空調の効いた談話室から自室へと戻ると、サウナに足を踏み入れたかと錯覚するような熱気が充満していた。気分が最悪なうえに、状況も最悪だ。全身から汗が噴き出して、衣服が張り付く。
苛ついた気持ちをぶつけるように壁付けのリモコンを力任せに押さえつけエアコンを稼働させると、ゴォーとうるさい音が室内に響き出す。そんな音立てるくらいなんだから早く冷えてくれよ、頼むから。
食べることの叶わなかったアイスの代わりに食堂から取ってきた麦茶を飲み干して椅子に腰かけ足を投げ出す。
彼女に対して怒る理由がないのは本当だ。それは嘘じゃない。ただ、さんとあの男が顔を近づけて話をしているのを見たときに、かっと胸が熱くなって心の内を掻き乱される心地がしたのだ。同時に、自分の前での無防備な姿を思い出した。自分やあの男の前だけじゃない。きっとさんは他の男友達の前でもへらへらと隙を見せているのだと思う。無自覚なのはハナから分かっていた。初めて俺を家に上げたときからそうだったのだから。
心配だから、と言い聞かせていたこの気持ちももう誤魔化すことは難しいのかもしれない。あの人が自分だけにあの姿を見せているわけじゃないと、まざまざと見せつけられて、俺は冷静でいられなかった。本当は心の内で、自分は彼女の特別な存在であると思いたかったのかもしれない。週末の貴重な時間を一緒に過ごしていたくらいなのだから。だけど、俺は彼女の生活のほんの一部分しか知らなかった。知ろうともしなかった。彼女の世界はまだまだ広かったのだ。当たり前のことだ。
ぐだぐだ考えてる自分にイライラするし、危機感のない彼女にもイライラする。彼女が何も悪くないのは分かっているが、どうにもこうにも自分の感情がうまくコントロール出来ない。そう思ったからこその、精一杯の抵抗がこの部屋への逃亡だった。
試験勉強をしようと教科書類を取り出してみたが、こんな気持ちで集中できるはずがない。まあいいか。皮肉にもさんのおかげで一日くらい勉強しなくたって試験の出来はそうそう変わらないだろうし。机に突っ伏して目を閉じると、唸りを上げていたエアコンが静かになり、ようやく部屋が冷えてきたことを知らせていた。
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寝心地のよくなかった体勢のせいか、目を覚まして頭を上げると首回りが重たい。部屋はすでにオレンジがかって薄暗かった。ゆっくりと首を回しながら、もう勉強会はお開きになっているだろうと考えていると丁度いいタイミングで部屋の扉が二回ノックされた。
「はい?」
「賢二郎? 俺だけど。入っていい?」
「……いいけど」
オレオレ詐欺かよ、というツッコミをしたいところだが、残念ながら今は悪ふざけをしたい気分ではない。あと、こいつが何をしにきたのかということが手に取るように分かるので、それにも気分が滅入ってしまった。
「お邪魔ー! 気分はどう?」
「……見りゃ分かるだろ」
しかめっ面で太一を見れば、苦笑しながら今日買ってきたアイスを一袋差し出した。チョコアイスの他にこっそり買っておいたラムネが散りばめられたソーダ味のアイスだった。
さんが「白布くん、チョコよりこっちの方が好きそうだね」と楽しそうに笑いながらカゴに入れていた二人でお揃いのアイス。あのときから、もうすでに、自分の心は霞かかっていた。「みんなには内緒だよ」と人差し指を立てるさんは可憐で、今日着ていた水色の爽やかなワンピースがとてもよく似合っていた。そんな台詞を素直に言える性格だったなら、状況はもっとよかったのかもしれない。
「さん、心配してたぞ」
「だろうな」
包みを開けてかじりつけば、ラムネの玉が弾けてピリピリとした刺激が舌の上に清涼感をもたらせた。おつかい係の特権を行使して買ったので、彼女がこっそりと太一に渡してくれたのだろう。
「お前も嫉妬するんだな」
「……は?」
アイスの欠片が危うく喉に詰まりそうになり、胸元をドンドンと叩く。
「何か安心したわ」と太一は呑気に笑っていたが、俺の不穏な空気を察知してだらしなく緩めていた口元を引き締めた。
「嫉妬って、俺がさんのこと好きみたいじゃないか」
「好きなんだろ? いい加減認めろって」
好き。好きだからこその嫉妬。
口に出してしまえば、見て見ぬ振りし続けてきた感情が湧き上がる。教室を騒々しくしてるのはいつだって恋愛の話題で、俺はその話題で盛り上がる意味が分からなかったし、むしろ面倒くさい感情だと思っていた。
