学園祭まであと3日

 ピピピピというアラームの電子音で緩やかに眠りから覚めていく。今日の目覚めはなかなか良い。目覚ましは起きなければならない時間の10分前にセットしているので、次に鳴るまで布団の温もりを堪能することにした。ごそごそ寝返りを打ちながら、リビングから聞こえてくるキャスターの声に耳をすませる。今日の占いは11位か……。折角快適に目覚めたのに、体がズシリと重くなる。けれど、12位じゃないだけマシだと思っておこう。
 だって、やっと。あの日からやっといつも通りの朝を迎えられたのだ。彼のアプローチに自分の心もようやく慣れてきたのだろうか。
 2回目のアラームが鳴り始めたので、快適な寝床を崩しながら起き上がり、身支度を始める。脳裏には昨日の川西くんが鮮明に残っていて、どうやらぼやけそうにもない。わたしにぐいぐいと積極的な彼もあんなふうに照れることがあるんだと思うと胸が甘やかに締めつけられた。
 川西くんのアプローチに慣れたから?ううん、違う、慣れているわけじゃない。彼に乱される脈が、この甘いドキドキが心地いいんだ。それでも、彼の思い通りにさせたくない自分が必死の抵抗を続けている。例えるなら、ドンドンと扉が叩かれ、開かないそれを無理やりこじ開けようとドアノブがガチャガチャ動いているのを一生懸命体を張って押さえつけている状態なのだ。きっと気を抜けばするりと心に忍び込まれてしまうギリギリのラインにわたしは立っている。



 いつも通りに学校に着き荷物の整理をしながら、昨日見たバレーをしている川西くんを思い浮かべていた。普段見ることのない熱く真剣な顔をした彼はお世辞抜きに格好よかった。そんなことを思ってしまうのは教室で見る彼とのギャップが何となく癖になるからだ。まだ好きじゃない。好きじゃないんだ。
 だけど、また見たい。だけど、赤髪の先輩に突っ込まれたりしたらどうしよう。だけど、また見たい。だけど、川西くんにバレたら恥ずかしい。ぐるぐる考えてしまい、自分の気持ちに素直になって練習を見に行くなんてことはできやしない。
 軽く息を吸ってふぅっと吐き出す。胸に溜まったもどかしい想いが一緒に出ていくわけではないけれど、呼吸って不思議なもので意識して繰り返していけば段々と落ち着いてくるものなのだ。息の仕方さえ忘れなければ、彼の前でも平常心を保てるはず。わたしはその練習をするように何回か軽い深呼吸を繰り返した。
 バタバタと遅刻ギリギリのクラスメイト達が教室内に入ってくると同時に朝練を終えたであろう川西くんも現れる。でも、ほら。呼吸の練習をしたおかげでいつものわたしを保てている。
 程なくしてチャイムが鳴ると、担任の先生が入ってきて朝のSHRが始まった。席順のせいで自然に目に入る彼の広い背中。やっぱり男の子なんだと意識せずにはいられない。昨日つけてしまった制服のシワはキレイに直っただろうか。それは色んな障害物に邪魔されて確認することはできないけど、少しでも残っていればいいのに、と所有欲みたいなものを感じた。まだ好きじゃない。まだ好きじゃないと思っているけど、わたしって欲張りなのかな。その制服のシワがわたしのことを好きだという証拠のような気がするのだ。

ー」

 先生の一言でハッとする。いつの間にかSHRは終わっていたらしい。机が並ぶ隙間をぬって教卓へ向かっていると途中川西くんの席の横を通るので、顔を向けられているのが分かった。でもわたしは先生に呼ばれているのでそちらは見ないようにする。

「昨日言ってた経費の途中報告どうなった?」
「昨日……」

 しまった。完全に忘れてた。何だか胸がいっぱいでふわふわしていて昨日先生に言われていたことがすっかり頭から抜け落ちていた。

「すみません、忘れてました……」
「珍しいな、が忘れるのも」

 言い訳をしたって無駄だし、理由も理由なので正直に謝る。そしたら、ガタリと音を立てながら川西くんが席を立ちこちらへ近づいてきたけれど、その表情からは何を考えているのか読み取ることができない。

「先生、俺も一緒に係やってるんですけど、俺には何も言ってなかったですよ」
「ん?お前はなぁ、に頼ってばかりであんまり仕事してないだろ」

 その言葉を聞いた川西くんは「うっ」と言葉に詰まった後「それはそうなんすけどね……」とバツが悪そうに頭を掻いた。助けてくれたのだろうか。チラリと彼を見上げるとわたしの視線に気づいたようで、目が細められふわりと微笑んだ。その表情を見た途端に胸が熱を持ち始めたので、さっき練習した息の仕方を思い出しながら呼吸を繰り返す。

