彗星の灰を海に撒いて・後




※ぬるい性描写があります






 高専に戻ると報せを聞いた傑が寮の前で待ってくれていた。その顔は心配だと言いたげに少し歪んでいたけれど、努めて明るく「ただいま」と声をかけた。うまく笑えていたと思う。声も震えていなかった。なのに、傑はわたしを胸に閉じこめて、わたしの頭を自分の肩口に押しつけてこう言うのだ。

「私の前では泣いてもいいよ」

 わたしが逃げ出した日と同じ言葉は、凍てつかせるような心地にさせた。わたしの泣き場所はここにあるというのに、とんでもないことをしてしまった。傑の優しさが、後頭部を滑る手の温かさが、わたしを罪悪感で塗りつぶした。どうせならそんなこと感じないくらい図太くてずるい女になれたらよかったのに、わたしはいつまでたっても中途半端なままだ。
 わたし達はあまり多くの言葉を交わさなかった。傑の大きな手のひらが宥めるようにわたしの頭を上下して涙腺を溶かしてしまう。滲み出す水分が、傑の着ている服をじわじわと濡らしてゆく。
 このひとが事実を知ったとき、一体どういう反応をするのだろう。そう考えると恐ろしくてたまらなかった。先輩への哀悼はすっかりそっちのけで、あやまちを犯したその日のわたしの思惑どおりだというのに、後悔だけがふり止まない。わたしの涙でぐっしょり濡れた彼の服をくたくたになるまで握りしめて、心の中でごめんなさいを繰り返す。そんなことで許されるわけがないのに。許すかどうか決めるのはわたしじゃないのに。すすり泣いたって、もうどうしようもないのに、それでもわたしには縋るしか出来ない。傑に触れたいのに触れられなくて、張り裂けてしまいそうだった。
 それからまもなくして繁忙期に入ったのは、わたしにとって好都合だった。傑との次の約束を適当にはぐらかしてやり過ごして。その間に気持ちは少し落ち着いたように思えた。
 ちょうどそのくらいの時期に、タイミングがいいのか悪いのか、傑が風邪をひいたと硝子から聞いた。真夏なのに風邪をひくなんて傑にしては珍しい。忙しくて疲れが溜まっているのだろうか。手っ取り早く栄養が取れるようにとコンビニでバニラアイスを買って傑の部屋をノックする。

「傑、大丈夫?」

 部屋の中からガタンと音がしてすぐに扉が開いた。出てきた傑はいつものきちんとしている姿とは真反対の、ゆったりとしたTシャツとハーフパンツ姿で長めの髪も下ろしている。病人相手に不謹慎だけど、汗ばんだ首すじが色っぽくて目をそらしてしまった。

「まだ少し体は重いけど……何か用だった?」
「あ、硝子から風邪だって聞いたからアイス買ってきたんだけど、どう?」
「ありがとう。助かるよ」

 伸びてきた長い腕にコンビニの袋を引っかける。そこで今日はさよならだと思っていたのに、じゃあねと言いかけたわたしの手首を掴んだ傑に驚いて顔を上げる。傑は困ったように笑っていたけれど、顔色はあまり良くなかった。目もとにはうっすらと隈が浮かんでいるし、その笑顔はつくりもののように思えた。

「すまない。少しだけ側にいてほしい」
「……うん、いいよ」

  弱っているように見える傑をどうにかしてあげたい気持ちは泉のように湧いて出たのに、すぐに返事が出来なかったのはわたしに後ろめたい想いがあったからだ。でもいつまでもこの状態ではいられないとも思う。あの夜のことを胸に秘めたまま傑との関係を続けるのならば、今までどおりを装わなければならない。覚悟を決めて傑の部屋に足を踏み入れると、掴まれた手首の力が安心したように少しだけ緩んだ。

「ちょっと散らかってるけど適当に座ってくれ」
「うん」

 傑の部屋に来たのは初めてじゃないのに、初めて来たような気になるのは傑の言うとおり散らかっているからなのだろうか。前に来たときよりも空気が澱んでいるように感じたのは、わたしが呪術師だからこそなのかもしれない。
 いつもどおりベッドの縁に腰かけると傑はわたしを後ろから抱きしめるようにして座った。ふたりぶんの体重に悲鳴をあげたスプリングがぎしりと不穏な音を立てる。久しぶりの体温に心臓がきゅうっと締めつけられて息苦しい。わたしがやんわりと拒んでいた距離をいとも容易く詰められて、彼に対する正しい態度を見失って身が固くなる。

「アイス、食べていい?」
「どうぞ」

 わたしを足のあいだに挟んだまま、傑はアイスのふたをべりべりと開けた。傑の口に運ばれるバニラが甘い香りを放つから、酔ったみたいにくらくらする。気をしっかり持たせるために背すじを伸ばせば、傑はおかしそうに声をあげて笑った。それからぎゅっときつく抱き寄せて耳元で囁く。

も食べる? あ、でも感染るとよくないか」

  傑の吐息が耳にかかって髪の毛が揺れる。それだけでお腹の底がじわりと熱を持った。わたしの答えを待つ間に傑はもう一口、アイスの乗ったスプーンを口に運んだ。その音の艶めかしいこと。わたしはこのひとの前では頷くことしか出来ないのだとつくづく思い知らされる。なんて都合のいい女なんだろう。

