3. もう、あらがう術が見つからない

  新年を迎えた朝の空気は、心なしかいつもより透明で、真水で顔を洗った時のような目の覚める冷たさで背筋が伸びる。テレビでは着物を着たキャスターや芸人さんがさっそく新春芸を披露している。だけど、内容はまったく頭に入ってこない。今日、わたしは宮くんと初詣に行く。夜はあまり眠れなかった。それは、一年でたった一度きりの大晦日の夜に浮き足立っていたからなのか、新年が明けて早々に憧れだった宮くんに会えることが楽しみだったからなのかよく分からない。宮くんからの連絡を今か今かと待ちながら、こたつでぼうっとテレビを眺めていると、一足先に初詣を終えた母親がドタバタと足を鳴らしながら居間に駆け込んできた。

「なあ、玄関にめっちゃかっこいい男の子がおって呼んできてって言われてんけど彼氏?」

 未だに宮くんからは連絡はないけれど絶対本人だと確信を持つ。こうやって外堀から埋めていくずるいやり方をするのが彼らしい。ただの中学の同級生、とだけ告げ玄関の扉を開けると、宮くんが「あけましておめでとう」と片手をあげた。声が少しくぐもって聞こえるのは、彼がマスクをつけているからだ。

「あけましておめでとう……って風邪ひいてんの?」
「え、なんで?」
「だって、マスクしてるやん」

 風邪ひいてるなら家で大人しくしていた方がいいんじゃ、と心配になって聞けば、宮くんはきょとんと目を見開いたあと、くいっと人差し指でマスクをずり下げた。

「ああ、これ?」

 現れた口元は機嫌良さそうに弧を描いていて、こくりと軽く頷けば幼子をあやすみたいにぽんぽんと頭をたたかれ、どきりとする。

「もうすぐ春高やし、風邪うつされたら嫌やから人混みん中行くときはマスクつけてんねん。心配せんでええよ」

  それなら大丈夫か、とほっとすると同時に「行こか」と宮くんが歩き出した。イブの日のように宮くんの半歩後ろをついていっていると、宮くんは突然「あー寒っ」と大げさに肩をすくませ、両腕を抱え込んで震え始めた。

「なあ、めっちゃ寒ない?」

 振り返った宮くんはわたしに同意を求めている。そんなに寒がるなんて本当に風邪をひいているのでは、と思ったけれど、どうもそうではないらしい。手袋をしていないむき出しの両手を太陽にかざすと、ちらちらとわたしの様子を窺いながら「ゆびさき冷えるなあ、俺セッターやからゆびが大事なんやけどなあ」と独り言ではない声の大きさで喋り始めた。
 さっきから大げさだなあと呆れつつ軽くため息をつき、わたしは片手をポケットに突っ込んで、カイロを握りしめた。家を出る前に封を切ったばかりなので、まだそんなに温かくなっていないけれど持っていないよりマシだろうと宮くんに差し出す。

「……これ、あげよか?」
「でももろたらさん寒なるやろ」
「いや、わたしは別に」
「こうするからええねん」
「うわ」

  宮くんの大きな手のひらがカイロとわたしの手を包み込んだかと思うと、わたしの上着のポケットに合わさったふたりの手のひらが滑り込んでくる。表情をつくる間もなく、ぽかんと口を開けて見上げれば、宮くんはにっこりという言葉がぴったりの目元でわたしを見つめている。

「な? ぬくいやろ?」

 ポケットの中でふたりぶんの体温が合わさって、ぽかぽかと全身を駆け巡る。つながれた手は、そこにもうひとつ心臓があるみたいに大きく脈を打っていて、どきどきしていることをきっと宮くんに悟られている。それでもわたしは意地っ張りだから、前を見据えて平気なふりをした。

「そうやなあ」

 そう返事をしたわたしに満足したのか、宮くんはわたしの手を一層強くぎゅっと握り込んだ。まるでわたしの心臓も掌握されてるみたい。
 学校でのこと、家族や友人のこと、最近おすすめの芸人さんや行ってみたいお店のことなんかを交互に話していると、程なくして神社に着いた。そんなに大きくない近所にある神社だけれど、近くに住んでいる人が参拝しようと集まって長い列を作っていた。焼きそばやたこ焼き、ベビーカステラの匂いが漂っていて、お雑煮を食べたばかりだったけど急激にお腹がすいてきた。

