学園祭まであと2日

 昨日は散々だった。大袈裟かもしれないけど、放課後は崖の底に突き落とされたような気分だった。別に振られたわけでもないくせに、勝手に落ち込んでいた。訳も何も知らない川西くんに八つ当たりのように接してしまって申し訳ない気持ちと、わたしのことが好きだって言ってたのにお菓子を受け取っていた川西くんにもやもやする気持ちがないまぜになってわたしの心は締め上げられていた。
 家に帰っても何もしたくなくてそのままベッドに沈み込みたかったけど、そういうわけにはいかず、持って帰ってきたレシートを広げて経費をまとめることにした。何かに没頭していると、放課後に見た光景はぼやけていき、ふと手を止めるとまた思い出して、の繰り返し。だから、あの光景を忘れたくて、必要のない範囲まで予習したり、課題をすすめたりしていたけど、それでも寝る前は川西くんが他の女の子の前で照れていたのを思い出してぎゅっと固く目をつぶった。
 分かってしまった。この気持ちが『好き』ってこと。知ってしまったんだ。わたしは川西くんに恋してるということを。でも、好きだと言われたから好きになったなんて、自分勝手で都合が良くてそんなわたし自身が嫌だった。だから素直に認められなくて、これは恋じゃないと言い聞かせながら眠りについた。

 学校に着いてそんなことを考えながらぼうっとしていると廊下が慌ただしくなり、ふと時計を見れば始業チャイムの鳴る5分前だった。すると、ちょうど朝練を終えたであろう川西くんが教室に入ってきてわたしとバチリと目が合った。その瞬間、心臓が自分のものじゃないみたいに早鐘を打ち始めた。昨日の出来事の気まずさもあり、そのまま見つめ合うこともできず、笑顔を作ることもできず、申し訳なさそうにすることもできず、すぐに目を逸らした。こんなんじゃ一緒に学園祭の係なんてできない。謝りたいと思っても今日のわたしは彼の姿を見るだけで息がつまるような思いがして、近くに寄ることさえ出来そうにもない。
 SHRを終え、先生に呼ばれる前に経費の途中経過をまとめたノートを持っていく。その際、川西くんの近くは通らないようにわざと遠回りをして教卓へ向かった。

「先生、これ、昨日言ってた経費のまとめです」
「おー。ありがとな」

 先生はノートを受け取った後パラパラと中身を見始めた。特にすることもなくなったので席に戻ろうと体の向きを反転させようとしたとき、先生が「ところで」と言うので足を止めた。そして、その後に続いた言葉に全身が固まってしまう。

「川西は手伝ってくれたか?」
「えっと……」
 
 今その名前を出さないで、と思っても先生は事情を知らないし言えるはずもない。わたしが勝手に一人でやったことだから彼の印象を悪くしないように言葉を選んでいたら、少し離れたところから声が飛んできた。

「あ、俺、昨日急に部活のミーティングが入って結局が一人でやってくれたんすよ」

 席に座ったままの川西くんが一限目の準備をしながら答えてくれた。それを聞いてじんわりと滲み出るような熱い想いが全身を駆けめぐって、何だか泣きそうになった。

「おまえなぁ〜。最終報告はおまえがしろよ。チェックしたノートは川西に返すから」

 頭をがしがしと掻き、わたしと川西くんを交互に見た先生は「ももっと川西頼っていいぞ」と付け加えて教室から出ていった。
 川西くんにお礼を言わなくちゃ。そう思っても顔が見れない。このままだと嫌な女だと思われちゃう。けど、どんな顔して言えばいいんだろう。

「そうだよ、あんた、もっと川西頼りなよ。ね、川西」
「え?おー」

 そのまま立ち尽くしていたわたしを見兼ねた友人がわたしと川西くんに声をかけてくれて、ほっとする。そして友人の方に向きつつ、ぼんやり焦点を定めずに川西くんの方を向いて「ありがとう」と何とか絞り出すようにお礼を言ってから席に戻った。
 彼はどんな気持ちで先生に返事を返してくれたんだろう。どんな気持ちでわたしのお礼を受け取ったんだろう。わたしの顔、きっとうまく笑えていなかった。学園祭は明後日。彼との係をどうやって乗り切ればいいの、とか、告白の返事をどうしよう、とか、そんなことばかり考えていると時間が経つのはあっという間で、もう昼休みを迎えようとしていた。





