ソーダ水のひみつ

「うわ! すっげえ気持ちいい!」
「ほんとだね!」

 海沿いの道を二人並んで歩いてゆく。わたし達の間を吹き抜けた潮風が、汗ばんだ肌をさらりと撫でて、額に貼りついていた二人の前髪を軽やかに巻き上げた。わたし達の肌の上にあったはずの熱は、今や風とともに宙を舞っている。皮肉だな。わたし達は触れあって熱を分かち合うような関係じゃないのに、さらわれた二人の熱は一緒くたになって高く青い空に溶けてしまった。
 だけど、潮風が汗をさらったのはほんの一瞬で、風が止めばまたじんわりと汗をかく。体がベタついている。夏の盛りはとっくに越えてしまったけれど、ここに吹く風は季節が通り過ぎるのが名残惜しいのか、まだ水分の多い夏の匂いをはらんでいる。ちょうどいい。だって、わたし達はずっとずっと15歳の夏をやり直したかった。
 虎杖くんは、砂浜に下りるとすぐにサンダルを脱いで波打ち際に駆け出した。寄せては返す規則正しい波の音を虎杖くんが乱してゆく。決して不快なわけじゃない。虎杖くんの生み出す音はいつだって心地よくわたしの耳に馴染んだ。
 わたしも虎杖くんに倣って靴を脱ぎ、ゆっくりと後を追った。爪先に触れた海水は生温く、ここにもまだ夏の名残がある。
 汀に沿って歩く虎杖くんの足首に波が寄せると、足から海水に浸食されるように透きとおった色になった。このまま体がぜんぶ透明になってしまったらどうしよう。胸の奥がざわめいて、先を行く虎杖くんを引き止めたくなる。けれど、虎杖くんが蹴り上げた水の玉が太陽の光を乱反射してきらきらと虹色に輝いていたから、わたしは思わず立ち尽くしてしまった。
 隙だらけの自身の足に波がぶつかって、小さな飛沫が跳ね上がる。わたしが生み出す水の玉は、塩分を含んだただの水だ。なのに、彼の生み出すものといったら、どうしてこんなに見惚れるほどに綺麗なのだろう。まるで虎杖くんがそこにいることを祝福しているみたい。やっぱり彼はこの世界に留まるべき人なのだと、何だかまぶたが熱くなった。
 
! こっちにヤドカリめちゃくちゃいる!」
「えー? どこどこ?」

 今日の虎杖くんは時々こうやって振り返ってくれる。わたしがちゃんとついて来ているか、置いてきぼりになっていないかその目で確かめている。だからわたしはわざとゆっくり歩きたくなる。ここに来るまでに実際にそうしてやれば、虎杖くんは少し申し訳なさそうに眉尻を下げて歩むスピードを緩めてくれた。
 それは、何も言わずに一度手の届かないところへ行ってしまったことに対する贖罪にも思えて、切なさで身が引き裂かれる心地がした。同時にいい気味だと思っている自分もいる。わたし達の気持ちなんて露知らず、あんな登場するなんてもっと困ればいい。もっとわたしの機嫌をとって、もっともっと優しくしてよ。わたしは一度しかない15歳の夏を君と過ごすために、たくさん準備をしてきたんだから。
 今日着ている服だってそうだよ。虎杖くんが前に海に行きたいなんて言っていたから、夏の海を写し絵にしたみたいなワンピースを買って海でのデートに想いを馳せていた。なのに、黙っていなくなっちゃうから陽の目を見ぬまま今日まで箪笥の肥やしになっていた可哀想なワンピース。捨ててしまおうとさえ思った。それは虎杖くんを過去の人にするためには必要な行為だった。ちゃんと決心していた。だから、何食わぬ顔で戻ってきたときには嬉しさよりも先に怒りの方が湧いて出たこと、今でも鮮明に覚えている。
 少し離れたところでしゃがみ込む虎杖くんの元へ向かうため、裸足のままに駆け出した。むき出しになった足が無数の細かい砂に捕らえられてうまく走れない。虎杖くんがいなくなったときに見た夢みたいだ。深い深い闇に引きずり込まれそうになって、必死になって逃げ惑う夢。走れば走るほど足がもつれて、うまくいかなくて、わたしは早々に諦めてしまった。けれど今日は、わたしを待つ人がいるという事実がわたしを強くする。沈み込もうとする足底にめいいっぱい力を込めて、まっすぐ膝を伸ばし前へ前へと駆けてゆく。
 ここはただの砂浜にすぎない。あの日わたしが見た悪夢の中じゃない。だけど、足にまとわりつく鬱陶しい砂粒を蹴り飛ばして待ち人のところへ向かう行為は、悪夢を振り払うためのとてもだいじな儀式だ。足を取られてもそこに虎杖くんがいるというだけで前を向くことができること、君はちっとも知らないんだろうね。
 転びそうになるわたしを心配そうにハラハラと見守っていた虎杖くんが立ち上がってわたしに手を伸ばした。少しバランスを崩したままにその手を取って、わたしは乱れた息を整える。体が焼けるように熱い。心臓が自分のものじゃないみたいに脈打っている。走ったからなのか、それとも虎杖くんに触れているからなのか、それすら判断できないくらいに頭が馬鹿になっている。その中でわたしの真芯が甘く震えていることだけはかろうじて理解できた。さっき宙に舞い上がることでしか一つになることができなかった二人の体温が今度は二人の手のひらの上で溶け合っているなんて、風にさらわれた体温がまた二人の元に戻ってきたみたい。なんて素敵な循環なんだろう。

