彗星の灰を海に撒いて・前




※ぬるい性描写があります






 なかまが眼前で死んだのを見たのは初めてのことだった。



「なんでおまえ呪術師やってんの」
「万年二級止まりだな」
「弱えくせに」

 どれも散々五条に言われた言葉だ。だけどそれに対抗する気持ちが呪術師というものにしがみつく理由になっていたのだと思う。認めてほしかった。わたしは五条におまえも仲間だと認めてほしかった。
  傑は「じゃあ悟を見返してやろう」と言った。毎日毎日任務をこなしているのにわたしの修行にもつき合ってくれる。おかげでなかなか上がることのできなかった二級にもなれたし、怪我をすることなく二級呪霊を倒せるようになった。自分でも手応えを感じるようになった。それでも五条はわたしを認めてくれない。

「傑の時間奪ってる自覚あんのかよ。やっても無駄だっつーの」

 五条のその言葉はわたしの心をゆっくりと確実に抉ってゆく。わたしのはるか先をゆく三人の同期に追いつこうと努力することも許されないというのか。少しでも安心して背中を任せてもらえるようにと思うことさえ許してくれない。
 でも泣きごとは言わなかった。泣きそうになりながら修行をすることはあっても唇を噛み締めて堪えた。口の中に鉄の味が広がっても涙ひとつ零さなかった。弱いわたしが悪い。それは分かっている。だから努力している。けれど圧倒的な才能を前にすると目が眩んで、自分の眼前に続く道さえ見失いそうになる。

「やめれば?」

 もう何度目か分からないくらい五条に吐かれた四文字に、擦り切れていた心が突然悲鳴をあげた。そのときはわたしだけじゃなくわたしを庇おうとした硝子も怪我をした。大したことないから大丈夫、すぐに治せるし。そう言って彼女は笑ったけれどわたしは急に怖くなった。弱いわたしと任務をこなす。それは他の人を傷つけることになる。そう自覚して自分がブレてしまった。
 わたしは初めて無断で学校を休んで、街のゲーセンに足を向けた。いろんな音がまじり合って情報が整理できないことがわたしにとっては救いだった。おかげで何も考えなくて済む。
 小銭を入れてクレーンゲームの前に立つ。つぶらな瞳で見つめてくる黄色いモンスターを狙ってボタンを押してもするりとすり抜けて落ちてしまう。
 まるでわたしの未来みたい。馬鹿みたいなことをぼんやり思う。人生をゲームになぞらえるなんて夜蛾先生に言ったら叱られてしまうかもしれない。だけどタイミングを逃したら、きっと、簡単にゲームオーバーだ。
 千円以内で取れたら術師を続けよう。取れなかったらやめてしまおう。そんな賭けをして次々と小銭を投入していく。

、こんなところにいたのか」

 急に呼ばれた自分の名前に驚いて、自分が押したかったタイミングより少し早くボタンを押してしまった。ゆっくりと振り向けばコンビニの袋をぶら下げた傑が立っていてこちらへ歩いてくるところだった。

「何か用?」
「つれないな。修行すっぽかされてこっちは心配してたっていうのに」

ため息を吐きつつ肩を落とした傑はコンビニの袋からソフトキャンディを取り出した。差し入れだと言って手渡されて始めて、わたしは自分が朝から何も食べていないことに気がついた。

「ごめん。ありがとう」
「何があったかなんて野暮なことは聞かないけど、私の前では泣いてもいいよ」

 はっとしてうつむき加減だった顔を上げると優しく目を細める傑がいた。それと同時にクレーンゲームが明るく軽快な音楽を奏で出したから、わたしは急いでゲームの方に向き直った。取り出し口で黄色いモンスターが笑っている。

「取れちゃった」
「取りたくなかったのかい?」
「賭けをしてたの」
「賭け?」
「千円以内で取れなかったら術師をやめようって」
「ふーん」

 こんなことで術師人生を終わらせようとしてたなんて、ずっと修行につき合ってもらっていた傑に申し訳なくて顔が見れない。つぶらな瞳のモンスターを手でこねくり回しながら、帰ろっかと歩き始めたところに手首を掴まれる。こんな風に触れられたのは修行以外では初めてのことだった。

「じゃあ私がの術師人生を変えたってわけだ」
「そうだね。でも責任取れなんて言わないから安心して」
「んー、それは少しさびしいかな」

 言ってる意味が分からず顔をしかめて見上げると傑は意地悪く笑っている。うすい唇は弧を描いていて、何故かぞくぞくとした衝動がわたしの背骨を這い上がっていった。頭よりも先にからだが理解したのだと思う。

「なんの見返りもなく私が修行につき合っていたと思うのか」

  わたしは何も答えることが出来ず、こくりと唾を飲み込むだけ。本当は期待していた。傑も同じ気持ちだったらいいなって。わたしとの時間が特別なものだったらいいなって。そう思っていたから、胸の内を全て見透かされているような気がした。だって、あまりにも手落ちなくわたし好みに攻め立てるから。

