(白布賢二郎の場合)

ふたりの距離は近づくことも遠ざかることもなく、はたから見れば何の変化もない。さんはいつもどおりマネージャーの仕事をそつなくこなしていたし、軽口をたたき、笑い声をあげることだってある。無表情の自分に対しても笑顔を欠かさなかったが、その笑顔はどことなく無理して作られているものだと感じていた。
ある練習試合で先発のセッターを任されたときのこと。うまくアピール出来ればスタメンのチャンスが巡ってくるだろうと考えていた俺は、集中力を高めるためベンチで目を閉じていた。ボールがゆびさきに触れる感触、上げるトスの軌道、その先のスパイカーが腕を振り下ろす音。頭の中でイメージしてから目を開ける。体育館の照明の眩しさにめまいがしたが、その光を遮るように人影が現れた。絶妙のタイミングでさんがジャージの上着を回収しにきたのだ。

「頑張ってね」
「はい」

彼女に言われるまでもなく頑張るつもりだった。初めて一緒に帰った日に「応援するね」と言ったさんが頭をよぎる。だけど不思議とぐつぐつと鍋が沸騰するようなドス黒い感情は湧いてこなかった。大丈夫、うまく集中出来ている。それは自信につながった。
彼女は、まっすぐに歩み続けるしかない俺に、水を差すような真似はしないだろう。たとえ俺が「頑張って」という言葉に適当に返したとしても、いつものように貼り付けたような下手くそな笑顔で、ゆるりと笑ってコートに送り出してくれるのだ。
何も思わない。部員の手が回らないところを補ってくれているのは感謝しているけれど、彼女を元気づけようだとか喜ばせようだとか笑わせようだとか、そんな余計なことはなにも思わない。彼女のことに関していえば、誰に対しても対抗意識を持たなくなった。俺も彼女も自分のすべきことをやり遂げるだけだ。もうすっかり、さんへの想いは断ち切れたかのように見えた。のに。



秋は駆け足でやってくる。木々は色づき始め、空は高く澄み渡っている。俺は秋が好きだった。暑苦しい夏が終わって、少し乾燥した涼しい風が吹き、冬を迎える前の束の間の切なさが好きだった。なのに、この十六歳の秋が、空を見上げても季節に置いてけぼりにされてしまった感覚しか手に残らないような、思い出したくもない秋になってしまうなんて考えもしなかった。俺は、彼女を泣かせてしまった夜から一歩も動けていないことを自覚するはめになったのだ。
毎日毎日さんを意識しないように過ごしていたからか、彼女とは最低限しか言葉を交わさないという行為が、呼吸をすることと同じくらい当たり前のようになった仲秋の頃。全てのことを自分の納得がいくまで突き詰めて練習し、今日の朝練も何事もなく終わるのだと思っていたところだった。
ビブスを拾い集めていた俺のすぐ後ろで瀬見さんの慌てた声が聞こえたので、思わずそちらを振り向くとさんが倒れ込んでいるのが見えた。俺だけではない。瀬見さんがさんの名前を呼ぶ焦ったような声に、近くにいた部員が何事かと顔を向けている。青白い顔で自分の体を支えようとしているさんの姿が目に飛び込んでくると、途端に勝手に足が動く。行くな。頭では分かっているのに、どうしてかその指令がうまく伝わらない。とりあえず人手が必要かもしれない。そんな言い訳を必死に考えながら瀬見さんの隣にしゃがみ込む。嫌な汗が体に纏わりついて気持ち悪かった。

さん、大丈夫ですか?」

声をかけると彼女は頼りなさげな腕で上半身を起こした。冷や汗だろうか。額に前髪が少し張り付いていて、辛そうなのは目に見えて分かるのに、彼女は縦に首を振り、かたくなに自分の状況を認めようとはしない。よっぽど俺に弱いところは見せたくないのだと思う。自分も逆の立場ならそうするだろうから。
息の荒い彼女の背中を軽くさすっている瀬見さんを見ると、駆けつけたのが俺だったことが意外だったのか、驚いたように目を見開いていた。

「何があったんですか?」

さんに聞いたつもりだったけれど、喉を絞るように出した彼女の声は言葉にならず、体を支えていた腕からガクッと力が抜けたので、慌てて瀬見さんが彼女の体を抱え込んだ。答えられなかったさんの代わりに瀬見さんが言いにくそうに口を開く。

