「お前だけずるい」
「は?」

部活を終えて着替えていると、何の脈絡もなく唐突に話しかけて来たのは同輩の川西太一である。ずるいと言われて記憶を遡ってみても心当たりが全くなく、太一を見れば深刻そうな顔をしながらシャツに腕を通している。

「何の話だよ?」
「おれもさんに勉強教えてもらいたい」

着替えていた手がとまる。どういう意味だ。あの人に勉強を教えてもらいたいだなんて、あの人に会いたいとか仲良くなりたいとかそういった類の理由なのか。それとも俺の弱みを握ろうってか。もしくはただ単に本当に勉強がしたいだけ。いや、こいつに限ってそんなことはありえない。それに前「邪魔者だからやめとく」と言ったのは太一じゃなかったか。一体どういう魂胆なんだ。考えを巡らせていればどうやら気難しい顔をしていたようで、太一は「期末テストも近いだろ」と困り顔で宥めるようにつけ加えた。

「それなら俺がいつも教えてやってるだろ」
「だって、おまえ怖えもん」

確かにスパルタだ。しかし、そもそも授業をちゃんと真面目に聞いていれば分かるだろうことを分かっていないこいつが悪い。毎回毎回教えてやっている俺の身にもなってほしい。どうせこいつは授業中寝てるかぼーっとしてるかのどちらかなのだから。

「あっ! 俺もちゃんに教えてもらいたいな!」

状況がさらにややこしくなりそうだ。ちらりと声がした方に顔を向ければ、スポーツバックに着替えを詰め込んでいる天童さんが「俺、今回は本当に数学ヤバくてさ」と言いながらニタニタ笑っている。その顔は、勉強に困っているような顔というよりも面白がっているような顔に見えるのは気のせいだろうか。
しかし、それが本当のことだとしてさすがに三年の勉強までは自分自身で教えられないので、大平さんに目をやると肩をすくめながら申し訳なさそうな顔をした。

「俺も自分の勉強に加えて、若利と隼人と英太の分も見なくちゃいけないんでな」

天童さんだけじゃないのかよ。名前を呼ばれた先輩たちを目を細めて見れば、ぎくりと肩を揺らし俺からさっと目をそらせた。牛島さんだけは、自分は関係ないとばかりに堂々と着替えている。それくらいのことでは動じないとは、さすがです。

「まあ、一応聞いてみますけど、ダメだと言われたら諦めてください」
「はーい」

俺のために時間を取ってくれてる彼女のことだ。二つ返事で了承するに違いない。気分が乗らないが、携帯で週末うちの部のやつらに勉強を教えてやってほしいとの旨をメッセージで送るとすぐに既読がつき、予想どおり『うん、いいよ』と早速返信が届いた。
思わずため息が出る。もっと返事が遅ければ、何とか誤魔化してなかったことに出来ると思ったのに。この素早い返信のせいで、俺の携帯の様子を伺っていたメンバーは後ろから覗き込むように画面を見て感嘆の声をあげたのだ。もう誤魔化しは効かない。

「お? さんいいって言ってくれてるじゃん」
「助かったー!これで何とか俺の赤点も回避できるヨ」
「分かってると思いますけど、勉強ですからね。勉強だけしてくださいね」

めんどくさいことにならないように念を押せば、あちこちから「はーい」と返事が起こる。つまり、ここにいるレギュラー陣は全員さんに教えを請うつもりだということだ。
別に彼女を独り占めしたいだとかそんなことを思っているわけではないが、それなりに集中できて居心地のよかった二人だけの空間をこの週末は味わえないのかと思うと、何となく残念な気がする。それに、このメンバーの前で彼女をからかうことなんて出来ないし、あの日感じた高揚感にも似た何とも言えない感情もこの週末は味わえないのだ。物足りなさが心を支配していく。
でもとりあえず、何事もなく週末を乗り切り、全員赤点を回避することが先決だ。それが終わればインハイ。そう気合いを入れ直して、再び制服のボタンに手をかけた。





白布くんからみんなに勉強を教えてやってほしいと連絡があったとき、少し驚いたけどそれよりも嬉しいという気持ちの方が勝った。頼りにされるということは信頼してくれてるということで、それが好きな人からなのだから気合いが入る。
勉強会は寮の談話室で行う予定らしい。基本的に、寮は女性は入ってはいけないみたいだけど、談話室だけはオッケーだという。
白鳥沢学園の前に着いたと白布くんに連絡すると、すぐに彼の姿が見え「こちらです」と案内される。

「何だか元気ないね。どうしたの?」
「どうしたもこうしたも……うちの連中の勉強の出来が悪すぎて、さんでも多分ひきますよ」
「え? そんなに?」
「……」

さんでも、と言う言葉が引っかかるが無言は肯定だと捉えていいのだろうか。白布くんはすごいしかめっ面だ。通された談話室に恐る恐る一歩踏み入れれば、覚くんの「待ってましたぁ」という明るい声とみんなの笑顔が出迎えてくれて、わたしの心配も吹き飛んでしまいそうになる。