「俺も手伝うんで、明日でもいいすか」
「ん?おー。そうだな、お前もたまには手伝ってやれ」

 先生は出席簿を閉じ、それで軽く川西くんの頭をポンと叩き教室から出ていった。先生よりも背の高い川西くんが子ども扱いされているのは何だか違和感があったけど、何となくかわいくて口元が緩む。今、わたしもきっと、さっきの川西くんのような表情で笑っているのだろう。
 助けてくれて嬉しかったのでそのまま笑顔で見上げながら制服の裾をちょいちょい引っ張ると、川西くんは先生に向けていた視線をわたしに向けた。視線が交差すればその場が温かくなって体の温度が1℃上昇したような錯覚がおきた。

「ありがとう」

 そうお礼を伝えれば、彼は片手で口元を覆いながら「いや、いいけど」と言いわたしから顔を背けた。ぞんざいな言い方だったけど、わたしにはそれが照れ隠しだということが分かった。だって、また、耳が赤い。きっと彼は、こちらが強気に出ることに慣れていない。だからわたしは調子に乗ってしまう。今までの仕返しをするかのように、からかいたくなってしまう。

「ねえ、何でそっち向くの?」

 川西くんのシャツを引っ張りながら顔を覗き込めば、両肩を掴まれ体を離された。彼の手がブラウス越しにもベスト越しにも熱くてびっくりして固まっていると、「その顔は反則だから!」と言われてしまい思わず赤面した。何だかこみ上げてくるものがあって、目に水分が増す。じぃっとわたしを見つめる川西くんの目から視線をそらせないでいると、ゴホンゴホンと咳払いが聞こえ我に返る。それは彼も同じだったようで、わたしの肩から彼の手が離れ、一緒に咳払いの方へ顔を向けると、事情を知っているわたしの友人が困った顔をして1限目の準備をしていた。

「あんた達ね、ここ、教室!分かってる?」

 彼女の席は教卓の真ん前だった。慌てて川西くんと距離を取って周りを見渡す。皆自分があてられるかもしれない部分を予習していて、どうやら彼女以外にはこの状況を気にしていないようだった。1限目が容赦なく和訳をあててくる先生の授業で良かったと感謝したのは今日が初めてかもしれない。
 ごめん、と言いながら自分の席に戻り教科書をパラパラめくる。体の温度は上昇したままなのか頭がぼうっとして、英文が頭に入ってこなかった。
 しかし、予習していたおかげであてられても答えることができ、なんとか1限目を乗り切ることができたので、占いで11位だったことはすっかり忘れてしまっていた。だから、次に自分の身に起こることの心の準備が全くできていなかったのだ。





 今日最後の授業は体育だった。どうせこのままハリボテを作るのだからと皆制服には着替えない。体操服のままだったり、Tシャツやハーフパンツに着替えていた。それは男子たちも同じで、帰りのHRが皆制服じゃないのは少し異様な光景だった。
 いざ、作業を始めようとクラスメイトたちが準備に取りかかっている横で、わたしは経費のまとめをしようと思い、手伝ってくれると言っていた川西くんの姿を探す。どうやら今日から学園祭までの間は部活より準備を優先してもいいらしい。
 けれど、他のクラスメイトより頭一つ飛び出ていてすぐに見つけられるはずの川西くんの姿は見つからない。とりあえず先に進めようと机にノート、電卓、レシートを広げていると、そこに昨日のレシートがないことに気づく。そうだ、いつもならすぐにこのノートに挟んでおくのに、昨日は緊張のあまりついついポケットにねじ込んだままだったのだ。あいにく制服は更衣室のロッカーに入れっぱなしだ。面倒くさいけど取りに行くしかない。思わず大きな溜息がこぼれ出す。席を立ち更衣室へ向かうことを友人に告げ、わたしは教室を後にした。
 それはそうと川西くんは一体どこへ行ったんだろう。疑問に思いながら更衣室への近道をしようと体育館裏を通ろうとしたところに人の気配を感じ、足を動かすのをやめた。しまった、と思う。体育館裏で行われることなんてリンチか告白くらいだ。そのどちらであっても割り込んでいく勇気は持ち合わせていない。
 そうっとその場から離れようと足を一歩引いたところに聞こえてきたのは、最近わたしの心をかき乱して困っている張本人の声で、思わず陰から覗き込んでしまった。
 ああ、覗き見なんて悪趣味だ。そんな自覚はあったのに、一歩も動けない。彼が「サンキュー」と言いながら女の子から受け取っていたのはキレイにラッピングされたマドレーヌで、おそらく家庭科の授業で作ったものだった。わたしのクラスでも先週作ったから簡単に予想がつく。でもそれくらいならここで渡す必要はない。そのあとに続くのは、決まりきった台詞だった。

