学園祭まであと5日

 目覚ましが鳴ってもなかなか体を起こすことができない。何度目のスヌーズだろうか。それもこれも昨日川西くんがおかしなことを言うからなかなか寝つけなかったのが原因だ。でももしかしたら夢だったのかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、のそのそと布団から出て顔を洗いに行く。そうやっていつものルーチンをこなしていくと朝の時間が一分一秒でも惜しいのは相変わらずで、昨日のことを考える間もなく告白なんてなかったような気がしてきた。
 道行く景色だって変わらない。自分と同じ学生が慌ただしく自転車をこいでいたり、サラリーマンやOLさんたちが時計を見ながら足早に通り過ぎていく。何も変わらないのだ。ただ違うのは、いつもはもっと早く学校に着いてるのに今日はチャイムがなる5分前に到着したことだ。
 遅刻ギリギリのメンバーに紛れて少し駆け足で教室に向かっていると、廊下の向こう側から朝練を終えたであろうバレー部が歩いてきていた。その中にはもちろん川西くんもいて、折角昨日のことなんて忘れていたのにまた思い出して、足を動かすのがゆっくりになってしまう。だってこのままじゃ教室に入るタイミングが一緒になっちゃうじゃない。心臓だって飛び出そうだし、まともに顔なんて見れやしない。廊下の真ん中で立ち止まってしまい、急いでいる友人からは「邪魔!」と言われ「うるさいな」と返しながら、わたしだって早く教室に入りたいよと心の中で叫ぶ。そんなわたしに気づいた川西くんはにやりと不敵に笑い、わたしが入ろうと思っていた扉の前に立った。

、早く入らないとチャイム鳴るよ」
「……分かってるよ」

 川西くんはいつもどおりだ。平然としている。でも扉の前から退いてくれない。段々と廊下を走る生徒も少なくなってきているので、もう間もなくチャイムが鳴るのだろうと予測できる。ぐっとスクールバッグを握る手に力を込めて、意を決して扉に近づくと今度はにこりと笑われた。いつも気怠げな彼のあまり見ない爽やかな笑顔が何か企んでいるように見えるのはわたしの気のせいだろうか。

「おはよ」
「……おはよ」

 わたしのつむじに声が降ってくる。顔を見ないように俯くわたしの耳元に川西くんは腰を屈めて口を寄せた。

「あまり寝れなかっただろ?」

 図星を突かれてかぁっと顔が熱くなる。誰のせいだと思ってるの。彼はそんなわたしに満足して「が遅刻ギリギリなのも珍しいもんな」と言いながら自分の席に歩いていった。チャイムと同時に担任の先生が教室に入ってきたので、朝から人のペースを乱す彼の背中を睨みつけながらわたしも自分の席に着いた。
 わたしの席は廊下側の後ろから2番目なので教室中が見渡せた。川西くんの席は真ん中の前から3番目で、彼の後ろの席の子が川西くんが大きすぎるせいで板書が見えなくて左右に揺れているのが気の毒だと思う。
 どうやら川西くんは今日日直のようで、休み時間に黒板を消していた。一緒に当番に当たっている女の子が届かないところを率先して消していて優しいところもあるんだなとまた一つ川西くんのことを知ってしまった。何だかこんなに川西くんのことを観察するのも初めてで、これも彼の手の内なのかと思うと少し悔しくなる。けれど、朝のあの一件以来特に何も接触がないまま昼休みを迎えたのでほっと胸を撫で下ろした。

、食堂行くでしょー?」
「うん、行くー!」

 お財布を取り出して少し駆け足で友人と食堂へ向かう。早く行かないと席がなくなってしまう。
 食堂に着くと、まだそんなに混んでいなくて券売機にも長い行列は出来ていなかった。何となくカレーが食べたい気分だったので食券を買ってカレーの列に並ぶ。友人はうどんの列に並んでいた。ふたりがほぼ同時に料理を受け取るとどこに座るか相談しながらぐるりと見渡す。するといつもなら人気で座りにくい窓際の席が空いていたのでラッキーと思いながらそこに座ることにした。
 向かい合ってとりとめもない話をしながらご飯を食べる。外は快晴でとても気持ちがいい。こんな日は学校にいるのが勿体無いなあと思いつつ、川西くんのことを友人に打ち明けようか悩んでいるとふと自分に影がさすのを感じた。不穏な影だ。嫌な予感しかしない。

「おふたりさん、お隣よろしいですかー?」

 何となく棒読みなかんじの声の主は予想通り川西くんで、隣でしかめっ面で立っているのは隣のクラスの白布くんだった。わたしは変な顔でもしていたのだろうか。川西くんはぷっと小さく吹き出してわたしの隣に腰を下ろした。まだ告白の返事もしてないし、他の席も空いているのに、わざわざここに座るなんて一体何を企んでいるのだろう。友人も隣に関わりのない白布くんが座るものだから困惑の表情を浮かべている。
 声も出さずに呆気にとられ、その光景をぼうっと眺めているわたしに気づき、この空気をどうにかしようと頑張ってくれたのはわたしの友人だった。白布くんはあたかも3人とは無関係のような素振りで「いただきます」と丁寧に手を合わせご飯を食べ始めていた。