「ほら、ここ」
「ほんとだ」

 しゃがみ込んだ虎杖くんが指差したところをわたしもしゃがみ込んで覗き込む。集まっていたヤドカリは、わたしが騒々しく走ってきたせいか慌てて砂の中に潜ったり殻の中に引っ込んで波にのって去ってしまった。

「いっちゃった」
「いっちゃったね」
「ごめん」
「え、何でが謝るの」
「だってわたしがうるさく走ってきたから」

 顔を上げると至近距離で視線がぶつかる。あまりこんな風に見つめあったことがないから、おさまりつつあった心臓の動きが再び早まってしまう。虎杖くんはキョトンと目を見開いたのち、わたしが言ったことを理解したのか目元をくしゃりとさせて破顔した。わたしは虎杖くんの笑った顔が好きだ。一緒にいると元気になれる。わたしもつられて笑ってしまう。何だか太陽が眩しくて目を細めてしまう行為によく似ている。春の麗かでのどかな光も、夏の力強く身を焦がす光も、秋の澄んだ静かな光も、冬の恋しくて脆い光も全部全部虎杖くん。ああ、そうか、君はきっとわたしの太陽なんだね。

だけのせいじゃないよ。俺たちが二人で覗き込んだからびっくりしたんじゃない?」
「そうかな」
「そうそう! とりあえず俺は魚でも捕まえてくるからちょっと待ってて。あっちにいっぱいいそうなんだ」

 何がとりあえずなのかさっぱり分からない。虎杖くんは立ち上がって膝丈のハーフパンツをさらに折った。引き締まったきれいな筋肉が現れて目のやり場に困る。少し俯き加減になって海水で濡れた砂を指先で弄んでいると、「んじゃあ行ってくる!」と弾んだ声が降ってきた。
 ざぶざぶと波に逆らって進む虎杖くんの背中だけで楽しいということが伝わってくる。男の子っていつまでたっても子どもだな、なんて一瞬思ったけど、わたし達はまだ15歳。本当ならこんな風に何でもないことが馬鹿馬鹿しくて楽しくて仕方ないはずなのに、死と隣り合わせの生活のせいで全てが尊く思えてしまう。全身全霊で今を生きたい。そういったエネルギーが虎杖くんからは溢れている。それならばわたしだって。
 ざざっと波が引いた隙に人差し指で湿った砂に一筆書きで線を刻む。縦に引いた一本線の上に二等辺三角形。さらにその上にはわたしの胸の内に潜んでいる想いを模した小さなハートが乗っかっている。それから波に攫われないうちに素早く二人の名前を書いた。「虎杖悠仁」「」、縦線を挟み込むように仲良く並べて。一度の波で消えることはなかった。だって、消えないようにとびきり深く刻んだのは自分自身なのだ。相合傘を書いて三度の波で消えなければ両思いになれる。わたしが通っていた中学で流行っていたおまじない。一体どれだけの恋が実って、一体どれだけの恋が玉砕したのだろう。これでわたしが振られて恋まじないの呪いが発生したらとんだお笑い種だ。だけど、そうなってしまったらちゃんと責任持って祓うからどうか安心してほしい。