「ねえ、、今日変じゃない?」

 食堂で席について友人が開口一番に発した言葉がこれだった。そんなに分かりやすかっただろうか。川西くんを避けている以外は普通を装っているつもりなのに。

「変……かな?」
「うん、朝とかぼーっとしてたし。昨日もいつの間にか帰ってたし」

 友人はオムライスを口に運びながらわたしの顔を心配そうに覗き込んでいる。そうだった。今朝の一部始終を見られているのだ。もちろん昨日の朝、仲睦まじく話していたことも。きっと自分で答えの出せないことは相談するのがいい。話を聞いてもらうだけでもいい。ふぅっと息を吐く。悩みも一緒にこのため息と出ていってしまえばいいのに。

「あのね、川西くんのことなんだけど、ここじゃ話しにくいから食べ終わってから場所変えて話すね」
「うん、わかった!」

 友人は目を輝かせながら「早く食べるからあんたも早く食べて」と言ってオムライスをかき込んでいる。それを見て思わず苦笑が漏れる。いつだって女の子は恋バナが好きだ。いつも聞く側だったわたしが話をする側になるなんてにわかには信じがたい。数日前まで考えられなかったことなのだ。

 お昼ご飯を食べ終わり、あまり人が行き来しない中庭のベンチに腰を下ろして昨日の出来事を友人に話した。
 川西くんが他の女の子と踊ることになってしまうかもしれないのが嫌だと思ったこと。この気持ちは恋だと思うけど、好きだと言われたから好きになるなんて自分は調子がいい女だと思うこと。
 友人は真剣な目で話を最後まで聞いてくれた。

「そんなもんでしょ、人を好きになる理由なんて」
「え?」
「好きだと言われて意識しない人なんていないよ。意識して見てた結果、素敵だなって思ったから好きになったってだけで、別に変なことじゃない」
「……うん」

 何だか本当のことでもいざ言葉にされると恥ずかしい。けれど、念を押されるように言ってくれた「何も変なことじゃないよ」という言葉に安心すると同時に『川西くんが好き』という気持ちに自信がつく。

「ちゃんとあいつと話しなよ」
「うん、ありがとう。頑張ってみる」

 とりあえず昨日のことは謝りたい。でも謝りたいと思っても授業は残すところあと二限。あとは学園祭の準備だけ。二人で話せる時間なんてやってくるのだろうか。
 言いたいことも頭の中でまとめておきたい。午後の授業は川西くんと仲直りすることばかり考えてしまって、先生の話なんて頭には入ってこないだろう。





 今日はやけに外が暗くなるのが早いなと思っていたら、分厚い雲が太陽の光を遮っていて今にも雨を降らしそうだった。しまった、と思う。今日は天気予報を確認していない。何故なら朝から昨日のことばかり考えていて、お天気お姉さんの声も右から左に抜けていたからだ。もちろん傘は持ってきていない。降ってきたらどうやって帰ろうか。
 空模様も心配だけど、川西くんと話をする機会もないまま放課後を迎えることになったことも悩みの種だった。
 こういうときに限って学園祭の準備ではわたしも川西くんも引っ張りだこだった。二人で抜け出す暇もない。それもその筈だ。本番は明後日なのだ。今日仕上げて、明日は最終チェックだけに留めておきたい。
 皆が協力して夢中になって色塗りを仕上げて形を整えていく。そんなふうに没頭していると相変わらず時間が経つのが早い。少し休憩しようと思っていたところに、川西くんが一旦休憩しようとクラスメイト達に声をかけたので、同じこと考えていたのかと思って恥ずかしくなると同時に嬉しくなる。
 その一言で皆、座り込んだり教室内から出て気分転換をし始めたので、わたしもお財布を持って自販機の方へ向かった。
 小銭を入れて何にしようか悩む。甘いものの方がこの後も集中できるかな。それとも気分転換にさっぱり系にしようか。ボタンを押す指をうろうろと彷徨わせていたら、後ろからぬっと長い腕が伸びてきてポチっといちごオレが押されてしまった。

