春の呼び水・前

 段ボール箱が増えてゆく自分の部屋を一息つきながら眺めていると、テーブルに置かれたスマートフォンが急に震え、情けなく体がびくりと震える。小さなディスプレイを覗き込むと、それは北からの着信を知らせていた。

「もしもし、なに?」
、今何しとるん?」
「引越しの準備してるけど」
「今から家行ってもええか?」

 つい先日、花曇りの中、わたし達は稲荷崎高校を卒業した。風紀に厳しい北とそれに反抗するわたし。北とわたしはずっとずっと犬猿の仲だった。言い合う姿は学校内でも有名で、宮兄弟の兄弟喧嘩には劣るもののそこそこ名物化していたらしい。結局卒業まで和解せんかったんやな、と色んな人に口々に言われ、わたしもそれに適当に相づちを打っていたけれど、実はわたしは北のことが好きだった。それに気づいたのは本当に卒業間近で、紆余曲折あってなんとか北の第二ボタンを予約したけれど、みんなに知られるのだけは避けたかった。だって、からかわれることが目に見えているのだから。なのに、乙女心の分からない北は、第二ボタンを求めて寄ってくる女の子たちに馬鹿正直に「これはのもんや」と言ってしまうから、わたしと北が卒業をきっかけにつき合うことになったことは全校生徒の知るところとなってしまった。このことについては最近ケンカしたばかりだ。
 つきあい始めて知ったのは、北は意外とマメに連絡をくれるということ。決してしつこいわけではない。会いたいな、と思った絶妙のタイミングでメールやら電話やらを寄越すから、わたしは頭の中を覗かれているような気分になってしまう。今も一息つきながら北のことを考えていたところだった。鬱陶しいくらい毎日喧嘩をしていたわたし達が4月からは別々の大学に通うことになる。想像するととてつもなく不安でさみしくて、わたしがこんな感情を北に持っていることは北にだけはどうしても知られたくない。わたしは意地っ張りだ。つきあい始めてからもなかなか素直になれなくて自分でも苦労する。だから、北のほうからこうやって電話をくれるのは助かっていたし、とても嬉しかった。

「ええけど、そんなにわたしに会いたいん?」
「そうや、悪いか」

 口元が緩んで、頬に熱を持つ。北のせいで心臓が甘やかな悲鳴をあげて、わたしは座椅子の背もたれに体重をかけ天井を見上げた。勘弁してほしい。北のストレートな言葉は、わたしのどんな硬い殻も撃ち抜いてしまうから厄介だ。顔を見られてなくてよかった。赤くなった顔を見た北は、きっと、柔らかく目元を垂らすから、その表情は心臓に悪くて寿命が縮む。

「わかった、待ってる」

 わたしも会いたい、と素直に言えたなら、北にも可愛い彼女だと思ってもらえたかもしれないのに、わたしはそれを言うことができない。電話を切り、北を迎え入れるのも兼ねて、もう少しだけ荷物を片づけようと、うーんと大きく伸びをした。



 2、30分もすると呼び鈴が鳴る。玄関まで駆けて行き、扉を開けるといつもどおり仏頂面の北がお菓子の紙袋を下げて立っていた。どう見てもわたしに会いたかったという顔をしておらず、苦笑しながら中に案内する。

「どうぞ」
「ん」

 北は膝を折って、5本のゆびで丁寧に脱いだ靴を揃えてから立ち上がり、わたしをじっと見た。その所作が様になりすぎて、本当につい最近まで高校生だったのだろうか、と疑わしい目で見ていたため、どうやら小難しい顔をしていたらしい。なんやねんその顔、とため息混じりに言った北は、この辺りで有名な和菓子屋さんの袋をわたしに差し出した。

「親御さんはおらんのか」
「今日は仕事やけど」
「ほうか」

 受け取りながら返事をする。親がいたらどうなっていたのだろう。北のことだから挨拶させろとか言いそうだ。まだ彼氏が出来たことも親には言っていないのに、部屋に上げたことを知られたら、せっかく許してもらえた一人暮らしが却下されてしまうかもしれない。そんなことを考えていると悪寒がする。
  それを見た北が「寒いんか」と言って自分が着ていたジャケットを脱いでわたしに着せようとするものだから、必死に抵抗しながら自分の部屋に案内した。北の温もりに包まれてしまったら、わたし、きっと、照れた顔を隠せないから。
 中途半端に荷造りされた部屋に案内するのは正直気がひける。部屋に初めて呼ぶときくらい綺麗に整理して「なかなか片づいとるやん」って褒められてみたかった。現にわたしの部屋に入った北は、ほんの少し眉をひそめてわたしを咎めるように見据えている。

