4. どうせこれは負け戦
春高では優勝候補だった稲荷崎高校が二回戦で負けてしまって、地元の商店街は落胆していた。優勝セールと書かれた広告が店の奥に積まれたままなのがちらりと見えて、胸が痛い。だけど、選手の落ち込みはその比にならないだろう。宮くんにも何て声をかけようかと悩んだけれど、当たり障りのない内容でメッセージを送って、宮くんもそれに返してくれて、そのままわたし達はだらだらとやり取りを続けていた。
元旦の日から一週間が経つ。次の約束は交わされない。わたしは宮くんに会いたかった。でも宮くんは、まだ、負けたことに対して気持ちの整理がついていないのかもしれない。そう思うと、簡単に会う約束なんてできなかったし、なによりわたしから会いたいと言うのは癪だった。
そのままさらに一週間が経つ。バレンタインデーの一ヶ月前を迎え、百貨店に宝石のようなチョコレートが並べられ始めた頃、宮くんとのやり取りはパタリとやんだ。既読の文字すらつかず、何かあったのかと心配になる。でも、宮くんの気が変わっただけなのかもしれないという可能性を考えると、わたしはあと一歩を踏み出せないでいた。
友人たちはバレンタインデーに向けて買い出しに行こうと誘い合っていた。わたしも一緒にどうかと聞かれて、本当だったら「うん」と即答したかったけれど、渡せるかどうかも分からない相手に買っても仕方がない。それでもわたしは、あのバレンタインをやり直したかったし、そうして宮くんの気持ちを信じたかった。とりあえず下見だけしてみようと思って、放課後友人たちと百貨店に向かうことにした。
途中、小腹がすいたので適当なファーストフード店に入ってチョコパイをかじっていると、先程入ってきた他校の生徒によって、より一層店内の騒がしさが増した。そのグループの女の子の声が何故かとても耳障りで、声のする方を見遣ると、わたしは食べかけのチョコパイをトレイの上に落としてしまった。宮くんだ。間違いない。男の子よりも女の子の比率が高いそのグループの中心で、楽しそうに笑っている。
「、大丈夫?」
「あ、うん。大丈夫」
動揺しているのを友人たちに気取られないように、再びチョコパイに口をつけたけれど、もう味なんて感じない。あんなに甘くて美味しかったのに、紙でも食べているみたいで吐き気がする。
どうしてわたしの返事には何も返してくれないの? わたしはこんなに会いたかったのに宮くんはそうじゃなかったの? わたしのこと好きだって言ってたくせに、どうしてそんなに楽しく笑っていられるの?
そんな自分勝手な想いがあふれ出る。やっぱり彼に恋をするのはつらい。わたしがわたしでいられなくなるような、こんな醜い気持ち、知りたくなんてなかったのに。わたしは彼をつなぎ止めることのできる彼女でもなんでもない。ただの中学の同級生。そんなことをまざまざと見せつけられるなら、彼の想いを信じてみようだなんて思わなければよかったんだ。
「ごめん、用事思い出したから帰る」
「え、ちょっと、?」
「また埋め合わせさせて」
慌てる友人に両手を合わせ、なんとか空にしたトレイを返却棚へ持って行き、宮くんたちの座る席へと足を向けた。何かひとこと言ってやらないと気がすまなかった。
「宮くん」
「なんや、の……」
面倒臭そうにこちらを向いた宮くんは、声の主がわたしと分かると、一瞬目を見開いて、珍しく焦ったように視線を泳がせた。心臓がきりきりと締め上げられる心地がする。
「なんや、侑、お嬢様学校に知り合いなんかおったん?」
「彼女ちゃうやんな?」
「お嬢様もこんなとこ来るんや」
口々に好き勝手喋る宮くんのお友達には目もくれず、わたしはまっすぐに宮くんだけを見据えてにこりと微笑んだ。わたしは別にお嬢様でもなんでもない。どこにでもいるただの女子高生。そこで血の気の引いた顔をしている男の子に二度目の恋をして馬鹿にされた、学習能力のないかわいそうな女の子だ。
「うそつき」
「ちょお、待って! さん!」
まぶたが熱くて涙がせり上がってくる。わたしを捕まえようと席を立った宮くんは、真ん中に座っているから出てくるのに手こずっていて、わたしはその隙に早足で出口へ向かった。自動扉が開くと一気に駆ける。「待てって言うとるやんけ」と叫ぶ宮くんの大きな声が背中に突き刺さって、わたしは足がもつれそうになった。
息があがる。冷たい空気が何度も喉を往復して、気管が凍ってしまいそうに痛い。追いつかれそう。地面を蹴る音が段々と近づいてきて、振り返るのが怖い。
「つーかまえた」
