三日間の休みはあっという間に終わりを迎えようとしている。昨日の雨は、真夏の通り雨だったようで今日は快晴の空が広がっていた。ルーチンであるロードワークとストレッチを行なった後、荷物をボストンバックに詰めていく。明日から通常どおりの練習に戻るというのに、心は未だここに囚われたままだった。早く気持ちの整理をしなければ。そう思えば思うほど、俺の思考回路はショートして使いものにならなくなる。
俺は一体彼女とどうなりたかったのだろう。答えが出せないままどれくらいの時間を無駄にしたのか分からないが、胡座をかいた状態のくるぶしに畳の跡がつくくらいにはぼーっとしていたらしい。

「ごめんくださーい」
「はーい」

玄関の扉を引く音と同時に、昨日と同じ声、同じセリフが鼓膜を震わせ、俺の体は大きく揺れる。今日は母親がいるから俺が対応する必要はない。ドッドッと激しく拡張と収縮を繰り返す心臓を押さえながら、何とかこの場を乗り切ろうと息をひそめる。その間には母親に案内されながらダイニングの方へ向かったようだった。

「これ、英太が今日戻るって話したらお母さんが持ってけって」
「あら、わざわざありがとうね」

何を話しているのか気になって聞き耳を立てていると、どうやらの母親が俺の大好物の鉄火巻きを持たせてくれたようだった。ありがたい。とてもありがたいのだけれど、今日に限ってどうしておばさんが持ってきてくれなかったのだと心の中で文句を言う。
俺との間に何があったのかを知らない俺の母親もドタドタと足音を響かせながらこちらに近づいてくる。

「英太! ちゃんにお礼は?」

居間の扉を引いて母親が顔を覗かせたが、重い腰が上がらない。どういう顔を作ればいいのかわからない。母親に背を向けたままダイニングに届く声で「サンキュー」と言うと、俺のぶっきらぼうな返事に母親は「まったくこの子は……」と悪態をつきながらダイニングに戻っていった。

「ごめんね、英太ったら何だかちゃんと顔合わせるの恥ずかしいみたいで」
「いいんです。男の子ってきっと、そういうものなんですよ」

の寂しげな声で、今、彼女がどういう表情をしているのか容易に想像がついてしまう。それほどまでに、俺はこの三日間のことを考え、その表情を網膜に焼き付けるように見つめてきた。二年半もの間、引き出しに閉まっていたはずの感情は、もはやせき止められなくなって雪崩を起こして生き埋めになってしまいそうだった。
彼女に男子高校生の何が分かるというのだろう。土手の上で会ったあの男ものことが好きに違いない。そいつを振り切って俺のところに戻って来てくれたのは正直嬉しかった。気分が高揚して、雰囲気に飲まれ、あんなことしてしまって、さらに逃げ出して。なのに、あの男とが話しているのを思い出すと腹わたが煮えくり返る想いがするのだから、男ってそういうものって一言で片づけられるような単純なものだと思って欲しくない。
ガラガラと玄関の扉が引かれ、の「さよなら」が聞こえる。全身から空気が抜けるように脱力し、緊張感から解放される。 それでも息苦しく呼吸が浅いのは、後悔の想いが胸の辺りにつっかえて取れないからなのだろう。
明日からの練習に備えてゆっくりしたい。二つ折りにした座布団に頭を乗せて横になるが、どうしても彼女の柔らかさが忘れられなくて何度も寝返りを打つ。その間に、母親が鉄火巻きを持って現れ、それをつまみながらまた横になっての繰り返し。正直、味なんてしない。気づけば太陽が西に傾き、夏の光はほんの少し黄色味を帯び、ツクツクホウシが鳴き始めていた。
本当に昨日のことは現実だったのだろうか。夢じゃなかったのか。都合よく考えようと目蓋を持ち上げたが、居間から見える物干し竿に家のフェイスタオルが揺れていて現実に引き戻される。
覚悟を決めろ、受け入れるしかない。きっとこのまま寮に帰ってしまえばそれっきり。とは距離が離れる一方だ。お互いの実家の住所は知っていても、お互いの連絡先は知らないのだから。後悔するのは、あの、中学卒業時の一度きりでいい。でも、きっかけがほしい。
思い立ってからは早かった。サンダルを引っかけ、玄関を飛び出して、日中より心なしか涼しくなった風を切って駆け出してゆく。頭の中には、二年半前のこと。に鳥居前に呼び出されたことが鮮明に思い出されていた。
こめかみから顎を伝う汗を拭いながら呼び鈴を鳴らす。応答したのは、くぐもった声だったけれど俺の目的の人物であるだ。モニターで俺を認識したらしい彼女は「はい」と怪訝そうな声を上げていた。

