし達今からキスするんだ。少女漫画のような一瞬にそんなことが頭をよぎって目を瞑る。思いのほか落ち着いている。けれど心臓はとくとくと甘やかに鼓動をきざんでいた。
 西谷くんのくちびるが柔くわたしのくちびるに触れる。あたたかくて、雪をほどいてしまいそうなキスだった。
 ゆっくりとくちびるが離れてゆく。さみしいなと思ってまぶたを持ち上げると西谷くんは顔を真っ赤にしてそれを誤魔化すみたいにわたしの頭の上の雪を払ってくれた。それが伝染してわたしの顔まで熱くなり、わたしも西谷くんの頭の雪をばしばしと乱暴に払う。さっきはあんなに自然にキスできたのに、今は二人で顔を真っ赤にして恥ずかしがっているのが少しおかしかった。
 こうなったらヤケクソだ。わたしと目を合わせてくれない西谷くんを捕まえるみたいにぎゅっと抱きしめる。少し慌てて「わっ」と声を上げた西谷くんの心臓はわたしとおんなじようにとくとくと音を鳴らしていた。

「寒いね」
「俺も寒い」

 本当は寒さなんて忘れるくらい体が熱くてしかたないけれど、もっとくっつきたくて嘘をついた。西谷くんもぎゅっとわたしを抱きしめてくれて、熱くて熱くてわたし達のまわりの雪だけ解けちゃいそう。
 まるでわたし達が春を連れてくるみたい。雪が解けて、そこから芽が出て、二人の恋をかたどった、甘く、仄かに切ない色の花を咲かせるのだろう。そうだ、わたし達は二人でいればきっと春の使者にだってなれるのだ。



20200127 / 大好きなフォロワーさんへ HAPPY BIRTHDAY!!(テーマ:初キス)