「わたし、川西くんのことが好きです。もしよかったら後夜祭で一緒に踊ってくれませんか」

 なんだ、わたし以外にも相手がいるじゃないか。本来ならほっと安心するはずなのに胸を針で刺されるような感覚がするのはどうしてなの。ちくちく痛むし、崖の上に立ってるみたい。少しでも後ずさればボロボロと崩れゆく岩と一緒にわたしの体も落ちてしまいそう。
 今朝わたしの肩を掴んだ川西くんの手が彼自身のうなじに持っていかれ、視線は明後日の方を向いている。わたし、知ってるよ。それって照れたときにする仕草だって。今まさに川西くんがとってる行動は、昨日買い出しから帰って教室に戻るときに彼がとっていた行動と同じなのだから。
 彼を照れさせることができるのはわたしだけって自惚れていた。そうだ、当たり前のことを忘れていた。彼はわたしのものじゃない。
 川西くんが何て返事をしたのか分からない。現実世界から遠のいていく感覚を覚えながら頭の中をループしているのは「今日は11位」と言っていた無駄に明るいキャスターの声だった。11位?ちがうよ、運気最低だよ。彼女でもないくせに、好きじゃないって言い聞かせてるくせに、勝手に舞い上がって馬鹿みたい。
 二人にバレないようにそっと足を持ち上げ音を立てないようにゆっくり踵を返す。こんなことなら近道なんてするんじゃなかった。
 レシートを取りに行って教室に戻ってくるまでのことをあまりよく覚えていない。動揺する気持ちを抑えたくて軽い深呼吸を繰り返してみてもどうにもならない。ああ、何だか始まってもいないのに終わってしまった気分だ。きっとわたしは今、深刻な顔をしている。だけど、作業に没頭しているクラスメイトたちはそれに気づかない。助かる。本当に助かる。こんなぐちゃぐちゃな顔見られずに済むなんて。
 机の上に広げていたレシートをまとめて計算を始めたところに前の席の椅子がキーッと音を立てドカリと男子生徒が座ったのが視界の端に映った。こんなところに座るのなんて顔を見なくても誰だか分かる。

「ごめん。ちょっと急にミーティングだけ顔出さなきゃいけなくなって」

 きっとそれは嘘じゃないだろう。あのとき体育館裏にいた女の子はわたしが更衣室から出たときには既に校舎の方へ向かっていた。だから川西くんは本来ならわたしよりも先に教室に戻っているはずなのだ。

「手伝ってくれるって言ったくせに」

 わたしの口から零れるのはそんな可愛くない言葉だけだった。でも、呼び出されてることは言わなくたって用事があるとだけでも教えてくれたってよかったんじゃないか。だって、「俺も手伝う」ってそういうことでしょ。こっちだってそのつもりでいるんだから報告するのは当たり前でしょ。心の中に渦巻いている気持ちの名前はまだ知らない。けれど、わたしの声色は思ったよりも冷たいものだった。

、怒ってるよな?ごめん」

 彼が身じろげば、手に持ったマドレーヌの袋がカサリと音を立て、それがわたしの胸を掻きむしる。
 何も言わないわたしを川西くんが心配そうに覗き込んでいるのが分かる。怒ってるわけじゃない。怒ってるわけじゃないんだ。わたしは、自分が恥ずかしかった。自分が情けなかった。わたしは川西くんを独占したかった。あの顔を見れるのはわたしだけでいいと思った。どうして?そんなことは分かりきってる。思い通りにできない気持ちの正体を今、知ってしまったんだ。

「わたし、帰る!家でまとめるから!後はよろしくね」

 机の上の物を乱暴にかき集めスクールバッグの中に詰め込むと逃げるように教室を出た。一瞬だけ盗み見た川西くんは捨てられた子犬のような顔をしていて罪悪感で胸が締め付けられたけれど、わたしだって、わたしだって、体育館裏であなたを見てから鼻の奥がツンと酸っぱかったんだ。