「ちょっと顔貸して」

俺の一言に五秒ほど静止した彼女は何も言わずにプツリとインターフォンを切った。程なくして玄関の扉を開けて体を半分だけ覗かせたは、この二日間とはまた違うラフな格好をしていた。先程うちの家に来たときは姿を確認できていないので、こういう部屋着のような格好を見るのは初めてのことだった。Tシャツにショートパンツ、頭の高めの位置で結ばれたポニーテール。これはこれでよく似合っている。
俺は一歩ずつゆっくりと近づいて彼女の手を取った。触れた瞬間にの体が大げさなほどびくりと震えたが、昨日のことを思うとその反応は当たり前のことなのかもしれない。俺を見上げる彼女は、何か言おうとしているのか、でも言葉に出来ないようでぽかんと口をちいさく開けている。瞳は不安げに揺れていて、思わずここで抱きしめたい衝動に駆られてしまった。だけど、今、じゃない。緊張で掠れる声を振り絞りながら「一緒に来てほしい」と告げると彼女は恐る恐る無言でこくりと頷いた。
二人の合わさった手のひらが湿っぽく感じるが、お互いに手は離さなかった。辿り着いた先には、あの頃とは何ら変わらないボロい自販機があって、その横には、くぐれば別の世界に誘われそうな静寂に包まれた鳥居が立っていた。草むらからところどころリーンと虫の声が聞こえ、徐々に二人の影も長く伸びてきた。
の手を離し、一歩前に出て静かに息を整える。まるでサーブ前みたいだ。それからは無我夢中で小銭を自販機に入れ、ひたすら購入ボタンを押した。片腕がラムネ瓶でいっぱいになっても虹色のビー玉は出てこない。完全に以前とは逆の立場になっていて、思わず苦笑する。
どこで区切りをつければいいのだろう。途方に暮れながら長い息を吐くと、がそっと俺に寄り添って俺の手のひらに自分の手のひらを合わせた。二人で祈りを捧げるみたいに。

「一緒に押してみる?」

なんだかその一言を言われたときに、全身の毛が逆立ったような心地がした。彼女の、なにもかも見透かしてしまうような瞳に覗き込まれると、こいつが実は神さまの使いなのでは、と錯覚してしまう程だった。
静かに頷いて購入ボタンに人差し指を伸ばすと、彼女の細くあたたかな指先が俺のものに重なった。指先が震えないように神経を尖らせる。目配せしながら、いち、にの、さんでボタンを押すとガコンガコンと自販機が揺れ、ラムネ瓶が落ちてきた。自販機の反応は、普通の水色のビー玉が入っていた今までと何も変化はない。
ゆっくりとから視線を外し、腰を折って取り出し口に手を伸ばす。手に触れた瓶の感触も今までのものと何も変わらなかったのに、そこに入っていたビー玉は虹色に輝いていて、俺は一時停止ボタンが押されたかのように動きをピタリと止めてしまった。
無言で自販機の取り出し口を覗き込み続ける俺に痺れを切らしたらしいは、俺の手首ごと掴んでラムネ瓶を取り出し、ビー玉を確認するとハッと息をのみ、大きく目を見開いた。

「……英太の願いごとって何?」

一瞬だけ『全国で優勝』という言葉が頭を過ぎったけれど、中学の頃の後悔を思い出し何とか思い留まる。今日、俺はそれを言いにこいつをここへ連れて来たのではない。ましてや、二人でボタンを押したのだから二人に関することを願いたい。
全身が心臓になってしまったみたいに耳元でドクドクと脈の音がする。も心臓のある辺りに片手を添え、俺の言葉を今か今かと待っていた。

「俺、お前と文通がしたい」

今までこの辺りを包み込んでいた息がつまるような、それでいて心地よく胸が締め付けられるような雰囲気がゆらゆらと揺らめく気配がする。俺にしては相当覚悟して言った言葉だったけれど、を見ると口から魂が抜けていきそうなくらい呆気に取られた表情をしていた。段々と全身が熱を帯びてくる。せめて返事くらいしてくれ、と言おうとしたそのとき、彼女の口元はみるみるうちに綻び、大きな声を上げて笑い声を響かせた。

