お盆休み中日。特に予定は入れておらず、折角の休みなのでのんびり過ごす予定にしていた。朝の涼しいうちに体が鈍らないようロードワークをこなし、感覚を忘れないようボールにも少し触れた。
ごろごろと畳の上に転がってぼーっとストレッチを行なっていると、知らぬ間に太陽が高い位置に移動して、目が痛くなってしまいそうな強い光が縁側から差し込んでいた。朝のうちはそこそこ風が通っていた居間も、このまま放っておけばサウナ状態になりかねないので窓を閉めてエアコンのスイッチをオンにする。さて、何のテレビ番組でも見ようかと胡座をかいたところで玄関の扉が開く音がした。

「ごめんくださーい」

思わず「えっ」と気の抜けた声が口から漏れ出してしまった。の声だった。昨日あんなふうに別れたのに、今日早速うちへ顔を覗かせた理由が分からない。家族の誰かが対応してくれるだろうという望みはゼロに等しい。父親は仕事だし、母と祖母は二人仲良く買い物に出かけている。これでは結局俺が帰省した意味がないと思うのだが、それとこれとは別の話らしい。
とにかく、今、の対応が出来るのは俺しかいないのだ。居留守を使ってしまおうと頭の中の悪い自分が囁いているが、ついさっき間抜け声を出してしまった。おそらくは俺がいることに気づいている。

「英太ー? いるんでしょー?」
「……何?」

声は自ずと不機嫌になる。玄関へ続く廊下に顔だけ出すと、は柔らかそうな白いワンピースを身に纏い、両手で麦わら帽子を抱え込んで立っていた。恥ずかしそうに、不安そうに、眉尻を下げた表情で。何となく高校三年生には見えない、あどけない少女のようにも思えた。でも、俺の記憶の中のとはかけ離れていて、女子として接するにはまだ気持ちの整理が出来ていなかった。

「入っていい?」
「いいって言う前に靴脱いでるじゃねえか」

は俺の返事を待たずして、すでに屈みこんでサンダルのストラップを外していた。だから俺もを待たずに居間に戻って胡座をかく。エアコンの送風の音はするけれど、それ以外に音のないこの空間に二人っきりでいるのは居心地が悪い。すかさずテレビの電源を入れると、ボールがバットの中心に当たる気持ちのいい打撃音が響いてファンファーレが鳴った。スリーランだ。

「英太、野球好きだったっけ?」
「別に、普通だよ」
「……ふーん」

はつまらなさそうに唇を尖らせ、俺が座り込んでいる場所の三歩後ろに静かに正座した。
しばらく二人とも無言で試合を見つめていたが、均衡を破ったのはもちろんの方だった。

「どうせ暇なんでしょ?」
「暇じゃない」
「部屋着でゴロゴロしてたんでしょ?」
「今から着替えるんだよ」

その言い草にも、事実を言い当てられたことにもムッとする。そもそも、俺自身でわざと暇な時間を作ったというのに邪魔をしにきたのはそっちの方だ。
自棄になってくたびれたTシャツをその場で脱ぎ捨ての方を振り向けば、ぽかんと口を開いて呆けた後、みるみるうちに紅潮していった。

「いきなり脱がないでよ!」

バッという効果音がするくらい勢いよく顔を背けた彼女に、俺も思わず顔が熱くなる。急にしおらしくなるのはやめてほしい。調子が狂う。
脱いだ服はそのままにするわけにもいかないので、冷静になるためにも一旦洗面所に向かい、Tシャツを洗濯カゴに放り込む。それから上下とも出かけられるような服に着替えて再び居間に戻ると、はまだモジモジと俯いて麦わら帽子を触っていた。
ふうっと息をつく。 言いたいことが言えないのはもしかするとお互い様なのかもしれない。

「折角だし出かけるか?」
「どこに?」

散々勇気を振り絞って声をかけたというのに、照れ隠しなのか何なのか知らないが、彼女のツンケンした態度に眉根を寄せる。

「むしろおまえが俺を連れ出しに来たんじゃねえの?」
「外に出かけるとは言っていません」

こいつ、こんな嫌なやつだったか? 眉間のしわの数がさらに増え、口もとが引きつり出す。俺を振り回すのはいい加減にしてくれ。

「おまえなぁ……」
「嘘だよ。私たちの想い出巡りでもしよっか」

怒る寸前の俺の言葉に、食い気味に返事をしたは、軽やかに立ち上がってゆるりと微笑んだ。柔らかい笑顔は、今日のワンピースの素材みたいだと思った。綿だか麻だか俺には分からないけれど、ふわりと風を含んで光を透かせる。素足の影が見えそうで見えない。心臓がドキドキと音を立て始める。
そんな俺にお構いなしに、は俺の手を引いた。こいつと最後に手を繋いだのはいつだったか。その頃は、こんなに歴然と、男と女の造作の違いを気に留める必要なんてなかったのに。俺の骨張った手とは真反対の、華奢で繊細な手になってしまうなんて想像もしなかったのに。
外はかんかん照りだ。蝉すらも鳴くのを諦めている。は麦わら帽子をかぶり「暑いね」と笑って俺の手を離した。残念と思う気持ちが湧いて出て、そんな自分自身を誤魔化したくて、と触れ合っていた手をTシャツの裾でこっそり拭った。

