2. まるで、マリオネットみたい

 クリスマスイブを迎えて、わたしは息を切らしていた。想像以上に忙しく、なんとか水分を補給したところで、はたと宮くんが来ていないことに気がついた。お客さん一人一人の顔を覚えているわけではない。だけど、宮くんだけは気づかないはずがない。あんなことしたくせに、あんなこと言って、そう簡単に何もなかった風を装えない。そんな器用な女じゃない。あれからもずっと宮くんのことを考えていた。また会ったらどうしよう、何て言おう、どんな顔をすればいいんだろう。でも今日まで宮くんは現れなくて、ほっとしているのか、がっかりしているのかよく分からない感情が心の内で渦を巻いている。顔を見てその答えが出てしまうのが怖い。ひょっとすると今日は宮くんのお父さんかお母さんが取りにきたのかもしれないなあと淡い期待を抱きながら休憩から戻り、急いで予約リストを指で追って確認する。でも、そんな期待を裏切るようにリストには「宮侑」と、意外にも繊細な文字で書き残されていた。
 日もすっかり落ちて外はもう暗い。通りの店も閉店し始め、段々と街の明かりが消え始めたころ、その人は息を乱しながら店の中に入ってきた。開いたドアから身震いするような冷たい空気が入り込んで、外はとても寒いことが分かるというのに、その人の額にはうっすらと汗が滲んで前髪が少し張りついていた。

「予約していた宮ですけど」

 そんなことは見れば分かる。誰か他のスタッフに対応して欲しくてちらりと周りを見てみたけれど、わたしを含めて三人しかショーケース前にいなくて、おまけに宮くんはわたしを穴があくほど見つめていた。他の二人はわたしが対応するものだと思って、閉店作業を始めている。

「宮さまですね」

 わたしはにっこりと営業スマイルを浮かべながら予約リストにチェックを入れる。うまく笑顔は作れていたはず。これを手渡してしまえば終わりだ。早まる鼓動を落ち着けるため、軽く深呼吸してからケーキを渡しに宮くんの前まで行くと、宮くんは相変わらず人のいい笑顔で「ありがとう」とケーキの入った箱の取っ手に手をかけた。わたしが手を離せば、今日が無事に終わる。安心したその隙をつくように、彼がケーキを持つ反対の手でわたしの手首を掴んだので、わたしは思わず「あっ」と声を上げてしまった。自分のペースを取り戻しつつあった心臓の動きが再び早くなって、気管になにか詰められてしまったみたいに息が苦しくなる。ショーケース前に立っていた二人が何事かとこちらを伺っているのが分かる。でも、そんなことお構いなしに宮くんは作ったような笑顔でわたしの顔を覗き込み、口を開いた。

「今日バイトが終わるん待っててもええ?」

 好戦的な表情に、胸の底がきゅんと疼く。手袋をはずして直接触れあった肌からは、ずっとずっと触れてみたいと思っていた宮くんの体温が伝わって、わたしの頬もショートケーキの苺みたいに真っ赤になってしまう。自分の気持ちとは裏腹に、体は正直というかなんというか。それを宮くんも分かっているのか、掴まれた手に力が込められた。

「なあ、ええやろ? 渡したいもんがあるんや」
「いらん!」

 ぎらつく視線から逃げるように手を振りほどいて、掴まれていた手首を見るとほんの少し赤くなっていた。その跡を見れば、宮くんがわたしと話をしたくて必死なことが分かるのに、わたしはまた変に期待をして傷つくのが怖かった。わたしが大きな声を出したせいでショーケースの向こう側の二人が息をのんでいる。

「バイト中やから帰って」

  眉間にぐっと力を込めて宮くんを睨みあげれば、その表情から貼り付けられた笑顔が消えて、射るような鋭いまなざしで見据えられる。吹き荒ぶ北風に晒されたような感覚が全身をおそって、思わず身震いしそうになる。体を縮こませると、宮くんはそんなわたしに満足したように口元を綻ばせ、たれ目がちな目元をさらに垂らしてヒラヒラと手を振った。

「まあええわ。ほなね」

 お店から出て行く宮くんの広い背中を呆然と見つめる。中学のときよりもたくましくなったその体に手を伸ばしたくなる気持ちを必死に思いとどめ、拳をぐっと握りしめた。カランカランと扉の開閉を知らせるウェルカムベルが直接頭に響いてめまいがする。重たい体を引きずってバイト仲間の二人の元に戻ると、気持ちの沈んでいるわたしとは真反対の、きらきらした目で見つめられてついつい後ずさりしてしまう。