「す、き、」

 誰にも拾われることのない小さな声で相合傘に想いを紡ぐ。まだ直接伝える勇気は出ないから、ここでもう少し練習させてほしい。子供っぽくて馬鹿みたいなまじないに縋らせてほしい。それがわたしの勇気の呼び水だから。
 大事なものの存在に気づくのは、いつだってその手からこぼれ落ちてからなのだとわたしは二ヶ月前に身をもって実感した。幼い頃から今までずっと、周りの大人からそんなことを言われ続けていたのにどこか他人事で、どこか自分の世界の外側の出来事なのだと思い込んで、聞き流してきた罰が当たったのだろう。
 多分、きっと。わたしは第一印象から虎杖くんのことをいいなと思っていた。彼が死んだと聞かされてから、淡い感情がぶわりと溢れ出て止まらなくなった。どうしようもなかった。何度蓋をしてせき止めようとしても、日常のありとあらゆるところに虎杖くんのまぼろしが見えて心臓に爪を立てられたみたいな痛みと後悔に支配されていた。突然降り出した夕立で避難した軒下で、虎杖くんとならどれだけ雨が降り止まなくても暇を持て余すことないんだろうなとか。不純物をすべて洗い流した後みたいな雨上がりの景色は澄んだ瞳をした君によく似ているんだろうなとか。真夏に一人きりで来た海がソーダ水みたいで、もくもくと育ち続ける入道雲がソフトクリームみたいで、虎杖くんとクリームソーダを食べたくなったりだとか。そういったことをたくさん考えて、些細なことを報告したくて一年全員で撮った集合写真に話しかけていた。当たり前に続くと思っていた日常が、ある日突然途切れてしまうことがこんなにも苦しいこと、虎杖くんがいなくなるまで知らなかった。何でもない日常が、本当は砂で作ったお城みたいに脆いってこと、虎杖くんが教えてくれた。君がわたしをひとつ大人にしたんだよ。
 わたしが描いた相合傘は二度目の波にも攫われなかった。あと一回。あと一回の波で消えなければわたしの恋は叶うかもしれない。そう思うと、パチパチと炭酸がはじけたみたいに心が弾んだ。

「何真剣に見てんの?」
「うわっ!?」
「うおっ!?」

 突然頭上から降ってきた声に驚いて立ち上がる。わたしの頭頂と虎杖くんの顎がぶつかる寸前に虎杖くんが腰をそらせたおかげで何とか衝突を免れることができた。ブリキのおもちゃみたいにぎごちなく顔を持ち上げると不思議そうに首を傾げてわたしの答えを待つ虎杖くんがいて、わたしの頭はフル回転で虎杖くんの興味をそらせようと働き始めた。

「何でもない何でもない」
「そう? でもめちゃくちゃ真剣だったからさ」

 顔の前でぶんぶんと両手を振ってみたけれど何の意味もない。いとも容易くひょいとわたしの頭の上から波打ち際を覗き込まれてわたしは必死に背伸びをする。隙をついて横から覗き込もうとする虎杖くんの動きに合わせて、わたしも必死に動く。二人で反復横跳びをするみたいに動き回ってるのが滑稽だけどやめられない。だって後悔しないように生きたいって思ってるくせに、こんなちっぽけなおまじないに縋っているということ、バレてしまったら恥ずかしくて顔を合わせられない。そんなの嫌だ。せっかくまた会えたのに。毎日顔を見たいのに。