「答えはノーだ」

 掴まれていた手が傑のうすい唇に近づいて、手の甲にふ、と柔らかく触れる。恭しく、敬愛を込めるみたいな仕草にまぶたが熱くなった。まばたきが出来ない。伏せられた傑のまつげの一本一本が分かってしまうほどに世界にふたりっきりだった。

「君が好きだ」

  ゆっくりと唇を離した傑がわたしの目を覗き込んで言う。君はどう思ってる、なんて本当はぜんぶ分かってるくせに。わたしも好き、以外の言葉を紡ぐことなんて許してくれないくせに。



 走馬灯というやつだったのだろうか。眼前に鮮やかな赤色が飛び散ったと思ったらそれが突然にぷつりと途切れてしまった。かたかたと震えるからだは動かない。見えなくなったのは先輩がわたしの身代わりになったからだと理解したのは、五条が呪いを祓ってくれてからだった。
  呆然と立ち尽くすわたしに歩み寄ってきた五条を虚ろな目で見上げる。きっといつもの暴言を吐かれるのだと思った。おまえのせいだ、と。おまえが弱いからだ、と。暴言だと思ったけれど、どれも本当のことだ。だから先輩はわたしの目の前で死んでしまった。

「……わたしのせいだね。ごめんなさい」

 発した声は震えている。次に投げられるだろう五条の言葉に反論しようとは思わない。今なら素直に受け入れられる。そう思ったのに、わたしの頭に触れた五条の大きな手のひらは優しく頭のまるみを滑ってゆく。

「おまえのせいじゃない。おまえはやれることはやった。相手が悪すぎた。俺がもっと早く来るべきだった」

 黒いレンズの奥に隠れた瞳は見えないけれど、包み込むように柔らかな声色がわたしの涙腺を刺激する。どうしてこんなときに認めるようなことを言うのだろう。散々今まで罵ってきたくせに。行き場のない様々な感情でいっぱいになった器から、表面張力に負けた雫がぽたりと一滴、頬を伝った。
 そこから宿泊していたホテルまでどう帰ったか分からない。気づけばシャワーを浴びていた。こびりついていたわたしのものじゃない血液が透明な液体にまじって流れてゆく。それでもわたしの虹彩には鮮やかな赤が残っていた。それから先輩のゆるりと笑った顔。
 一人では抱えきれないと思った。あれからずっとゆびさきの震えが止まらないのだ。
 適当な服に袖を通して濡れた髪のまま五条の泊まっている部屋へ向かう。何でもできる彼にこのときだけは縋りたかった。何でもできるなら救ってほしかった。赤にまみれたわたしの視界を五条の青でいっぱいにして塗りつぶしてほしかった。それから彼の意地悪な言葉で、いつもの日常に早く身を置きたかった。

「……五条、いる?」

 控えめにノックをしてしばらく待つと五条が扉を開けて「何?」と吐き捨てるように言う。頭からつま先、つま先から頭へと、なぞるように五条の視線がわたしの表面を這う。それから大きなため息を吐いた五条は、これでもかというくらいに眉をひそめて口を歪ませた。

「まさか、怖くて一人じゃ寝れないとか言うんじゃねえだろな」

 何も言えなかった。この歳になって、ましてや呪術師だというのに、人の死を眼前に一人で眠れないなんて恥ずかしい。震えるゆびさきを押さえ込むように両手をぎゅっと握りしめる。
 皮肉を言われているというのに、その言葉だけでもどうしてか安心して涙が出そうになった。込み上がってくる水気のせいで五条がぼやける。そしてまた、ため息。不鮮明な五条の輪郭が動いて、震えるわたしのゆびさきを力まかせに掴んだ。五条の手はとてもあたたかかくて、思わず涙がこぼれそうになる。だけど下唇をぐっと噛んで耐えしのぐ。ゆびさきの震えはいつのまにか止まっていた。

「とりあえず入れよ」

 顎でしゃくって部屋に入るよう促した五条は、わたしをベッドの縁へ座らせてバスルームへ消えたかと思うとドライヤーを片手に戻ってきた。そして徐ろにプラグをコンセントに差し込んだかと思うと、わたしの濡れた髪をゆびで梳かし始めた。

「えっ! なに?」
「早く乾かさねえと風邪ひくだろ」

 それはそうなんだけど、五条がわたしの髪を乾かしてくれるなんて想像もしていなかったのだから驚くのも無理はない。ほんの少しの反論をごくりと飲み込んで黙ってされるがままに髪を梳いてもらう。柔らかく触れる五条のゆびが心地よくて、また泣きそうになる。先輩にもきっと、こうやって触れるひとがいたはずなのに。

