着いたのは小さい頃、魚をとって遊んだ川だった。変わっていない。きらきらときらめく浅瀬は銀糸を何本も引いたように乱反射して、覗き込めばめいいっぱい夏の空が映り込んでいた。

「あっ、魚いた!」

は土手の斜面を駆け抜けるようにおりて、ぴょんぴょんと飛び石を伝ってそこへしゃがみ込んだ。よくもまあ、そんなサンダルでそんな動きが出来るものだとハラハラしつつもそのバランス感覚に感心する。俺たちとわんぱくに遊んだことが彼女の中に息づいているのだろう。
俺もの後についておりていき、彼女の横に腰を落とす。川の流れ、豊富な魚、あの頃と何ら変わらない様子に自然と安堵の息が漏れる。全く同じ水や魚がそこへ留まっているわけではないのだけれど。

「うわっ、冷たい」

は飛び石に腰をかけ、サンダルのストラップを外して川の水に足をつけていた。日焼けしていない真っ白な足は、太陽の光を取り込んだ透明な水に侵されるように一層白く輝いていた。

「えいっ!」
「おい! やめろ!」

見惚れるとはこういうことなのだろうとその光景をながめていると、がふいに、ばしゃばしゃとバタ足をし始め、大きく飛沫が上がる。スパンコールのように弾けた水滴が、俺の全身に降り注いで水玉模様が浮かび上がった。でも、おかげさまでほんの少し涼しくなった。
に倣って俺も水に足をつける。ふと、彼女の服が汚れていないか気になって隣を向けば、彼女にも飛沫がかかり、しっとりと濡れている。いくつもの水の珠が未だ弾けず形を保ったまま髪の毛や睫毛に乗って輝いている光景に思わず息をのむ。彼女のワンピースにもおそろいの水玉模様が出来ていた。

「何だか夢みたい」
「……何が?」

あまりにも綺麗に微笑みながら、儚げに言うものだから答えるのが少し遅れてしまった。はそんなこと気にも留めずに言葉を紡いでゆく。ゆるくバタ足をしながら、まばたきをするたびに夏の光を反射させながら。

「だって、またこうやって英太と話ができるなんて思ってなかったから」

ぐいとが目元を拭う。それは彼女自身から溢れ出た水滴を拭ったのか、川の飛沫を拭ったのか分からない。いずれにしても彼女が生み出した水の珠に変わりはないが、弾けてしまったそれに残念な思いがこみ上げる。
俺も。とこうやってまた昔話ができるようになるなんて思ってもみなかった。
そう口にしようとしたところに、の名を呼ぶ男の声で、現実世界に引き戻される。ふたりきりのゆるやかな時間が流れる中で、折角素直になれそうだったというのに。

「おーい、! おーい!」

俺と彼女は声のする方を同時に振り向いた。俺の知り合いではない。ちらりとを盗み見ると、少し驚いた顔をしたのち、彼女は俺に向ける笑顔とはまた別の、元気で朗らかな顔をしてみせた。随分久しく見ていない、学校でのの顔だった。でも、それは中学のときよりもずっと女らしくて、俺はそんなを知らないし、知る術もないのだ。

「えー? なに? どうしたの?」
「おまえこそ! そいつ誰?」

おまえこそ誰だ。あまり短気だと言われたことはないが、カチンとくる言い方に荒々しいものが胸の辺りを渦巻いていく。思わず目を細めて睨み付けると、憎らしげに俺を睨むそいつと目が合った。土手の上に立っているからか見下されているような感覚がして気分が悪い。

「……幼馴染だよ」

は少しだけ考えるそぶりを見せたあと、俺の様子を伺うように恐る恐る答えを紡ぎ出した。その答えは間違ってなんかいない。俺たちはただの幼馴染だ。そう、ただの。なのに、頭をガツンと殴られるような衝撃を受け、心臓に爪を立てられる心地がした。たまらなくなった俺は立ち上がって、水に濡れたままの足をサンダルに突っ込んで、を待たずに飛び石を渡り始める。