「どこから行くんだ?」
「んーとね、とりあえず小学校まで行ってみよっか」

ゆっくりと歩き出したを後から追う。帽子のつばが邪魔して彼女の表情は俺からは見えない。けれど、彼女の足取りは軽く、ゆるやかなステップを踏むようで上機嫌なのが見て取れた。ひらりひらりと踊るスカートの裾が、俺の記憶を呼び覚ましていく。
小学校の校庭は、記憶の中のそれより狭かった。今は、防犯対策のせいか関係者以外は校庭に立ち入らないように注意書きがされていて、卒業生である俺たちももちろん例に漏れない。外から眺めながら幼かった日々を手繰り寄せていると、家を出てからだんまりだったが口を開いた。その表情は相変わらず俺からは見えない。

「英太は覚えてないかもしれないけど」

少しだけ言いにくそうに言葉を詰まらせて、彼女は後ろで組んだ手に力を入れた。俺の首すじに汗がつうっと流れてゆく。

「小学校のとき一回だけスカート履いて学校に来たんだ。そしたら英太、そんな格好じゃ遊べないって怒ったの」

記憶の海の底に手がついたような感覚だった。六年間で一日だけ、はワンピースを着て登校していた。今みたいに、白いふわふわとした、波打際みたいなワンピースで。だけど、遊ぶこと優先だったガキの頃の俺は、女子の気持ちを考える術なんて持ち合わせていなかったのだ。
当時に投げかけたその言葉は本心だったに違いない。でも、好きな子をいじめたい、それに近い青臭い気持ちもあったのだと今になって理解できる。かわいかったのだ。よく似合っていたのだ。ちょっぴりアレンジして無理矢理編まれていた髪の毛も、照れ臭そうに教室に現れた彼女自身も。
は傷ついたのだと思う。ながいながい六年間の、いちどきりの、たったの一日を覚えていた。俺には取るに足らない一日を。

「それは……ごめん」
「別にいいよ。あの頃はお転婆だったから、そんなに似合ってなかったと思うし」

そんなことはない。
そう口にしたいのに、長年の意地が積み重なっているせいか唇が縫い付けられているかのように不可能だった。せめてもの思いで、当時の自分に代わって謝罪をする。
高校ではしょっちゅう「思わせぶりに優しくするな」と親しい友人から注意を受けるというのに、どういうわけか、の前ではそんな自分もなりを潜めていた。

「今は……ちょっとはワンピースが似合う女の子になれたかな」

は独り言のように呟くと、軽やかに身を翻して「次行こっか」と先を歩き出した。口の中でもごもごと「似合っている」とか「かわいい」とか、そんな類の言葉が泳いでいる。口に出す勇気は未だ出ない。
少し歩くと中学の時まで所属していたスポーツクラブが練習を行なっている体育館が見えてきた。小学生までは、も時々俺の親と一緒に練習を見に来ていたが、中学に上がってからは来ることがなくなった。
が見に来なくなってからの時期が、一番上達した時期なのが今となっては正直悔しい。「うまくなったね」と言ってもらいたかったのだと思う。にかっこいい姿を見てもらいたかったその頃の俺は、きっと、一丁前に男として意識して欲しかった。

「英太はどれくらいうまくなったの? レギュラー取れた?」

じりじりと焼けつくような日差しを遮って雲が流れる。同時にふわっと吹いた風に飛ばされないよう帽子を押さえたは、家を出て初めて俺の顔を見上げた。
無邪気な顔だ。なんの曇りもない。表情の見えなかった今までもこんな顔をしてたのだろうか。だとしたら、俺は考えすぎなのかもしれない。は過去のことを吹っ切ってしまったから、こんなふうに、俺と直接話が出来るのかもしれない。

「レギュラー取れたよ。IHも出場したし、最後は春高だけ」

でもスタメンは奪われた。敢えてそのことを伏せる俺はずるい男だろう。でも、いい。奪い返せば済む話だし、今だって俺はにいいところを見せたかった。これは決意なのだ。

「そっか。うまくなった英太、見てみたいな」
「見に来ればいいじゃん」
「え?行ってもいいの?」
「今さら遠慮なんてするなよ」

が、過去を過去だと割り切っていると思ってしまえば、多少なりとも素直になれる。俺は、が自分のことをどう思っているのか不安で堪まらなかったのだ。たとえ、過去に縛られているのが自分だけだったとしても、彼女の気持ちが分かれば十分だ。俺のくすぶっている気持ちも、そのうち時間が解決してくれるに違いない。
俺が断ると思っていたらしいは、形のいいアーモンド型の瞳をまんまると見開いて驚いていたが、俺の答えに破顔した。その顔に、今まで感じたことのないくらいに心が揺さぶられた。心臓を直接手のひらで掴まれているような切なさが全身を駆け巡ってゆく。

「なぁ、久々にあそこ寄ってくか?」
「あそこって?」
「ついて来れば分かるよ」

自分でもびっくりするくらい大胆にの手を取って、ぐいっと引っ張って歩を進める。別に嫌味でもなんでもないが、足の長さが違うからかは自然と小走りになる。それでも文句も言わずついて来てくれて、何だか胸がこそばゆい。




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