「あっ!」

 驚いて振り向けば、お昼からずっと話がしたいと思っていた川西くんで、思わず体が強張る。

「何か悩んでるみたいだったから、がいつも飲んでるやつにしてみたけど」

「嫌だったら俺が飲むし」と言いながら川西くんは大きな体を折り曲げていちごオレのパックを取ってわたしに手渡す。いつも飲んでるやつ。いつも見てくれてたんだ。ぶわっと体が熱くなる。

「ううん、これで大丈夫」

 受け取る指が微かに震える。心臓の動きに勢いが増す。顔を直視できずに思わずうつむく。好きだと自覚して初めての二人きり。昨日逃げ帰ってからの初めての二人きり。話したいことはたくさんあったはずなのに、急に訪れた機会に心の準備が出来てなくて頭の中は真っ白だ。
 何か言わなくちゃ。何を言うはずだったっけ。言葉を発しようと口を開けて、言葉に出来ず口を閉じて、が繰り返される。

、あのさ、」

 何を言われるのだろう。二人の間に流れる微妙な空気を切った川西くんを反射的に見上げると、申し訳なさそうな、悲しそうな、困った顔をしていた。

「昨日、」
「川西ー!ちょっとこっち来て!」

 川西くんが言いかけた言葉を遮るようにクラスの男子が慌ただしく彼を呼ぶ。川西くんは、くそ、と頭を掻きながらごめんと一言だけ発してその男子の方へ行ってしまった。
 少し怖かった。彼が次に発する言葉が。もし一緒に踊りたいと言ったことを取り消してほしいと言われてしまえばわたしのこの気持ちはどうすればいいのだろう。ストローをくわえながら窓の外を見るとポツリポツリと雨が降り出していた。





 何とか今日のノルマを終えてみんなが帰宅する中、窓の外を見遣ると雨はザアザアと本降りになっていた。この調子だと時間をつぶしたところでやみそうにない。
 そしてふと教室中を見渡してみる。今日中に謝りたかったけど、帰ってしまったのか部活に顔を出しに行ったのか、すでに川西くんの姿はなかった。残念なような安心したような複雑な気持ちだった。
 けれど、自販機の前で彼が言いかけていた言葉が気にかかる。そのときの顔も脳裏にこびりついて離れない。こんな気持ちのまま、この雨の中帰らないといけないのは気が重い。でも教室でいたところで状況が変わるわけでもないのでとりあえず玄関ホールに移動することにする。
 玄関から雨水がアスファルトを打ちつけるのを眺めながら、鬱屈した気持ちを逃すようにため息を吐いた。それからギリギリ雨に濡れない程度まで外に出て、手のひらを伸ばし天に向けてみる。
 パタパタと手のひらを濡らして手首をつたう雨はわたしの気持ちを代弁しているかのようだった。恋をするのはあったかくて苦しい。思いどおりにならなくて、無性に泣きたくなる。
 家に着く頃にはずぶ濡れになっているだろう。それでもいつまでもここには居られない。意を決して足の裏に力を入れる。水浸しになったアスファルトに一歩を踏み出し、スクールバッグを抱え込む。けれどいつまでたっても頭に雨の衝撃はない。肩は熱い手でぐっと掴まれ、それだけでわたしの次の一歩が妨げられていた。

、ちょっと待って!傘ないんだろ」
「えっ!川西くん……」

 振り向けば息を切らした川西くんが傘の柄を持って立っている。見上げればわたしは彼の傘で覆われていて、どんよりした空は全く見えなくなっていた。

「送っていくから傘入って」
「いいよ、そんな遠くないし」
「よくないし。それに、話もしたい」

 でも、と言おうとして川西くんを見れば縋るような顔をしていて、きゅうっと胸が締めつけられた。わたしは彼にそんな顔をさせたいわけじゃない。思わずこくりと頷いてしまい「じゃあ帰ろう」と足を動かし始めた川西くんに倣ってわたしも彼の隣を歩き始めた。
 男の人の傘は大きいと言っても、二人で入るには狭い。濡れないようにするためにはもう少し距離を詰めないとダメだ。だけどこれ以上は無理だと思った。どきどきして心臓が爆発しそうだった。
 そんなわたしを知ってか知らずか、川西くんは「濡れるから」と言ってわたしの腕を引っ張り、彼の近くに寄せられる。川西くんは背が高いから、彼の肩とわたしの肩が触れ合うことはない。だけどその代わり、彼の胸元にわたしの肩が当たって何となく包まれているような感覚に陥ってしまう。
 湿った土の匂いが肺いっぱいに広がり息苦しい気がする。わたしも話したいことがある。でもお互い様子を伺うようにだんまりで、雨が傘を叩く音だけがふたりの鼓膜を震わせていた。

