ベッドに寝ころがりながら目を閉じ、今日の試合を思い出していた。インターハイ宮城予選、この大会はレギュラー入りして初めての公式戦だった。決勝の相手は予想通り青葉城西で、中学三年の夏に見た及川がさらに化け物になっていて、試合前にネット越しに言われた「瀬見くんじゃないんだ」という一言が頭から離れない。今日の自分のプレーはあの化け物の脳内に一体どれだけ刻み込むことができたのだろうか。



昨日、準決勝が終わって監督に呼び出され「決勝はお前が最初から出ろ」と言われたときは頭をがつんと殴られたような衝撃だった。決勝までは正セッターとは名ばかりのもので、瀬見さんと交代しながら様子見されていたようなものだったからだ。ついにきた、という高揚感。それに大事な試合を任される緊張感。この2つの感情がせめぎ合っていたが、常勝と呼ばれ続ける白鳥沢学園を背負うにはやはりプレッシャーの方が大きく背筋が凍りつく思いがした。監督に「はい」と返事はしたものの声は震えていなかっただろうか。今となっては知る由もないが。
そのとき一気に体温が下がった気がした。恐らくビビっていたのだろう。だから学校に戻る前に気を引き締めたくてトイレで顔を洗おうと思った。こんな姿情けなくて瀬見さんにだけは見られたくなかったのだ。
皆が集合している中、コーチに一言断り、がやがやと他校のやつらがひしめく中、その隙間を縫ってトイレに向かった。蛇口を捻ると力を入れすぎたせいか水が勢いよく飛沫をあげ、ジャージの裾に水玉模様がつくられていく。透明で冷たいそれを自分の冷えた手で掬っても、冷えすぎた指先が本当に水が冷たいのか認識できるはずもない。顔にバシャバシャと触れて初めて冷たいと感じたのだ。
時折、他校のやつらがトイレに出入りし、白鳥沢学園と背中にでかでかと書かれたジャージを羽織った自分を物珍しげに見ていく。自分たちと青葉城西以外は負けたやつらばっかりなのに、何で勝ち残ってる俺がこんな情けない姿を見られないといけないんだ、さっさと帰れよ、とイライラしながら乱暴にタオルで顔を拭った。
落ち着きたいためにここへきたというのにイライラしては意味がない。どうしたものかと思いながら一旦トイレから出ると、何かから逃げるように必死に走っている女性とぶつかった。
ああ、くそ。何でこんなとこでこんなに必死で走ってるんだよ、勢い余って転けそうになってるじゃないか。
そんなことを思いながら、その人の腕を咄嗟に掴み、文句の一言でも言ってやろうと顔を覗き込めば、その人は自分の見知った人物で驚きを隠せなかった。

「え? さん?」
「ぎゃっ! し、白布くん……」

彼女は幽霊でも見たかのように戦々恐々としていた。まあそれもそうだろう。試合は見に来るなと何度も念を押して言っていたのだ。きっと怒られると思っているに違いない。
最近この女のせいで自分がよく分からなくなる。別にこの女のせいで自分のプレーに影響が出るだとか、試合に負けるだとか、そこまでは思っていない。そんなことで自分を見失うほど柔な練習をしてきたわけではなかったのだから。ただ、少しでも自分を乱す可能性があるものは全て排除しておきたかったのだ。この公式戦に俺の高校生活がかかっていると言っても過言ではない。少しでも長く牛島さんにトスをあげたい、この理想のチームで勝ち進んでいきたい。そのチャンスをちょっとしたミスで台無しにはしたくなかった。だから、万が一、億が一があったら困るのだ。それなのに、なぜここにいる?
多分それは全て顔に出ていたのだろう、彼女は小さく悲鳴をあげ縮こまった。しかし、自分は怒っているわけではなかった。むしろ、嫌ではないと思っている自分に戸惑っていた。単に、何でこの女は人の言うことを聞かなかったのかということだけが疑問だったのだ。

「何でここにいるんですか?」
「えっ、白鳥沢の試合見に……」

そりゃそうだろう。白鳥沢以外の高校生と関わりがあるとは思えない。俺が聞きたいのはそういうことではなく、何故来るなと言ったのにここへ来たのか、だ。でもまあいい。それは今の自分にとってそこまで重要なことではないし、反省はしているようだ。
恐る恐る俺を見上げながら喋る彼女は、自分に非があると心当たりがあるせいか語尾がごにょごにょと聞き取りづらかった。皆を慕っているからか、俺を見にきた、と言わなかったところに好感が持てたが、同時に不満にも思っていて、そんな自分に嫌気がさした。
何故不満に思う必要があるんだ。この女が誰を見ようと自分には関係ないはずだ。そう思えば思うほどまたイライラが募る。
やっぱり来てほしくなかった。結局乱されてしまっている。このよく分からない感情に飲み込まれてしまう前にこの場から立ち去ろう。そう思って彼女の腕を離したところに、「あっ!」と言う驚愕とも興奮とも取れる高い声が鼓膜を震わせた。

「それ、わたしがあげたタオル!」

しまった、と思った。そうだ、確かにこのタオルは彼女が自分の誕生日プレゼントにくれたものだった。まさか、こんなところで使っているところを見られるなんて思わなかったから、ふつふつと気恥ずかしさが込み上げてくるが、それを気取られないように拳をぎゅっと握りしめる。目を爛々と輝かせる彼女はもう既にいつもどおりで、さっきまでのビクついていた彼女はどこへやら、である。「やばい、嬉しい!」と弾んだ声で言いながら少し赤みが差している頰を両手で包みこむ彼女を見て、さっきまでのイライラが嘘のように消え去ってしまった。
いつもと変わらない。そのことが俺の平常心を取り戻してゆく。彼女と話していると角が取れたように気持ちが丸くなる。俺は彼女に懐いてるとでもいうのだろうか。だからだろうか。さっきまであれだけ試合には来てほしくないと思っていたのに、決勝は見に来てほしい、そう思ってしまった。その想いは考えるよりも先に口から滑り出していった。今思えば、何でも思ったことを口にする彼女に感化されてしまっていたのかもしれない。