「久しぶりー! みんな、全国大会出場おめでとう!」

こうやってこのメンバーと話をするのも四月末以来で、はや二ヶ月も経過していた。あざーっすという元気な声を聞きながら用意してくれていた椅子に腰かけると、覚くんと太一くんが早速わたしの隣を陣取った。

さんは賢二郎と違って優しく教えてくれると期待してます」
「俺も俺も! 優しいオネーサンに期待してるよ」
「うんうん、まかせて!」

白布くん、そんなに厳しいのか。こっそりと彼を盗み見るとしかめっ面に拍車がかかっている。確かに暴言とか吐きそうだよなぁ。「何でこんな問題が分からないのか分からない」とか言ってそうだし、呆れながらため息ついてそう。けど、結局なんだかんだ面倒見は良いんだよな。実際わたしも色々気遣ってもらってるし。
みんなテーブルの上にワークやらノートやらを広げ始めたので「分からないところがあれば何でも聞いてね」と言えば、一斉にシャーペンを手に取った。
白布くんが言ってたみんなの出来の悪さを恐れていたけれど、想像していたよりも大したことなくて少し安心した。みんな要領はいいのだ。ただ勉強しないだけ。基本的な問題からつまずいていたけど、そこを説明すると容易く問題を解いていく。集中力もあるので、雑談という雑談もない。
しかし、一時間程経ったくらいには集中力も切れ始め、休憩を挟むことになった。勉強にもメリハリは大事だ。

「あーアイスが食べたいー」

覚くんがテーブルのひんやりとした感触を求めるように上半身をテーブルに預けた。もうすぐ夏を迎える日差しは容赦なく部屋の温度を上げていく。空調が効いてるとはいえあまり体が冷えすぎない温度に設定されているのと、梅雨が明けきってないせいでジメっとした空気が肌にまとわりつくのとで、わたしも少し体を冷やしたい。

「わたしアイス買ってくるよ」
「えっ!?」

冗談のつもりだったのか覚くんは驚いて目を見開きながら「でも」と言いながら上半身を起こした。

「甘いもの食べた方が集中できるし、わたしが買いに行ってる間にみんなは問題解いてて」
「俺、荷物持ちします! さん一人だと重たいでしょうし」

体育会系の体質が染みついているのか工くんが一番に名乗りを上げてくれたけど、彼にも勉強をしてもらいたい。質問を受けている限りではまだまだ克服する点は残っている。でもこう言ってくれるのは素直に嬉しい。

「お前はさっきから馴れ馴れしいな。俺が行くからお前は勉強だけしてろよ」

ガタンと白布くんが席を立ち、ソワソワしていた工くんを押さえ込むように座らせ「随分余裕みたいだからあとで俺がじっくり見てやる」と言ったせいで、何となく工くんのこめかみに冷や汗のようなものが滲んでいるような気がした。

「白布くんは勉強しなくて平気?」
「俺はみんなと違って普段から真面目に勉強してるんで」

残りのメンバーは肩を揺らし重いため息をはいていて、思わず笑ってしまった。あれだけ毎日練習に明け暮れていたら、勉強するだけの体力がなくても仕方ないと思うけどな。

「じゃあみんなの苦手なところ厳選しておくからそこを重点的に解いててね」
「はーい」

バタンと談話室の扉を閉めて白布くんと歩き出す。こうやって二人で外を歩くのはデートのとき以来で、少し緊張する。「俺が行く」と言ってくれたとき、心臓が跳ねた。今日は二人っきりになることはもう無いと思っていたので心の準備が出来ていなかったのだ。
わたしの歩幅に合わせるように歩いてくれるのが何だかくすぐったい。歩道を並んで歩いていると、腕が触れるか触れないかの距離で体温だけうっすら感じてしまうのでもどかしく思ってしまう。いっそこのまま手を繋いでしまいたいのに、それが出来ない関係なのだ。
隣を見上げれば外の暑さに反して彼の表情は涼しげで、でも汗で少し髪が濡れているのを見ると色っぽくてわたしはもっと熱くなってしまう。

「前見て歩かないとコケますよ」
「え? うん」
「見惚れてました?」
「うん、見惚れてた」

聞かれたから素直に答えただけなのに「冗談のつもりで言ったのにまたそういうことを……」と言う彼は何だか照れているようで顔をわたしとは反対の方に向けた。ああ、好きだな。もっとこうやって並んで歩きたいのに目的地のコンビニは遠ざかってくれないので、すぐに着いてしまう。残念だ。

「いらっしゃいま……あっ!」
「え? あっ!」

キンキンに冷えた冷気を浴びながら中に入れば、そこには見知った顔の店員が驚きの声を上げたので、わたしもまた声を上げる。

「えー? 何? ここでバイトしてるの?」
「そう。は何しに来たんだよ?」

商品棚をきれいに並べ直していたのは同じ学部の男の子だ。ちらりと白布くんを見るとわたしたちのことはお構いなしにアイスをのぞき込んでいる。

「わたしはアイス買いに来ただけだよ!」

この男の子とはグループ課題を一緒にしているのでお互い色んな話をしている。しょうもないテレビの話や講義の愚痴、こいつの彼女の話とかわたしの恋愛相談とか。だから白布くんのことは知っているのだ。
お願いだから余計なことしないで。
そう目で訴えたのに「へぇ」と言いながらわたしの肩ごしに白布くんを見たあと「例のイケメン高校生か?」とニヤニヤ意地の悪い顔で笑ったのだ。

