学園祭まであと1日

「出欠とるぞー」

 朝のチャイムが鳴って担任の先生が入ってくると、思い思いに立っていたクラスメイト達が自分の席へと着席する。その中、もぬけの殻となってしまっている川西くんの席を見て、わたしの心臓がひゅっと縮こまった。
 昨日、家について傘から出たときにやっと川西くんの肩が半分濡れていたことに気づいたのだ。よく考えれば分かることだったのに。急いでタオルを持ってきて肩を拭いたけど、川西くんの制服はもう十分に水分を含んでいて手の施しようがなかった。謝っても「別に俺がしたくてやったことだから」と言われてしまい項垂れてしまった。わたしのせいで風邪でも引いてしまったらどうしよう、と。
 川西くんは湿気で張り付いたわたしの前髪を整えながら軽く額を撫で「俺の体そんなヤワじゃないし」と唇で軽く弧を描いた。それにほんの少しだけ安心したのだけれど。
 次々とクラスメイトの名前が呼ばれ、ついに川西くんの番が来たとき、先生は「川西は保健室、っと」と言いながら出席簿に何かを書き込んだ。

「あいつどうしたんだ?」
「明日の学祭来れるのか?」

 わたしが気になっていたことを代わりに男子たちがザワザワと話し始めた。

「何か微熱があるらしくて、本人は平気って言ってたけど念のため保健室で休んでもらうことにしたんだよ」

「明日本番だしな」と先生が生徒を静める。やっぱり完全にわたしのせいじゃないか。保健室に様子を見に行きたい。そして、もう一度謝らなくちゃ。だけど、今日に限って午前中の授業は移動教室ばかりで時間が取れなさそうだ。午後からはまるまる学園祭の準備に追われることになるし、おそらく保健室に行けるのは昼休みくらいだろう。
 頭の中でタイムスケジュールを組み立てながら、一限目の準備をする。どうせなら一日中学園祭の準備に充てればいいのに。そしたら今すぐにでも川西くんのところへ飛んで行けるのに。文武両道を謳う白鳥沢学園は学園祭前日のこんなときも厳しくて恨めしい。



 午前最後の授業は、学年全体でフォークダンスの振り付けの最終確認だった。練習とはいえ本番を迎える前の最後の振り合わせなので、男女のペアを組むことになっていた。これは背の順で並んだときに隣にいる男の子と踊ることになるので、特に自分の希望が通るわけではない。
 体操服に着替えながらわたしは少しほっとしていた。だって川西くんが他の女の子と踊るところを見なくてすむから。今だけは川西くんが保健室で過ごしていることに感謝した。不謹慎だと思うけど、仕方ない。だってそれがわたしの正直な気持ちだから。
 着替え終わって友人たちと「あんたは多分誰々とペアだよね」なんて、順番を数えながら今から踊る相手を予想する。今まで体育の授業では女の子同士でしか踊ったことがないので、周りは色めき立っていた。本番では踊らない生徒も多数いるから尚更。

「あれ?川西いるじゃん」

 徐々に整っていく列の中にひときわ背の高い彼の姿を確認すると、心臓の動きが加速する。どうして?もう大丈夫なの?安心と不安がせめぎ合う複雑な胸中だった。
 川西くんはクラスメイトたちからど突かれている。少しだけ顔が赤いような気がして、心配になる。やっぱりまだ熱があるんじゃ。そう思ってついじーっと観察するように見つめていると、わたしに気づいた川西くんは目を細めて柔らかく微笑んだ。それは「心配しないで」と言っているようだった。
 誰にも気づかれないようなひっそりとした目配せがわたしと川西くんだけのサインみたいで、心がじわじわと熱くなって全身に広がる。恥ずかしい。
 思わず視線を外して前を向くと、ちょうど整列の笛が鳴った。いいタイミングで鳴ってくれたから、きっと赤くなったわたしをうまく誤魔化せた。ほっと胸を撫で下ろす。
 小気味よい音楽が流れ始めると隣の男の子の手を取る。きっと今頃川西くんも隣の女の子と手を繋いでいるんだろう。見てしまうと醜い想いに支配されてしまいそうで、必死に後ろは振り向かないでいた。川西くんがわたしより後ろでよかった。
 だけど、これ、すごく緊張する。普段こんなに男の子と接近することなんてない。明日川西くんと本当に踊れるのかな。失敗したりして呆れられたりしないだろうか。