「え、何?川西。何でわざわざここに座るの?」
「だって俺、に猛アタック中だし?」

 白布くんは食べていたしらす丼をぶっと噴いて、「は?」とわたしの友人と声を揃えた。いつもクールな感じの白布くんもこんなふうに驚くこともあるんだなあと思っているわたしの隣で川西くんは「賢二郎きったねー」とマイペースに笑っている。

「聞いてない!」

 またしてもふたりの声が揃う。
 違うの、わたしは今から言おうかなと思っていたところだったの。
 こちらをじとりと睨みつける友人に口パクで「ごめん」と伝えると、軽く天を仰いでいた。

「そうだ、賢二郎。俺今年はお前とは踊れないわー。と踊るから」

 川西くんのその一言が白布くんの眉間にしわをまた一つ刻んだ。
 でも、ちょっと待って!まだそうと決まったわけじゃないでしょ!?
 友人に至っては目をまんまると開いている。焦って川西くんの方を向いて抗議の声をあげようとしたけれど、大きな無骨な手で口を抑えられ発したかった言葉は喉の奥に流れていった。

「えー?ー!それも聞いてないよー!わたし他の子探さないといけないじゃん」
「ま、まだ……むぐっ」

 言葉を遮るように「カレー残ってる」と言いながら川西くんはわたしが食べていたカレーを口の中に押し込んできた。いわゆるあーんってやつだ。そんな甘い雰囲気じゃないけれど認識してしまうと恥ずかしさから体が熱くなってくる。それももうカレーの辛さのせいにしてしまいたい。

「俺は別におまえとなんか踊りたくもないから丁度いい」
「賢二郎冷たーい。去年はあんなに楽しんでたのに」
「あれは!おまえと天童さんが無理やり引っ張っていったんだろ!」

 口の中のカレーをゆっくり咀嚼しながら川西くんと白布くんの話を聞いていると、むしろ去年みたく二人が一緒に踊ればいいのにと思う。ふと目の前の友人を見るとちゅるりと最後の麺をすすったところだったので、わたしも置いていかれないように急いで残りのカレーをかき込んだ。できるだけ早くこの場を立ち去りたい。

「私たち行くね」

 川西くんのせいであまり味のしなかったカレーを水で胃の中に流し込む。わたしが席を立つと友人も合わせて椅子を引いて立ち上がった。川西くんは「おー」と言いながら片手を上げ、白布くんは相変わらずしかめっ面のままだ。逃げるようにその場を離れ、食べ終わったトレーを返却口に返すと友人はわたしの腕をぐっと掴んでにやりと笑い「詳しく」と言った。
 そうですよね、そうなりますよね。
 そして昨日あった出来事を話すと、「まあ成るように成るってかんじだね」と完全に他人事だ。「わたしもその辺に恋落ちてないかな」と言う彼女に、急に落ちてきたら困るだけだと伝えてもきっと贅沢だと叱られるだけだろうから、何とか苦笑いを返しておく。
 ああ、なんということだ。貴重な昼休みも結局こうやって彼のことを考えているうちにあっという間に終わってしまった。
 午後からの授業はお腹がいっぱいになって睡魔との戦いだった。うつらうつらしながらも目に入るのは川西くんで、でもそれは、板書しようとすれば自然と視界に飛び込んでくる景色なので仕方がない。でも、やっぱり告白される前はそんなに気にならなかったかな。そう思うとわたしは川西くんのことをすでに意識してしまっているのだろうか。
 彼は頬杖をついた状態で前後に揺れているのでおそらく寝ているのだろう。大きな体が船を漕いでいるのを見ると口元が緩み心があったかい気持ちになったような気がした。何だかかわいいところもあるんだね、なんて母性にも似た気持ちを抱きながら黒板の文字をノートにつらつら写してゆく。
 放課後になれば机を隅に追いやって、ハリボテを教室の真ん中に移動させ、それから作業する。その移動は男の子たちがやってくれていたので、わたしは新聞紙を抱えて運んでいた。すると川西くんが近づいてきて、申し訳なさそうに眉尻を下げながら口を開いた。

「悪いけど、今日も部活に行かせてもらうな」
「うん、大丈夫だよ。頑張ってね!」

 今日一番自然に話せたような気がする。それはもうすぐ「今日」という日が終わる安心感からなのかもしれない。
 こっそり一息ついていると優しく笑った川西くんが「じゃあ」と言って、大きな手のひらでわたしの頭を優しく撫でたので思わず身をこわばらせる。
 油断した。油断してしまったからなのだ。こんなに心臓がうるさくどきどきしているのは。