の場合)

わたしの部屋のドアに一つのリースが飾ってある。それは、英太が小学校入学したての頃に作ってくれた花冠だった。幼い頃のある日、正義を振りかざして教室で騒ぐ男の子に「うるさい静かにして」と注意したら、放課後に追いかけ回され、ブスだのバカだの罵られ、泣きながら近くの公園で座り込んでいたときのことだった。ヒーローみたいに現れた英太がそいつらを追い払って、泣きじゃくるわたしの頭にシロツメクサの花冠をそうっとかぶせた。俺がずっと守るから、もう泣くな。約束だ。ゆびきりげんまんしながら歯を出して得意げに笑った英太は、約束どおり今もわたしを守り続けている。楽しいときも、泣きたいときも、いつだって話を聞いてくれて。だけど、その約束が英太をがんじがらめにしてしまうなんて、そのときのわたしはまだ何も分かっていなかったのだ。

春。やっと桜前線が北上し、宮城の桜も開花し始めた。とは言っても、ニュースで見る東京の満開の桜と比べて蕾がまだたくさん残っているせいか、見上げても枝の隙間から霞みがかった空が覗いている。そんな時期に白鳥沢学園の入学式が行われようとしていた。
ピシリとアイロンのかかった制服に袖を通し、リボンをふくらませ、前髪を撫でつける。わたしは今日から先輩だ。そう思うとなんとなく背筋がぴんと伸びる。通学路を歩く生徒はいつもよりまばらで少しさみしい。それは、きっと、入学式には二年生、三年生は出席しないことになっているからだ。クラスメイトたちが休みの中、わたしが一人さみしく登校している理由はひとつ。わたしは今日、新入生の胸元にリボンをつける係を引き当ててしまったのだ。クジでこの係を引き当てたとき、正直に言ってツイてないと思った。だって、毎日毎日部活に明け暮れているのだから、たまの休みが恋しくなるのは当然のこと。わたしだってみんなとおんなじように朝寝坊してゴロゴロ過ごしたい。
日頃の行いだねって言った天童と笑ってた隼人くん、絶対に許さない。毎日毎日誰が汗でベッタベタのビブスを洗っていると思っているんだ。誰がおいしいドリンクを作っていると思っているんだ。それに、各クラス二名選出されるその係、わたしの相方である英太にはどうして「運が悪かったね」だけで済ませるんだ。
そうやってムキーっと憤慨するわたしを、まあまあと言って宥めるのはいつも英太の役目だった。英太とは幼馴染かつ腐れ縁。生まれたときから、小中高、ずっと一緒。同じバレー部に所属していて、さらに今年は同じクラス。どうしてか切っても切れない縁だった。なぜかいつもわたしが英太を追いかけてるみたいに言われるけど、別にそんなつもりはさらさらない。気づけば同じ道を歩んでいる、いわば同志みたいなものだった。

「英太ー!おはよー!」
「うお!?」

校門をくぐれば見知った背中が目に入ったから、低めのテンションも通常どおりに戻ってくる。駆けていって思いっきり背中をバシンと叩くと、驚いた英太は目を白黒させながら振り向いた。それからわたしだと確認すると、背中をさすりながら眠そうにあくびをして「いきなり叩くな。大体おまえは……」と長ったらしい説教を始めてしまった。適当に相槌をうっていると「聞いてんのか」とまた怒る。だけど今日はいつもと違って少しダルそうだ。足がいつもより上がっていない。多分昨日の練習が尾を引いている。わたしもそのきつい練習に合わせて、ドリンクボトルを用意したり、タオルを用意したり、ボールを忙しなく追いかけて、とヘトヘトだった。入部した頃に比べると多少体力はついたもののやっぱりしんどいものはしんどいのだ。