「決勝は見に来れますか?」

そう問えば、彼女の透き通った瞳を縁取る長い睫毛がゆっくり上下にパチパチと動き、そのあとふるりと震えたように見えた。

「明日は、その……授業があって……」

そりゃそうだ。普通に平日だから。申し訳なさそうに眉尻を下げ断る彼女を見て軽く息を吐いた。馬鹿馬鹿しい。彼女の所作や言葉で一喜一憂してしまっているなんて。そんな自分を彼女は不思議そうに見上げてくる。当たり前だ。あれだけ来るなと言っておいて急に来れるかなんて言い出して、自分勝手にも程がある。気にしないでください、そう言おうと思ったのに両手首をぐっと掴まれて思わずぎょっとし、声が出なかった。

「何かあったの?」

彼女が分かってしまう程に、自分はいつもと違っていて、どこかおかしかったのだろう。ネジが完全にとんでしまっている。だからだ、自分の弱音を吐き出してしまったのは。

「明日、代表が決まる大事な試合なのに、初めて最初から出ることになったんです」

バレー部にも学校にも関係のない人間だから言えたのかもしれない。口にするだけでも案外楽になるものだなと思いながら、それを言える雰囲気を纏う彼女にこっそり感謝した。まっすぐな瞳の彼女を直視できずに視線を彷徨わせていたが、幾分楽になったので彼女に焦点を合わせると彼女は緩やかに微笑んで俺の手のひらを両手で包み込んだ。

「大丈夫だよ」

たった一言だけだったけれど、その一言が心にストンとおさまったのだ。欠けたピースがはまるかのような感覚だった。彼女の手はとても温かかった。冷え切った指先を溶かしてしまうような熱が伝わってじんじんと痛かった。包み、包まれていた手は、いつの間にやらどちらからともなく指が絡まり、そして名残惜しく離れ、するりするりと繰り返される。まるで、熱を分け合うかのように。自分も彼女の熱を奪ってしまいたかった。
今となってはそんなことを人がわんさかいる前でしてしまった自分が腹立たしいし、それを俺を探しに来た太一に見られてしまったことも人生の汚点だ。「賢二郎そろそろ……」と呼ばれて我に返り声のする方を向けば、案の定笑いを隠しきれていない太一がそこにいて、絡まっていた指を慌てて解いた。
彼女にいたっては慌てることなく呑気に「あ、太一くんだ」と笑っていて、動揺しているのは俺だけかよ、とまたもや悔しい思いをした。二人が軽く挨拶を交わした後、彼女とは別れ集合場所へ戻った。途中、太一に何か聞かれるかと思ったが、それは杞憂に終わった。決勝に向けてあいつなりに気をつかっていたのかもしれない。



おかげさまで、決勝では多少緊張はしたものの何とか自分本来のプレーが出来たとは思っている。全部が全部彼女のおかげ、とまでは言わないが、一応報告でもしておくかと思い携帯を取り出し、試合結果を入力していく。
中間テストが終わり八割以上取れていたと報告したときは、普段は簡素なメッセージを送ってくる彼女も絵文字だらけスタンプだらけで思わず笑ってしまった。画面の向こうで尻尾を振っているのが目に見えて分かる。
今回の返事はどういった内容で返ってくるのだろう。そんなちっぽけなことを楽しみに待つなんて俺らしくもない。
それにしても彼女の手は吸いつくようにしっとりと滑らかだった。ああやって触るのは二回目だが初めてのときは滑らかというよりも華奢だという印象が強かった。きっと直に触ったわけではなく、水の膜を隔てていたからだろう。
あれは中間テストの結果が返ってきてすぐの週末。彼女の家にお邪魔してテストの復習をした後、夕食の支度をし始めたときキッチンから「熱っ!」という声が聞こえてきたのだ。
驚いて様子を見にいけば、どうやら鍋の蓋を開けたときに出てきた蒸気で火傷したようだった。それでも彼女は呑気に「熱かったー」とへらへら笑っていたので、その手を掴み水道水で冷やしてやったのだ。どこを火傷したか分からなかったので、指を一本一本丁寧に流水でなぞった。そのときだ。しなやかで細い彼女の指は、強く握れば折れてしまいそうだと思ったのは。
ふと視線を感じて彼女を見れば、珍しく耳まで真っ赤にしていた。やっと立場を逆転することができたか、と思いきや「そんなふうに触られちゃうと気持ちよくて何だかぞくぞくしちゃう」と言ったので、自分のタガが外れないように「変な顔で変なこと言わないでください」と言うのが精一杯だった。
あの人は、あれで本当に今まで大丈夫だったのだろうか。あんなこと、自分以外に言ったりしているのだろうか。正直すぎるにも程があるだろうに。ますます心配になる。
送信ボタンを押して彼女からの返事を待つ時間がいつからかもどかしくなった。でもそれは自分にとって不都合な感情のような気がしてこれ以上大きくならないように気を張っている。

『何で走ってたんですか?』
『白鳥沢のジャージが見えたから白布くんに見つからないようにと思って……』
『そもそも何で来るなって言ったのに来たんですか?』
『公式戦見れる数少ないチャンスだったから……それに二週間会えないのは寂しくて』

そんなやりとりが数十分後にされ、決意虚しく脈が乱れ、心が震えるなんてそのときの自分は思ってもみなかった。





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