「俺、先帰るわ」
「え? ちょっと待って」

はそいつと話していればいい。そこまでは言わなかったけれど、刺々しさは充分伝わっただろう。が慌ててサンダルのストラップをつけている音を聞きながら土手の斜面を上がっていると、そいつはまだ俺のことを睨んでいた。そんな敵意を向けなくても、俺は本当にとは何もない。けれど、ずっとその噛みつくような視線を浴び続けるのも癪なので、キッと刺すような目を向けたあとそいつから顔を反らせた。会釈なんかはしてやらない。
早足で自宅方面に足を向けると後ろでがそいつと話している声がする。二人の声は段々と遠ざかり、何を話しているのかは俺には届かなかった。
雲行きが怪しい。あんなに晴れていた頭上には真っ黒な雲が近づいていて、一雨振りそうな予感がする。置いてきたのことがふと気になったが、あの男がどうにかするだろうと頭を軽く横に振る。
馬鹿みたいだと思う。昔になんて戻れるはずがないのに、期待ばかりして。伝えるべきことも伝えられずに、足踏みばかりして。
自己嫌悪に陥りながら歩を緩めると、タッタッと地面を蹴る音が近づいてきた。息を乱しながら俺の名前を呼んでいる。でも、俺は振り向くことは出来ない。今振り向いてしまえば、酷い言葉で罵ってしまいそうだったのだ。

「待ってって言ってるのに」

走るスピードを落とし、俺の隣に並んだは胸の辺りを軽く押さえて息を整えている。麦わら帽子は風で飛んでしまわないように、もう片方の手で握り締められていた。おかげさまで彼女の表情がよく見える。少し怒っているようだった。

「あいつと話しなくていいのかよ」
「別に大した話ないし」

それには返事をせずに不貞腐れた顔で黙々と歩いていると、俺の態度に痺れを切らしたらしいに腕を引っ張られ、歩みを止められる。俺を覗き込む彼女は、昨日みたいに、また、泣きそうな顔をしていた。

「意味分かんない。何、その態度……言いたいことあるなら言ってよ」

掴まれている腕をやんわり解き、鬱屈した気持ちと一緒に息を吐く。は少しびくりと体を揺らした後、手持ち無沙汰になった手でワンピースの裾をぎゅっと握りしめた。
分かっている。ただのみっともない嫉妬だってこと。だけど、そんな格好悪いこと、こいつに言えるわけがないのだ。そんなこと言える特別な関係でもないのだから。

「別に……なんもねえよ」

ぼそりと呟いて再び歩き出す。一応のペースに合わせる気はあったので、時折視界に入る彼女の赤いペディキュアをぼんやり見下ろしながら歩いていると、ポツリポツリとアスファルトに濃い染みが描き出されていた。
やばい、降ってくる。
そう思うや否や、さっきまでの生温い風とは違って西からひんやりとした風が素肌を撫で上げ始める。

「走るぞ」
「えっ!」

びしょ濡れになるのを避けるために、思わずの二の腕を掴み走り出す。そこから伝わる温かさと柔らかさに罪悪感を抱いたが、別にわざと触っているわけではない。だけど、さっきまでとぐろを巻いていた黒い感情が徐々に和らいでいくのを感じていた。がちょっぴり頬を染めたことに気分が良くなったのだ。
あと三分ほど走れば、の家に着く。そのすんでのところでバケツをひっくり返したような強い雨が降り始め、視界が一気に白く遮られてしまった。
Tシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。サンダルと素足がぐちゃぐちゃと音を鳴らしてとても不快だ。すっかり垂れ下がってしまった前髪が邪魔で、それを一気にかき上げながらの家の軒下に滑り込む。
なんとか雨をしのげる空間に辿り着くと、掴んでいたの二の腕を離し、Tシャツの裾をぎゅうっと絞った。Tシャツに潜んでいた水分がボタボタと地面に落ちて心なしか体が軽くなる。これではの服も大変なことになっているだろうと彼女の方に体を向ければ、波打際みたいな白いワンピースは半透明になってしまっていて、下着の色をうっすらと透かしていた。肌にぴったりと張り付いているせいで、体のラインが露わになる。華奢な肩から胸のふくらみ、引き締まったくびれからなだらかに移行する腰回り。ごくりと喉を鳴らした後、見るんじゃなかったと後悔が押し寄せる。どうにかこうにか隠してやりたいが、ほぼ手ぶらで家を出た俺に残されている手段はびしょ濡れになった俺のTシャツを脱いで、の胸元に押し付けることだけだった。