「隙ありっ!」
「あっ」

 だけど、わたしが虎杖くんの俊敏な動きについていけるはずがない。呆気なくすり抜けられてわたし達の立ち位置が入れ替わってしまった。変な汗が背骨に沿って流れてゆく。

「ん? 何もないじゃん」
「え」

 二人並んで波打ち際を覗き込めば、わたしが刻んだ相合傘はすっかり消えてしまっていた。どうしよう、三回目の波でも残っていたのかどうか確かめられずに終わってしまった。
 呆然と立ち尽くすわたしの目の前で虎杖くんが「おーい」と手を振っている。だけどわたしはわたしの勇気の行方が気になって、その情報を処理できない。あれがないとわたし、わたし……。

「おい」
「んむ!?」

 まず最初に脳に伝わったのは、うまく喋れないという信号。それから、虎杖くんの瞳に間抜けな顔をしたわたしが映っているのが分かるほどに二人の距離が近いということ。それから、虎杖くんの両手がわたしの頬を挟み込んでいるということ。虎杖くんの手のひらがぴったりとわたしの頬を覆っている。虎杖くんの熱がわたしに伝播する。熱い手のひら。熱い。顔が熱い。全身を流れる血液が沸騰したみたいに熱い。

「なあ顔赤くねえ? 熱中症?」

 違います。これは君のせいなんです。そんな近くから射抜かないでください。真っ直ぐに見つめられると、あられもないことを想像してしまう。少しかさついたその唇でわたしの唇に触れてほしい。余裕なさげに強く押しつけて、それから感触を楽しむように柔く食んで。砂浜に押し倒されたっていい。ワンピースの裾が濡れたっていい。そんな不埒なことを考えてしまう。好きというたった二文字ですらまともに紡げないくせに、妄想の中では一丁前に女なんだからたまったもんじゃない。
 かろうじてふるふると首を横に振ると「本当に?」と疑心暗鬼に顔をしかめた虎杖くんがわたしの左手を掴んで歩き出した。絡まっていた視線がほどけてほっとしているはずなのに、胸の底では残念だなと思っている自分もいる。虎杖くんといると欲張りになる。恥ずかしいのにもっと触れたくなってしまう。

「ねえ、どこ行くの?」
「駄菓子屋さん。ここ来る途中にあっただろ? そろそろ喉かわいたなと思ってさ」

 本当に喉がかわいているのもあるんだろうけれど、わたしが暑そうだからきっと気をつかってくれている。そんな彼の優しさが胸の奥に染みわたって、不健全なことばかり考えていたわたしの輪郭が溶けてゆく。
 虎杖くんがそこら辺に投げ捨てていた自分のサンダルを履いたので、わたしも倣って手に持っていたサンダルを砂浜に落とした。サンダルに足をすべり込ませば、細かな砂の粒が足の裏にはりついたままで少し気持ち悪い。けれど、すぐにどうでも良くなってしまった。虎杖くんが掴んでいた手をおもむろに恋人同士の結び目に変えるから、心臓が跳ねてわたしの意識は手の方ばかりに向いてしまった。
 そのまま二人で何を喋るわけでもなく駄菓子屋さんへ歩いてゆく。自分の指と指のあいだにぴったりと割って入っている虎杖くんの指が太くて骨ばっていて、自分とはつくりが違うことを認識してしまえば途端に何も考えられなくなる。だから、喋れない。ただひたすらにされるがままだ。せめて虎杖くんの手の感覚を覚えていようとつないだ手に少し力を込めれば、それを上回る力で握り返されてわたしは自分の心臓まで掌握されているみたい気分になった。
 都合のいいことがこんなに立て続けに起こるなんて、おまじないが成功したのかもしれない。わたし達の間で揺れている繋がれたままの手が、三回目の波でも相合傘が消えなかった証のような気がした。
 海沿いの道を二人並んで歩いてゆく。二人は名前をつけられるような関係じゃないのに、手を繋いで二人の熱を分かち合っている。どちらの手が汗ばんでいるのか分からないくらいに密着している。
 虎杖くんは一体どんな顔をしてわたしと手をつないでいるのだろう。そう思ってわたしの半歩先を歩く虎杖くんの後頭部を斜め後ろから見つめたけれど何も読み取れない。わたしの顔は火照って耳まで真っ赤になっていることが自分でも分かるというのに虎杖くんの耳はいつもとおんなじ。ずるいなあ。わたしばかりこんなにドキドキしてるなんて。わたしだって、虎杖くんの心臓を掌握してみたいよ。
 そんなことを考えているとあっという間だった。元々近くにあった店がさらに近くに感じられた。建てられた当初からまったく姿形を変えていないような、平屋の昔っぽい風情の駄菓子屋さん。立てかけられた店の看板が潮風に晒されて錆びついていて、いくつもの年月が過ぎ去っていることを物語っている。
 店の中に足を踏み入れるとタイムスリップしてしまったような感覚に陥った。今現在、スーパーに売っているようなお菓子は一つも置いていない。レトロでポップな陳列が、小さい頃のワクワクを呼び戻す。くじ引きまである。キョロキョロと周りを見渡していると、隣でふっと息が漏れる音が聞こえた。