「これ、引越しの日までに終わるんか」
「……多分?」

 北は、はあっと長い息を吐いた。そんなに荷物を持って行く予定もないし、家電や大きな家具は新居の近くで調達するつもりだから、引越し日までにはきっと間に合うはずだ。呆れ顔の北を、さっきまでわたしが座っていた座椅子に座らせようとすると、北はくるりとわたしの方に振り返った。表情は先程から変わらない。表情筋が生きているのか心配になる。

はどこに座るんや」
「え? 適当にその辺座るけど」
「座布団もないのに冷えるやろ。おまえがこっち座れ」

 せっかくふたりきりだというのに、依然怖い顔をしたままの北の眉間のしわを伸ばしてやろうかと思った瞬間だった。北はいつも、そうすることが当たり前かのようにわたしを気遣う。その言葉が胸をじんわり熱くさせ、わたしは毎度毎度、頬を緩めてしまう。だけど、今日は北がお客さんだ。床に直接座らせるわけにもいかないので、わたしも譲れない。「北が座りや」「が座りや」、そんなやりとりを何度か繰り広げていると根負けした北が譲歩して出した案に、わたしは目をまんまると見開いてしまう。

「じゃあ一緒に座るか?」

  聞き間違いだろうか。自分の耳を疑う。この一人用の座椅子に二人で座るとかなり密着した状態になってしまうことをこの男は分かって言っているのだろうか。放心状態で突っ立っていると、無言は肯定と捉えたらしい北がわたしの手首を引いた。

「案外座れるもんやな」

 腕と腕がぴたりと合わさって北の体温がわたしに移る。ふたりの体温が混じり合って、鼓動が勢いを増す。狭い座面にふたりで腰を下ろして平常心でいられないわたしを他所に、北は平然とした様子で座っている。暴れ続ける心臓を手なずけられないまま、ちらりと北の様子を窺うと、心なしかいつもより目元を細めていたので、何も言えなくなる。

「大人しいやん」

  からかうような言葉にムッとして北の太ももをパチンと軽く叩くと、ハハッと珍しく声をあげて笑ったので、わたしは仕返しに北に全体重を乗せるように寄りかかった。されるがままにわたしを支える北が唐突に「なあ」と口を開く。

「何?」
、制服どうすん」

 丁度目の前でハンガーにかけられたまんまの制服を見つめながら北が言う。もう着ることはない。だけど、どうしてか捨てるには踏ん切りがつかない。色んな思い出が詰まった制服は、青春は終わったのだと主張するようにさみしそうにわたし達を見下ろしている。

「北はどうすん?」
「俺はもうちょい置いとくことにしたわ」

 未練があるわけやない、ただ、なんとなく名残惜しいだけ、と北は続けた。気持ちの整理がついたら処分すればいいだけだと言われて、わたしも賛同する。驚いた。多分北はさみしいと思っている。こいつのことをずっとロボットみたいだ思っていたけれど、そんな弱々しい面をわたしに見せていることが、正直とても不思議で、未だに信じられない。

「わたしも置いとくわ。だって北、わたしの制服姿、好きやろ?」
「あ?」

 少ししんみりしてしまった空気を打破したくて言ったわたしに、北は怪訝そうな顔を見せた。さっきまでの顔とは裏腹に、冷たい視線を向けられて、やっぱり北はこうでなくちゃと思う。いくら注意しても制服を正しく着ないわたしに、ちゃんと着ろって耳にタコができるくらい言ってたんだから、北にとってわたしはどうしても目で追ってしまう存在だったんだろう、と自惚れてみる。

「制服が好きとかちょっと変態みたいやけど、北も男なんやって安心し……」
「ちょい黙れや」

 からかうのが楽しくなって饒舌になった口が、北の口で塞がれる。触れた柔らかな感触に唖然として、息がとまる。まばたきを忘れる。押しつけた唇を少し離した北は、鼻先が触れ合う距離で、ほんのちょっぴり勝ち誇ったように口角をあげた。

「おまえが言ったんちょっとちゃうで。俺はやったら何着てても好きなんや」

 北の透きとおった瞳に映ったわたしが、途端に女の子になる。胸の甘やかな痛みがシナプスを支配して、わたしは北のゆびさきをきゅっと握ってまぶたを閉じた。