(白布賢二郎の場合)

委員会のある日はその度に何故かさんと一緒に帰ることになった。初日は自分から言いだしたものの少し面倒だったけれど、段々と楽しみに思えてきている自分もいた。彼女と話をするのは何もバレーのことだけではない。彼女の日常を切り取ったような取り留めもない話は気分転換にもなったし、お互いが気を許しあうことを居心地よく感じる自分もいて、心のうちに湧いて出るあたたかな気持ちを段々と誤魔化しきれなくなってきた。驚くほど呆気なく絆されてしまった。
だけど、その感情はのちになかなか厄介なものであったと思い知ることになる。誰彼構わず柔らかな笑顔を振りまくさんに苛立ちを感じるようになったし、先輩とじゃれて頭をぐしゃぐしゃにされながら大笑いする姿に、ぎゅっと心臓を鷲掴みにされるような感覚がした。自分には、まだ、そんな顔をさせられないのだと、まざまざと見せつけられた気がした。そんなこと、今まで日常茶飯事だったのに、意識すればするほど心がかき乱される。
瀬見さんのこともそうだった。さんにあの花冠を渡したのが瀬見さんだと知ったときの衝撃といったら、頭をガツンと鈍器で殴られたような気分だった。何が「応援するね」、だ。幼少期からずっと一緒に過ごしてきた瀬見さんと、つい最近まで赤の他人だった俺。セッターというポジションを争っている俺たちふたりのどちらかを応援するとなれば瀬見さんをとるに決まってるだろ。技術面はもちろん、部員とのコミュニケーション力、いつ何時も誰にだって平等に接することのできる広い心とか、世話焼きなところも憎めない。それから、さんと名前を呼び合う仲、瀬見さんに向けるさんの心底ほっとしたようなあどけない笑顔。どれをとってみても敵わなくて情けなくなる。そんな相手からもらった花冠をおんなじように俺に渡すなんて、馬鹿にするにも大概にしてほしい。
三年が引退すれば俺にだってベンチ入りのチャンスも訪れるだろう。何のためにここにきた? 恋愛にうつつを抜かして大事な時期を棒に振るのか? 違うだろ。俺はここにバレーをしにきた。今までやってきたバレーを捨て、憧れと理想をこの手で掴んで現実にするためにここにきた。夢なんかじゃ終わらせない。それを忘れるな。
自問自答した結果、俺はこの感情を邪魔な感情だとみなし切り捨てることに決めた。自分を見失うような感情なんてクソくらえ。俺はきっとさんのことが好きだったのだ。だけど、もう、それはたった今から過去のこと。彼女とは最低限の言葉しか交わさない、極力視界に入れない、でもそれを周りに気づかせない。それができる自信があった。ちょうど夏休みに入り委員会がなくなるのは、自分にとっては好都合。新学期に入れば、その役目は彼女の幼馴染である瀬見さんに頼めばいい。そう思っていた。



新学期が明けて、すぐの水曜日。さんはまた例の予算委員会に出席していたようで、部活中は姿を見せなかった。それ以外、特になんの変哲もないいつものバレー部の光景だった。
全体練習を終え、いつもどおり残って練習をする。一年はもちろんのこと、レギュラーを掴み取っている先輩たちも残って練習するので、もっともっと努力を重ねなければならなかった。誰よりもボールを触って、誰よりも要領よく練習をこなす。そうやって意識を高めながら練習していると、一人一人、また一人と寮へ戻っていき、最終的に体育館には俺一人になってしまった。これをあと一本だけ。そう思ってボールを高く上げようとした瞬間だった。「白布くん」と今一番聞きたくない人の声が俺の鼓膜を震わせて、情けなくびくりと肩が揺れる。思いのほか彼女の声が体育館に響いて、その空気の振動が俺の手に直接伝わったみたいに、ボールがするりと床にこぼれ落ちる。あれだけあの邪魔くさい感情を捨てると決心したのに、さんに名前を呼ばれてどきりと音を立てる心臓に嫌気がさす。黒く塗りつぶしてぐしゃぐしゃに丸めたはずの感情がふつふつと輪郭を取り戻すように浮かび上がってくる。

