週末の部活は大体夕方までには終わる。タラタラと効率の悪い練習は行わないのだ。ということで、例の勉強会はゴールデンウィーク明けの週末にということになった。
「中間テスト直前だから土日の二日間とも使う?」と提案されたものの、彼女のことはまだ完全に信用しきっていない。とりあえず土曜日の様子をみてから日曜日どうするか決めると伝えると、多少不服そうな顔をしていたがそれで了承を得た。
場所は図書館かと思いきや彼女の家だそうだ。図書館だと声を出すのも気を使うし、閉館時間も気になるからだという。
ただ、それが少し気がかりだった。何故なら、もし彼女の部屋が散らかっていれば集中なんてできやしないし、一人暮らしの女の家で男女二人っきりってどうなんだ、と思う。しかし、それは今回に限っては致し方ない。
社会以外なら大丈夫だと言われたので、今日は物理と数学のワークを鞄に詰め込む。まずは理系の彼女の得意科目で様子をみてやろう。
彼女が起こすかもしれないハプニングに備えるため、気合いを入れて部屋を出るとコンビニの袋を提げた太一に遭遇した。

「お? 今からさんとこ?」
「そうだけど」

こいつが。いや、他のメンバーもだがさんの名前を普通に呼んでいるのが癇に触るのは何故なのだろう。そういや、彼女もこいつのことを「太一くん」と名前で呼んでいたなと思うと、さらに眉間のしわが深くなる。

「なぜに不機嫌?」
「……いや、なんか馴れ馴れしくね?」

太一は一瞬驚いた顔をしたあと口角を上げて「おまえって案外分かりやすいよな」と笑った。分かりやすいって何だ。自分には自分の気持ちすらよく分からないっていうのにますます不快だ。あの何でも見透かすような目をする天童さんの隣でいるからか、この男も段々その人に似てきたんじゃないかと思う。

「普通に呼べば? さんって。照れてんの?」
「そんなんじゃねえって」
「ふーん。じゃあ気に入ってんだ? あの人のこと」

気に入る? 出会ってまだ数える程度しか会ってないあの女を?
ふざけるなと言いたい。彼女のことなんかまだ何も知らないのに気に入るも何もないだろ。ただ、気にはなる。何故なら今までに遭遇したことのない人種だからだ。それは怖いもの見たさなのかもしれない。
普通にしていると年上の女性らしく大人びていて見た目だって綺麗な方だ。なのに、一緒にいれば天真爛漫という言葉がよく似合う少女のような人だと思った。勝手に人のテリトリーに入ってきたかと思うと澄んだ目で見つめられ、自分の尖っていた気持ちが削がれていく。彼女と会うとそんなふうに思ってしまう。それをこいつは分かっているというのか。
視線をそらせて舌打ちをすると、苦笑しながら「ま、勉強頑張ってきて」と肩を叩かれた。いや、頑張らないといけないのはおまえだろ、という気持ちを込めてじとりと見ると、太一は肩をすくめながら部屋に向かっていった。







「いらっしゃい」

呼び鈴を鳴らすとバタバタとスリッパの音が聞こえ、慌ただしく鍵が開いた。部屋着なのだろうか、Tシャツにショートパンツ姿の彼女が満面の笑みで出迎えてくれた。前から思っていたがこういうとき犬みたいだなと思う。目を凝らせばちぎれそうなほど振られている尻尾が見えるんじゃないか。

「お邪魔します」

中に入るのは初めて出会った日以来だった。とは言っても、あのときは玄関先だけだったので、中に入ったとは言えないのかもしれない。あのときの彼女は、それはそれは不気味でしかなかった。それがまたこうやってここにきて、さらに部屋に上がることになるなんて誰が想像出来ただろうか。
彼女は来客用だと思われるスリッパを用意し、奥の部屋に入るように促した。1Kなので、部屋に向かう途中にあるキッチンが目に入ったが、不自然なほどにキレイなのであまり自炊はしていないのだろうと予想できた。部屋は意外にも片付いていてどちらかと言えば女性にしてはシンプルな方なのだろうか。ものも少なく、かといって無機質というわけでもない。シーツやクッションなどのファブリックは女性らしくフリルがあしらわれている。部屋の真ん中にはこたつテーブルが置かれていて寒い時期に大活躍してるのだろう。