ちゃん、今の誰なん?」
「彼氏、ではないよな?」

  鬱屈した気持ちを吐き出すようにため息をついて「中学の同級生」と簡潔に答えると「それだけとちゃうやろ」と鋭いツッコミが入る。

「なんか恋の匂いが漂っとる」
「ほんまや、甘いええ匂いや」

 わたしの周りをくんくんと嗅ぐ二人に苦笑しながら、それただ単にケーキの匂いじゃないのかと心の中でつっこんでいると、店の奥にいた店長から「もう上がっていいよ」と声がかかった。これで宮くんの話もおしまいだと安心したのも束の間。どうやらまだ話は続いていたらしく、着替えながらも二人の間では「渡したいものってなんやろね」「クリスマスプレゼントに決まってるやろ」という会話が繰り広げられている。つい最近、久しぶりに再会したばかりの相手にクリスマスプレゼントはないだろう、と思いつつも「好きやった」と言って微笑んだ宮くんを思い出して頭をぶんぶんと振る。その言葉は過去形だった。現在進行形ではない。だから、きっと、そんなことは起こりえない。

「なあ、ほんまに外で待っててくれたらどうするん?」

 二人の目の輝きは未だに衰えていない。わたしは一体宮くんとどうなりたいのだろうか。でも、バレーに一生懸命な宮くんが、この寒い中、風邪を引いてしまう覚悟で待っているとも思えない。そんなことを考えるのは現実的ではないし、時間の無駄だと思う。

「話くらいはするかもしれんなあ。ま、待ってることなんて万が一も億が一もないけどな」

 そうは言っても二人はいまいち納得がいっていないようで唇を尖らせて「ふーん」と目を細めている。そんな二人の背中を押してお店を出ると、やっぱり宮くんはいなくて、安心しているのかがっかりしているのか訳の分からない感情の波がまた押し寄せてきた。

「ほらな、おらんやろ」
「うーん、あの様子じゃ待ってると思ったんやけどなあ」

  予想の外れた二人は不満げに首を傾げて「お疲れさま」と去っていく。二人と帰り道が逆方向のわたしは、小さくなっていく二人の背中を見送りながら息を吐いた。白く染まった息が澄み渡った真冬の夜空に溶け込んでゆく。通りのお店の明かりが消えても、クリスマスカラーの電飾が街を煌びやかに彩っている。クリスマスの夜はいつもと違った雰囲気でとてもロマンチックだというのに、わたしの心はもやもやと霧がかかっている。それもこれも宮くんのせいだ。
  帰ろうと体を反転させ、イライラしながら道端の小石をつまさきで小突くと、同時にケーキ屋さんの隣の喫茶店のベルが鳴る。「あ、ヤバい」と思ったけれど、時はすでに遅し。ころころと転がった小石は、喫茶店から出てきた人のローファーにこつんと当たって跳ね返った。

「す、すみません」

 駆け寄ってペコリと頭を下げると「あーあ、ちょっと汚れてもうたなあ」と頭上から声が降ってくる。嫌な予感がする。聞き覚えのある声に驚いて勢いよく体を起こすと、宮くんがにたりと何か企んでいるように笑っていて、背骨に沿ってぞくぞくと寒気が駆け上った。

「お詫びにちょっとつき合ってくれへん?」

 どこの輩だ。大して汚れてもいないローファーに目を落としながらも非があるのは自分なので何も言えない。肩を落として「わかった」と言えば、宮くんは作った笑顔じゃなく、どことなくほっとしたように深く息をしたので、わたしの強ばっていた気持ちもほんの少しだけほどけた。
  宮くんがゆっくりと先に歩き始めたので、わたしは彼の半歩後ろをついていくことにした。会話という会話はなくて、お互いがお互いの様子を窺っているような気まずい空気が漂い始め、わたしは居ても立っても居られずついに口を開いてしまった。でも、実際そんな空気は漂っていなくて、宮くんがわたしから話しかけてほしくてわざと作った見せかけの空気だったのだと思う。

「つき合ってってどこにつき合うん?」
「ん? 一緒に帰るだけやで。イブに一人で帰るんさみしいやろ」

 なんだか負けた気分になった。宮くんは人を思いどおりに動かすのがうまい。わたしの方を少しだけ振り返った宮くんは、見てるこっちが思わず顔を綻ばせてしまうくらいの無邪気な顔でわたしをからかってみせた。別にわたしはさみしくなんてない。さみしいのはそっちじゃないのか。それは口に出来ない。口元が緩みそうになったのを必死に我慢していれば、調子に乗った宮くんは「せっかくのイブやし、ええ男と一緒に過ごせてよかったなあ」と意地悪げに目を細めた。その表情を見ると、宮くんを好きだった頃の甘やかな胸の痛みを思い出して、あの頃の夢と今の状況を重ねずにはいられなかった。

「誰がええ男やねん」
「俺以外に誰がおんねん」
「あーソウデスネ」

 宮くんと軽口をたたきながら帰るのは素直に楽しい。一緒に帰る前はあんなに嫌だったのに、バレンタインにあった出来事をうっかり忘れてしまうくらいにふたりで話すことに夢中になってしまう。そして、ふと会話が途切れると、途端に中学生のわたしに申し訳なくなって罪悪感に苛まれる。自信たっぷりで、負けん気が強くて、お茶目で、さりげなく優しい。そんな宮くんが好きだった。でも、そんな宮くんは現実にいなかった。わたしが勝手に作り出してしまった偶像に過ぎなかった。今、わたしの目の前にいる宮くんは一体何者なんだろう。
 道案内をしながら、適当に世間話をしていると、あっという間に家に着いてしまった。今の宮くんをもっと知りたいという気持ちが泉のように湧いて出て、困惑してしまう。でも、もう、これでおしまいだ。そんな気持ち、ダムでも作ってさっさと堰き止めてしまえ。

