(瀬見英太の場合)

「最近不審者が出たから帰宅時はなるべく数人で帰れよ」

日が長くなってきたある初夏の日だった。日中は長袖だと汗ばむ陽気が続いていた。そして、こういう時期になると何故か路上に変なやつが湧く。
担任の話を聞いて思わずを見ると、俺が後ろを振り向いたのに気づいた彼女が、へらへらと笑って小さく手を振った。は何週かに一回、生徒会が開いている予算委員会に男子バレー部代表で出席してもらっていた。その委員会は、支援が多いだの少ないだの、使いすぎだのケチだの、生徒会も部の代表も互いの意見を譲らないので揉めに揉めて長引くことも少なくない。大体の部は主将が出席していることが多いけれど、うちの部は、それに出席することにより練習時間が削られることと部の支出を把握できているのがマネージャーであることを合理的に考えるとが出席するのがちょうどよかった。
今までも予算委員会の度に送ろうかと提案していたが頑なに断られていた。が頑固なことを知っているからついつい諦めて、「そんなことより休んで」とか「友だちと帰るから」とかそんな言葉を鵜呑みにしてしまっていたけれど、実際に被害者がいるならかなり危険だ。
チャイムと同時にの席に向かい、目の前に立つと、彼女は不思議そうに首を傾けた。高校生になったとはいえ、こういう仕草がまだあどけなくて、かわいくて仕方がない。いつまでたっても守りたい女の子だった。

「どうしたの」
「委員会の日、これから送って帰るから」

そう言うと、は少し唇をひき結んで、言いにくそうに頬を染めて「英太、あのね」とぼそぼそ喋り出した。手をもじもじと太ももの上で触りながら俺から視線をそらしたは、いつもよりゆっくりとまばたきをした。そのまばたき一瞬のうちに、まぶたの裏に見えたもの。それは、決して俺の姿じゃない。その行動から滲み出ているのは、俺に向ける信頼のような想いじゃない。もっと熱くて焦がれるような、そんな想いだ。
嫌な予感がする。ほぼ本能に近い状態で聞きたくないと感じ取り、思わず片耳をくしゃりと押さえた。

「実は遅くなった日は白布くんが送ってくれていて」

恥ずかしそうに耳までピンクに染めたは俯いて、ぎゅっとゆびをにぎり込んだ。その姿を見て、心臓のあたりがきゅっと締めつけられる。
奪われてしまうかもしれない。そう思ったのは今が初めてではない。最初に危機感を覚えたのは入学式の日だった。今まで生きてきた十六年間、こいつが男に関することで焦った口調で捲し立て、必死に弁明する姿を見たことがなかったのだ。なのに、は見惚れていたことをどうにか誤魔化せたと思っているようで少し腹が立った。
侮らないでほしい。今まで、「あの人かっこいい」と騒ぐを見ることはしょっちゅうあったけれど、それが恋ではなく憧れであることは楽しそうに笑う彼女を見れば明白だった。今みたいに恥じらうように目元を桃色に染めることなんてなかった。悔しいことに俺もそんな顔させたことがない。
だから、この表情が何を表しているかなんて分かりきっている。けれど、聞かずにはいられない。俺のその読みが勘違いであって欲しかったから。

、白布のこと怖いって言ってなかったか」
「最初は怖いって思ってたけど今は……」
「今は?」
「いい子だって思ってる」

嘘だと思った。思わず、いい子どころか好きなんだろ、と口をついて出てくるところだった。こいつは嘘をつくとき、決まって人さし指で唇に軽く触れるのだ。今だって柔らかそうな唇に、ふにっとゆびを押し当てている。
そういえば、部活中も二人の距離がやけに近いなと思っていた。一年がの手伝いをするのは仕方がないことだけれど、いつも冷めた顔をしている白布がの手伝いをするときだけは口角を少し上げていた。それを見たときも、胸騒ぎを覚えたのに。なのに、どうしてすぐに牽制しなかった? 気づかないふりして、仲良くなったんだなあと呑気に構えて。こうなってしまうと応援するしか選択肢がなくなってしまうじゃないか。もう、ずっと昔から、を泣かす奴から守ってきたのだ。俺が泣かしてどうする。笑った顔が見たいと願ったのは自分なのだ。今でもその証がの部屋に残っている。大事そうに扉に引っかけられた花冠の光景が、まぶたの裏に鮮明に焼きついている。「幸運が舞い込むかもしれないってリースにしたの」と言う彼女の姿とともに。小さい頃の俺は、どうしてそれが自分の首をしめてしまうことになると思わなかったんだろう。