「……ッテ」
「あっ!ごめん!」

 ペアを組んでいる男の子は「いや、大丈夫」と言って頭を軽く振った。ついついぼーっとしてしまい、足を踏んづけてしまったのだ。ほんとに申し訳ない。川西くんに見られてたら絶対笑われる。きっと「俺のこと考えてただろ」って意地悪言われちゃうんだろう。
 踊りながら体の向きを変えると、川西くんの姿が無意識に視界に入り込む。これは、不可抗力だ。
 でも目に映った川西くんは、わたし達を見てるわけでもなくペアを組んだ女の子と楽しそうに笑っていた。いつもあまり表情に変化がなく飄々としている川西くんなのに、今、声を出して笑っているようだった。他の女の子の前でもあんな顔して笑うんだ。また、告白の現場を見たときと同じ感情に支配されそうになる。
 分かってる。今度は明確に答えることができる。これは嫉妬だ。わたし、嫉妬してる。肌をちくちくと刺されるような感覚。そして、胸にぎゅっと食い込んで息がしづらくなる。

「ちょいちょい、!手、痛い!」
「ごめん……」

 ついつい手に力が入っていたようだ。思わずぱっと手を離すと、二人とも転けそうになるのを慌ててバランスを取り持ち堪える。

「明日、川西と踊るの?」
「え!何で!?」

 ずれてしまったリズムを整えながら、目の前の男の子はわたしに問う。どうしてそこで川西くんの名前が出てくるの。驚きがどうも顔に出ていたらしく「いや、だって今明らかに川西見てただろ」と苦笑しながら続ける男の子にわたしも苦笑いしか出来ない。

「あいつ、とハリボテの係やりたいからって男連中に根回ししてたんだぜ」
「……そうなの?」
「根回しっつーか牽制?俺、このあと殺されそう……」

 物騒なことを呟きながら、おののいている姿につい笑ってしまう。そうなんだ。わたしと一緒に係をするために……そう思えば嫉妬で渦を巻いていた気持ちも段々と穏やかになってきた。わたしって自分で思っているよりも案外単純なのかもしれない。



 全体練習が終わるとそのまま昼休みに突入した。当初の予定では保健室に赴くつもりでいたけど、川西くんは練習に参加できていたのでこの後の学園祭の準備でも顔を合わせることができると思い、わたしは悠長に食堂でお昼を食べていた。

「あれ?キミ、太一と同じクラスの」

 いつもの友人と向かい合って座っていると隣にトレイを置いたのは、以前バレー部の練習を見に行ったときに声をかけてくれた人だった。赤い髪の、確か川西くんはこの人のことを「天童さん」と呼んでいた。
 友人の隣、席は一人分空いているが、そこにはかの有名な牛島さんが座っている。

「太一、大丈夫そう?珍しく朝練出てなかったし」
「あ……多分もう大丈夫だと思います。さっきダンスの練習出てたので」

 ちらりと友人を見ると、わたしとは他人の振りをすることを決め込んでしまっているようだった。こちらを見向きもしない。

「何だかね〜昨日も半分濡れて帰ってきたし、学祭には妙に乗り気だし、最近の太一いつもにも増しておかしいんだよね」

「フォークダンスも俺断られちゃったんだよ」と天童さんはわたしの一挙一動を見逃さないように目を細めている。え、と……これはどう答えたらいいのだろうか。「わたしが一緒に踊ることになりそうですみません」は変だし、恥ずかしくて言えるわけがない。