さん、なんで……」
「今日も委員会だったの」
「そうですか。じゃあ今日も送りますね」

さんへの想いをなかったことにしたかったけれど、いつもどおりを装うために発した一言だった。特に深く考えて言った言葉ではない。ほぼ反射に近い。彼女が静かにこくりと頷くのを見て、俺はボールを拾った。
中途半端に練習を中断させられた苛立ちと、想いを捨てきれていないことへの苛立ち、みんな平等におんなじ笑顔を振りまくさんへの苛立ち。すべてをぶつけるように高く高くボールを上げた。ライトが眩しくて一瞬ボールを見失ったけれど執念で腕を振り抜く。手のひらにミートしたボールはコートの向こう側で大きく弾んで、こんなときに今日一番のサーブが打てるなんて、と自分を嘲りたい気持ちだった。
夏休みを迎える前とおんなじように二人で片づけて着替えに向かった。練習着を脱ぎながら重苦しいため息を漏らす。さすがに話す話題がない。だけど、ここでぐずぐずしていたって始まらない。面倒なことはさっさと終わらせてしまおうと、伏せていた顔を上げ新しいTシャツに袖を通した。
心を落ち着けるため、更衣室を出て空を見上げると、初めて一緒に帰った日に東の空にあった夏の大三角形は、今はもう西の空へ傾いている。さんが待っている体育館へ戻ると、彼女は眉尻をハの字に下げて儚く笑った。泣きそうに見えて、胸の奥がざわめく。だけど、そんな感覚は見て見ぬ振りをして、二人でゆっくり歩き出した。
街灯がちかちかするのが鬱陶しい。二人の間には肌を刺すような痛々しい沈黙が流れていた。足音とスクールバッグを肩にかけ直すときの衣擦れの音しか聞こえない。どちらが口を開くか、お互いがお互いの様子を窺っているのだと思う。いつもどおりを意識するあまり何を話せばいいのか分からない。こんなことになるなら、送るだなんて言わなければよかった、と後悔の想いが頭を過ぎる。

「あの……」

沈黙を切り裂いたのは、さんの遠慮がちに発された震えた声だった。まさか彼女から声がかかるとは思っていなかったので驚いて一瞬足がとまってしまう。けれど、さんは変わらずゆっくりと歩をすすめている。手のひらにじっとりと汗が滲んでいるのが分かる。がらにもなく緊張しているのだろうか。それを拭い去りたくて、こっそりとぐっと手を握り込んだ。

「白布くん、わたしのこと避けてる?」

その言葉にこくりと生唾を飲み込んでさんに視線を落とした。そんなに分かりやすく避けていただろうか。いや、それはない。今の状態に至るまでは少しずつ段階を踏んだはずだし、あからさまではなかったはずだ。

「……そんなことないです」

少し首を横に振って答えたけれど、さんは納得がいかなかったようで執拗に食い下がった。何かを我慢するように下唇を噛んで、俺を鋭い瞳で射抜くように睨みあげたので思わず視線をそらせてしまった。嘘をついたというやましい気持ちが滲み出るような行動をとってしまい、しまったと思う。

「嘘、避けてるよ!」
「嘘じゃないです」
「じゃあ目見て言って」

彼女は俺を逃がさないように、咄嗟に俺の両腕を掴んだようだった。彼女は必死だ。俺がさんの言うことを頑なに認めようとしないからだ。掴まれた腕からは、じりじりと彼女の熱が伝わって、他の奴らに笑いかける彼女を思い出す。どうせこうやって他の奴らの腕も掴んでるんだろ。どうせ瀬見さんにもおんなじようなこと言ってるんだろ。そんなどす黒い想いに心臓が蝕まれる。彼女の双眸に映り込んだ自分の顔が感情的になっているのが分かる。でも、どうにもとめられそうにない。

「そうですね、そのとおりですけど何か問題ありますか」

彼女の前でこんな風に声を荒げたのは初めてだったかもしれない。現に、びくりと肩を震わせて掴んでいた両腕を離してしまった。

「……なんで?」
「なんでって、俺、さんのこと見てるとイライラするんです。練習にも集中できなくなりますし、あまり俺のこと気にかけないでもらえますか」

いささか感情的に捲し立てすぎたかもしれない。けれど、彼女が絡むと自分自身のコントーロールができなくなる。落ち着くために右の手のひらを額に当てて長く息を吐き出した。ふとさんを見ると、目に水の膜を張り、唇を噛み締めて鼻をスンと鳴らした。泣かせてしまった、と思い動揺し、息をのむ。