「何?」
「いいや、可愛いなって思っただけ」

 小さく笑みをこぼす虎杖くんをじとりと睨むと、予想外の言葉が降ってきて為す術がなくなってしまう。固まるわたしをよそに虎杖くんは、入ってすぐのところに置いてあった氷水の入ったタライに並べられたラムネ瓶を覗き込んだ。じとりとした熱気に覆われた外でキンキンに冷えたラムネを飲み干すことを想像すると思わずごくりと喉が鳴る。

「俺これにする」
「わたしも」

 タライに手を突っ込んだ虎杖くんに倣って指先で氷水に触れると、さっきまでの汗が嘘みたいに引いてゆく。だけど、繋がれた手だけは熱が引かない。もういっそ、このままでいい。虎杖くんと触れあったところの熱を忘れたくなんかない。
 二人で手を繋いだまま店主の元へ行くと、新聞を読んでいたおじいさんが老眼鏡を額までずらしてわたし達を見た。優しげな目元を細めて、何か幸せな光景を見たかのように微笑んだから気恥ずかしくなると同時に心の内がじんわりとあたたかくなる。

「おっ! お目が高いねえ。そのラムネは今日の朝の海から抽出して作ったものだよ」
「まじで? じゃあめちゃくちゃうまいんだろな」

 嘘か本当か分からないことを言ったおじいさんに虎杖くんは目を輝かせた。等身大の15歳の男の子がここにいる。この世界の綺麗なところだけを切り取ったような光景に何故か泣き出したくなった。虎杖くんの中に存在する邪悪な存在なんて微塵も感じない、清らかな虎杖くんがここにいる。
 会計台にラムネ瓶を乗せるとカランと涼しげな音を立てた。おじいさんが言ったみたいにこのラムネが今日の海から作ったものなら、おんなじ色をしたビー玉は今日の海が凝固したものなのだろう。
 
「200円ね」
「ちょっと待ってね」

 虎杖くんと目が合って、繋がれていたはずの手が遠ざかる。会計するから手離すよ、の合図だ、分かっている。分かっているけれど寂しいなと思ってしまう。この後はもう手を繋げないかもしれない。そう思うと、もっと楽しんでおくべきだったなんてどうしようもないことを考えてしまう。
 
「ありがとう、デート楽しんでおいで」
「うん、こっちこそありがとね」

 そうやって交わされた二人の会話にぎょっとした。側から見るとデートに見えるのかと、虎杖くんもデートだと思っているのかと、思わぬところで心臓が撃ち抜かれる。
 おじいさんに手を振った虎杖くんの後ろで小さくお辞儀をして、軽やかな足取り出ていく彼の後を追う。さっきのことを聞きたいのに、うまく言葉が出てこない。相合傘のおまじないに誓ったばかりなのにと、必死に勇気を手繰り寄せる。虎杖くん、デートだって言われて否定しなかったのはどうして。言われて嬉しそうにくしゃりと顔を綻ばせたのはどうして。わたしとおんなじ気持ちだと自惚れてもいいですか。そしたらもう一度、手を繋ぎませんか。そう言うだけじゃないか。なのに、ポンコツなわたしの口がうまく動いてくれなくて腹立たしい。

