惑溺のお手本・前

GWが明けると山々は新しい緑に移り変わり、風の匂いも春のそれとは変わってくる。初夏の訪れである。澄み渡った青い空に緑の映えるこの季節がは大好きだった。
しかし、こんな過ごしやすい季節にも頭を抱える案件がある。虫である。は虫が大の苦手だ。小さい頃はまだ全然大丈夫だったのに、成長するにつれて触るのは勿論見るのもダメになった。
毎年夏に近づけば、体育館の光に集まってくるヤツ達にきゃあきゃあ騒いでしまうに部員達はうるさいと言いながらも追い払ってくれるので、は感謝していた。
体育館の中であれば彼らが対処してくれるのだが、問題は更衣室である。バレー部のマネージャーをしているは、電車通学のため部活後は制服に着替えて帰っていた。そうでないと部活後のジャージやTシャツは汗などで汚れており、そのまま電車で帰るのはマナー違反のような気がしたからだ。
しかし、毎年更衣室で何回か目撃される黒光りするヤツ達に、今年もはビクビクしている。昨年までは虫が平気な先輩マネージャーがいたので何とかなっていたが、今年は一人である。遭遇したときはどうしたらいいのか、と主将をつとめる牛島に聞けばスプレー缶を渡され「これで頑張れ」と言われてしまった。
これを使うにはヤツ達と距離をつめなければならないので、きっと自分には無理だという自覚がにはあった。しかし、お守りがわりにずっとロッカーの中に忍ばせていた。使うときが来ませんように。そう願いを込めながら。

しかし、その日がやってきてしまったのは、まだ梅雨の前なのに夏を思わせる暑い日だった。いつものように全体練習の後の自主練でボール出しを手伝い、解散してから更衣室で着替えるところであった。
ロッカーの鍵を開け、ジャージの上着を放り込み、Tシャツを脱ぐために裾に手をかけ一気に脱いだ。視界が一瞬遮られるときが一番怖い。その瞬間にヤツが現れたらなす術がない。Tシャツから頭を抜き、キョロキョロと回りを見渡して何もいないことを確認して一息ついたところに、視界の端に不穏な影が映り体が強張った。
まさか、まさか。カサカサと音がして影が近づいてくる気がする。

「きゃあぁぁぁー!」

咄嗟に上着だけ掴んで、猛スピードでそれを羽織りながら更衣室から脱出する。
誰か、誰か!この時間なら体育館の鍵当番が誰かいるはず。その人にどうにかしてもらおう。
そんなことを思いながら体育館に向かえば、カチャリと鍵を閉めていた部員の後ろ姿が見え、必死にその背中に縋り付いた。

「た、助けてぇ……」
「えっ?さん?どうしたんですか、その格好。」

鍵当番だった白布はの姿を見てぎょっとした。きれいにまとめられていた髪も後れ毛がうなじに垂れ、キャミソールの上から適当に上着が羽織られているせいで真っ白な胸元が暗闇の中でひときわ目立っている。

「ヤツが、ヤツが……」
「ヤツ?」

の方を振り向けば、自分の両腕を掴み涙ぐみながら上目づかいで助けを請っている。普段冷静で落ち着いていると言われている白布もさすがにのその姿を見ると動揺を隠せなかった。

「黒くて光ってるヤツ!名前を呼ぶのも恐ろしい……」
「あー。」

合点がいった。それでこの取り乱し様。「助けて、お願い。」と少し震えながら自分の手を掴んでいるから視線をそらし、白布は軽く息をついた。
目に毒でしかない。そんな姿を目の前に何もしちゃいけないなんて。ずっと想い焦がれていた女が襲ってくれとばかりの格好をしているのに。
しかし、まだかろうじて理性が働いている。純粋な気持ちで助けを請う女を本当にどうにかしてしまうほど趣味は悪くない。うるうると涙を携えたを自分の欲望のままにしたい気持ちを必死に押さえ込んだ白布は、の上着のファスナーに手をかけ上まで持ち上げてやった。