「太一って普段何考えてるか分からなさそうな顔してるけど、いざというとき頼りになるっていうか、ああ見えて人をちゃんと見てるから気つかえるし」

 何も言葉が見つからず、とりあえず曖昧に頷いていると「つまりいい男なんだよ」と自信満々に言われてしまった。うん、分かる。わたしもこの一週間で身をもって体感した。
 そして今までのことを思い出して、体に熱が帯びてくる。そんなわたしを優しげな表情で見つめる天童さんに、牛島さんは冷静に「飯、冷めるぞ」と声をかけた。「若利くん、俺、今、超いい話してたとこだから」とやっとお箸を持った天童さんにわたしが返せたのは「はい」というたったの二文字だけだった。
 すごく不思議な気分。ほぼ初対面の先輩にそんな顔を向けられ、背中を押されるなんて。天童さんがどこまで知っているかは分からないけど、先輩にここまで言ってもらえる川西くんは本当に素敵な男の子だと思った。

「あ、見て!あいつ、すっげえ追いかけられてやんの」
「え?」

 天童さんが顔を向けている方を見れば、そこには必死の形相をしている保健室の先生に追いかけ回されている川西くんの姿があった。何かを叫ばれ、観念したかのように保健室の先生の元に近寄ると、強引に背中を押され連行されてしまった。
「……いい男だよ?」と笑いを堪え震えている天童さんに、わたしも堪えきれず笑みをこぼしながら「はい」と大きく頷いた。



 明日を迎える準備が始まった教室内を見渡してもそこには川西くんの姿はなかった。昼休みの様子からするとあのまま保健室に連れて行かれたようだ。やっぱりダンスの練習も無理してたのだろうか。そこまでして練習に出る意味ってあるの?明日、来れなくなったらどうするの?段々と自分勝手な考えに頭が覆われてしまいそうになるのを振り切るように作業に没頭する。
 ハリボテを教室のど真ん中に移動させ、他の展示物をきれいに並べていく。ハリボテを修復しながら、明日の監視当番の割り振りをくじで決めようかという案が出る。と、いうことでクラス全員が満遍なく当たるように時間を決め、二人一組になるようにわたしがくじを作ることになった。係なのでそれは仕方ない。
 ここにいない川西くんの分は誰が引くかという話になったとき、わたしはぴんと閃いたのだ。

「一回休憩挟まない?その間に保健室行って川西くんにくじ引いてもらうよ」

 みんなもそれに賛成して、一旦休憩することになった。わたしは自分が作ったくじを箱の中に入れて保健室へ急ぐ。やっと二人で話せる機会が作れた。とにかく昨日のことを謝らないと。それから、明日のこと。
 準備で賑わう廊下をパタパタと音を立てながら保健室の扉の前まで辿り着く。乱れてしまった息は、走ったせいなのか、川西くんに会える嬉しさからなのか分からない。もしかしたら緊張もあるのかも。胸に手を当てながら深呼吸していると、突然ガラリと扉が開かれ、びっくりして持っていた箱を落としてしまった。

「あれ??」

 何枚か散らばってしまったくじを拾い集めていると頭上から振ってきたのは、目的の人物の驚いた声で。彼もしゃがみ込むと「ごめん」と言いながら一緒に拾い始めてくれた。

「あ、明日の監視当番のくじを引いてもらおうと思って」
「あーそっか。そんなのやらなきゃいけないのか」

 最後の一枚を川西くんの長い指がぺりっと床からはがし取り、それが箱の中に収まったと思えば、腕を引かれ強引に保健室の中へ連れ込まれる。
 急なことだったので思考回路が追いつかない。その辺に置いてあった椅子に座らせられると川西くんも隣にドカリと腰をかけ、制服ごしにも伝わってくる熱に頭はヒート寸前になる。

