学園祭まであと4日

 雀の鳴き声が近くから聞こえる。ベランダの手すりにでも留まっているのだろうか。うっすら目を開けて時計を確認すると時計の針はいつも起きる時間よりも1時間も早い時刻を指していた。もう一回寝ようかなと目を閉じて体の向きを変えてみるも、今日の時間割とか余計なことを考えてしまい頭は冴えていく一方だ。おそらく昨日寝不足だったから早く寝てしまったことが原因だろう。どうやら二度寝は無理そうなので仕方なく起きることにする。
 ある程度準備を済ませてリビングに向かうと朝は会うことのない父親もまだ出勤しておらず、両親ともども驚いた顔をしていた。こんな早くに珍しいね、という言葉を適当に受け流しながら朝のニュースを見ていても、流れるニュースは高校生のわたしには何も関係ないことばかりで、することがないので学校に向かうことにした。
 秋の空は朝からきりっと澄み渡っていて、とても高い。少し向こうの方に秋の空の代名詞でもあるいわし雲が浮かんでいて、低いところにある太陽の光はまだ淡くほんの少し赤みを帯びている。いつもそれなりに急いでいるために朝は空を見上げる余裕なんてなかったので、たまには早起きもいいもんだなと思う。
 学校に着いてもちらほら生徒はいるもののまだ校内は静かで、自分の靴と床の擦れる音がキュと響き渡る。スクールバッグを机にドサリと置いて、中身を机にしまいながら今日の時間割をもう一度思い出してみる。けど、課題もやってるし、予習もやってるし、今から何をして時間を潰そうかと悩みながら頬杖をついた。そしてふとハリボテを見上げてみる。教室の隅に置かれていても、その大きさ故に自然と視界に入ってくるそれは、見るたびに川西くんが告白してくれたときを思い出してしまい、わたしの鼓動は乱れてしまっていた。
 思えばわたしは彼のことはあまり知らなかった。クラスメイト以外の何者でもなかったのだから。わたしと関わりがあったかといえばそうでもなく、どうしてわたしのことを好きになってくれたのかなんて心当たりがなかった。一応誠意を持って告白してくれたし、返事は学園祭までの猶予期間を与えられているので、もう少し彼のことを真剣に考えてみてその気持ちに応えようかな、と体育館に足を向けてみる。まだバレー部は朝練をしているはずだ。
 体育館に近づくとボールの弾む音と掛け声が聞こえてくる。風を通すためか足下の窓と体育館の扉は少し開けられている。
 中学のとき、ボールが顔面に当たってからはボールが怖いので扉からは覗く気にならない。だからしゃがみ込んで足下の窓から見てみようと思う。不審者みたいだけど仕方がないし、少し見えにくいけど川西くんにもバレたくないのでちょうどいい。
 スカートの裾を足に巻き込むようにして汚れないように気をつけてしゃがみ、中を覗き込めばミニゲームをやっているようだった。
 たくさんの部員がいる中でも、どうしてだか川西くんが一番にわたしの視界に飛び込んでくる。その理由なんて今のわたしにははっきりとは説明できない。ただ、いつもの気怠い雰囲気とは違った真剣な顔に圧倒されてしまっただけなのかなとぼんやり思う。だって、あんな顔、見たことないから。ボールを追う鋭い目、うまくブロックを決めたときのしてやったりの顔、サーブミスをしたときの悔しそうな顔、バレーをしているときと教室での表情が全然違っていて思わず見入ってしまった。
 ピーっと笛が鳴ると同時に休憩に入ったようだ。部員たちが水分補給をしたり、汗を拭いたりしながら床に座り込み始める。わたしに悲劇が起こったのは、目の前に誰かの長い手が伸びてきてタオルを掴んだので、そろそろ教室に戻ろうと立ち上がろうとした瞬間だった。その手の持ち主はごろんと寝そべり「涼しー」と言いながら、あろうことかわたしのいる窓の方に顔を向けたのだ。これは、やばい。たらたらと冷や汗が流れ出る。

「あらら?」

 目をそらして立ち上がろうと思ったのに、その人物は寝そべったまま顔を近づけてきたのだ。

「どーしたの?そんなところから見て。中に入った方が見やすいよ」
「え、いや、そんな、大した用事じゃなくて」

 焦ってしどろもどろになってしまうわたしに、その人はにこにことお構いなしに話を続けようとした。そこへ今一番会いたくない人の声が目の前の人に向かって投げかけられたので、かっちーんと音がしそうな勢いで全身が固まり身構えてしまった。