「……わかった。ここまででいいよ、ありがとう」
「え?」

さんは声を震わせないようにトーンを落としたようだったけれど、全くうまく出来ていない。とどめることができなかった涙を隠すように俺と反対の方も向き走り出そうとした。

「待ってください」

反射的にさんの腕を掴んで引きとめたけれど、咄嗟に出てしまった自分のこの腕を切り落としてしまいたい気持ちに駆られた。さんは唇を噛みしまたまま俺をじっと見つめている。想いは捨てたはずだ。なのに、彼女のそんな姿を見ると思わず決意が揺るぎそうになる。

「気にかけるなって言ったのは、白布くんのくせに」

掴んでいた腕はやんわりと振りほどかれた。さんの耳にかけていた髪がはらりと落ちる。その隙間から涙の雫が街灯に反射してきらりと光った。俺は宙に浮かんだままの自分の腕をぼんやり見つめた。引きとめてどうするつもりだったのだろう。自分が泣かせたくせに。でも、そんな顔をさせたいわけじゃなかったんだ。走りゆくさんの後ろ姿をゆびさきが白くなるほど握りしめて、彼女が消えていったほうを見つめた。後悔してももう遅い。
次の日朝練で一瞬だけさんの顔を見るとまぶたが赤く腫れていた。それを確認すると思わず目をそらせてしまった。さんは部員からからかわれつつも何とか誤魔化しているらしく、それに安心してしまっている自分自身に腹が立つ。だけど仕方がないことだ。俺にはさっさと彼女のことを忘れてしまうしか方法がない。
いつもどおり練習を始めようとストレッチをし始めたところに天童さんが寄ってきて肩をがっちり組まれてしまう。ヤバい。動物的な勘が働いて咄嗟に身構えると、天童さんが内緒話をするように顔を近づけてきた。

「賢二郎くんはちゃんの目はどうしたのって気にならない?」

全てを見透かしたような目で見られゾッとする。だけど目をそらせてはいけない。一挙一動、悟られたら終わりなのだ。

「いえ、別に。俺には関係ないことなので」
「関係ないって俺たちのマネージャーじゃん。賢二郎ってば冷たいね」
「俺、誰に対してもこんな感じなんで」
「それもそうだね」
「じゃあ、ストレッチ続けていいですか」

肩にのせられた天童さんの腕をぐいっと押しのけて、一応ぺこりと頭を下げる。天童さんは薄く笑いながら素直にコートに入っていった。その間もさんは先輩、後輩、ありとあらゆる人から心配されていて、さっさと練習に集中したかったのに、嫌でもその声が耳に入ってイライラが募った。

「おーこわっ」
「何が?」

隣でおなじくストレッチをしていた太一が話しかけてきたけれど、ついつい言葉に怒気がこもってしまう。そんな俺を見ても太一は肩をすくめるだけで口の動きを休めることはない。

「全部顔に出てるぞ」

太一はひそひそと手を口元にやり、さんを指差しながら「あの人が原因だろ」と言う。太一にも誰にも自分の気持ちは言ったことがない。どうして分かるのかが不思議でたまらなかった。それほどまでに俺は分かりやすい人間なのだろうか。指差すな、とその腕を遮って彼女を見れば、ちょうど瀬見さんがさんの後ろから近づいて目隠しをするようにアイスノンを当てたところだった。思わず眉間にしわが寄る。

「賢二郎くん嫉妬ですか」
「はあ?」
「自分の気持ち、受け入れたほうが楽になるんじゃねえの」

ヤベ、監督こっち見てる。そう言いながら太一はストレッチを再開し、念入りに膝裏を伸ばし始めた。分かってる。これが醜い嫉妬だってこと。でも、それにしたって俺にとって邪魔な感情でしかない。意識しないようにすれば、その気持ちも鎮まるものだと思っていた。なのに目を閉じると昨日のさんの涙がまぶたの裏にちらつく。
サーブ前の精神統一。その瞬間でさえも、その姿が焼き付いて離れない。ボールを高く上げる。心にくすぶり続ける想いをかき消すように、ただひたすらにボールを床に叩きつけた。俺は、地に足をつけてまっすぐ歩き続けるだけだ。






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