「連絡先教えてほしい、とかじゃないんだ」
「いや、そりゃ連絡先も知りたいけど、俺そんなに頻繁に連絡出来ないだろうし」

まさかそんなに笑われる程のことだと思わなかったので、緊張が吹き飛び羞恥の方が勝ってしまう。赤くなった顔を隠すように彼女から顔を背ける。
だって、考えてみてくれないか。毎日休みなく部活して、終わったら飯食って風呂入って宿題やって寝る。そのルーチンの中で、との失われた時間を取り戻し、これからのことを考えることが果たして可能なのか。メールとか電話で満足できるのだろうか。学校が休みの日にのことをゆっくりと考える時間を取ればいいのではないか。だから手紙を書く。それが俺の出した答えだったのだ。

「でも、英太らしいね」

ひととおり笑い終えたは、拗ねて明後日の方を向いている俺の方に回り込み、穏やかな笑みを見せた。その優しく包み込むような笑顔に自然と気持ちが凪いでゆく。

の願いは?」
「え?」
「二人で押したんだからお前にも願う権利はあるだろ」
「わたしは……英太が全国制覇できればそれで」
「本当にそれだけ?」

俺の視線から顔を反らせて答えたが本心を言っていないことに確信を持った。の本当の気持ちを読み取ろうと、あの頃より大人びてしまった横顔をじっと見つめる。彼女は、また、同じようにぐずぐずと鼻をすすり、眉尻を下げて泣きそうになっている。

「俺、ずっとのことが好きだった。幼馴染卒業して、彼氏になりたい」

文通したいと言うまでの自分自身とはもはや別人になってしまった気分だ。今まで閉じ込めてきた想いが、呼吸をするみたいに自然と言葉になって、声帯が震えている。
は唇を噛み締めて一度俯いた。どれくらいかは分からない。実際にはたった数秒なんだろうけど、俺には何分何十分、むしろ一生続いてしまうのでは、と途方も長く感じられた時間だった。それから顔を上げたは、何の迷いもない、意思のこもった力強い瞳で俺を射抜いて、俺は彼女の視線に殺されるのではないかとごくりと唾を飲み込んだ。

「わたしも。ずっと好きだった。英太の彼女になりたい」

周りの音が聞こえなくなって、彼女の澄んだ声だけが俺の耳に届く。理性とか、そんなの考える間もなく体が勝手に動いて、彼女を自分の腕の中に閉じ込めた。伝わる心臓の音、伝わっているだろう心臓の音。もう、どちらのものなのか定かでない。このまま、二人、共鳴するように鼓動を鳴らしていけるのなら、これ以上のことはないだろう。
陽の光がビー玉の光を反射している。二人を虹の世界に閉じ込めるように。そして、俺たちは昨日の続きを夢中で交わした。



「拝啓、晩夏の候、暦の上では秋ですがいかがお過ごしですか。って硬いよ、英太くん」
「うわぁ、やめろ、音読するな!」

やっと見つけた一人の時間。早速、駅前で買った便箋を目の前にしてシャーペンを握ったというのに、急に背後に現れた天童にそれを中断させられる。慌てて机に広げた便箋を両腕で隠して後ろを振り向けば、何か楽しい話を聞かせてくれと言わんばかりの表情で、並べられた大量のラムネ瓶を覗き込んでいた。

「相手、彼女ちゃんじゃないの?」
「か、彼女と言えば彼女だけど」

言い慣れない言葉に全身がむず痒くなる。本当のことなのに、いざ口にされると照れ臭かった。じんわりと熱が頭からつま先まで駆け巡って、また、頭から発散されていく。
一人じゃ到底飲みきれないラムネたちは、チームメイトたちと分けようと全て寮に持ち帰ってきた。そういや、こいつの一言にも背中押されたよなと、ふと思い出して天童に向き直る。

「お前は二本飲んでもいいぞ」
「えっ!ホント?さすが英太くん」

ラムネ瓶を二本持ってくるりんと一回転した天童は、ポンっと小気味よくビー玉の栓を落としラムネに口をつけた。しゅわしゅわしゅわとうまそうな音がする。そして、喉を鳴らして三、四口ほど飲んだ天童は急に大人しくなって、珍しく真面目な顔で俺を見つめていた。

「何だよ?」
「いや、後悔せずに済んだんだなって思って」
「……そうだな」

本当に紙一重だったと思う。だけど、それがどんなにギリギリだったとしても逃げずに向き合えたこと、その事実が自信となって糧となる。ツクツクホウシが最後の力を振りしぼって鳴いている。俺たちは高校最後の夏を終えようとしている。いつだって後悔はしたくない。




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