「なあ、手、繋ぐ?」
「……え?」
「だから! 手、繋ぎませんか?」

 少し先を歩いていた虎杖くんが振り返ってわたしに大きな手のひらを向けた。わたしがたった今、自分の頭の中で思い浮かべていた言葉を添えて。だから、驚きのあまり口が開く。いつの間にか口に出していたのだろうか。それとも虎杖くんにわたしの頭の中を覗けるような能力があるのだろうか。そんなことを考えたけれど、わたしを見つめる虎杖くんの耳が真っ赤だからその可能性は早々に捨ててしまった。

「うん、いいよ」
「そ、よかった」

 わたしが返事をすると虎杖くんは心底安心したように、深く息を吐き出した。それから、差し出した手のひらをTシャツでごしごし拭いてまたわたしに差し出すものだから、ついつい吹き出してしまった。
 緊張すると手汗かくよね、わたしもさっきそうだったよ。緊張していたのはわたしだけじゃなかったんだね。だけど、あえて口にはしない。恋はいつだって惚れたほうが負けだから、少しでも優位に立ちたいと思うのは自然なことだと思いませんか。

「何かおかしかった?」
「ううん、可愛いなって思ったから」
「馬鹿にしてる?」
「してないよ。ちょっと仕返し」
「何だよそれ」

 駄菓子屋さんに入ったときの虎杖くんの反応を思い出して同じようにやり返す。だけど、言ったことは本当だよ。伸ばされた虎杖くんの手に自分のものを重ねると、膨れっ面になった虎杖くんが痛いくらいにぎゅうっとわたしの手を握り込んだ。可愛いね。可愛くて愛おしい、わたしの大好きな男の子。
 海沿いの道を二人並んで歩いてゆく。二人の関係に名前はまだつけられないけれど、今度はお互いの意志を確認した。受け身じゃなくて積極的に熱を分かち合う、今までのわたし達よりほんのちょっぴり進んだ関係で。
 さっきまで二人ではしゃいでいた浜辺を目の前に、堤防に腰かけた。太陽の光を吸収したコンクリートは真夏に比べると触れられない程熱くはないけれど、座っているとじんわりと汗をかく。体を冷やそうとラムネ瓶を頬に当てていると、虎杖くんは早速カランと爽やかな音を響かせてビー玉を落とした。
 しゅわしゅわと上がる炭酸の気泡が弾け、潮風に乗った清涼感のある香りがわたしの鼻腔をくすぐってたまらなくなる。早く飲みたくなってわたしもビー玉を落とすと、虎杖くんはすでにごくりと喉仏を上下させていた。その隆起があまりにも綺麗だからわたしは釘づけになる。自分にはないものってどうしてこんなに欲しくなってしまうんだろう。かぶりついてしまいたくなる衝動が自身の胸の内にあることに気がついて、誤魔化すためにラムネ瓶に口付けた。
 よく冷えた炭酸水が乾いた喉を潤してゆく。隣の虎杖くんは、ぷはーっと爽快な息を吐いてわたしの顔を覗き込んだ。わたしの考えていることを見透かしてしまいそうなくらいに純な輝きを放っている瞳に鼓動が加速する。

って好きな奴いる?」

 その問いに今日一番心臓が跳ねた。どうしてそんなこと。分かっていて聞いているのか、純粋に分からなくて聞いているのか、どちらにせよその聞き方はずるいなと思う。だから挑戦的に微笑んで、余裕のある女を演じてみたくなる。だけど実際心臓はバクバクしているし、今すぐ想いを告げて逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。

「いるよ」
「へぇ。どんな奴?」
「うーん……」

 どうしよう……もうここで言ってしまおうか。いまだにぐずぐずと悩んでしまうわたしの背中を誰かに押してもらいたい。少し俯いて言葉尻を濁すと虎杖くんも考えるように腕組みをしてうーんと唸って、それから閃いたと言わんばかりに手のひらを叩いた。

「じゃあ好きなタイプは?」

 虎杖くんは相変わらずずるい質問をする。ゆるゆると檻の中に囲われるような心地がする。だけど、ゆっくりとわたしの勇気を引き出してくれるような声色だ。言いたくないことを無理に言わせるような人じゃないくせに、どこか有無を言わせない力強さがある。わたしは虎杖くんのそういうところが好きだった。