「ここ座って」

1つしかない座椅子に案内され、座るのを躊躇していると「いいから」と肩を押され無理やり座らされた。彼女は「お茶入れてくる」とキッチンに向かったのでしばらく部屋で一人になり、ついついぐるりと見渡してしまう。
一人暮らしを始めたと同時に買った座椅子なのだろうか。クッション部分に少しクセがついていて、それが何だか自分が彼女の聖域に入り込んだような気がして決まりが悪い。早く戻ってきてくれと思いながら、とりあえず持ってきた教科書類を取り出した。

「はい、麦茶だよ」
「ありがとうございます」

彼女の方を向けばショートパンツからすらりと伸びた足が目に入って慌てて目をそらした。何で男と二人っきりだというのにそんな格好するんだよ馬鹿だろ、と心の中で悪態づく。
コースターの上にグラスが置かれ、彼女は「さてと、」と言いながら自分が座っている横側に腰を下ろすとプリントを差し出した。

「これ、教えてくれた範囲から問題作ってみたから何も見ずに解いてみて。間違ったところから重点的にやっていこ?」

その微笑みが普段見せる顔とは違って大人びて見えるのは、自分のために問題まで作ってくれ、本当に家庭教師なのだと実感してしまったからだろうか。以前自分が言ったギャップ萌えとやらを思い出して軽く溜息をついた。心拍が落ち着かないのは普段とは違う環境に置かれているからに違いない。そう自分に言い聞かせ、問題に目を通していく。

「わたしもレポートやるから出来たら教えてね」

そう言って彼女はノートパソコンをテーブルの上に置いた。彼女が発した言葉を皮切りに部屋に響くのは俺がシャーペンを走らせる音と彼女が叩くキーボードの音だけになる。そうなれば、あの居心地の悪さもなくなり、いつもどおり集中して問題を解くことができた。

「出来ました」
「どれどれ」

彼女は赤ペンを片手に採点していく。考え事をするときはペン尻を唇に当てるのが癖なのだろうか。髪を耳にかける仕草と相まって色っぽく見える。そして今日のTシャツ。少し襟ぐりが広めで鎖骨が露わになっており首筋からのラインがとてもきれいだった。

「ねえ、ここ、苦手でしょ?」

急にこちらに顔を向け体を寄せられたので、見惚れてただなんて悟られたくなかったけど反射的に距離を取ってしまった。

「どうしたの?」
「……いえ、別に」

首を傾げながらこちらを見る彼女は、俺の行動なんて意に介さない様子で「ちゃんと聞いて!」と言いながら俺の隣に座り直し、採点したプリントを見るように促してくる。触れてもないのに体温を感じるほど近い距離で、パーソナルスペースの狭すぎる彼女に段々と苛ついてくる。俺が変な気起こすとか考えないのかよ。起こさないけども!
ただ、教え方はうまくて的確だった。

「物理はね、公式さえ覚えれば8割なんて余裕で取れるよ。あとはしっかり図を書くこと」

さらさらと赤ペンで流れるように文字を綴っていく。連絡先を渡されたときも思ったけど字も読みやすくきれいだった。何故彼氏が出来ないのか不思議に思えてくる。説明を聞きながらそんなことを考えていると、はたと顔をあげた彼女と目が合う。こんなに至近距離で顔を見るのも初めてで、先日の彼女の「チューしやすいよ」という言葉が嫌でも頭にチラついてつい唇に目がいく。