「家、ここ」
「そ。無事に送り届けられてよかったわ」

 立ち止まって自宅を軽く指差せば、宮くんがまなじりを下げて、残念そうに、さみしそうに微笑んだのでわたしの胸がきゅうと締めつけられた。

「ほんで、渡したいもんってなんなん」

 その痛みに気づかないふりがしたくって、宮くんの今日の一番の目的だったはずのことを自ら口にする。すると、宮くんは一瞬驚いたような表情を見せたものの、すぐに人をからかうときの少年の顔に変貌した。

さん案外がめついな」
「宮くんが言ったんやん」

  確かに宮くんの言うとおりだ。冷静に考えてみれば、自分から言うようなことじゃない。恥ずかしくなって赤面していると、宮くんはフッフと声を漏らして笑って、風が吹いて乱れてしまったわたしの髪を優しい手つきで撫でつけた。

「俺、さんのそういうとこ可愛くて好きやわ」
「む、昔のことやろ」
「ちゃうよ。中学のときからずっと、現在進行形で好きなんや」

 見上げれば、宮くんは真剣な顔をしていて、小川に張った薄氷みたいに澄きとおった瞳の奥に、呆けた間抜け面のわたしの顔が映り込んでいる。後頭部が宮くんの大きな手のひらにすっぽりと覆われて、凛とした眼差しからは逃れられない。動揺して目の縁がじんわり熱くなる。

「今さら信じられへんって」
「まあそうやろなあ。とりあえず、これ、渡したかってん」

 瞳の表面が水の膜に覆われてゆく様をじっくりと見届けた宮くんは、その光景に満足したのかわたしの後頭部から手を離し、スクールバッグから一つの紙袋を取り出した。それは男子高校生のバッグから出てくるには似つかわしくない。ベルベットのリボンがあしらわれたクラシックなデザインのショップバッグには見覚えがあった。
「開けてみ」と促され、微かに震える手でそうっとリボンをほどいていくと、中学生のときから憧れていたクリスマスコフレが入っていた。当時、女の子同士で話しているのを聞いた男の子が「女ってめんどくさ」と言っていたのを覚えている。その男の子の中に宮くんもいたはずだ。予約しないと手に入らないこれを宮くんが持っているということは、わたしに渡すためにわざわざ予約したのだろうか。そんな自惚れたこと、思ってもいいのだろうか。でもバイト先も知らせていなかったし、わたしと会える保証なんてどこにもないはずなのに一体どうして。

「……ありがとう」

 嬉しいけれど、今置かれている自分の状況が理解できない。どういう顔をしていいか分からずに宮くんを見ると、宮くんも困った風に眉尻を下げている。

「これで俺の告白、信じられる?」
「……急には無理」

 今日起こった出来事を整理するにはだいぶ時間がかかりそうだった。二年の時を経てもなお、わたしが憧れていたものを覚えていてくれたうえに、それをプレゼントしてくれて。くすぶっていた想いに薪をくべるみたいなやり方で、想いを告げられて。こんなの、もう、止められない。あの頃の、ひたすらに宮くんを追いかけていた頃の恋心があふれ出て、止める術が見つからない。だけど、また、恋をして傷つくのが怖い。同時に彼を忘れようとしていたこの二年間はなんだったのかという虚しさに襲われる。ずるい男だ、と責めたい気持ちで眉をひそめると、宮くんは少し考えるそぶりを見せて「ええこと思いついた」と明るい表情でわたしを照らした。

「じゃあ初詣一緒に行こか」
「はあ?」

 突然話が変わって、まともな返事が出来ない。けれど、宮くんはそんなことお構いなしに得意げに人差し指を立て、首を傾けわたしの顔を覗き込んだ。

「初詣の列に並びながらゆっくり話そ。俺、高校生になったさんのこと、もっと知りたいねん」

  宮くんの言っていることは一理あるかもしれない。空白の二年間を埋めるためには、お互いに話すことが一番だとわたしも思う。頷こうと宮くんの目を見ると、うまくいったと言いたげな、してやったり顔で笑っていて、ここで初めて宮くんにうまいこと誘導されていることに気がついた。

「そうと決まったら連絡先交換しよか」

 宮くんの今日のゴールはおそらくここだ。思いどおりに動かされていたことが悔しくて、しかめっ面で渋々スマホを取り出し、連絡先を交換する。「シワになんで」と宮くんが親指でわたしの眉のあいだをなぞって満足そうに去っていく。
 連絡先に追加された「宮侑」という文字を見るだけで、全身がぽかぽかと火照ってしょうがない。宮くんのゆびさきからわたしに糸がたれているのが分かる。わたしは、まるで、マリオネットみたい。