呪文がわたしを束ねている





「花屋さんと牛島くん」の後日談です。



 梅雨明けと同時に突入した夏休みも、受験生のわたしから見ればなんてことはない、いつもの日常の延長線だ。七月末まで続いた課外授業に加えて、塾の夏期講習に明け暮れる日々。
 そんなわたしとは違って牛島くんは、期末試験終了直後から夏のインターハイに向けて猛練習を重ねていた。わたしたち二人の夏休みの予定は未定だし、連絡もほぼない。といっても、夏休みに入る前からデートなんてしたことなくて、本当につき合っているのかさえもあやしい。唯一わたしたちが二人きりで会えるのは、わたしが実家の花屋で店番をしているときだけ。それもお客さんが偶然いないときだけだった。
 ただ、夏休みに入ってわたしも店番に立つことが少なくなった。牛島くんも練習時間が伸びた分、オーバーワークにならないようにロードワークは調整しているようで、かれこれ二週間近く会っていない。だからか、その間行われたインターハイについて『行ってくる』と『帰ってきた』という簡素な彼らしいメッセージが送られてきたときはどうしようもなく嬉しくて少しだけ目蓋が熱くなった。
 蝉の鳴き声が町を覆いつくす中、どこかの縁側でガラスの風鈴がチリンと一つ、涼しげな音を奏でている。陽射しは灼けつくほどにちりちりと肌を刺すのに、時折吹く風にはどことなく夏が衰え始めるような匂いが漂っていて、寂しい気持ちになる。
 学校に着けば生徒たちの部活に励む声が聞こえてくる。暑い中みんな大変だな。全身から吹き出す汗を拭いながらひとまず水分補給。すでにぬるくなってしまったミネラルウォーターでもわたしの体は嬉しかったようで、じんわりとそれを吸収していく。
 そして体育館の方へと向かう。暑さが増してしまう前に、早くあの子たちにも水をあげないといけない。今日は所属している緑化委員の水やり当番の日だった。受験勉強も本番を迎える三年生は当番は任意だったけれど、わたしは色んな理由で立候補してしまったのだ。その中には不純な動機ももちろんある。
 体育館からはボールの跳ねる音が絶え間なく響いてくる。わたしはそれをBGMにしながらホースを引っ張ってきて、すっかりわたしの身長を追い越してしまった黄色い大きな花に水をかけた。細かな水の粒がプリズムのようになって夏の白い光を七色に変化させる。盛りを越えようとしている向日葵は花びらの先端がほんのりかさついていた。どうしたって夏の終わりと一緒に枯れてしまうのに、終わらせたくなくて必死に水をやる。牛島くんのおかげできらきらと輝き始めたわたしの高校生活。その最後の夏を終わらせたくなかったのだ。
 土の色が濃いものに変わって、わたしは日陰に腰を据えた。水やりのあとの匂いは雨が降る前の匂いに似ているとぼんやり思いながら。

ちゃん見ーっけ!」
「あ、天童くん」

 いつの間にかボールの音はやんでいた。どうやら休憩に入ったらしい。天童くんはスクイズボトルに口をつけ喉を鳴らし、わたしの隣にしゃがみ込んだ。

「水やり?」
「うん」
「という名目で若利くんに会いに来たわけだ」
「当たり」

 最初はよく分からない人だと思った天童くんも今は仲良くしてもらってる。こうやって牛島くんがいないときに二人で話すこともよくあることだった。

「暑いのに大変だねぇ」
「それは天童くんもでしょう?」
「まっ!そうなんだけど~明日から三日間はお盆休みなんだよね。明日は若利くん誕生日だから二人でどこか行くの?」
「え……?」

 さっきまで首すじを流れていた汗が一気に引いてしまう心地がした。わたしの周りの空気が冷たい。何も聞いてない、何も言ってくれてない。休みのことも誕生日のことも。
 微動だにせず天童くんの大きな目を見つめ続けるわたしに、天童くんは焦った素振りを見せ始めた。

「あっ、えっと、聞いてなかった?」
「何も知らない……」

 牛島くんは元々自分から自身のことを話すような人ではなかった。それは知っていた。だけど、会えなかった分だけ不安になる。牛島くんはわたしに会いたいわけではないのだ、会いたいのはわたしだけなんだ、と。
 つんとした刺激が鼻にくる。じんじんとし始めた目蓋を抑えると天童くんはバツが悪そうに向日葵の方へ顔を向けた。

