何となく自分の体が火照っているような気がして、鍵を閉めた金属製の扉にもたれかかる。触れたところからひんやりと広がっていく冷たさが心地いい。今日はうたた寝をしてからずっと熱っぽかった。ふわふわとした浮遊感、とくんとくんと動悸にも似た胸の高鳴り、そして心の中に何か咲いたような温かい気持ち。
最初は薄着で寝てしまったから風邪でもひいたのかと思ったけれど、思い返せばこんな風になったのは白布くんがカーディガンをかけてくれてからだ。それから白布くんの声で「さん」と呼ばれてからは、さらに体が熱くなった。
聞き間違いじゃなかったよね? 少し信じられない。だって、白布くんはいつも口を真一文字に結んで不機嫌そうな顔しか見せてくれないから。
でも、本当は優しいことを知っている。嫌々ながらでもデート(だとわたしは思っている)にも付き合ってくれたし、今日だって口ではああやって言っていたけど、わたしを気づかってくれているのが分かったし、酔っ払ってたときも声をかけてくれた。きっと顔に出さないだけなんだろうと思う。
何だか今まで見た目だけでミーハーな気持ちではしゃいでいた自分が恥ずかしい。もっとちゃんと白布くんを見なきゃ失礼だ。これを恋って呼ぶのかな。でも、そしたら今までの気持ちは一体何と呼ぶのだろう。
だいぶ冷えてきたので、玄関の扉から離れて部屋に戻り、本棚に置いてあった辞書を取り出す。ええっと……こ、こ、こ……指でなぞりながら「恋」という文字を探し当てる。だけど書いていることがよく分からない。やっぱりこんなこと調べたって無意味だ。自分の気持ちに正直でいた方が何倍も意味がある。

「わたし、白布くんのこと好きになったのかな?」

この気持ちにはっきりと名前をつけることはまだ出来ない。今はきっとそれでいい。それよりも、とりあえず明日のご飯を決めないと。
辞書を片づけて代わりにレシピ本を取り出す。はっきり言おう。わたし、料理は好きではない。料理の何が楽しいのか分からない。ただ、不思議なのは、どうして白布くんはわたしが料理していないことが分かったのか。料理しない女ってマイナスポイントじゃない? わたし、大丈夫?
パラパラとレシピ本をめくりながら、食べ盛りの男の子が好きそうなメニューを探す。そして、なおかつわたしにも作れそうなもの。うーん……豚肉の生姜焼き、お味噌汁、なすの煮物、ほうれん草のお浸し……これだけ作るなら日中に下ごしらえした方が良さそうだ。
誰かのために料理をするのは初めてで何だか緊張する(この前のおにぎりはおいといて)。白布くん、おいしいって言ってくれるかな。
ニヤニヤしながらそんなことを考えていると、重大なことを忘れていたことに気がついて真顔に戻る。

「誕生日プレゼント買ったのに渡すの忘れてた!」

勉強に集中していたからか、ついうっかりしてた。明日こそは忘れないように分かりやすいところに置いておこう。
クローゼットからプレゼントを取り出し、本棚の上に移してからうーんと大きく伸びをする。

「ケーキって簡単に作れるのかな?」

そしてまたレシピ本をパラパラとめくって、明日のことに想いを馳せる。明日が来ることがこんなに楽しみでどきどきするなんて、小学生の頃の遠足以来だ。





ピンポーンと呼び鈴が鳴って心臓が跳ねる。パタパタと急ぎ足で玄関の扉を開けると、いつもどおり不機嫌そうな顔をした白布くんが立っている。自分から来るって言ったのに何でそんなに不機嫌な顔してるんだろうと思いはするが、彼にとってはこれがデフォルトなのかもしれない。

「どうぞ」
「お邪魔します」

白布くんはくるりと向きを変え靴を揃えた。昨日も思ったけれどこういうところが育ちがいいなと思う。それから白布くんが立ち上がるのを待って、中に案内しようと一歩踏み出した。その瞬間だ。自分のスカートの裾を踏んづけて前につんのめってしまったのだ。ああ、今日はマキシスカートで足を隠してるから怒られなくて済むと思ったのに。

「……あっぶね」

気づけば白布くんの腕がわたしのお腹に回っている。白布くんのおかげでこけなくて済んだようだった。でも布1枚越しに伝わる白布くんの体温がわたしに羞恥心を感じさせる。だって、だって、わたしが白布くんの腕の筋肉を感じるってことは逆も然りで……お腹! お肉ついてるのに!

