1. 忘れたいのに忘れられない人

 クリスマスキャロルが街中にあふれている。心なしか行き交う人々も浮き足立っているように見え、ついつい羨ましく思ってしまう。だってわたしはクリスマスイブの夜に一緒に過ごす相手もなく、その日のバイトはてんてこ舞いになること間違いなしなのだ。高校生になって始めたバイトはケーキ屋さんでのバイトだった。そこでのバイトを決めたのは、制服がかわいいのと余ったケーキを食べられるという単純な理由からだ。実際に働いてみるととても楽しかった。ケーキを買いに来た人たちのキラキラした瞳を見ているとこちらも思わず笑顔になってしまうような、別にわたしがケーキを作っているわけではないのだけれど、それでもワクワクした顔を見ているととても嬉しい気持ちになる。ただ、それとこれとは別問題。クリスマスケーキの予約のピークもすぎ、イブまでのカウントダウンが始まった今日。それは、ある意味地獄へのカウントダウン、クリスマスイブの日の仕事だけは、今年二回目を迎えるとはいえ、どうにも慣れなかった。
 外で赤いベンチコートを着て、頭にはサンタの帽子。吐く息は白く、手もかじかむ。通り過ぎる人々に、クリスマスケーキ予約受け付けてますと声をかけていると「あれ、さんやんか」と背中から声がする。わたしはこの声の主に心当たりがあった。と、同時に心臓が軋むように嫌な音を立てる。忘れたいのに忘れられない人、宮侑。振り向けばその人は、目をまんまるに見開いてわたしを見つめていた。

「ケーキの予約されますか」

 他人を装うとするけど宮くんはそれを許してくれない。チラシを持つわたしの手を掴んでにっこりと人のいい笑みを浮かべている。

「いややわぁ、俺のこと忘れてしもたん」
「やめて」

 手を振り払うと一瞬だけ傷ついた顔をしたけどそれはすぐによそいきの顔にコーティングされる。

「そら俺になんか会いたくないわな。でも俺はずっとさんに会いたかったんやで」

 そんな言葉、今さら聞きたくなかった。わたしの想いを踏みにじってみんなと笑っていたくせに。
 わたしは中学三年間、ずっとずっと宮くんに片想いをしていた。宮兄弟のファンの女の子に混じってたくさん応援に行ったし、目が合ったと騒いだりもした。それは、アイドルのコンサートに行ったときのような、そんな感覚によく似ていた。これからもずっと大勢のファンの女の子のうちの一人だと思っていたけれど、幸運なことに最後の最後に同じクラスになって、これを逃したくはないと思った。だけど、いざ仲良くなりたいと思っても恥ずかしくって話しかけることなんてできず、今までと何ら変わることはなかった。そんな状況の中、チャンスは唐突に転がり込んで来た。
 衣替えの季節、みな夏服に変わっていく中、なんとなく肌寒くて替える機会を逃していた時のこと。そこへ宮くんが話しかけてくれたのだ。

「なあなあなんでずっと冬服なん? 夏服持ってないん?」

 からかうような言葉だったのに嬉しくて、心臓はどきどきと甘い悲鳴を上げていた。それから何かとからかわれるようなことが増えて、その度に顔を真っ赤にしながら答えていたのを覚えている。友だちになることさえ夢のまた夢だったのに、いつのまにか手を伸ばせば届く距離に彼がいて、わたしはついに勘違いしてしまったのだ。ひょっとすると彼女にしてもらえるかもしれないなんて、そんな馬鹿げた夢を見てしまったのだ。高校受験最中のバレンタインデーに、ガトーショコラを作って宮くんに手渡した。可愛らしい淡いピンクのメッセージカードにわたしの想いを添えて。うまくいかなくてもいい、それは彼への想いを思い出として閉じ込めてしまうために必要な行為だった。人の好意をないがしろにするような、そんな人だと思ってもいなかったのだ。なのに次の日学校に行けば、クラス中の知るところとなっていてわたしは呆然と立ち尽くした。

さん侑のこと好きなんやってな」

 そう言って笑う男の子たちのまんなかで、宮くんは笑っていた。わたしはそこで馬鹿にされているのだと気づいた。勘違いも甚だしい。わたしが宮くんの彼女になんて、友達になんて、なれるはずがなかったのだ。同時に怒りがこみ上げる。人の気持ちを笑う宮くんに。こんな人を好きになってしまった自分に。それからわたしはこの想いを捨てることに決めた。元々進学したかったのは女子高だし、宮くんに会うこともなく、宮くんの周りにいた男の子たちと金輪際関わることなく、今まで高校生活を過ごしてきた。なのにここにきてこの仕打ち。

「予約されないなら邪魔なので退いてくれませんか」
「ひど」

 宮くんはけらけら笑って帰る気配がない。わたしが何か言うのを待つみたいに目を細めて、形のいい唇は弧を描いている。ため息をつく。もう極力この人とは関わりたくなかった。

「会いたくないって分かってんのに何でわざわざ声かけるん」
「俺ずっとさんに言いたいことあってん」

 話の展開をここへ持って来るために、多分宮くんにうまいこと誘導された。いいや、違う、誘導されてやったのだ。決して宮くんに踊らされているわけではない。早く帰って欲しくて食い気味に「なんなん」と問えば、今まで見たことがないくらいに優しく微笑まれて、ここだけ空間が切り取られたみたいに周りの音が聞こえなくなる。わたしと宮くんだけの世界。踊らされているわけではなかったのに、またたく間に宮くんの手の内だ。かろうじて、その自覚だけはあった。

「あのバレンタインよりも前から俺はさんのことが好きやった」

  一瞬頭が真っ白になる。どの口が言っているのだろうか。気づけば手が震えていて、それは決して寒さのせいではなかった。心の内に湧いてきたのは悲しみでも喜びでもない、怒りだ。怒りでわたしは震えていた。ふざけんな、と声高々に言いたかったけれど、わたしもそれなりに大人になった。感情まかせに動いても何もいいことなんてない。それはあのバレンタインの日が証明している。

「今日は誰がこれ見てんの?」

  周りを見渡してこの茶番劇を観覧している客を探す。「誰もおらへん」と言った宮くんは眉尻を下げて心底傷ついたような顔をして同情を誘っている。

「あんときは悪かった」

 深々と頭を下げて謝る宮くんに道行く人が何事かとちらちら見ていく。目立ちたくないので、頭を上げさせるために急いで肩に触れると、その手を掴まれて逃げる術を失う。

さんが俺を好きってこと、単に自慢したかっただけなんや」

 悲痛に歪む宮くんの顔を見て、葛藤する。そんな自分勝手な理由でわたしを傷つけるようなことをしたのかと責めたい気持ちと過ぎたことはもういいと許してしまいたい気持ち。それから、自分の中でくすぶり続けていた想いがちらついて、再び大きくなろうとしているのが、もう、本当に嫌になる。

「帰って。これ以上話したない」

 掴まれていた手を振りほどけば宮くんは唇を噛み締めて、その表情を隠すようにマフラーに埋めた。

「ケーキ、予約しとくわ」

 予約なんてされてしまったら、また会うかもしれないじゃないか。断りたいのにバイト中だからできない。これもきっと宮くんの算段で、結局どう足掻こうがわたしはこの人の手中にある。申し込み表を書くために宮くんが手袋を外すと、きれいに手入れされたゆびさきが現れて、まだバレー続けているんだ、とぼんやり思う。逆に言えば、それが分かってしまう程に、わたしは高校生になった宮くんの、その彫刻のように美しいゆびさきに釘付けになっていた。