ちゃんは寂しかったんだ?」
「そう、みたい……」

 ずっと牛島くんの邪魔をしちゃいけないと思って内に秘めていた感情が天童くんの言葉で露わになる。そうか、わたし、ずっと寂しかったんだ。

、天童、何をしている」

 聞きたかった低い声が突然響いたことに驚き、目の縁を覆っていた水分は引っ込んでしまう。会えて嬉しい。けれど、牛島くんはいつもとは違うピリリとしたオーラを身に纏っていた。その圧に気圧されて思わず立ち上がると、視線が絡まって解けなくなる。

「あの……水やりに来てて、」
「もう終わったんだろう?用がないなら帰れ」

 ちらりと向日葵に目を向けた牛島くんは、大きな葉からポタリと雫が垂れるのを見て、わたしの仕事は終わっていると判断したらしい。でも、わたしは水やりだけをしに来たわけじゃない。なのに、それをこの人に言うことは許されない。

「若利くん、なにもそんな言い方しなくたって」
「いいの、天童くん。ありがとう。わたし帰るね」

 フォローしてくれようとした天童くんはわたしの力ない笑顔を見て、わたしにしか聞こえない声で「でも」と呟いた。それには軽く首を振って答える。
 泣くものか。引っ込んでいた涙が再び目の表面を覆い始めたけれど、牛島くんの隣を通り過ぎるまでは堪えてやる。
 そう決意して歩み始めたのに、通り過ぎる瞬間に力強く腕を掴まれてしまえば、その衝撃で表面張力が負けてしまう。

「なぜ泣いている?天童に何かされたのか」
「……何かしたのは牛島くんだよ」

 それに何もしてくれないのも牛島くん。
 わたしの答えに怯んだのか一瞬だけ掴まれていた手が緩んだ。その隙に、わたしは逃げるように走り出す。校門を出る頃には汗と涙が混ざってぐちゃぐちゃだろう。それでもいい。終わりを突きつけられるよりもずっといい。



 ぱらぱらとめくっていた単語帳に栞を挟み、外を眺める。彼とつき合い始めたときにはまだ淡かった野山の緑色はますます濃くなり、澄んだ青空にくっきりとその輪郭を映し出している。すぐ側にはもくもくと育ち続ける夏の雲があって季節が進んだことを実感するのに、わたしたちの関係はあれからピタリと止まっている。
 今日は久々に店に立つことにした。周りのお店はお盆休みのところが多いけれど、うちは『仏花を買いたい人がいるだろうから』という理由で休みをずらすことにしたらしい。塾もお盆休みなので、わたしは暇を持て余している。本来なら受験勉強しなくちゃいけないんだろうけど、息抜きがしたかった。昨日あんなことがあったばかりだったから。
 悪いのは牛島くんだけじゃない。自分の気持ちを見て見ぬ振りしてきたわたしも悪いのだ。もう、遅いのかもしれない。昨日の牛島くん、とても怖かった。愛想を尽かしたみたいな態度だった。
 三日間しかない休みで彼は実家にでも帰っているのだろうか。家族の方を優先して当然なのに、わたしはまだここに彼が現れるのではないかと期待してしまっている。単語帳を開いて目に入るのは、あの日にもらったアネモネの花びら。とても嬉しかったからどうにか残したくて、押し花にして栞を作ったのだ。
 あんなに鮮やかだった赤色は、今では少し色褪せてしまっているけれど、好きだと言ってくれたときの力強い眼差しは鮮明に覚えている。だけど、その言葉はそれ以来耳にしていない。



 栞を撫でていると幻聴が聞こえてくる。わたしの耳は都合がいい。聞きたいと思った声が聞こえてくるのだから。わたしは彼の、程よく低くて落ち着いた声が好きだった。

、勉強しているのか?」
「は?えっ……え!?」

 幻聴にしてはやけにハッキリと聞こえてくる。慌てて顔を上げると、私服に身を包んだ牛島くんが立っていて、驚いて単語帳が手からすべり落ちた。それを慌てて拾って牛島くんに向き直る。この格好、ロードワークでは無さそうだ。時間帯も、ロードワークにしてはまだ暑すぎる時間だし。

「どうしたの?」
「すまない」

 どうして謝るのだろうか。昨日のことを詫びているのか、それともただのクラスメイトに戻ろうとのことなのかわたしには分からない。何が、と聞きたいのに怖くて声がうまく出せない。喉がカラカラだ。