「ふーん。ま、仲良くなれてよかったんじゃないか」
「うん、そうだね」

息苦しくなって大きくゆっくり呼吸をする。だけど、いくら酸素を取り込んだところで、その苦しさから解放されることはない。喉から絞り出すように言葉にして笑顔を作り上げると、肩をすくめ照れ臭そうに彼女は笑った。その笑顔だけが俺の道しるべだった。



それからはと白布がふたりでいるときはその光景を意識的に見ないように過ごした。インターハイの予選に向けての練習もハードになり、そんなこと気にしてられなかったのもある。それに、幸いなことにそれ以来、普段の学校生活においてもが俺に白布のことを必要以上に話すこともなかったので、俺は今までどおりの自分を演じることができていた。
表面上、そのまま平穏な日々を送り続け、誰からも何も言われることなく七月を迎えた。人間関係の些細な変化に敏感なあの天童でさえも何も言ってこなかったので、相当うまく立ち回れていたのではないかと思う。この頃になると、だいぶ一年も部に馴染んで、先輩後輩の会話も増えてきていた。その最中の出来事だった。

「瀬見さんとさんてつき合っているんですか」

部室で着替えていると片づけを終えた一年が入ってきて、俺を見るなり「あ」と声をあげた。「何だよ」と聞けば言いにくそうにするので「怒らねえから言ってみ」となるべく優しく声をかけると、この一言。

「どうしてそう思うんだよ」

そう思われるような心当たりが特に見つからなくて聞けば、「下の名前で呼びあってるんで」と言われてしまい、入部したての頃をハッと思い出す。一年前も、今とおんなじように昔からの名残りで「」と呼び「英太」と呼ばれていたけれど、が下の名前で呼び捨てる部員は俺だけだった。それについては、散々先輩や同輩にからかわれた。けれど、今や周知の事実だったので、何の説明もいらない、皆にとっても当たり前のことだと思い込んでいた。言われてみれば、一年は知らなくて当然のことなのに。

「ちげーよ、幼馴染」

汗で濡れたTシャツを脱いで新しいものに取り替え、髪を整えながら一年を見ると、納得したような顔でふんふんと頷いていた。だけど、その中で白布だけが目をまんまると見開いた驚いた顔をして、何か言いたげに俺を見ていたので思いがけず目にとまる。珍しい表情の変化だと思った。普段喜怒哀楽でいえば、喜怒だけが分かりやすい白布がこんなふうに驚いた表情をするのはあまり見たことがなかった。

「どうした白布」
「あ、いえ……」

少し動揺を見せ、視線を反らせてから拳をぐっと握ったのを俺は見逃さなかった。
のやつ、白布に俺と幼馴染だってこと言ってないのか。そんな憶測が頭を過ぎる。わざとその事実を隠しているのか、それともただ単に言うタイミングがなかっただけなのか定かではないが、白布の反応を見る限り自分の予想がおおよそ当たっているのではないかと思う。
白布はそれ以上何も言わず着替え始めてしまった。だから、白布にとって、俺とが幼馴染だという事実は大して重要なことではないのだとこの時は判断したのだ。



夏休みを迎え、インターハイを終えると、ようやく二人の様子がおかしいことに気がついた。いつからそんなことになっていたのかは分からない。だって、今までふたりが一緒にいるところは見ないように努めてきたのだ。自分の想いを殺して、息をするように演技が出来るようになった頃には、もうすでにふたりの間に流れる空気は歪な形をしていた。
白布はの手伝いを最小限に抑えているようだし、そのときの表情は氷のように冷たかった。夏だというのに鳥肌がたちそうなくらいで、思わずに同情した。おそらく勘のいい天童はもう少し早い段階から気づいていたのだろう。何度も「ちゃん元気ないけど大丈夫?」と話しかけては「何でもないよ、元気だし」と下手くそな笑顔で返されていたようで、終いには為す術なく俺に縋ってきた。