「ちょ、声大きいって!」

思わずこいつの口を押さえれば、白布くんは怪訝そうにこちらに目を向けた。この様子じゃ絶対聞こえた。もうこれ以上は何もして欲しくなくて、ずいっと距離を詰め耳打ちする。折角最近打ち解けてきたんだから、また警戒されると困っちゃう。

「わたしたちが店出るまで喋りかけないで」
「へーい」

相変わらず嫌な笑みを浮かべているが、まあ大丈夫だろう。いい奴なのは認めている。白布くんに駆け寄って謝れば「別に」と言いながらアイスの箱を手に取った。

「これにしましょう。天童さん、チョコアイス好きなんで」
「そうなんだ。お金はわたしが払うね」
「え?」
「いいの、全国大会出場のお祝いだよ」
「……ありがとうございます」

会計が済んでお店を出るとき、白布くんがちらりとわたしが話していた男子を見たので、つられてそいつを見る。軽く手を振られたので、わたしもそれに返す。

「誰ですか?」
「同じ学部の人だよ」
「ふーん。仲いいんですね」
「ん? んー、まあグループ課題一緒にやってるからそれなりにね」

白布くんはそれには返事をしてくれず黙り込んでしまった。行きよりも少し足が速い。アイスが溶けちゃうからかなと思ったけど、何となく話しかけづらくてわたしも黙ったままついていく。帰りも和やかな雰囲気で帰りたかったのに、いつも以上に不機嫌な雰囲気をまとった白布くんにどう接するのが正解なのか分からない。話しかけるなオーラが放たれている。

「ねえ、何か怒ってるの?」
「別に」
「嘘だぁ」
「怒る理由がありません」

何でもはっきりさせたいタチなのだ。けど、そのオーラを無視した甲斐なく不機嫌な原因をつかむことができない。もっとたくさん白布くんと他愛のない話をしたいのに、出来なくて。こちらを見向きもしてくれない白布くんに、きゅうっと胸が締めつけられる。

「お待たせ! アイスだよー!」

談話室に戻って袋をがサリと置くと、みんなお礼を言いながら次々とアイスを手に取り封を開けていく。あっという間に部屋中に甘い香りが立ち込めていった。
そんな中、白布くんだけは自分の荷物を片付けて部屋を出て行こうとするので、箱の中に残っているアイスを持って慌てて彼の姿を追う。

「白布くん!」

扉を出たすぐのところで何とか彼の手首をつかむ。振り向いたその表情は、無表情というよりも口をへの字に曲げた何かに堪えるような顔で。

「アイス食べないの?」
「今はいらないです」
「もう一緒に勉強しないの?」
「集中できないんで」
「でも、」
「これ以上はイライラするから無理」

つかんでいた手は難なく振り払われ、白布くんの遠ざかっていく背中を見つめることしかできない。ずっと触れたいと思っていた彼の手は想像以上に熱かった。やっと触れることができたのに、それは望んでいた形ではなかった。溶け始めたアイスの封を開けてかじりつくとじわりと冷たさがわたしを支配していく。口の中で簡単に輪郭を失ってしまったそれは、恋によく似ていると思った。

「あいつ、不機嫌丸出しでしたね」
「太一くん……」

いつの間にか後ろに立っていた太一くんは心配そうにわたしをのぞき込んだ。

「何かありました?」
「心当たりはないんだけど……」

何も分からないわたしは、数十分前にここを出てから今現在に至るまでを端的に話す。太一くんは顎に手を当て考えるような仕草をしたあと、ふと笑みをこぼした。え? 笑うとこなの?

「それ、多分心配しないでいいやつですよ」
「え? どういうこと?」
「二人の問題なんで、あんまりとやかく言うつもりはないんですけど、さんは気にせずいつもどおりでオッケーです」

でも、わたしといたから機嫌悪くなったんだよね? いつもどおりでいいの? あまり納得できずに眉を寄せていると、ぶはっと噴き出した太一くんは「俺に任せといてください」と言いながらわたしの背中を押し、談話室に戻される。

「大丈夫、明日の帰りまでには仲直りできますよ。賢二郎の親友である俺が言うんですから安心してください」

にっと口角を上げた太一くんがだんだん頼もしく思えてきた。そっか、そうだよね。親友同士だから分かる部分があるんだよね。
とりあえず明日。明日どう乗り切ればいいんだろうと心配していたところだったけど、太一くんの言うとおりわたしはいつもどおりでいよう。
みんなの赤点を回避して、欲を言えば平均点以上取れるように手助けする。それで心置きなく全国大会で活躍してもらう。それからそれから出来ることなら白布くんと素敵な夏が過ごしたい。そんなことを思っているわたしのことを、世界一楽観的な女だと言ってあなたに早く笑ってほしいから。





/ back /