「ぐるぐる考えたって仕方ねえよ。呪術師になった時点で覚悟してたろ」
「そうだけど……」

  覚悟はしていた。けれど思っていた以上に苛酷だった。無力だった。わたしは自分の弱さを痛感してしまった。

「なあ」

 どこか上の空で話をしていたからか、いつまでもうじうじとしているわたしが鬱陶しくなったのか、あるいはその両方かもしれないけれど、五条は苛立ちを含んだ声を発してドライヤーの電源を切った。乾いたのかと思って触った自分の髪は、まだわずかに湿っていた。

「抱いてやろうか」

  ひゅ、と喉を酸素が通って、それからしばし肺にとどまる。驚きのあまり息をすることも、まばたきさえも忘れて、ただ前だけを見据えた。だけど視界には何も入ってこない。たった今言われたことを処理しようと脳が必死に働いていた。

「……なんて、冗談だよ」

  五条の声は掠れていた。どんな顔をしているのかは分からない。けれどあの五条のこと。わたしに辛辣な言葉を吐くときの苦々しい顔をしているだろう。そう思っていたから、再びドライヤーの電源を入れようとした手を止めて、振り向いて、わたしが頷いたときの五条の顔といったら、もう。
 雪みたいに無垢な色をしているまつげに縁取られた、息を飲むほどに美しい宇宙。そのなかにわたしが映っているのを見たのは初めてのことだった。

「……は? おまえ、今自分が何に頷いたか分かってんの?」
「分かってる。抱いてくれるんでしょ」

 ずるい女だと後ろゆび指されてもいい。この夜を越えられるならなんだってよかった。それくらいまでに追いつめられていた。なんにも考えたくなかった。
 眼に映る五条はどうしてだか泣きそうな顔をしている。言い出しっぺ本人のくせに。彼の形のいい唇が歪み、何か言わんとして少し開く。だけど、そこからは何の音も漏れることなく再び閉ざされてしまう。
 五条は思案するように一度目を伏せた。それから間をおかず、わたしをその瞳に映したかと思うと、そこから先はスローモーションの世界だった。
 五条の手からドライヤーがこぼれ落ちてベッドに沈み、ちいさくバウンドする。それが収束しないうちに五条はわたしの顎を掴んで口を塞いだ。ほどよく筋肉のついた胸元を押して形ばかりの抵抗をする。それを物ともせずあれよあれよとわたしはシーツの海に突き落とされてしまった。
 五条のキスは強引なのに優しかった。呼吸を奪うように口づけるくせに、わずかな隙間から息つぎを許しては感触を楽しむように軽く食む。閉じていた目を薄く開けば、驚くほど余裕なさげに眉根を寄せる五条がいて、わたしは思わずぎゅうっと彼の服の裾を掴んだ。
 まるで自分がガラス細工にでもなったような気分だった。五条は、いつも粗暴な物言いをしているとは思えないくらいにわたしをだいじに抱いた。唇で柔く輪郭をなぞるから肌が粟立つし、ほんのわずかな反応ですら見逃してくれないからまたたく間に理性が手のひらから転げ落ちてゆく。
 服の裾を捲られてふくらみに彼のゆびが触れるととんでもない背徳感に駆られ、さらに深みに突き落とされる。今後の呪術界を担う男がどこにでもいるような女であるわたしに触れ、その美しい手を穢しているという事実がわたしの芯を溶かしてゆく。水びたしになった足のあいだに五条が自身をおさめるときには、今日の出来事なんてあたえられる快楽にすっかり塗りつぶされてしまっていた。
  たった一人にしか侵入を許したことのないそこは、呆気なくかたちを変えて五条を受け入れた。新たなかたちを覚えるみたいにゆっくりと咥えこんで、そしてわたしをつくり変えてゆく。いちばん奥まで入ったとき、五条はわたしの首元に顔を埋めて痛いくらいに抱きしめた。一体どんな顔をしているのだろう。表情は見えないけれど吐いた湿っぽい息が艶やかで、からだが震えた。同時にきゅうっと締めつけてしまったからか、五条が耳元でふっと笑う。「気持ちい?」と聞く五条にはこくこくと頷くことしか出来ない。早く動いてほしくてたまらなかった。
 ゆっくりとした動きがもどかしくて気持ちいい。さみしいなと思ったらまたあたえられて、わたしは自分でも驚くほどにとろけた声をあげていた。はしたなく足をひろげて腰を動かした。そうしてる間は目の前の人のことしか考えられなかった。何度も揺すぶられ、寄せては返す波のように意識が遠のいてゆく。その白濁した意識を手放す寸前、悩ましげに顔を歪めながら吐き出した五条の言葉が、ずっとずっと鼓膜にこびりついて離れなくなることを、このときのわたしは何ひとつ分かっていなかった。いつも余裕綽々な五条の思わずこぼしてしまったような、しぼり出すような苦しい声はわたしの心臓をかきむしって手に負えなくなってゆく。それはきっと彼にとって不本意なことだったのだろうけれど。



20191118