「白布くん、わたしの顔に何かついてる?」

はっとした。さっき変な気は起こさないと言ったばかりなのに。それもこれもこの女の警戒心のなさが原因だ。

「何もついてないですし説明もよく分かりましたので、とりあえず離れてください」

そう言いながら軽く肩を押すと「そう? じゃあもう一回その問題解いてみてね」と元の位置に戻ったので安心すると同時に悔しくなった。何で自分だけこんなに振り回されなくちゃいけないんだ。平然としやがって。だけど、とりあえずその悔しさはこの問題にぶつけることにする。
そしてもう一度解いた問題を確認した彼女は「次はこれね」と言いながら俺のワークの問題番号に丸をつけていった。
どれくらい時間が経ったのか正確には分からないが、体感的には30分くらいだろう。やけに静かだなと思いながら最後の問題を解き終え、彼女を見る。すると、パソコンに向き合いながらもげそうなくらい首を傾けて眠っていた。そのせいかTシャツの襟ぐりから下着の肩紐がちらりと見えていて、大きな溜息が自然に出ていってしまった。
放っておけない。それが自分の気持ちにぴったり合うような気がした。
こうやって男に対して警戒心がないのも、パーソナルスペースが狭すぎるのも、それにそんな白い太ももまで露わにして。自分だからいいものの男ってやつは単純なのだ。無防備な女が警戒心もなく目の前にいれば取って食いたくもなる。天童さんのタチの悪い冗談にも従順に従って、危なっかしいったらありゃしない。
まだ5月も中旬に差し掛かったところだ、日が落ちると冷えてくる。ふと気になって戸惑いはしたものの、自分の手の甲を彼女の柔らかそうな二の腕に当ててみると案の定冷えていた。周りを見渡してみてもかけれるものがなかったので、自分が念のため持ってきていたカーディガンをしょうがなく肩にかけてやる。
しかし、自分のカーディガンにすっぽり包まれたことで際立った彼女の華奢な体が、年は離れているのに男と女の違いを見せつけてきたので、またしても頭を抱えたくなってしまった。

「馬鹿らし……勉強しよ」

落ち着くには集中だ。彼女が起きるまで自分だけでもできる範囲を終わらせておこう。そして起きたら言ってやる。もっと警戒心を持てよ、と。



「わぁっ! 寝てたっ!」

あれからそんなに時間が経ってないと感じたのは問題の進み方からそう思っただけだ。時計を確認したわけではない。
それにしても急に大きな声を出すのはやめていただきたい。びっくりして肩が跳ねてしまった。彼女は「ごめん」と申し訳なさそうにこちらを見て、ふと肩にかけられたカーディガンに気づいた顔をした。

「これ、白布くんの?」
「俺以外に誰がいますか」
「白布くん、いい匂いがするね」

そう言ってすんすん鼻をならしたので、すぐさま取り上げると彼女は残念そうな顔をした。何だか色々前言撤回したくなってきた。やっぱり変な女に変わりはない。

「あの、言わせてもらいますけど、男の前でそんな無防備な姿見せてると何かあっても知りませんよ。」
「無防備?」
「下着! 見えてますから!」

自分の肩を指差しながら伝えると、彼女は顔を赤らめながら服を正した。何だ、一応恥じらいはあるんじゃないか。それをかわいいと思ってしまったのは不本意だが。

「あと男と二人っきりのときはそんなに露出しないでください。目のやり場に困ります」
「う、うん」

彼女は歯切れの悪い返事をしながら両手で太ももを押さえ、もじもじと恥ずかしそうにした。今さらかよ。

「男は誰だって狼なんですから」
「……白布くんも?」
「……そうです」

当たり前だ。聞くなよ。今日何もなかっただけありがたく思え! 男をなめるな!

「とりあえず今日は帰ります。飯の時間もありますんで」

そう言えば、彼女はしゅんと寂しそうな顔をした。そして、飯という単語でふと思い出した。

「……自炊してますか?」

心配してるわけじゃない。放っておけないだけだ。いや、この二つの事柄はイコールなのか。訳が分からない。

「あ、何か一人だとあんまり作る気になれなくて……外食とかバイト先のおうちでご馳走になったりとか……」
「じゃあ二人なら作れますか?」
「え?」
「明日も来ますから、明日は俺の分も作ってもらえますか?」

明日の約束が欲しくて勢い任せで言ってしまった。でも勉強を見てもらいたいのは本当だ。とても効率的で分かりやすかったから。

「もちろん!」

彼女の笑顔に安心した自分を鼻で笑いたくなる。荷物を鞄に詰め込んで玄関に向かうと後ろからトテトテと彼女がついてきて見送ってくれた。

「じゃあさん、また明日」

小さく手を振る彼女にそう告げて、鍵がかけられるのを確認してからその場を離れる。階段を降りながら手を見るとじんわり汗が滲んでいた。名前を呼ぶだけでこんなになるなんて馬鹿馬鹿しいにも程がある。俺の頭はいよいよ完全に沸いてしまったようだ。





/ back /