さんは彼氏おるん?」

 宮くんは参拝の列に並びながら、ちいさなポケットの中でわたしのゆびを確かめるようにそうっと撫でた。その動きの心地よさに目眩を感じながらちらりと横目で宮くんを見ると目が合って、あまり感じたことがない類の緊張感が背中を駆けた。どうしてそんなことを聞くんだろう。分かっているからわたしを誘ったのではないんだろうか。訝しむように眉をひそめても宮くんには何の効果もなく、にこにこしながら返事を待っている。わたしは、ふうっと長く息を吐いた。空気が白く濁って空へのぼり、高い空に溶け込んでゆく。

「おったら宮くんと一緒に初詣なんか来うへん」
「ま、せやな」
「宮くんは……」
「ん?」
「モテるやろ?」
「モテる言うたってって好きな人からモテなしゃあないで」

 わたしのことが好きだと言ってもどうせたくさんの女の子たちに囲まれていい気分になっているに違いない。そう思って嫌味のつもりで聞いたのに、返ってきたのは思いのほか真っ白で純真な答えだったので、わたしは何も言えなくなってぐっと唇を噛んだ。頬にうっすらと熱が集まっているのが分かる。でも、その想いを信じるには勇気があとひとさじ足りなかった。

「稲荷崎はバレー強いん?」
「強いで。夏は全国で準優勝してんけど、知らんかった?」
「知らんよ」

 宮くんに関わるようなことは絶対にしないと心に決めていたから、中学校を卒業して以来、バレーの試合を見るなんてことあり得なかった。バレーの話すらしたくなかった程だ。にこにこと笑っていた宮くんはさみしそうにまなじりを下げて、ほんの少し肩を落とした。

「バレー好きじゃなかったん? 中学んとき見に来てたやん」

 こんなあけすけな質問をしたって、ふたりの傷が開いてしまうだけなのに。この人は本当は分かっているはずだ。バレーは正直どうでもよかったこと。バレーが好きな宮くんを好きだったこと。

「わたしは宮くん見に行ってただけやから」
「もう俺のこと好きじゃなくなったん?」
「それは……」

 返事につまったところでタイミングよく列の先頭に立った。ポケットから出ていってしまった宮くんの体温を名残惜しいと思いながらも、ほっと胸を撫で下ろす。ちょうどいい。その質問にこたえるところまでわたしはたどり着けていない。
 神さまの前に立ってふたりで二礼する。パンパンと手のひらどうしが合わさる乾いた音が響き渡るとわたし達は軽く目を閉じた。
 この一年を平穏に過ごせますように。願うのはたったそれだけだ。うすく目を開いて宮くんの様子を窺うと、まだ目を閉じている。神さまの前だからかマスクを外していて、精悍な顔つきがお日様のもとに現れ、わたしは息をのんだ。いつものおちゃらけた宮くんからは想像もつかない美しい立ち姿は、空気の流れだけでなく時さえもを止めてしまう。いつだってそう。真剣な顔をした宮くんは、わたしをその世界に閉じ込める。たったそれだけで呼吸をすることを忘れてしまうのだ。
 ふと目を開けた宮くんのまつげがぱちりと瞬くと、その瞬間に世界が動き出す。わたしが慌てて一礼すると、宮くんはふたたびわたしの手を取って「はぐれるで」と優しく笑った。鼓動が乱れて自分のものじゃないみたい。

「じっとしとったら体冷えてきたなあ。甘酒でも飲もか。ついでに何か食お」

 甘酒を無料で配っているテントへ向かいながら、出店で適当に食べ物を買う。いつのまにか焼きそば、焼きとうもろこし、ベビーカステラを抱え込んでいる宮くんとは対照的に、わたしが買ったのはたこ焼きだけ。手がふさがってしまった宮くんの分と自分の分の甘酒を受け取り、運よく空いていたベンチに腰を下ろすと、宮くんは待ってましたとばかりに焼きとうもろこしに口をつけた。その姿がリスみたいでちょっぴりかわいいと思ってしまう。