だけど、考えてもみろ。この苛つきの理由は、さんが気を許す相手は俺だけでいいと思った結果だし、彼女の無防備な姿は誰にも見せたくないという独占欲からだった。週末が待ち遠しくて、彼女の表情の変化が見たくて、触れたくなって、だけど一歩踏み込むのが怖かった。
この感情を恋だと呼ぶなら、今日のこのやるせない想いは嫉妬ということで間違いない。
「好き、なんだと思う」
太一に言われたから認めただなんて、悔しくて尻すぼみに小声になる。それでも聞き取れたらしい太一は、軽く目を見開いた後自信満々に「だろ?」と笑った。負け惜しみのようだけど、俺だって、本当は蓋をしていただけで気づいていた。ただ、認めてしまえば色々面倒くさいことになると予感していたに過ぎないのだ。
「さっさと告白しちまえよ」
「……言えるかよ」
惚れた方が負けなのだ。こんなところで負けず嫌いを発揮する自分自身を自嘲する。今まで振り回された分、どうしても彼女にも同じような目に合わせてやりたい。そんな意地が今後自分を苦しめるなんて思いもせずに、「仲直りしろよ」と言う太一に「おう」とだけ、ぶっきらぼうな返事を返した。勝算がないわけではなかったからだ。
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夏の到来を告げるような日差しが窓から差し込む中、今日も今日とて白鳥沢学園男子バレー部のメンバーは期末試験の勉強に明け暮れていた。そのむさ苦しい男たちの中に紅一点、さんがいるというだけで勉強に身が入るのだから男なんてチョロいもんだ。そんなチョロい男たちの中に自分も含まれてしまっているなんて、恥ずかしいことこの上ない。
昨日、冷たい態度を取ってしまった俺に対していつもと変わらず指導を行い、周りのみんなにも同じ態度を取れるさん。たった三つ離れているだけなのに、彼女がやたらと大人に見えた。そして同時に悔しさを覚える。ちょっとくらいこちらの機嫌を窺うような素振りを見せてくれれば、多少自惚れることが出来るものの、今日の彼女の様子だと俺のことなんて何とも想っていないような気がしたのだ。
試験直前ということもあって、二日目の勉強会は静かだった。時折、誰かの質問する声が聞こえてくるが、それ以外は参考書をめくる音やシャーペンで文字を綴る音で談話室は満たされていた。集中力が途切れ顔をあげれば、午後の濃い光が徐々に和らいで赤みを含んでいた。天童さんを教えているさんの白い肌もいつもより血色よく見え、邪魔にならないように結わえられた髪の毛も柔い陽の色を透かしていた。
普段隣同士に座るので、こうやって離れたところで眺めるなんて滅多にない。きっとこれが彼女の部屋だったなら、彼女のうなじにかかるおくれ毛をひと掬いして、さりげなくを装い触れたくなってしまうのだろう。だから、この距離は都合がいい。
「そろそろお開きにするか。さんもあまり遅くなっては危ないから」
人当たりのいい笑みで紳士的なことを言うのはいつだって大平さんで。だけど俺がそんなこと出来るようになるにはどれだけの年月が必要なのだろう。悩んでも仕方ないことを悩むことになるなんて本当に面倒臭い。
「ありがとう。みんなテスト大丈夫そう?」
「大丈夫だよー! ありがとー!」
天童さんを筆頭に皆がお礼の言葉を口々に言う。そのせいでさんは誰に返事をしなければいけないのか分からなくなっているようだ。とりあえず持ち前の人をまるくさせる笑みでウンウンと頷いている。
「じゃあ送りますよ」
「ホントっ!?」
俺が席を立つと彼女はいつものように目をキラキラと輝かせた。そのとき、彼女の荷物を持つ手に不自然に力が入ったことに俺は目ざとく気づき、こっそり安堵してしまった。彼女もいつもどおりを演じていただけなのだと解釈したのだ。
寮を出てもなお、にこにこと皆に手を振る彼女を急かすように先に歩き出せば、まもなく隣に彼女の影が差した。
「白布くんはテスト大丈夫?」
「当たり前じゃないですか」
「そうだよね、さすが白布くん!」
さんはトートバッグを肩にかけ直し、後ろで手を組み小石をぽーんと蹴り飛ばした。それは小さく放物線を描いてまた地面に着地する。このひとはこんなふうに、どこか子供っぽいところがある。だけど、そんな無邪気なところが自分の刺々しい気持ちを丸めてしまったのだと思う。
「……怒ってた理由、もう聞かないんですか?」
困らせてやるつもりで言った言葉に、彼女は期待どおりびくりと体を揺らせながら上目遣いに俺を見上げた。
「でも……昨日は教えてくれなかったし」
「気になるんでしょう?」
「そりゃ気になるけど。しつこく聞いて嫌われるのもこわいし……」
「はぁー」