「いえーい、二人っきり」

 ピースサインを作りながら意地悪く笑う顔を直視できず、自分の足の爪先ばかり見てしまう。あ、謝らなくちゃ。でも、今わたし達二人っきりなの?混乱していると、川西くんはわたしの手からひょいっとくじの入った箱を取り上げ、がさがさと中を掻き回し始めた。
 わたしから視線が外れたことで、やっと喉の奥に張り付いていた三文字の言葉が出てくる。

「ごめん、わたしのせいで……」
のせいじゃないって。俺は全然平気なのに、体温計の表示見た監督が保健室行けって言うから」

 くじを一枚引き出した川西くんは、その紙と箱を机の上に置き、両手で顔をすっぽりと覆った。

「こっそり抜け出してダンスの練習出れば、保健室の先生にこってり絞られるし」
「それ、見てたよ」
「え!?」

 目を見開きながら顔を覆っていた両手をパッと広げた川西くんが可笑しくてついつい笑いながら「天童さんと」と付け加えると「よりにもよって……」と再び頭を抱えてしまった。

「ねえ、何でダンスの練習は出たかったの?」
「……聞きたい?」

 ずっと聞きたくてもやもやしてた質問をぶつければ、少し胸のつかえが取れてすっきりした気分になった。顔を上げた川西くんは再び意地悪く笑って首を傾げた。
 その姿に目を奪われてしまう。だって、見つめ合ってることが恥ずかしいという気持ちを忘れてしまう程にかっこよくて。わたしはもうすっかり彼の虜なのだ。
 こくりと頷くと、目を細めますます悪戯好きの少年のように笑った。

にヤキモチ妬いてもらいたくって」

 川西くんが言った言葉に何も言えなくなる。まんまと手のひらの上で転がされてたわけだ。「妬いた?」と聞いてくる川西くんを、じとりと上目づかいで睨み上げ拗ねたように唇を尖らす。

「その顔は図星って捉えるけど?」
「……そういうことにしといてあげる」

 彼の思惑通りに全てが進んでしまっていることが悔しくてせめてもの抵抗を見せると、川西くんははにかんだ様子で「でも俺も妬いたな」と鼻の頭をかいた。
 川西くんもわたしみたいに、心臓を握り締められてるような感覚がしたのだろうか。こんな気持ち、感じたくないと思っていたけど、それを共有できるって実は素敵なことなのかもしれない。

「あいつと何喋ってた?すごく楽しそうだったけど」

 顔をあまり見られたくないからか、川西くんはわたしとは反対の方を向いた。

「川西くんがわたしと一緒にハリボテの係やりたがってたって」
「あいつ喋った!?」

 バッとすごい勢いで振り向いた川西くんに口元が緩む。珍しく焦ったように顔を赤らめていて「マジかよ、スマートな川西太一を演じてたのに」と机に突っ伏してしまった。
「あいつ、あとで覚えてろ」と呟いていて、恐怖に震えていたあの男の子を思い出してまた笑ってしまう。

「ねえ、明日、当番じゃない時間に一緒に回ろっか」
「え?いいの?」

 その姿は大型犬のようだった。顔を机から上げて尻尾を振ってるみたい。
 告白の返事、どうしよう。今が言うべきタイミングだよね。そう思えば思うほど段々と心臓がうるさくなってきて、体が熱くなってくる。視線を彷徨わせながら口を開こうとすると、川西くんの手がそれを遮る。

「返事は明日、後夜祭のときに聞かせて。一週間って約束だったから」

 至近距離で覗き込まれ、にこりと悪巧みしてるような笑顔を見せられ、息が出来ない。今にも溢れ出てきそうなこの想いをすんでのところで止められて、どれだけわたしを翻弄させれば気が済むのだろう。
「教室戻ろっか」と差し出された手をパチンと思い切り叩いて、川西くんの先を行く。「、痛い」と背中から聞こえる声は、明らかに笑いを堪えている。明日まで待ったって、この想いは変わらないし、どうせますます好きになる一方なのに。
 自分から言い出したものの、火がついてしまっている気持ちを抱えて一緒に行動しなくちゃいけないなんて。わたしが好きになった男の子は、とても狡い男の子だ。