「あのさ、」

 決心して発した言葉は川西くんの言葉と重なってしまい、二人とも肩を揺らしながらまた黙る。そちらからどうぞ。いえ、そちらから。そんな譲り合いをしながら、最初の発言権を得たのは川西くんだった。

、昨日はごめん」
「ううん、わたしこそ」
「あのさ、一緒に踊ってって言ったの、無理に考えなくてもいいから」

 その言葉を聞いて目の前が真っ暗になり、足が動かなくなった。
 どうして?やっぱりあの体育館裏で一緒にいた女の子が原因なの?わたしが昨日勝手に怒ってしまったことが原因なの?
 立ち止まってしまい、川西くんがどんっとわたしにぶつかる。その拍子に傘の外に出てしまい雨に濡れ始めたわたしに、慌てて傘を差し出した川西くんは、動かないわたしを不思議そうに心配そうに覗き込んだ。

?」
「……どうしてそんなこと言うの?」
「え?」
「わたしのこと好きじゃなくなった?」

 我ながらずるいと思った。わたしは好きだと伝えていないのに、川西くんには言わそうとするなんて。

「好きだよ」
「じゃあどうして?」
「いや……昨日のことで嫌われたかと思って、」

 川西くんは眉をひそめ切なげな表情をして、わたしから視線をそらせた。その顔はわたしの涙腺をゆるめてしまいそうで、ぐっと歯を食いしばった。

「今日も俺のこと避けてたし、これ以上嫌われるのはきついと思って」
「違うの!ただの八つ当たりなの!嫌いになんてなってない」

 いつもより大きな声が出てしまって、わたしも驚いたけど川西くんも目をまんまると開いて驚いていた。

「ごめんね、昨日体育館裏で告白されてたの見たの」
「え?あー……」

 川西くんはバツが悪そうに頰を掻きながら「そう、そっか」とぼそりと呟いた。

「それで、お菓子も受け取ってたし、あの子と踊ることになるのかな、と思ってつい冷たい態度取っちゃったの」
「……、それってさ、俺が他の女の子と一緒に踊るのが嫌ってこと?」
「……うん」

 あれ、これってわたし告白したのと一緒じゃないのか。「そう、そっか」と言う川西くんは、先ほどとは違って口元を押さえながら頬をほんのり赤く染めている。
 好き。今、言った方がいいのだろうか。でも、好きだと伝えてしまえば学園祭まで一緒に係をするのは無理だと思う。だって、こうやって二人っきりになるだけでどきどきが止まらなくて、川西くんに聞こえてしまいそう。だからもう少し。もう少しだけこの想いは秘めさせていて。

「あ。ちゃんと断ったから。お菓子受け取ったのは、一生懸命なあの子の気持ちは踏みにじりたくなくて……いや、でも誤解させてごめん」
「わたしこそごめんね、勝手に怒っちゃって」

 慌てふためきながら早口で弁解する川西くんが珍しくて、思わず口元が緩む。優しいんだね。ちゃんと他の人の気持ちも大事にする。そんな川西くんがわたしは好き。
 ああ、やっと謝ることができた。本当のことも知ることができた。二人を取り巻く空気は一気に和らいで、しっとりと湿り気を帯びている空気は金木犀の香りを孕んでいる。再び歩き始めれば少し触れたところから彼の体温が伝わって心がぽっと温かくなる。胸はうるさいほど高鳴っているのに、それが心地いい。何だか雨が好きになりそうだ。
 だから、家に着くまで気づかなかったのだ。川西くんの肩がぐっしょり濡れてしまっていたことに。