「あー、朝から顔色は悪そうだったんだけど」
「それに気づいてどうして休ませなかったんです?」
「いや、大丈夫だって言うから」
「間に受けないでください。何年幼馴染やってるんですか」

思わず口をついて出た言葉に瀬見さんはぐっと歯を食いしばり、拳を握った。その手が微かに震えていて、この人は言いたいことを全て飲み込んでいるのだと瞬時に理解出来てしまった。けれど、もう後には引けない。

「保健室、連れて行ってきます」
「俺が運ぶから白布は練習してろ」
「何言ってるんですか。アンタ仮にもレギュラーでしょう。春高予選近いんですから、練習に専念してください」

ここまで言ってしまえば瀬見さんからは何も言葉が返ってこなかった。おそらく俺の言ったことが正しいと認識したのだろう。さんを頼む、と言いたげな瀬見さんのまっすぐな瞳から逃げるように彼女を抱え、足早に体育館の扉に向かう。体育館のざわめきなんて、気にしてられなかった。
いくら男と女の体格差があれども、完全に脱力した女子を運ぶのは容易ではない。それに加えて病人だ。極力刺激を与えずに保健室へ連れていくのは相当骨の折れる作業だった。
やっとの思いで保健室へたどり着き、ガラリと扉を開けたものの中はまだ薄暗い。養護教諭はまだ来ていないようだった。きっと朝の会議中なのだろう。とりあえず空いているベッドにさんを寝かす。まっさらなシーツにくしゃりと皺ができ、彼女は微かに声を発し身じろいだ。起きたのかと思って顔を見たけれど、規則正しい寝息を立てていたので、ひとまず胸を撫でおろす。先ほどの荒々しい呼吸は今は落ち着いているようだった。状況説明をする必要もあるので養護教諭が来るまでは付き添っていようと、ベッドの隣に置かれたパイプイスに腰かけ、さんの閉じられたまぶたを見つめた。泣かせてしまった日の翌日の腫れぼったいまぶたを思い出し唇を噛む。自分に向けられた無理矢理笑った顔がこんなにも切なくて胸が痛いなんて思いもしなかった。倒れ込んだ彼女に一目散に駆け寄った理由なんて、本当は分かりきっている。

「どうしてあなたは、俺の中から出ていってくれないんですか」

天井を仰ぎ見ながら息を吐くようにひとり呟く。そのとき、さんが唸りながら寝返りをうったので聞こえてしまったのでは、と焦って立ち上がってしまった。パイプイスがガタンと大きな音を立てて静まり返った保健室の空気を揺らす。起こしてしまったかもしれない。慌てて彼女の顔を覗き見ると、相変わらずすうすうと寝息をたてていたので、大きく息を吸って細く長い息を吐いて乱れてしまった心拍のリズムを整えた。
彼女の額に張り付いた前髪が鬱陶しそうで、拭ってやろうと前髪をそっと避ける。何か拭けるものがないかと周りを見渡してみたが残念ながら適当なものがない。仕方なく自分が首にかけたままだったフェイスタオルの汚れていない部分を探し出し、彼女の形のいい額をなるべく丁寧に拭ってやった。
寝づらいだろうと思い、後ろで束ねられていた髪をほどき、上まで上げられていたジャージのファスナーを鎖骨下まで下げてやる。ほんのりシャンプーの香りが漂い、透きとおるような白い首筋が目に入ると、すぐさまその行動を後悔した。唇を寄せたい衝動がむくむくと湧き起こり、彼女の柔らかい頬に手のひらをぴたりとあてがう。熱がないか確認するだけだ。いや、そんな馬鹿げた熱の測り方あってたまるか。理性と本能のせとぎわで、ゆるゆると顔を近づけていた時だった。

「誰かいるの?」

保健室に響いた声にハッと我に返る。自分がしようとしていたことを思い返し、全身が熱くなる。足音が近づいてきて、養護教諭が閉め切っていたカーテンをゆっくりとめくって俺たちの姿を確認した。

「朝練中に倒れてしまって」

挙動不審になっていないか心配になり、部活のせいではない汗がこめかみをつうっと伝ってゆく。養護教諭はベッドに横たわっているさんの顔をそっと覗き込むと納得したように頷いて、俺の代わりに彼女の額に手を添えた。