「しっ白布くん……! お腹! お腹! ダメ!」
「……チッ」

今舌打ちしたよね? 振り返って見れば、眉間にしわを寄せた不機嫌の最上級みたいな顔で見下ろされ、背筋が凍る思いがした。初めて会ったときもこんな顔してたなあと思いながら小さく悲鳴を漏らす。

「別にさんのお腹触ったところで俺、何の感情も抱かないんで」

そう言ってわたしから離れ、早く進めよと言わんばかりに顎をしゃくった。
こわい、ごめんなさい。助けてもらったのに文句言ったから怒ってるんですね、きっとそうですね。でも女の子にそんなこと言っちゃうといくらわたしでも傷つくんですよ。
しょんぼりしながら昨日と同じように座椅子に案内し、お茶を出してわたしも腰を下ろす。

「ごめんね、迷惑かけて」

項垂れながらそう告げると、白布くんはワークを取り出しながらちらりとわたしを一瞥した後、大げさに溜息をついた。

「最初っから迷惑かけられっぱなしなんで今更ですけどね」
「……仰る通りでございます」
「結局どんな格好しても迷惑かけるんならもうさんが好きな格好したらいいと思います」

これは、呆れられているんだろうか。慰められているのだろうか。
白布くんの真意が読めなくてじっと見つめると、顔を歪ませながら目を逸らされた。そんなにわたしと見つめあうのが嫌なのか。

「でも昨日みたいなのは他の男の前ではしないでください」
「男はみんな狼だもんね」

そう言えばバツが悪そうな顔をしながらペンケースの中からシャーペンを取り出し、カチカチと音を鳴らした。
なんだ、結局心配してくれてるんだ。そう思うとついつい顔がニヤけてしまう。そんな姿を見られたらまた変な女だと言われてしまうので、わたしも白布くんから顔を背けてノートパソコンを取り出す。それから気持ちが落ち着いたところで白布くんのワークの問題番号に丸をつけていく。

「昨日の復習からしよっか。できたら声かけてね。わたしはまたレポートやってるから」
「分かりました」

昨日と同じだ。集中してしまえば浮き足立った気持ちも少しずつ鎮まっていく。今のうちにレポートを進ませておかないとこの先自分に何が待ち受けているか分からない。自分の気持ちが自分の行動にどんなことをもたらすのか予想ができないのだ。

「出来ました」
「はーい!」

白布くんからノートを受け取って採点していく。几帳面に並んだ文字からは彼の性格が窺えた。きっと綺麗好きだ。手を抜かず部屋の掃除をやっておいてよかったと、こっそり胸を撫で下ろす。
採点していると昨日できなかったところがしっかり復習されていて今日は正解ばかりだ。これは彼が負けず嫌いだからに違いない。

「はい、バッチリだね! 他の教科はどうする?」
「……では、自分で進めていくので分からないところがあったらその都度聞いていいですか?」
「うん! じゃあそれでいこう!」

そして彼は数学のワークを取り出して問題に取りかかった。その様子をじっと観察する。シャーペンを持つ手はすらりとしなやかで、とても綺麗。肌も白くてきめ細かくて女子が羨むだろう。色素の薄い髪の毛はサラサラで触ってみたいし、問題を解いている伏し目がちな表情はやっぱり王子様みたいにかっこよかった。そんなことを思っていると怪訝そうな顔をした白布くんが顔を上げた。

さん、俺の顔に何かついてますか?」
「いえ、何も」
「じゃあ見ないでください。集中出来ません」

何だかこのやり取り、昨日は逆の立場でしたような気がするなあと思いながら、しかめっ面でこちらを睨む白布くんに微笑みを返す。

「白布くん綺麗だからつい見惚れちゃった」

わたしの口は誤魔化すということを知らないらしい。思ったことが息をするように自然と出てくる。白布くんのことを意識してようがしてまいが、それは変わらないようだ。
わたしのその言葉で彼は動きを止めてしまった。軽く目を見開いていて、澄んだ目が部屋の灯りを反射してちかちかと光って綺麗だ。瞳の色素も薄いんだなと覗き込む。動かない彼が心配になり「おーい」と言いながら目の前で手を振っていると、がしっとその腕を力強く掴まれた。

「それ、言ってて恥ずかしくないんですか?」
「だって本当のことだもん」

事実を言って何が悪いんだ。少し口を尖らせながら言えば、白布くんは掴んでいたわたしの腕を投げるように離して俯き、ぼそりと呟いた。もう! 乱暴だな!