少々大袈裟に息を吐けば、さんはまた肩を揺らした。
彼女でも『嫌われるのがこわい』なんて思ったりすることに驚いた。あんなにしつこく人に突っかかって振り回しておいて、肝心のところでは臆病になる。彼女にそんなところがあるなんて知らなかったから、今まで培ってきた彼女の扱い方をまた手探りで探していかなくちゃいけない。作戦変更はやむを得ない。
「ヤキモチって言えば分かりますか?」
「やき……もち……?」
出来ればさんに質問攻めにされてから勢いで白状してしまいたかった。自分から、ヤキモチ焼きました、と公言するハメになるなんて、穴があったら入りたい気分だ。
羞恥で声を荒げてしまったが、彼女はそれには意を介さないといったふうにキョトンと首をかしげた。
「ヤキモチって誰に?」
「分からないんですか?」
「えーっとえーっと……覚くんとか太一くん?」
こめかみに人差し指を当てながら顔をしかめ、昨日今日の記憶を辿ったらしい彼女が行き着いた答えは俺の予想に反したものだった。確かに、二日間、さんはあの二人を重点的に教えてはいたけれど。本当に分からないのか。だけどまあ、それもあの男を何とも思っていないことの証明にはなるのだろう。
「当たらずも遠からず、ですかね」
「えー? どういうことー?」
形の良い唇を尖らせた彼女が俺の顔を覗き込むせいで、二人の距離がぐっと近づく。うっすらと汗をかいた額に前髪が張りついていて、雨の日の記憶が呼び起こされ、あのとき感じた気持ちが再び甦る。腕を引いて抱き寄せたくなる感情を押しとどめるために、彼女からは目を反らし、まもなく沈もうとする夕陽に視線を移した。
「俺のことは名前で呼んでくれないんですか?」
「えっ!?」
そうだ。ずっと思っていたことだった。昨日今日、思ったことじゃない。機嫌が悪かったのはもちろんコンビニ男が原因だが、自分だけ「白布くん」と呼ばれていることはずっと腑に落ちなかった。明らかに彼女との距離は自分が一番近いはずなのに、距離を取られているような。こちら側を散々踏み荒らされたから彼女側に足を踏みいれようとしたのに、イマイチ踏み込ませてもらえない、それが腹立たしかった。
「呼んでいい?」
「いいですよ、別に」
「怒らない?」
「そんなことで怒らないですよ」
でも会って間もないときにいきなり名前を呼ばれてたら怒ってたかもしれない。なんて思うのだから、俺も相当馬鹿になっているんだろう。
さんは進行方向に向き直り、胸元に手をあて、オホンオホンと軽く咳払いをした後アーと発声練習をした。この人やっぱり変だ。名前を呼ぶだけなのにわざわざ念入りに準備して。俺の名前を特別みたいに扱って。
「けんじろう、くん」
大事そうに発音するから思わず動いていた足が止まる。不思議そうに俺を見上げる彼女の頬もばら色に染まっていた。そういえば、彼女の名前を初めて呼んだときもこんなふうに胸が騒めいていた。今もその騒めきが全身をじわじわと侵食していく。
「……長くないですか?」
「じゃあ、けんちゃん!」
「それは絶対にやめてください」
「……けんじろ、う?」
下唇を触りながら首をかしげるなんて反則だ。この人、考えるときは唇に何か触れていないと気が済まないのだろうか。勉強中もそうだった。少女らしいと思えば、みずみずしく艶やかで、こんなの、どうにかしたくなって当たり前じゃないのか。勘弁してくれ。
落ち着くために、片手で目蓋を覆い、大きくひとつ深呼吸すると、隣でくすくすと笑い声が漏れ出した。
「でも、白布くん、名前呼んで欲しくてヤキモチだなんて、可愛いところあるんだね」
「……は? 白布くん?」
「あっ、けんじろ……いひゃい」
「ぶっさいくな顔」
可愛いと言われて喜ぶ男がいるかよ。色んな照れ臭さを隠すために彼女の頬をつねる。嬉しい顔なんて絶対に見せるものか。
手を離せば、頬をさすりながら「そんな言い方ひどいよー」と涙目で訴えてくるさん。それは敢えて目にしない。本当に不細工だと思っているわけがない。だって自分の気持ちを自覚してしまった俺には、彼女のそんな顔は目に毒でしかないのだから。
先に歩き出すと軽やかな足音が後を追いかけてくる。”くん”付けじゃないのが自分だけ、ということだけで優越感で満たされる。
こうやって並んで歩く二人の関係が、たった今、ほんの少し進展したことに気づく人は誰もいないだろう。本当はもっと大きな一歩を踏み出して、堂々と彼女の隣に立つ理由が欲しいというのに、それが出来ないのだから恋をするということは厄介なのだ。
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