ちゃん、絶対賢二郎と何かあったよね」
「おまえもそう思う?」

他人を観察する目に長ける天童が自分と同じ予想をしたことで、原因は白布だと確信が持てた。「俺が首突っ込むと余計なこと言いそうだから英太くんにまかせるよ」と背中をバシバシ叩かれ、盆休みに入った今日、の家を久々に訪れた。
玄関で手土産のシュークリームをの母親に渡すと、「英太くん部屋上がるよ」と大きな声で二階の自室にいるに声をかけてくれた。「はーい」と返事があったので、階段を上がり、扉をノックする。勝手知ったるの家。案内されずとも易々との部屋にたどり着くことができる。その扉には、相変わらず俺があげた花冠がかけられていて、心臓に爪をたてられたような痛みで胸を押さえたくなった。
扉から出てきたはTシャツとショートパンツというとてもラフな格好をしていて、少し目のやり場に困る。だけどは、そんなことお構いなしにベッドの端にちょこんと腰を下ろした。
部屋の中は、前に来たときよりも少し女の子らしくなったように感じる。以前はなかった、アクセサリーの類やメイク道具を置くためのコーナーが今回新たにつくられていて、この変化をもたらしているのも白布なのかと思うと、腹立たしくてどうしようもない。
そんなこと感じたところで、二人の仲がうまくいっていれば俺の出る幕はないし、多少諦めもつく。だけど実際、の顔は笑っているけれど感情の伴っていない貼り付けられたような笑顔だったので、俺が自分自身にかけた呪いが体をじわじわと蝕むように緩やかに発動してゆく。

「いらっしゃい。部屋来るの久々だね」
「年明け以来か」
「うん、そうかも」

は微かにため息をついて、テーブルの上に置かれていた夏休みの宿題をパラパラとめくった。いつ話を切り出そうか。そんなことを考えていると、扉がノックされ、の母親が麦茶をテーブルの上にコトリと置いた。
以前と変わってしまったの部屋は少し居心地が悪い。どこに視線を定めたらいいのか分からず、麦茶に入れられている氷をじっと見つめていると、涼しげな音がカランと鳴る。それを合図に顔を上げを見ると、なんとなく消え入りそうに儚く見え、俺は覚悟を決めた。

「なあ、単刀直入に聞くけど白布となんかあった?」

彼女は大きくびくりと肩を揺らして俺を見た。眉が垂れて泣きそうだと思った。瞳に映った俺がゆらゆらと涙に揺れている。

「なんかあったかどうかも分かんないっていうか……」
「でも、おまえにだけ冷たいよな。なんか地雷踏んだんじゃねえの?」

冗談めかして言ったけれど、彼女の憔悴した顔を見るとすぐに後悔に変わる。

「英太……わたし、本当に分かんないの、無意識に何かしたのかな」

時折考え込むように言葉を詰まらせたを見ていると「そっか」としか返せない。どうにか泣くのを堪えているようで言葉の端が震えている。こんなふうに男のことを想って我慢するのを見るのも初めてのことだった。
俺にしとけ。その言葉を何度飲み込んだことだろう。でも、言って困らせるのも嫌だし、今の関係を崩すことも俺には出来ない。こいつを悲しませるのは俺であってはならないのだ。

「何か出来ることがあったら協力するから」

だから泣くな。その言葉を続けようとしたところでは目元をごしごしと擦った。赤くなった目元を細めてへらりと頼りなく笑う。

「わたしには英太がついているもんね」

もう涙は引っ込んでしまい、の瞳に少しだけ力が戻った。これだからこの役目はおりられないんだ。俺の一言で立ち直る姿を見てしまうと、いじらしくて可愛くて、でも手が出せなくて、俺の想いは宙ぶらりんのまま吐き出す場所が見つからない。喉まで出かかったその想いを腹の底にとどめるため、俺は出された麦茶を一気に飲み干した。






/ back /