「昨日はなかなかハードだったもんね。おまけに練習最後の100本サーブ。英太、相当疲れたでしょ」
「おかげさまで朝までぐっすりよ」

英太はぐるぐる肩を回してまたあくびをした。校内に入っても生徒はまばらにしか来ていない。いつもなら遅刻しないように走っている生徒であふれかえっている廊下も、今日はわたしと英太がふたり並んで歩いても楽々教室にたどり着けてしまう。
教室に荷物を置いたら、昨日のうちに箱詰めしておいたリボンを持って受付に行く手筈になっている。重そうなその箱は英太に押しつけて、わたしは安全ピンの入ったケースを持つ。とは言っても、リボンしか入っていないためかそんなに重くなさそうで、英太は軽々その箱を肩に担ぐと、わたしに先に行けと、くいっと顎先で促した。だけど、大事なものがそこにはない。リボンをつけるときにチェックを入れる新入生の名簿が用意されていなかった。

「ねえ、名簿なくない?」

辺りをキョロキョロと見渡しているわたしを見た英太は、担いでいた箱をおろしてその中を掻き分けた。その間に教卓の引き出しも開けて覗いてみたけれどどこにもない。

「ここにもねえな。職員室寄って聞いてきてくんね」

うん、と頷くと英太は先に受付に向かい、わたしは職員室に足を向けた。失礼しますとドアを開けると、ちょうど担任が目の前をたくさんの書類を抱えながら横切ろうとしていた。わたしに気づいたようで、ちらりとこちらを見て眼鏡の奥の瞳をまんまると開いたのち、のそのそとマイペースに自分のデスクまで移動した。ボンと置いた書類がズサっと音を立てて崩れても気にならないらしい。先生は、そのまま椅子に座ってくるりとわたしに体を向けた。

、どうした?」
「どうしたもこうしたも……新入生の名簿がないんです」
「え? あれ? どこ置いたかな」

先生はお世辞にも綺麗とは言えない教材の山積みになったデスクの上をがさごそ探し始めた。ちらりと壁にかかった時計を見ると、針は既に集合時間の5分前を指している。一応一年間バレー部のマネージャーをやってきたのだ。5分前に集合完了しないと落ち着かない。内心、早くしてくれと地団駄を踏みたかった。そもそも、そのデスクの上を片付けて置かないから書類が見つからないのだ。代わりに掃除までしたくなってきてソワソワする。

「……おー、あったあった」

プリントの隙間から見つかったそれは一角が折れてしまっているけれど、名前を見る分には差し支えない。走ればなんとか集合時間には間に合いそうだ。先生の手からひったくるように名簿を掴むとスカートを翻しながら体を反転させた。

「失礼しました」
「おー頼むわ」

呑気な声を聞き流しながら床を蹴ると、背中から走るなよと言う声がすぐさま飛んでくる。そもそも誰のせいでこうなったと思っているんだと独り言ちながら先生の言葉を無視して廊下を駆け抜ける。今日は生徒も少ないしぶつかる心配もそうそう無い。そう思っての行動だった。あの角を曲がると受付だ。そう気を抜いた瞬間だった。角から急に人影が出てきたので、スピードを落としたけれど間に合わない。咄嗟にぎゅっと目を瞑って、次の衝撃に備えようとした。
けれど、予想していた痛みはない。その代わりに自分の腰が誰かの腕によって支えられているのが分かって頬が熱を持つ。そんなところ触られたことなんてないからどういう態度を取ればいいのか分からない。それに、この人にはケガはなかったのだろうか。恐る恐るゆっくりと見上げると、陶磁器のようななめらかな肌、透きとおった瞳、色素の薄いさらりとした髪の毛が目に入る。ビビっていたので男の人なのか女の人なのか瞬時に判断できなかったけれど、あまりにも美人だったので思わず見惚れてしまった。