「天童さん、さっきのブロックなんすけど……って何してんすか」
「こんなとこから女の子が覗き見してるからちょっとお話してたんだよ」
「へぇー」

 そう言ってしゃがみ込んでこちらを見るその人は恐れていたとおり川西くんで、普段は切れ長な目をまんまると見開いて驚いた顔をしていた。逃げなきゃと思いながらも、この顔も初めて見るなあ、なんて呑気に考えてるわたしは、もうすでに頭がおかしくなってしまっていたのかもしれない。

「え、……?」
「太一知り合い?」
「あ、はい。クラスメイトで」

 この状況をどうしたものかと考えているわたしが声を出さない間に川西くんが説明してくれたけど、何だか意外だった。昨日の白布くんとわたしの友人の前ではあんなに堂々と猛アタック中だと言ったのに、この先輩の前ではただのクラスメイト扱いなのか。もやもやと霧がかかった得体の知れない自分の中の気持ちが不快になり、この場から今すぐに立ち去りたくなった。

「あ、わたし、そろそろ行くね!」

 そそくさと立ち上がり歩き始めたわたしに先輩が「もう行っちゃうの!?」と叫んでいたが、それを無視して教室へ向かった。だいぶ生徒たちも登校してきていたので体育館から戻るわたしもその波に乗ることができ何も不自然ではなかったはずだ。ただ、不自然なのはわたしの心臓だけだ。一体何が原因でこんなに脈が乱れているのだろう。心当たりが多すぎて分からない。川西くんはあのあとつっこまれたりしたのだろうか。
 自分の教室に入って席につき、頭を抱えるように机に伏せた。もう余計なことはしないでいよう。今日は、今日こそは無事に一日が終わりますようにと願いながら。そうでもしないと自分自身も知らない自分が出てきそうで怖かった。





 朝の願いが通じたおかげか何事もなく放課後を迎えようとしていた。今朝のことを川西くんに問い詰められると思っていたけれど、休み時間も目が合うことなく、お昼も食堂で警戒していたが姿さえ見なかった。自分が願ったくせに何だか少し拍子抜けだった。
 帰りのHRが終わり、いつもどおり男の子たちがハリボテを教室の真ん中に持ってくると、みんな新聞紙を敷いたり、塗料の準備をしたりと集まってくる。
 色をつけるようになってからは制服が汚れないように、体操服や各自持参したTシャツとハーフパンツに着替える人が大多数だった。わたしも着替えに行くつもりで席を立つ。すると、それと同時に後ろからポンと肩を叩かれたので、誰だろうと振り向けばにこにこと昨日の朝のような笑みを携えた川西くんが立っていた。どうせいつもどおり「部活行くから」と言われるのだろうと思っていたのに、その笑顔は明らかに何か企んでいる顔だったので心がざわざわと落ち着かなかった。

、塗料なくなりそうだって。あとダンボールももう少し必要らしい」
「そ、そうなの?じゃあ買いに行ってくるね!」

 こういった買い物や経費の管理もこの係の仕事の一つだった。いつも川西くんは部活でいないので、前回わたしは友人の助けを借りて色々用意をした。不公平だな、とほんの少し思っていたけど、今朝の川西くんを見てしまうとしょうがないかと納得してしまうのが不思議だ。そんなことを考えながら川西くんの「頼むわ」という言葉を待っていたのに、彼が発したのは期待していた一言とは逆の言葉だった。

「一緒に買いに行こ?」
「えっ!?部活は?」
「今日は遅れていっても大丈夫な日」

 妙ににこにこしていた理由はこれだったのか。動揺を隠しきれないわたしの腕を掴んで、彼は教室に残っているクラスメイトに買い物に行く旨を伝え、半ば引きずるような形でわたしを校内から連れ出した。そのときに友人に助けを請うように視線を遣ったが、ニヤニヤしているだけで何もしてくれなかったことを恨めしく思った。