「いいですけど、とりあえず自分の格好には気をつけてください。」
「えっ?あっ……」

きゅっと襟元を押さえ恥ずかしそうに頬を染めるを見た白布は再び息をついた。いくら虫が嫌いといっても程があるだろ。誰がいるか分からないのに、そんな格好で飛び出してきて。自分だからいいものの……いや、自分だからこそ危ないのか。自嘲気味に笑いながら一緒に更衣室へ向かい、に中で着替えるように促せば、ジャージの裾を引っ張られおずおずと見上げられる。

「……一緒に入ってくれる?」
「はぁ?」

男の自分に女子更衣室に入れと言うのか。驚いて思ったよりも威圧的な大きな声が出たが、必死なはそんなこと意に介さない様子で白布を引っ張っていった。先輩という立場をここぞとばかりに利用されていると白布は思った。人の気も知らないで。

「絶対こっち見ちゃダメだよ!」
「分かってますよ。」

白布は入り口付近のロッカーにもたれかかりながらから視線をそらせた。衣擦れの音がやけに更衣室内に響いているように感じる。好きな女が同じ空間で着替えているというこの状況で、何も考えるなという方が難しい。ましてや先ほどの姿を見た後だとなおさら。白布はむくむくと膨れ上がる感情を押さえ込むように頭を掻き、と真反対の方を向いた。
はちょうどジャージの下を脱いでスカートを履いたところだった。あれからヤツの姿を見てないことに安心しつつも恐怖を感じていた。だって、つまりは、まだ近くにいるということなのだ。恐る恐る上のジャージのファスナーに手をかけ脱ごうとした瞬間、足元で何か動くような気がしたのでまた飛び上がってしまった。

「いやぁぁぁー!」

は急いで白布の方に駆けていき、盾にするように白布の陰に隠れた。急に大きな声を出すものだから、白布も驚いたが確かにが立っていたあたりに動くものを見た気がする。
しかし、それよりも白布にとってはの方が問題だった。密着されてしまえば、男とは違う柔らかな感触がそこから伝わるし彼女の熱だって溶け合うように己の熱と混ざり合う。一体どれだけ我慢しないといけないのか。だが、先程言ったように恐怖におののいている女をどうにかする程悪趣味な男ではない。と、言い聞かせているだけかもしれないが。

「退治して!お願い、退治して!」
「多分隙間に入り込んだんで無理ですよ。」
「じゃあその隙間にスプレーして!」

生贄を差し出すかのようにに背中を押された白布は、ため息をつきながらロッカーに入っていると言われたスプレー缶を取り出して、その隙間に噴射する。意味ないと思うけど、という思いは口にせず、そろそろと近づいてくるを覗き込むように警告した。

さん、三回目はないですからね。」
「え?うん。」

キョトンと首を傾けながら返事をするは何も分かっていない。子供のようにあどけない顔をしている。白布はそんなのことが好きだった。年上なのに少女のように純粋で。しっかりしているのは見てくれだけ。
けれど、そろそろ限界だ。そんなを穢したい。スプレー缶を取り出すときに見てしまったロッカーの中に無造作に置かれた服たち。そこには汗と制汗剤との甘い香りが立ち込めていてクラクラした。
我ながら変態じみている。あれだけ悪趣味な男ではないと前置きしておいて早速そんな気になっている自分が忌々しい。本当ならもうここで力ずくで組み敷いてやってもいいのだが、最後のチャンスを与えてやる。
とりあえず白布は先ほどの場所に自分の身を落ち着けた。昂ってきた自分を冷ますにはロッカーの冷たさは心地よかった。しかし、ジーっとファスナーが下げられる音が聞こえたかと思うと、ブラウスと肌の擦れる音がしゅるしゅると艶めかしく響いたので白布は思わず片耳を塞いだ。
あと少し、あと半分ボタンを留めてしまえば何とか着替えは終わる。はそう思えば思うほど、うまく指先が動かせず、いつもすんなり通せる穴にボタンを中々入れることができなかった。もたもたしていたらまた現れてしまう。そんなふうに自分にとって都合の悪いことを考えてしまうと、現実になってしまうのがこの世界の不条理で。
そう、また見てしまったのだ。三つ隣のロッカーを這っている姿を。段々と近づいてくるヤツには気が動転した。胸元を隠すことも忘れて、必死で白布の服の裾を掴んだ。必死だった。警戒心のベクトルはヤツに向いていた。だからすっかり頭から抜け落ちていたのだ。この人は『男』だということを。