「とりあえずこれで隠せよ。あと出来たらタオル貸してほしい」

俺の行動に自分の惨状を理解したは、俺のTシャツを抱きしめ、耳まで真っ赤にして俯きながら玄関に駆けていった。
のいない間に落ち着こうと思ってもドクドクと勢いを増す心臓の動きは止められない。さっきの光景が鮮やかに脳内に再生されてしまってどうしようもなかった。
少し時間稼ぎになるだろうと思っていたのに彼女は意外と早く俺の元に戻ってきた。着替えて来ればよかったのに、新しいTシャツとタオルを手にしている以外は先程となんら変わりはない。

「これ、弟のTシャツなんだけど。あとタオル……」

が俺を直視しないので一瞬不思議に思ったが、俺も上半身裸のままであることを思い出し、軽くタオルで体を拭ったあと急いでTシャツを頭から被った。はそんな俺をぼうっと見つめているだけで、自分のことは何一つ対処していない。申し訳程度にタオルで胸元を隠しているだけだったので、彼女との距離をつめ、俺の使用済みタオルで申し訳ないが、それを頭にバサリとかけてやる。

「うわぁ!」
「早く拭かねえと風邪引くぞ」

そう言いながらわしゃわしゃと髪を拭いてやる。ぎゅっと目を閉じて、されるがままのがかわいい。かわいくて、どうにかしてしまいたくなる。

「……今日おまえんち誰もいねえの?」
「うん。父さんも母さんも仕事だし、弟も部活行ってる……あ、なんか英太みたいになりたいんだって意気込んでたよ」

その言葉は素直に嬉しくて、照れ臭い。だけど視線はお互い絡まったまま、こんなに近くで向かい合っている。こういうむず痒い雰囲気に慣れていないらしいは、わざとらしく明るい声で誤魔化そうとする。今まで誤魔化してきたのは自分自身だというのに、一体自分は何様のつもりだと自嘲気味に口角を上げた。俺も決して慣れているわけではないのだけれど。
俺を見上げて下手くそに笑うの頬にすべる水の珠を、慈しむようにゆっくりと親指で追ってゆく。するすると辿り着いた先には、しっとりと湿っぽくピンク色に色づいた唇があって、まるで朝露に濡れた朝顔みたいだと、吸い寄せられるように顔を近づける。彼女の頭にかかったタオルは、ふたりきりの空間を創り出していた。花の蜜に吸い寄せられる蝶が一瞬頭を過ぎったが、そんなきれいでかわいらしいものではない。もっと凶暴で自分勝手な衝動だった。いつのまにかシャツの胸のところをくたくたになるまで握りしめられていて、は柔らかな唇の隙間からつたない呼吸を繰り返していた。
彼女の胸元のタオルが落ちてしまっている。でも、今さらやめられない。ふたりきりの世界に縋りつくように、頭のタオルを握った手に力を込めれば、いとも容易く彼女の髪を滑っていき、ざあざあと降りしきる雨の世界にふたりの身が晒された。
柔らかさを堪能したくて角度を変えようとほんの少し唇を離したところに、暗い空を稲妻が切り裂いて大きな音が鳴り響いた。窓ガラスがガタガタと揺れ、それはふたりきりの世界に終止符が打たれた瞬間で、俺もも夢から覚めたかのように体をこわばらせ、大きなまばたきをぱちぱちと二回繰り返した。

「とりあえず帰るわ。これ、洗濯して返すし」

地面に落ちてドロドロになったタオルを拾い上げ、世界を断絶していたタオルと共に握りしめて軒下を出る。再びずぶ濡れになりながら、崩落していく崖から逃れるように自宅へ駆けてゆく。追いかけてくる足音も、引き止める声も聞こえない。
最悪だ。どうしてむくむくと湧き上がる感情を抑えきれなかったのだろう。どうして彼女から逃げてしまったのだろう。
そんなこと本当は分かりきっている。崩れてしまう自分が怖かった、崩れてしまう俺たちの関係が怖かった。だけど、結局ずぶずぶとぬかるみにはまり込んで抜け出せない。つまるところ、俺は、今も昔ものことが好きなのだ。





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