「急にに会いたくなった」
「え?どういう意味……?」
「そのままの意味だが」

 二人で首を傾げ、頭に疑問符を浮かべている。お互いにどう切り出せばいいのか考えているためか少し沈黙が続く。重たい空気が全身に乗しかかっているようで身動きしづらい。

「昨日はすまなかった。冷たい言い方をしてしまった」
「あ、ううん。大丈夫」
「天童が、は俺に会いに来たのだと言っていた」
「え!まぁ……そうなんだけど」

 昨日の刺すような雰囲気はもうない。口を開いた牛島くんは、ゆったりと落ち着いて言葉を発している。それに感化されてかわたしの気持ちも穏やかになっていく。
 天童くん、言っちゃったのか。牛島くんの口から言われてしまうと恥ずかしさが込み上げてくるが、当の本人が淡々と喋るので照れてるわたしが馬鹿らしい。

と天童が喋っているのを見たとき、怒りのような感情が湧いてきた。それを我慢できずにぶつけてしまったんだ」
「怒り……?わたしたちを見て?」

 牛島くんは眉間にしわを寄せ、腕を組んで頷いた。怒りというにはしっくり来ないようで、数学の難問を解いているときみたいに唸っている。

「ねえ、それってわたしと天童くんに二人で話してほしくないって思ったの?」
「そうだ」

 拍子抜けだ。心配して損した気分になる。バレーボールの世界では有名な牛島くんも、恋愛のことになると疎いのか。それはわたしにとって都合がよくて嬉しいと思ってしまう感情なのに。その感情が何なのか悩んでうなり続ける彼がかわいくて、頬が緩むのをとめられない。

「なぜ笑う」
「嬉しいからだよ」
「嬉しい?」
「牛島くん知ってる?それってヤキモチって言うんだよ?」

 ぴたりと動きを止めた牛島くんは微かに「やきもち……」と呟いた。顎に手を当て何かを考えた後、納得したように顔を上げた牛島くんはわたしをまっすぐに見つめた。

「つまり俺はそれほどのことが好きだということだな」

 この人の言葉はとても重みがある。普段愛情表現があまりないからか、いざ、こういう事態に陥ってしまうとわたしはもう動くことなんて出来ないし、息をすることすら忘れてしまう。彼の眼差しには、わたしの時間を止める魔法の力があるみたい。

「今はなぜ泣いているんだ?」
「どうしてだろうね。わたし、振られると思ってたから気が抜けちゃったのかも」

 知らないうちに頬を濡らしていた涙を牛島くんの男の子らしい手が掬ってくれる。初めて触れられて、その指が胸を優しくこじ開けるように、秘めていた気持ちがあふれ出る。

「振られる?どうして?」
「全然会ってなかったから不安になってたみたい。寂しかったんだよ、ずっと」

 わたしの頬に添えられた彼の大きな手のひらを、両手で包み込んですり寄せる。それには牛島くんも驚いたようでちょっぴり肩が跳ね上がった。

「来るなら連絡してくれたらよかったのに」
「連絡したが返事がなかった」

 ポケットから携帯を取り出してみれば、メッセージが二件きていた。二つとも牛島くんで『行ってもいいか?』『今から向かう』とあまり時間をあけずに届いていた。わたしに会うのがそんなにも待ちきれなかったというのか。この大男が。なんていとおしいんだろう。

「ごめん、気づかなかった」
「いや、大丈夫だ。それより、」
「うえっ!?」

 携帯を見るために俯き加減になったわたしの顔を牛島くんが両手で挟み込み、無理矢理上を向かされる。唇が突き出たせいで変な声が出てしまった。だけど恥ずかしいと思うよりも先に、網膜が焼けてしまうのではないかと思うほどの熱を帯びた視線に堪えられず、目の縁に水分が滲み出す。

「誕生日プレゼントは何でも好きなものが貰えると聞いた」

 誰に。そんなの聞かなくても分かる。
 優しい手つきで下まぶたをなぞられ、水滴をぬぐわれてしまえば、その気持ちよさに自然と目が閉じてしまう。
 少しだけ息を吸う音がした。わたしはただ、そのまま目も開けずに息を止めるだけ。カウントダウンが始まる。牛島くんの唇がわたしの唇に重なるまで、あと三秒。





若利くん HAPPY BIRTHDAY !! 大遅刻!!ごめんね!