さん、ほんまにそれだけ? 中学んときもっと食べてたやん」

  焼きそばを食べ始めた宮くんは、食べ終わりそうなわたしのたこ焼きを見て心配そうな顔をした。食べることは好きだけど、宮くんの前だと何か大変なことをやらかしてしまいそうだという不安の方が大きい。だから今はこれだけで十分だ。

「わたしの成長期はもう終わったからこれだけでええの」

 中学の頃のわたしを思い出されるのは少し恥ずかしい。あの頃は背もぐんぐん伸びて、体も大人に近づいて、そういうことにエネルギーが使われていたんだなあと思うけれど、今は食べても蓄積されるだけだ。宮くんみたいに食べたものが筋肉に変わるようなスポーツだってしていない。
 たこ焼きを食べ終わって甘酒に口をつけると、すっかり冷えてしまった体もじわじわと熱を取り戻し、そのやさしい味にほっとする。ちびちび飲んでいるうちに宮くんも焼きそばを食べ終わっておんなじように甘酒に口をつけた。

「ベビーカステラは食べへんの?」

 わたしは、未だにベビーカステラの紙袋を抱え込んだままの宮くんを不思議に思って聞いただけだ。なのに、彼は目をまんまるに見開いたのち、アハハと笑い声をあげて「いるんなら言うてや」と袋からベビーカステラをひとつ取り出した。

「ち、ちゃうし」
「ええからええから」

  宮くんの長いゆびでつままれたカステラがわたしの口元にぶら下がる。どんなに否定の言葉を述べようとも、宮くんは一向に引かず、目を細めてゆるやかに唇を綻ばせた。

「はい、あーん」

 ずるい男。こんなの、どきどきするに決まってる。わたしは、これからもこうやって宮くんにもてあそばれて、流されてばかりなのかもしれない。
 小さく口を開けば、そこにポンとカステラが置かれる。それをもぐもぐと咀嚼すると、宮くんもひとつ、自分の口の中に放り込んだ。懐かしい味が口の中に広がって、なんだか胸が締めつけられる。忘れたかった記憶が、あたかも忘れないでと叫んでいるみたいだった。
 それからわたし達は帰路についた。行きとおんなじように、わたしのポケットの中ではふたりぶんの手がところ狭しと絡んでいる。真南を通り過ぎた太陽は、すこし黄色味を帯びて、短い昼が名残惜しく感じられた。
 家の屋根が見え始める。もっと、ほっとするものだと思っていたのに、ほどけ始めたゆびさきを少し残念だと思っているわたしがいて、もう、あらがう術が見つからない。わたし、きっと、宮くんのこと。

「送ってくれてありがとう。カイロ、持って帰る?」

 寒い寒いと言っていた宮くんに、さっきまでふたりで握り込んでいたカイロを渡そうとすると、宮くんは「んー」と考える素振りを見せていたずらっぽく微笑んだ。中学の頃の面影が見え隠れして、否が応にも心臓が跳ねる。

「実はな、持ってんねん」

 宮くんは自分のポケットからひとつのカイロを取り出して、わたしに見せびらかすようにシャカシャカと音を立てた。わたしが思わずその様子を間抜け顔で見つめると、宮くんは「おーい」と目の前で手のひらを振った。

「な、なんでそんなことするん」

 動揺して、握りこぶしを作って彼の胸元を軽く叩けば、いとも容易く手首を掴まれ、ふたりの距離がぐっと縮まる。

「そんなん、さんのポケットの中お邪魔するために決まってるやん」

見上げた宮くんのガラス玉みたいな瞳には、恥ずかしさに涙を浮かべたわたしが映っていて、その中のわたしはまるで少女漫画のヒロインみたいな顔をしていた。

「これで春高頑張れるわ。こっちこそありがとうな」

 宮くんは、にぃっと笑って手を振った。
 どんなにあざとくても、憎めない。やっぱりわたしは宮侑が好きなのだ。