「黙っていなくならない人」

 目を逸らさず、視線だけで射抜いてやろうという覚悟で虎杖くんの瞳を覗き込む。虎杖くんはそれに応えるような真剣なまなざしで視線を交錯させた。絡まってほどけない。時間が止まって、周りが透明になる。世界で二人っきりになったみたいに。

「俺、今度は黙っていなくならないよ」
「本当に?」
「信じられない?」
「そうだなあ……」
「じゃあちょっと待ってて」
「えっ!?」

 何やらごそごそとラムネ瓶を触った虎杖くんは堤防から飛び降りて、波打ち際に駆け出した。堤防から砂浜まで結構な高さがあったけれど虎杖くんにとっては大したことなかったらしい。波打ち際でしゃがみ込んだ虎杖くんの背中を眺めながら、こんな穏やかな時間がいつまでも続いてほしいと思う。この世界から一生出られなくてもいいとさえ思ってしまう。
 しばらくしゃがみ込んでうんうん唸っていた虎杖くんが片手を握りしめて戻ってくる。その表情は、わくわくを隠せない少年のあどけなさと大事なことを言わんとするような緊張感が混じり合っていて、わたしも妙に緊張してしまう。

「手出して」
「ん」

 堤防に座るわたしを砂浜から見上げた虎杖くんが握り拳を差し出した。虎杖くんの指先がわたしの手のひらの皮膚に触れて、ラムネで冷めたはずの体が再び熱を帯びてゆく。

「はい、約束の証」
「これって」
「今日二人で見た海をギュギュッと固めました。いつでもこの海を思い出せるようにが持っててよ。がそれを持ってる限り、俺は今日の約束を忘れないから」

 手のひらに落とされたのはどこからどう見てもラムネ瓶の中に入っていたビー玉だ。だけど、わたしも駄菓子屋さんで同じことを考えた。今日の海が固まったみたいだなって。そう思っていたから、虎杖くんも一緒なのだと思うと胸が甘やかに締めつけられた。
 かざして覗き込んでみると空と海が逆さまになって見えた。天地がひっくり返っても限りなく続く透明な青。ビー玉に含まれた小さな気泡が波しぶきみたいで、本当に今日の海を閉じ込めたような世界が映っている。
 ビー玉を通して見た虎杖くんは逆さまになったって強くしなやかに立っている。意志のこもった眼差しには、何を言われても信じてしまうような力が宿っていた。ぐずぐずと悩み続けるわたしの背中を押してくれているようで、いてもたってもいられなくなる。

「ちょっと待ってて! わたしも今日の海取ってくるから交換しよう。わたしも虎杖くんのこと信じるよって証、渡したいから」
「おう!」

 顔をくしゃくしゃにして笑う虎杖くんは目眩がするくらいに眩しかった。わたしが堤防から飛び降りようとすると心配そうな顔して、そのころころと変わる表情が可愛くて愛おしくてしかたない。だけどわたしだって呪術師の端くれだ。これくらいの高さ、大したことない。 
 ぴょんと飛び降りて無事着地すると虎杖くんはほっとしたように眉尻を下げた。そんな彼を背に波打ち際に駆けてゆく。
 今度は名前をつけられるような関係になってここへ来よう。その時に飲むラムネがどんな色をしていてどんな味がするのか楽しみに生きよう。そして、こんなことがあったねって今日を一緒に懐かしもう。死を身近に生きるわたし達にとって果たせるかどうか分からない不確かな約束だけど、それはその日まで生きる意志なのだとわたしは強く信じている。君がくれた今日の欠片をわたしは絶対に忘れない。
 駄菓子屋さんに向かう前よりも潮が満ちている。わたしが書いた相合傘はすっかり海の中に溶け込んでしまった。明日の朝に海から抽出するラムネの隠し味になるのだろうか。そうだとしたらこの恋は何としてでも叶えないといけない。敗れた恋の味のするラムネなんて、いったい誰が飲みたいというのだろう。
 ラムネ瓶から取り出したビー玉を打ち寄せる波に浸しながら決意する。手のひらに今日のひと欠片を握りしめて、わたしは砂浜を力いっぱい蹴って駆け出した。



20200617 企画サイト『blue heaven』様に提出しました