「チャリで行った方が早いし、荷物も載せれるから寮に取りにいってくる」

 ここで待ってて、と言い、川西くんは掴んでいた腕を離して寮の方へ駆けていった。掴まれていた腕がじんじんと熱いような気がするし、そこに心臓があるんじゃないかと思うくらいにドクンドクンと脈打っている。川西くんが戻ってくるまでに何とか平常心を取り戻そうと無駄に屈伸をしたり腕を回したりしていると、後ろからぷっと噴き出す音が聞こえた。ああ、なんてタイミングだ。そんなすぐに戻ってくるとは思わなかったものだから言い訳は用意できていない。

「何?その準備体操。今から走るつもり?」
「や、あの、これは、別に」

 わたわたと手を振るわたしを彼は含み笑いをしながらニヤニヤと見ている。結局平常心になんて戻れるはずがなかったのだ。

「じゃあ後ろ乗って?」
「え、でも……ダメじゃない?」

 川西くんは荷台を指していたけど、わたしは戸惑っていた。すると彼は挑戦的に笑いながら「は真面目だからな」と言ったので、馬鹿にされているような気がしてむっとし、その勢いにまかせて荷台に跨った。

「そんなことないし!」
「ふーん。でも、そんなとこも好きなんだけど」

 恥ずかしげもなくそんなことを言いながら彼は自転車をこぎ始めた。わたしの顔はきっと赤い。でもそんなわたしに追い打ちをかけるように、彼はどこを持とうか悩んで空を彷徨っているわたしの左手を器用に掴んで、自分の腰の辺りの服を掴ませた。

「ここ、持ってて」

 恥ずかしすぎて顔から湯気が出そうだった。自転車がスピードを増していくとほんのりと冬の匂いがする冷たい風が頬を撫でる。わたしにはそれがせめてもの救いだった。冬なんてまだまだ先だと思っていたけれど、これならお店に着くまでに熱を冷ますことができると思いながら、川西くんの制服の裾をぎゅっと握りしめた。
 お店に着くと塗料を購入してから、店員さんにいらないダンボールをもらえないか交渉した。川西くんはそういった交渉がとても上手だった。わたしに対してぐいぐいと積極的なのに嫌味がないのも納得できる。きっと話をするのがうまく、相手の心にすべりこむ能力に長けているのだと思う。
 荷物は全部川西くんが自転車に運んでくれて、昨日の日直のときに目撃した優しさが自分に向けられていることが少しくすぐったい。
 ダンボールをカゴに固定して塗料はわたしが後ろで持つことになり、また二人乗りをしながら学校に戻る。荷物を抱えているために、今度はわたしの手は手持ち無沙汰になることはない。これで行きのように手を掴まれることはないだろうと、ほっと胸を撫で下ろした。
 見上げれば空は真っ赤に染まっていた。それは刻一刻と濃さを増していく。一筋の飛行機雲が北から南に伸びていて、それが昼と夜を分断しているようにも思えた。夕焼けに目を奪われていると、ふと川西くんが軽く後ろに振り返ったのが視界にうつり、視線を前方に戻す。

、何で今日朝練見に来てたの?」
「え?」

 唐突に質問されたので少し驚いたけれど、その答えは今日ずっとシュミレーションしていたのでいつもより気持ちに余裕を持って答えられる。

「川西くんのこと、もっとちゃんと知りたいと思って」
「ふーん。そっか」

 いつもの川西くんの感じだと「俺、カッコよかっただろ」とか自信満々な答えが返ってくると思っていたのに、短い返事それきりで黙ってしまった。少し不安になって軽く前を覗き込んでみてもどんな顔をしてるのか確認できない。ただ、彼の耳が夕焼けでは誤魔化せないくらい赤くて、それを見たわたしは満足して思わず頬の筋肉を緩めてしまった。だって、わたしばっかり翻弄されていてずっと悔しかったのだから。
 学校に戻り自転車から降りた川西くんは人差し指を立て唇に近づけると「二人乗りしたことは俺たちだけの秘密な」と照れたように笑った。そしてすぐにわたしに背を向け歩き出したのでそれについて教室に向かう。きっと女の子なら誰でも二人の秘密だと言われるとワクワクドキドキするものだと思う。わたしだって例外じゃない。そんな高揚感と川西くんの制服につけてしまったシワと燃えるような夕焼けを全部絵画にして閉じ込めてしまいたい、なんて思ってしまったわたしはもう既に彼の手のひらの上なのかもしれない。