「感染ってもいいから、ちょうだい」

 振り向いて小首を傾げて傑の胸元を掴めば、傑は今まで見たことがないくらいに美しく唇で弧を描いて見せた。その先を期待して目を閉じるとまたたく間に口を塞がれる。薄く開いた唇を割って侵入してきた傑の舌に自分のものを絡ませると、バニラがあまりにも濃くてむせ返りそうになった。酸素が足りなくて唇を離そうとしてもそれは許されなくて、後頭部を押さえつけられる。その拍子に傑の手のひらからバニラアイスのカップがこぼれ落ちてシーツを汚し、部屋中が甘ったるい匂いで満たされる。それは、ふたりが理性を手放す瞬間によく似ていた。

「すぐ、る……ゃ、あ…」

 傑はなんにも知らないはずなのにあの夜をなぞるようにわたしのからだに舌を這わせた。秘密を暴かれるような恐怖と罪悪感が残酷にもわたしに火をつける。そうすることで熱は上書きされるのだと知ってしまった。身をよじるわたしの腰を傑が掴むから快楽から逃れられない。なのに瀬戸際で聞いた五条の声がずっとずっと頭から離れない。

「すぐるっ!好き、…すきだよ……」

 かき消すみたいに、縋りつくみたいに傑に好きだ好きだと繰り返しても、傑は、わたしのずるい考えを見透かしているかのように薄く笑ってなにも答えてくれない。それが不安だというのに、あたえられる唇の熱さでぐずぐずになってしまうのだからどうしようもない。
  恋しくてしかたなかった傑を引きこもうと粘膜がうごめく。それにしたがって傑が動くわずかばかりのゆるやかな時間。息を整えるために抱きしめたときに気づいた、傑の筋肉の薄さにはっとする。

「傑、もしかして、痩せた? 何かあった?」
「……きみが、それを言うのか?」

 傑の声は、甘ったるい匂いが立ち込めた部屋にぞっとするほど虚しく響いた。背骨を駆けていくのは何も快楽だけじゃない。ぞくぞくと寒気がして心は冷えていくのに、真芯だけが熱くて吐き気がする。傑はわたしのなかを押しひろげて、覚えたばかりのかたちを再び自分のものにつくり直してゆく。
 あやまちはたった一度きりだというのにわたしの中はかたちを変え、そのわずかな綻びは違和感となる。傑は最中だというのにわたしの首に手を伸ばした。このまま力をこめてほしい。じゃないといつも粗暴な物言いをするあいつの好きだと言う優しく囁くような声が鼓膜にこびりついて離れないの。
 意識を手放すか手放さないか、絶妙な加減で力を込められて、愛しくて愛しくて仕方ない傑の顔がぼやけて見えない。

「なあ、今には誰の顔が見える?」

 傑だよ。傑に決まってる。なのに、どうして五条の苦しそうな声が聞こえるの。
 わたしと傑を繋げていた鎖がじゃらじゃらと音を立ててほどけてゆく。そして、ようやく二人は神さまでもなんでもないということを知る。ただの人間だった。呪術師としてどんなに強くたって、ちゃんと心に血が通っている人間だった。馬鹿なわたしは二人揃って偶像として崇拝していたのだ。



 あれから傑はわたしに何も告げず高専を離れてしまった。そんなわたしは結局今でもしつこく呪術師を続けている。それが二人に対する恩だとか償いだとか、そういった想いもあるのかもしれない。世間一般からは、戒めじゃないかと言われるかもしれない。時間とともに薄れてゆく記憶を無理矢理にでもとどめるためのもの。ただ、正直なところ自分でもよく分からないのだ。
 隣にはいつだって五条がいた。時にわたしが馬鹿なことをしでかさないよう見守るみたいに、どこかへ行ってしまわないよう見張るみたいに、五条はいた。あの時苦しげに吐き出した想いを決して口にはせずに。
 責任とか取らなくていいから。そう言ったことがあった。思い上がるんじゃねえよ、と五条は言った。おまえの下した決断がどう転ぶか見たいだけだ、とも。正反対だなと思わず笑ってしまった。傑の言葉は矢のように緩やかな放物線を描いてすとんと胸に突き刺さったというのに、五条はナイフで抉って優しく撫ぜるのだ。
 それが責任じゃないのかと五条には言えなかった。ぶっきらぼうな言葉で探るように心臓のやわらかなところに触れる五条のやり方にわたしは密やかに恐れ慄いた。五条の言葉はわたしを深淵からすくい上げてしまいそうだった。
 きっと彼には見えているのだと思う。わたしの足元に散らばって、錆びついて、わたしをがんじがらめにする呪い。もう二度と元の持ち主へ戻ることはないのに、わたしをここから逃すこともない。自分の仕掛けた罪だとか罰だとかに囚われるなんて、一体なんて喜劇と名づければいいのだろう。
  手を伸ばせば五条はわたしを迷わず明るい世界へ引き上げてくれる。すべて祓ってわたしが犯したあやまちから何から何までぶっきらぼうに優しく包み込んでくれるのだろう。わたしには、五条がそれを待っているようにしか見えなかった。そうじゃなければ、わたしの隣にいる意味が見当たらない。だけど、わたしは自分の意志で五条の手を取らなかった。
 だって、自分で蒔いた種は自分で咲かせるしかないし、咲かせた花を手向けの花として燃やしてからでも遅くはないでしょう。わたしをかばって死んだ先輩へ、わたし達の元を離れた傑へ、青くていたいけだった恋心へ、どうしようもなく弱かった自分へ花を添えて、ぜんぶぜんぶ燃やし尽くして。それからようやく自分の足で立ったわたしを路地裏で眠る傑の元へ連れていって。



20200116/20200211 加筆修正
20191118