「大丈夫ですか?」
「えっ!あっ!はい!はい!」

男の人の声だ、と思っていたら答えるのが遅れてしまった。わたし、うっとりしてた。それを自覚してしまうと自然と鼓動が勢いを増す。誰だろう、見たことない、名前は、学年は……そんな馬鹿みたいな思考で頭の中が占められて肝心の謝罪の言葉が出てこない。挙動不審であろうわたしを見てその人は口角を上げ、ふ、と短く息を漏らした。腰に添えられていた腕がゆっくり離れていくのをさみしいと感じながら、笑い方もきれいだなあとぼんやりしてしまう。

!もう受付始まるぞ!」

英太が角からひょっこり顔を覗かせて叫んだことにより、やっと自分が急いでいたことを思い出した。ぶつかった男の子に謝らなくちゃ。幾分か冷静になったので、姿勢を正して目の前の人に向き直る。すると、その人はあろうことか腰を屈め、わたしの視線を絡み取ってしまった。心臓の音が聞こえそうなくらい大きく脈打っている。息が止まる。まばたきを忘れる。ずっと見つめていたい。そんな少女漫画的思考に脳内が占拠されかけた瞬間だった。氷水をぶっかけられたような衝撃がわたしの全身を襲ったのだ。

「廊下は走らないって小学生でも分かることですけど、先輩は幼稚園児ですか」

思いがけない言葉にぽかんと口を開く。絶対零度の笑顔がはりつけられていて血の気が引いてゆく。口元はちゃんと笑っているのに、目が笑っていない。怒っている。

「す、すみません」
「謝るくらいなら最初から走らなければいいだけの話でしょう」
「すみません、気をつけます」

きれいな顔で怒られると鬼気迫るものがある。じりじりと気圧されながらもペコリと頭を下げ、英太のところへ向かう。後ろから射るような鋭い視線が刺さっていることには気づかないふりがしたい。急いで角を曲がって英太の隣に立ち、英太になんて言い訳をしようか考える。英太はそんなわたしを見て、軽くため息をつき、安全ピンと名簿をわたしの腕から抜き取って新入生を迎える準備を完成させた。

「遅くなってごめん。先生の机が散らかってて名簿が全然見つからなかったの。決してさっきの人と油を売っていたわけじゃなくて……」

早口でまくし立てているわたしに対して、ふーんと相槌を打った英太は、何か言いたそうにしていたもののそれは飲み込んでしまったようで、あ、とわざとらしく人さし指を立てた。

「というか、今の豊黒中の白布じゃなかったか?」
「ん? 誰?」
「いや、一応県内のうまいセッターはチェックしてるんだけど、あいつ今年のスポーツ推薦のリストに載ってた記憶がなくて」
「うーん、確かにそうかも」

リストには顔写真も載っている。あの綺麗で怖い顔はきっと一度見れば忘れられない。だから記憶にないということはスポーツ推薦ではないということだ。そんな彼がこの学校に来た理由をうんうん唸りながら考えていると、何を勘違いしたのか英太は「はは」と目元をくしゃりと細めて笑い、わたしをからかい始めた。

はああいうのがタイプなんだな。さっきも顔赤くして、珍しいもん見たわ」
「ち、ちがうし!ばか!ほら、新入生来たからちゃんとして」

タイプと言われればそうなのかもしれない。でもそれは見た目だけの話だ。口を開けば恐ろしいから、なるべくなら近づきたくない。最低限の距離でいい。眺めるだけでじゅうぶんだ。今日のことだって、わたしが悪いのは分かってる。だけど言い方ってものがあるじゃないか。そう思うとどうしてもさっきのことが消化しきれなかった。
未だ頬に熱を持っているのが分かる。これが照れているからなのか怒っているからなのか、自分でもよく分からない。そんなことに気を取られていたから、わたしは英太の感情の機微に気づくことができなかった。いや、本当は気づいていたのかもしれない。英太と過ごしてきた十六年間は、そんな些細な変化でさえも見逃さない自信がある。だけど、これはきっと体の芯の本能的な部分で拒否をした。多分、おそらく、わたしは彼に一目惚れだったから。







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