二の腕に鋭い痛みがはしって、熱を持つ。はあはあと息を乱したわたしとは対照的に、宮くんの呼吸はいつもと大して変わらない。腕を振って宮くんの腕を振り払おうとしてもびくともしなくて途方に暮れる。このまま宮くんを引きずって走る体力も残っていなくて、わたしは逃げることを諦めた。だらんと腕の力を抜くと、宮くんはここでやっと、大きく息を吐き出した。
「離して、痛い」
「逃げんって約束して」
「分かったから」
そう答えると宮くんはわたしから手を離して掴んでいた腕をそうっと撫でた。優しい手つきに心が揺さぶられる。もう、いいかげんに自由にして欲しいのに、わたしは、この甘やかな胸の痛みを捨てきれない。
「久しぶりやな」
「そうやな」
「何しとった?」
「別に」
宮くんに会わない間、特にこれといって変わったことはなかった。いつもの日常を過ごしていただけだ。宮くんからの連絡がないか、期待していたことを除いては。
沈黙が流れる。お喋りな宮くんの唇が閉ざされて、がしがしと乱暴にかき乱された彼の髪の毛が、時折吹く冷たい風で揺れている。
わたしはふたりのつま先に視線を落とした。宮くんの、過剰なくらいこちらを窺う視線に堪えられなかった。
「スマホがぶっ壊れてな、データが全部飛んでしもてん」
「それで?」
本当にそうなのかもしれない。でも、そうでないかもしれない。わたしはこの人の言うことを信じきれない。わたしばかり、と思ってしまう。わたしばかり宮くんのことを考えて、わたしばかり会いたくて、わたしばかり好きなんだって。
宮くんは、わたしの熱のこもっていない返答に一瞬ひるんだ。そして、続いた言葉は焦ったように早口で、わたしもつられてついつい捲くし立ててしまう。
「今日もっかいさんに連絡先聞きに行こうと思ってたんや」
「そんなんホンマか分からん」
「ホンマやって、信じてや」
「信じられると思っとん? わたし、ずっと既読つかんから心配しとったのに」
「それは、すまんかった」
申し訳そうに沈んだ声がするものの、俯いたままなので宮くんがどんな顔をしているのか分からない。でも、どんなに謝ったって、この人にわたしの気持ちは分からない。わたしに、宮くんがどういう気持ちで今日まで過ごしてきたか分からないように、わたしの二年分の想いをこの人が分かる訳がない。信じたいのに信じられない。そんなふうにしたのは、他の誰でもない宮くんなのに。泣きそうな声で謝るなんて、縋るようにわたしのゆびさきを握るなんて、ずるくて、嫌いで、好きで、おかしくなる。
「なあ怒ってんの?」
「怒ってない」
「じゃあこっち見ろや」
大きな声に驚いて顔を上げると、苦しそうに眉根を寄せた宮くんが訴えるような眼差しを寄越して、わたしはぐっと息をのんだ。宮くんは苛立ちを抑え込むように手に力を入れ、握り込まれたわたしのゆびさきがぎりぎりと痛くなる。
怒りたいのはわたしの方だ。なのに、どうしてそんな責められるような言い方をされなくちゃいけないんだろう。そう思うと段々と感情のコントロールができなくなる。喉まで出かかって、それでも押しとどめていた気持ちが、あふれ出て止まらない。
「なんなん、わたしのこと好きなんやろ? 何でみんなと一緒にのんきに笑ってんの?」
「さんに俺のこと分かるんか? やらなあかんのは恋愛のことだけちゃうねん」
「なにそれ、わたしが恋愛のことばっか考えてる暇人みたいな言い方」
「ちゃうわ! あーもう、あかん」
宮くんはわたしから手を離して、またがしがしと自分の髪をかき乱した。もはや苛立ちを隠し切れてはいなかった。
もう、きっと、嫌われてしまっただろう。宮くんの言った「あかん」の意味を色々考えていると、勝手に涙腺が緩んで、あっというまに水気が増す。瞬きをすれば涙が零れ落ちそうで、必死に目を見開いて乾かそうとしていると、それに気づいた宮くんが眉尻を下げて苦しそうにため息を吐いた。
「俺、ホンマにさんのこと好きやねん。どうやったら信じてくれるん?」
覗き込まれて、ふたたび手を握られる。宮くんの体温が伝わって、じわじわと心臓を蝕む。わたしだって信じたい。だけど、そう簡単に中学生のわたしが納得してくれる筈もない。
「……宮くんもリスクを冒してくれたら信じるわ」
「は?」
「振られて笑われるかもしれへんってビビりながら公衆の面前で告白してくれたら信じてあげる」
わたしの条件を聞いた宮くんは面食らったように目を見開いて、それからにぃっと挑戦的に目を細めた。
どんなに強いチームと戦うときも、宮くんはこんなふうに笑っていて、わたしはそんな宮くんが好きだった。
「ほお、分かった。その言葉覚えとけよ。火傷するくらいあっつい告白したるからな」
分かってる。どうせこれは負け戦。その言葉だけで、ほら、もうこんなに胸が高鳴るのだから、は救いようのない馬鹿なのだ。