「……絶対逆転してやる」
「え? なに? 聞こえなかった」

白布くんのその一言は床に敷いてあるラグが全て吸収してしまったようだ。彼の頬がほんのり赤みを差しているので、なおさら気になって「もう一回言って」と懇願したのに意見は聞いてもらえない。「うるさい。黙ってください」とあしらわれてしまった。でもまあテスト前だし今回は大人しく引き下がってあげよう。素直に黙りこむと、再び沈黙が二人を包み込んだ。





お腹へったなぁと思って時計を見るともう六時を回っていた。そろそろご飯の支度をしようと白布くんを見ると、ちょうど彼も顔を上げたところだった。

「そろそろお腹空かない?」
「そうですね」
「じゃあ準備してくるね」

ノートパソコンをぱたりと閉じ、立ち上がろうと踵をあげる。スカートの裾が足に纏わりつくので、少し持ち上げてつまずかないように注意する。だってまた怒られたら嫌だもの。
すると、同時に白布くんも立ち上がった。トイレでも行きたいのかなと思い、顔を見る。

「トイレはこの部屋出て二番目の扉だよ」
「違います。手伝います」
「えっ? いいよ、座ってて!」

白布くんは大きく溜息をついた。前から思ってたけどわたしといるとき溜息つきすぎだと思う。しあわせが逃げちゃうよ。

さん鈍臭そうだし料理ぶちまけられたら困るんで」
「……はい」

ご尤もです。返す言葉もございません。そりゃ自分の服の裾につまずく女に料理は任せられませんよね。
ちょっぴり不服に思いながら一緒にキッチンに向かう。準備といってもあとは生姜焼きを焼くのと他のおかずを温めるだけなのでそんなに時間はかからない。白布くんにはご飯とお味噌汁をよそってもらい、おかずをテーブルに運んでもらう。その間に、わたしは生姜焼きを焼いてお皿に盛る。
できたできた、晩ご飯だ! 早速いただこう!

「食べよっか!」
「はい……ちゃんと一汁三菜なんですね」
「うん。一応育ち盛りだし、と思って」
「ありがとうございます。正直見くびってました」

これは褒められているのだろうか。白布くんの表情からは相変わらず何も読み取れないけれど、声色に棘はないように感じる。
彼が「いただきます」と手を合わせ、料理を口に運んでいる様子を凝視してると白布くんの顔が段々曇っていく。まさか……口に合わなかったかな。

「おいしくない……?」
「いえ、おいしいんですけど、」
「けど?」
「そんなに見られるとちょっと不快で」
「だって、不安なんだもん!」
「ちゃんとおいしいですから」

その言葉を聞いて安心した。そしてわたしもやっと料理に手をつけ始める。テンションを一定に保ち続ける白布くんが喜んでくれてるのかは分からない。だけど、おいしいと言ってくれたのは嬉しかった。
ほくほくしながら箸をつけていると、白布くんが「ただ、」と続けたので恐る恐る彼の方を見遣る。すると、付け合わせのキャベツをお箸で持ち上げながら意地悪そうな顔で笑っていた。

「これ、千切りのつもりですか?」
「……一応?」

だって不器用なんだからしょうがないじゃん。それは千切りというより短冊切りに近いかもしれない。でもそんなことはどうでもいい。初めて見る白布くんのその顔がわたしの胸をずきゅんと貫いて、一遍に頭がのぼせてしまった。頭から湯気出そうだ。

「練習した方がいいんじゃないですか?」
「じゃあまた来てくれる?」

昨日も言ったけど一人だと作る気になれないのだ。それに白布くんのためなら好きじゃない料理もやってみようかという気にもなる。ダメ元で言ってみたけどどうだろう。
もしゃもしゃキャベツを食べながら眉間にしわを寄せているのは考えてくれているからだろうか。その姿を見つめながら答えを待っていると、白布くんはごくんと飲み込んだあと口を開いた。

さんが教えてくれた教科が八割以上取れていたら今後も週一で家庭教師お願いしたいと思うんですけど」
「え! ホントに?」

予想だにしない答えに驚いて、思わずテーブルに手を着き身を乗り出す。白布くんは鬱陶しそうな顔をして仰け反った。けれど、飛び跳ねたいくらい嬉しいわたしには何も気にならない。だって、決定だと言っているようなものなのだ。白布くん飲み込み早いから。
とても単純なわたしは「ちょっと待っててね」と立ち上がる。嬉しさで体が羽根のように軽い。
そして、冷蔵庫からチーズケーキを取り出し、本棚に置いてあったプレゼントを手に取った。まだ食べ終わってないけど、今伝えたい、そんな気分だった。

「誕生日おめでとう! 簡単にだけどケーキも作ってみたの! あとこれプレゼント!」

白布くんに差し出すと、彼は目をまんまると見開き、二つを唖然と見つめている。
この顔! 鳩が豆鉄砲を食ったときの顔、まさにそれだ!

「ありがとうございます。でも先にご飯食べませんか」
「そうだね」

そう言いながらもプレゼントを受け取ってくれたので、チーズケーキはテーブルの上に置く。心なしか彼を取り巻く空気が穏やかなような気がしてつい口元が緩んでしまう。
今日は表情豊かだな。プレゼントを開けたときはどんな顔をするんだろう。
彼の表情の些細な変化で一喜一憂したり、彼のために自分の当たり前だった世界を変えたいと思うことが恋だというならば、きっとわたしは白布くんのことが好きなのだ。




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