さんね、多分貧血だと思う。たまに来るのよ」
「はあ、そうですか」
「あなたも顔がちょっと顔色悪いけど大丈夫? 熱測っていく?」
「いえ、大丈夫です。失礼します」

後ろめたさを感じて急いで保健室を出ると、からだの火照りを冷ますようにただひたすらに走った。顔色が悪いのは、自分にやましい気持ちがあったからだ。頭は冷えているのに、首から下は熱くて、その温度差に吐き気がする。

「くそ……」

一体自分は何をしようとしていたんだろう。拳を握って唇に押さえつけ、さっきの光景を忘れようと頭を振った。体育館に着く頃には何とか落ち着きを取り戻すことができ、乱れた息を整える。中を覗き込むともう誰もいなかった。時計の針は、朝練を終えた時間を指している。制服に着替えるために部室に向かい扉を開けると、まだ何人か残っていたようで、入ってきたのが俺だと分かると待ってましたとばかりに皆が皆、こちらに視線を寄越した。

「王子様のご帰還」
「こら、やめなさい」

ふざける天童さんを大平さんがたしなめたけれど、ついつい苦虫を噛み潰したような顔になったのは隠しきれなかった。天童さんは何か言いたげに目を細めて俺を見ていたが、それを遮るように瀬見さんが身を乗り出したので、内心ホッとする。天童さんを相手にするよりは瀬見さんを相手にする方が疲労度は少ない。

「で、どうだった?」
「多分貧血だろうって先生が」
「そうか、大事に至らなくてよかった」

瀬見さんも安堵の表情を浮かべ、あの、堪えるような表情はすっかり消えてしまっている。後輩である俺にあんな言い方をされてもいつもどおりを装える瀬見さんに敵うはずもない。瀬見さんはきっと、さんのことを幼馴染として見ていない。俺は、そこまで鈍くない。
身を引いてやる。
想いを捨てたはずの俺がそんなこと思うのはおかしいかもしれない。だけど、そう思わないと自分のかたちを保ってられない気がした。代わりに正セッターの座だけはゆずらない。道を間違えることは許されないのだ。
ロッカーの扉を開けて少し考えた後、俺はもう一度更衣室全体に聞こえる声の大きさで口を開いた。

「あの、このことさんには黙っててもらえませんか」
「このことって、賢二郎がちゃんをお姫様抱っこで連れていったこと?」

天童さんが怪訝そうな顔をして俺を覗き込んだ。事実ではあるがそういう表現はやめてほしい。俺たちの関係は、そんな甘ったるいものじゃないのだから。

「はい、気をつかわせたくないので」

何か言いたそうに目配せしている部員もいたが、そいつらを有無を言わせない視線で見据えると、素直に黙り込んでしまった。誰からも返事がなく、やっぱり同意は得られないのかと手に汗が滲んだ頃、一呼吸置いてから牛島さんが口を開いた。

「そうか、分かった」

牛島さんの言葉にきっと他意はないのだろう。他の人も、牛島さんが言うなら……と、頷くしかないようだった。張り詰めていた空気がふっと緩んだのを感じて、こっそりと長いため息を吐いた。
先輩たちは、じゃあまた放課後に、と次々と部室を後にしていく。いつの間にやら部室には太一とふたりきりになっていた。というか、太一は多分わざと時間をかけて着替えたのだろう。俺たち以外に誰もいなくなったのを確認するため、ぐるりと周りを見渡した太一が、俺を気づかうように首を傾げた。

「本当によかったのか?」
「何が?」
「チャンスだったんじゃない?」
「だから何の?」
「賢二郎ってこういうのは不器用なんだな」
「こういうのって何だよ」
「ご想像にお任せします」

俺も行くわ、と言って手をひらひらと振った太一がバタンと扉を閉めて出て行った。不器用ってなんだよ、と独り言ちながら脱いだTシャツ類を整理していると、ひとつ、ここにどうしてもあってほしいものがないことに気づき、思わずロッカーを殴ってしまった。

「くそ、タオル忘れてきた」

慌てて保健室を出たのがまずかった。鈍い痛みを感じる拳を軽くさすって、ベンチにどかりと腰をかける。
ああ、もう、全然うまくいかない。感情のコントロールもできないし、証拠まで残してきて。おまけに、目を閉じると、さんの無防備な寝顔がふと頭を過ぎって頭を抱える。こんなにも思いどおりに事が進まないなんて今までなかったからどうすればいいのか分からない。
恋をなかったことにすること。それは、猛獣を飼い慣らすほど不可能に近いことなのかもしれない。







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